1. 概要
デビッド・マイケル・テレル(David Michael Terrellデイヴィッド・マイケル・テレル英語、1978年1月9日生まれ)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サクラメント出身の元総合格闘家である。彼は、レスリングを基礎に、サンボやブラジリアン柔術といったグラップリング技術を磨き、その才能を総合格闘技の世界で開花させた。キャリアの初期にはIFCでタイトルを獲得し、グラップリングの国際大会であるアブダビコンバット(ADCC)でも好成績を収めた。
特にUFCでは、デビュー戦でトップ選手をKOするという衝撃的な勝利を飾り、瞬く間にミドル級王座戦線に浮上したが、度重なる怪我により活動が制限され、早期にUFCからリリースされることとなった。その才能と将来性が期待されながらも、不運な怪我に悩まされたキャリアは、格闘技界に深い印象を残した。
2. 生涯と背景
デビッド・テレルは1978年1月9日にアメリカ合衆国カリフォルニア州サクラメントで生まれた。彼の育成環境は、格闘技への早期の導入と深く結びついている。
2.1. 初期と格闘技への道
テレルは幼い頃からレスリングを通じて格闘技に触れ、高校時代には優れたレスラーとして活躍した。このレスリングの経験が、彼の後の総合格闘技キャリアの強固な基盤となった。
16歳からはサンボの正式な訓練を開始し、さらに19歳になるとブラジリアン柔術を学び始めた。このブラジリアン柔術への興味は、テレビで見たUFCの試合に強く影響されたものである。彼はシーザー・グレイシー柔術アカデミーに所属し、ブラジリアン柔術の黒帯を取得した。彼の身長は183 cm、体重は84 kg、リーチは191 cmであった。
3. 格闘技キャリア
デビッド・テレルは、総合格闘技およびグラップリングの舞台でその才能を発揮し、数々の大会で印象的な戦いを見せた。
3.1. 初期活動とタイトル獲得
UFC参戦以前のプロキャリアにおいて、テレルはいくつかの主要な大会で活躍し、タイトルを獲得した。
2000年7月18日には、IFCウォリアーズ・チャレンジ9でジョーイ・ヴィラセニョールとIFC全米ライトヘビー級タイトルマッチで対戦し、1ラウンド2分24秒に腕ひしぎ十字固めで一本勝ちを収め、初代王座を獲得した。その後、IFC米大陸王座が新設されると、彼は初代王座に認定された。
2001年1月13日、IFCウォリアーズ・チャレンジ11でのIFC米大陸ライトヘビー級タイトルマッチでマルコス・ダ・シウバと対戦。この試合では、相手の疲労によるギブアップで1ラウンド7分2秒に勝利し、タイトル初防衛に成功した。
2003年12月21日には、パンクラスに初参戦し、佐々木有生と対戦。2ラウンド15秒に左ストレートによるKO勝利を収め、日本のファンに強い印象を与えた。さらに、2004年3月29日にはPANCRASE 2004 BRAVE TOURで渋谷修身と対戦し、1ラウンド3分4秒にヒースチョークで一本勝ちを収めた。
q=Friant, California|position=right
3.2. UFCでの活動
デビッド・テレルは、UFCミドル級戦線でそのポテンシャルを示したが、度重なる怪我により活動が大きく制限された。
3.2.1. 主要試合と王座挑戦
2004年8月21日、UFC 49でUFCデビューを果たしたテレルは、当時ミドル級のトップ選手であったマット・リンドランドと対戦した。テレルは左フックからのパウンドで、わずか1ラウンド24秒でリンドランドをKOするという衝撃的な勝利を収めた。この勝利により、彼は瞬く間にタイトル挑戦圏内に浮上した。
その結果、テレルは次戦の2005年2月5日にUFC 51で、空位となっていたUFC世界ミドル級王座をかけてエヴァン・タナーと対戦することになった。テレルはタナーをギロチンチョークで捕らえる場面もあったが、体勢を崩され、1ラウンド4分35秒、タナーのパウンドによるTKOで敗れ、王座獲得には至らなかった。
その後、度重なる怪我に悩まされ、タナー戦以来の試合は2006年4月15日のUFC 59まで持ち越された。この試合でテレルはスコット・スミスと対戦し、1ラウンド3分8秒にリアネイキッドチョークで一本勝ちを収めた。しかし、この勝利には審判の判断を巡る議論があった。審判がブレイクを指示した後、スミスが審判にアピールしている隙に、テレルがスミスのバックを取りチョークを仕掛けたため、スミス側がカリフォルニア州アスレチックコミッションに提訴する事態となった。
3.2.2. 怪我とUFCからのリリース
UFC 59での勝利後、デビッド・テレルは再び怪我に悩まされるようになる。2006年8月26日のUFC 62では、岡見勇信との対戦が予定されていたが、副鼻腔感染症のため欠場した。この試合はUFC 66に再設定されたものの、テレルは練習中に肘を負傷したことを理由に再び欠場を余儀なくされた。
2007年11月のUFC 78では、ライトヘビー級転向の報道もあったが、最終的にミドル級でエド・ハーマンとの対戦が組まれた。しかし、テレルはまたしても怪我のため欠場し、代わりにジョー・ドアクセンが出場した。
怪我による度重なる欠場が響き、デビッド・テレルは2008年2月21日にUFCからリリースされた。
3.3. UFC以降の活動
UFCリリース後も、デビッド・テレルは格闘家としてのキャリアを諦めていなかった。2010年初頭には、耳の感染症が治まり、再びリングで戦いたいという意欲を表明していた。
4. 戦績と主な実績
デビッド・テレルのプロ総合格闘技戦績と、グラップリング大会での主な成果は以下の通りである。
4.1. 総合格闘技戦績
勝敗 | 対戦相手 | 試合結果 | 大会名 | 開催年月日 | ラウンド | 時間 | 開催地 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
勝 | スコット・スミス | 1R 3:08 チョークスリーパー | UFC 59 | 2006年4月15日 | 1 | 3:08 | アナハイム、カリフォルニア州、アメリカ合衆国 | |
敗 | エヴァン・タナー | 1R 4:35 TKO(パウンド) | UFC 51 【UFC世界ミドル級王座決定戦】 | 2005年2月5日 | 1 | 4:35 | ラスベガス、ネバダ州、アメリカ合衆国 | 空位のUFCミドル級王座決定戦 |
勝 | マット・リンドランド | 1R 0:24 KO(左フック→パウンド) | UFC 49 | 2004年8月21日 | 1 | 0:24 | ラスベガス、ネバダ州、アメリカ合衆国 | |
勝 | 渋谷修身 | 1R 3:04 ヒースチョーク | PANCRASE 2004 BRAVE TOUR | 2004年3月29日 | 1 | 3:04 | 東京都、日本 | |
勝 | 佐々木有生 | 2R 0:15 KO(左ストレート) | PANCRASE 2003 HYBRID TOUR | 2003年12月21日 | 2 | 0:15 | 東京都、日本 | |
勝 | マルコス・ダ・シウバ | 1R 7:02 ギブアップ(疲労) | IFC Warriors Challenge 11 【IFC米大陸ライトヘビー級タイトルマッチ】 | 2001年1月13日 | 1 | 7:02 | フレズノ、カリフォルニア州、アメリカ合衆国 | |
勝 | ジョーイ・ヴィラセニョール | 1R 2:24 腕ひしぎ十字固め | IFC Warriors Challenge 9 【IFC全米ライトヘビー級タイトルマッチ】 | 2000年7月18日 | 1 | 2:24 | フリアント、カリフォルニア州、アメリカ合衆国 | |
敗 | ヴァーノン・ホワイト | 3R終了 判定0-3 | IFC Warriors Challenge 4 | 1999年8月7日 | 3 | 5:00 | ジャクソン、カリフォルニア州、アメリカ合衆国 |
4.2. グラップリング大会での成果
デビッド・テレルは、総合格闘技だけでなく、グラップリングの分野でもその実力を証明した。
2003年5月にブラジルのサンパウロで開催された第5回ADCC世界選手権の88kg未満級に出場し、3位決定戦でヒカルド・アルメイダからタップを奪い、銅メダルを獲得した。
q=Sao Paulo, Brazil|position=left
4.3. 獲得タイトル
- IFC全米ライトヘビー級王座(2000年)
- IFC米大陸ライトヘビー級王座(2000年)
- 第5回ADCC世界選手権 88kg未満級 3位(2003年)
5. 評価と影響
デビッド・テレルのキャリアは、その才能と不運な怪我との戦いを象徴している。
5.1. ファイトスタイルと特徴
テレルのファイトスタイルは、彼が幼少期から培ったレスリングの基礎、16歳で始めたサンボ、そして19歳で熱心に学んだブラジリアン柔術に深く根差していた。特にブラジリアン柔術の黒帯を持つ彼は、その寝技の技術を駆使して多くの試合で一本勝ちを収めた。
また、彼の打撃技術も優れており、特にUFCデビュー戦でのマット・リンドランドに対する衝撃的なKO勝利や、パンクラスでの佐々木有生戦での左ストレートによるKOは、彼のパンチの威力と正確さを示している。グラップリングと打撃を高いレベルで融合させた、オールラウンドなファイトスタイルが彼の特徴であった。
5.2. 全体的な評価
デビッド・テレルは、UFCデビュー戦でトップ選手をわずか24秒でKOするという、まさに彗星のごとく現れたファイターであった。この勝利によって彼は瞬く間にタイトル戦線に浮上し、その将来性は大いに期待された。しかし、その後は度重なる怪我に悩まされ、UFCでの試合数は伸び悩み、最終的には早期にリリースされることとなった。
彼のキャリアは短かったものの、その短い期間で示された圧倒的なポテンシャルは、多くのファンや関係者に強い印象を残した。UFCリリース後も現役復帰への意欲を示していたことは、彼がどれほど格闘技を愛し、戦い続けることを望んでいたかを示している。怪我がなければ、UFCミドル級の頂点に立つことも十分に可能であったと評価されており、その不運なキャリアは「もしも」を考えさせる稀有な例として、今も格闘技ファンの間で語り継がれている。