1. 生い立ちと教育
バリー・アイケングリーンは1952年にアメリカ合衆国で生まれました。彼の母親は、ホロコーストの生存者であり著述家でもあるルシール・アイケングリーンです。母親の体験は、彼が経済史を通じて社会の脆弱性や回復力を探求する上で、深い人間的洞察を与えた可能性が示唆されます。
彼の学歴は非常に多岐にわたります。1974年にカリフォルニア大学サンタクルーズ校で学士号(A.B.)を取得しました。その後、イェール大学に進学し、1976年に経済学の修士号(M.A.)、1977年に経済学の修士課程修了(M.Phil.)、1978年に歴史学の修士号(M.A.)、そして1979年には経済学の博士号(Ph.D.)を取得しました。この多角的な学術的背景が、彼の経済史研究における深さと広がりを形成しました。
2. 経歴
アイケングリーンは、学術界と公的機関の両方で顕著なキャリアを築いてきました。彼は大学での教職を通じて多数の学者を育成し、また国際機関での顧問としての役割も担いました。
2.1. 学術経歴
彼の学術経歴は、主要な大学と研究機関での活動に特徴づけられます。1980年から1986年にかけては、ハーバード大学経済学部で助教授および准教授を務めました。1986年以降はカリフォルニア大学バークレー校に移り、経済学および政治学の教授として教鞭を執っています。この間、1994年から1999年まではジョン・L・シンプソン経済学・政治学教授、1999年からはジョージ・C・パーディーおよびヘレン・N・パーディー経済学・政治学教授の職にあります。
また、彼は数多くの著名な研究機関でも活動しています。1981年から1986年まで全米経済研究所(NBER)のファカルティ・リサーチ・フェローを務め、1986年からは現在までNBERのリサーチ・アソシエイトとして活動を続けています。さらに、1984年からはロンドンの経済政策研究センター(CEPR)のリサーチ・フェローも務めています。
2.2. 公的・専門的活動
アイケングリーンは、学術研究だけでなく、公的な専門活動においても多大な貢献をしてきました。1997年から1998年にかけては、国際通貨基金(IMF)のシニア政策アドバイザーを務めました。しかし、彼はその後、IMFの政策に対して批判的な見解を表明しています。
1997年には、アメリカ芸術科学アカデミーのフェローに選出されました。2010年から2011年にかけては、経済史学会の会長を務め、その分野におけるリーダーシップを発揮しました。また、彼は国際ガバナンス革新センター(CIGI)の非常駐シニアフェローであり、プロジェクト・シンジケートには2003年から定期的に寄稿しています。2008年から2020年まではベラージオ・グループの招集者も務めました。
3. 研究と主要な貢献
アイケングリーンの研究は、国際経済史と現代の国際金融問題に焦点を当て、その洞察は政策立案にも大きな影響を与えています。
3.1. 主要な研究分野
彼の主要な研究テーマは多岐にわたりますが、中でも特に「国際通貨・金融システムの歴史と運用」が中心です。彼は、過去の金融危機や通貨制度の変遷を詳細に分析し、それが現代のグローバル経済に与える影響について深く考察しています。具体的には、金本位制の時代からブレトン・ウッズ体制、そして現代の変動相場制に至るまで、様々な国際通貨制度の安定性と脆弱性を研究しています。
また、グローバルな不均衡、すなわち世界各国間の貯蓄と投資の不均衡が国際金融システムに与える影響についても分析しています。近年では、『The Populist Temptationザ・ポピュリスト・テンプテーション英語』の執筆を通じて、経済的格差が政治的ポピュリズムを誘発するメカニズムを探求し、現代社会の課題に対する経済学的な視点を提供しています。彼の研究は、通貨安競争、近隣窮乏化政策、ブロック経済、そして合成の誤謬といった概念の理解にも貢献しています。
3.2. 主要な理論と代表作
アイケングリーンの最もよく知られた著作は、1992年に刊行された『金鎖(Golden Fetters): 金本位制と大恐慌、1919-1939』です。この著書では、世界恐慌が金本位制の構造的欠陥と、その後の政策の拙さによって世界的に拡大したという説を提唱しました。ベン・バーナンキは、この論文の中心的な論旨を次のように要約しています。
「世界恐慌の直接の原因は、構造的に欠陥があり、管理の不十分だった国際金本位制にあった...連邦準備制度がアメリカの株式市場のバブルを抑制しようとしたことなど、様々な理由から、1920年代後半にいくつかの主要国で金融政策が引き締められ、これが金本位制を通じて世界中に伝播した。当初は緩やかなデフレーションの過程であったものが、1931年の銀行危機と通貨危機が国際的な『金争奪戦』を引き起こしたことで雪だるま式に拡大した。アメリカとフランスといった貿易黒字国による金流入の不胎化、外貨準備の金への代替、そして商業銀行への取り付け騒ぎが、いずれも通貨の金裏付けを増加させ、結果として意図しないマネーサプライの急激な減少を招いた。そして、通貨の収縮は物価、生産、雇用の下落と強く関連していた。国際的な協力が効果的に行われていれば、金本位制の制約にもかかわらず世界的な金融緩和が可能であったはずだが、第一次世界大戦の賠償問題や戦債に関する紛争、連邦準備制度の孤立主義と経験不足などが相まって、この結果は妨げられた。その結果、各国は一方的に金本位制を放棄し、国内の金融安定を再構築することによってのみデフレの渦から脱却することができ、このプロセスはフランスやその他の金ブロック国が1936年に最終的に金本位制を離脱するまで、中断しながらも非協調的な形で続いた。」
アイケングリーンは、金本位制から早期に離脱した国々ほど経済回復が早かったという事実を、この見解を裏付ける主要な証拠として示しました。
その他の重要な著作には、『Global Imbalances and the Lessons of Bretton Woodsグローバル・インバランス--歴史からの教訓英語』(2006年)、『The European Economy Since 1945The European Economy Since 1945英語』(2007年)、『Exorbitant Privilege: The Rise and Fall of the Dollar and the Future of the International Monetary Systemとてつもない特権--君臨する基軸通貨ドルの不安英語』(2011年)、『The Populist Temptation: Economic Grievance and Political Reaction in the Modern EraThe Populist Temptation: Economic Grievance and Political Reaction in the Modern Era英語』(2018年)、そして『In Defense of Public DebtIn Defense of Public Debt英語』(2021年)などがあります。
また、1993年に執筆されたバユミとアイケングリーンの共著論文「Shocking Aspects of European Monetary UnificationShocking Aspects of European Monetary Unification英語」では、欧州連合がアメリカよりも単一通貨圏として適していないと主張しました。この診断は、2011年に外部からのショックがユーロ圏危機を引き起こした際に裏付けられたとされています。
3.3. 現代経済問題への分析
アイケングリーンは、その深い歴史的および経済学的な洞察を現代の課題に応用することで知られています。彼は、過去の経済危機から得られた教訓が、現代の政策立案にどのように役立つかを継続的に論じています。
例えば、彼は国際通貨基金(IMF)の政策に対して、その創設以来の歴史的文脈を踏まえた上で批判的な分析を展開しています。特に、IMFの融資条件や構造調整政策が、時に加盟国の経済に意図しない悪影響を与える可能性を指摘しています。
また、2011年に顕在化したユーロ圏危機に対しては、彼のヨーロッパ通貨統合に関する長年の研究に基づき、その構造的な脆弱性と政策対応の不備を指摘しました。彼は、ユーロ圏が単一通貨圏としての最適な条件を満たしていなかったことを以前から主張しており、この危機はその診断を裏付けるものだとしました。さらに、最近の著作『The Populist TemptationThe Populist Temptation英語』では、経済的苦境がどのように政治的ポピュリズムの台頭を招くかを分析し、現代の政治経済現象に対する重要な警鐘を鳴らしています。彼の分析は、歴史の教訓を現代の政策課題に適用する模範的なアプローチを示しています。
4. 主要著作
- 『Elusive Stability: Essays in the History of International Finance 1919-1939Elusive Stability: Essays in the History of International Finance 1919-1939英語』。ケンブリッジ大学出版局、1990年。
- 『金鎖(Golden Fetters): 金本位制と大恐慌、1919-1939』。オックスフォード大学出版局、1992年。
- 『International Monetary Arrangements for the 21st Century21世紀の国際通貨制度--二つの選択英語』。ブルッキングス・インスティテューション・プレス、1994年。(藤井良広訳、岩波書店、1997年)
- 『Reconstructing Europe's Trade and Payments: The European Payments UnionReconstructing Europe's Trade and Payments: The European Payments Union英語』。ミシガン大学出版局、1994年。
- 『Globalizing Capital: A History of the International Monetary Systemグローバル資本と国際通貨システム英語』。プリンストン大学出版局、1996年。(高屋定美訳、ミネルヴァ書房、1999年)第2版2008年。
- 『Vom Goldstandard zum EURO. Die Geschichte des internationalen WährungssystemsVom Goldstandard zum EURO. Die Geschichte des internationalen Währungssystemsドイツ語』。ヴァーゲンバッハ、ベルリン、2000年。
- 『European Monetary Unification: Theory, Practice, AnalysisEuropean Monetary Unification: Theory, Practice, Analysis英語』。MIT出版、1997年。
- 『Toward A New International Financial Architecture: A Practical Post-Asia Agenda国際金融アーキテクチャー英語』。国際経済研究所、1999年。(勝悦子監訳、林秀毅訳、東洋経済新報社、2003年)
- 『Financial Crises and What to Do About ThemFinancial Crises and What to Do About Them英語』。オックスフォード大学出版局、2002年。
- 『Capital Flows and CrisesCapital Flows and Crises英語』。MIT出版、2004年。
- 『Global Imbalances and the Lessons of Bretton Woodsグローバル・インバランス--歴史からの教訓英語』。MIT出版、2006年。(畑瀬真理子・松林洋一訳、東洋経済新報社、2010年)
- 『The European Economy Since 1945: Co-ordinated Capitalism and BeyondThe European Economy Since 1945: Co-ordinated Capitalism and Beyond英語』。プリンストン大学出版局、2008年。
- 『Exorbitant Privilege: The Rise and Fall of the Dollar and the Future of the International Monetary Systemとてつもない特権--君臨する基軸通貨ドルの不安英語』。オックスフォード大学出版局、ニューヨーク、2010年。(小浜裕久監訳、勁草書房、2012年)
- 『From Miracle to Maturity: The Growth of the Korean EconomyFrom Miracle to Maturity: The Growth of the Korean Economy英語』。ドワイト・H・パーキンスおよびシン・クァンホとの共著。ハーバード大学アジアセンター、2012年。
- 『Hall of Mirrors: The Great Depression, The Great Recession, and the Uses-and Misuses-of HistoryHall of Mirrors: The Great Depression, The Great Recession, and the Uses-and Misuses-of History英語』。オックスフォード大学出版局、ニューヨーク、2015年。
- 『How Global Currencies Work: Past, Present, and FutureHow Global Currencies Work: Past, Present, and Future英語』。2017年。
- 『The Populist Temptation: Economic Grievance and Political Reaction in the Modern EraThe Populist Temptation: Economic Grievance and Political Reaction in the Modern Era英語』。オックスフォード大学出版局、ニューヨーク、2018年。
- 『In Defense of Public DebtIn Defense of Public Debt英語』。オックスフォード大学出版局、ニューヨーク、2021年。
4.1. 共著
- 『An Independent and Accountable IMFAn Independent and Accountable IMF英語』。ホセ・デ・グレゴリオ、伊藤隆敏、チャールズ・ワイプロスとの共著。経済政策研究センター、1999年。
- 『Built to Last: A Political Architecture for EuropeBuilt to Last: A Political Architecture for Europe英語』。エリック・ベルグロフ、ジェラール・ローランド、グイド・タベリーニ、チャールズ・ワイプロスとの共著。経済政策研究センター、2003年。
- 『中央銀行論』。(ジョセフ・スティグリッツ他との共著、土曜社、2013年)
5. 受賞と栄誉
バリー・アイケングリーンは、経済学および教育分野におけるその多大な貢献に対し、以下の賞と栄誉を授与されています。
- 1997年:アメリカ芸術科学アカデミーフェロー
- 2002年:経済史学会ジョナサン・R・T・ヒューズ教育優秀賞
- 2004年:カリフォルニア大学バークレー校社会科学分野卓越教育賞
6. 私生活
バリー・アイケングリーンの母親は、ホロコーストの過酷な体験を生き延び、その体験を綴った著述家であるルシール・アイケングリーンです。母親の壮絶な人生は、彼が経済史における人間の苦難と社会の回復力について深く考察する上で、個人的な背景として存在しています。
7. 遺産と影響
バリー・アイケングリーンの著作と研究は、経済史、国際金融、そして公共政策の分野に永続的な影響を与えてきました。特に、金本位制が大恐慌の深さと期間に果たした役割に関する彼の革新的な分析は、その後のマクロ経済史研究の方向性を決定づけ、金融危機の本質に対する理解を深めました。
彼は、歴史的な教訓を現代の政策課題に応用することの重要性を常に強調し、学者や政策立案者に対し、過去の失敗から学び、より強固な国際金融システムを構築するための洞察を提供してきました。彼の著作は、世界経済の安定性と金融システムの脆弱性に関する議論において、不可欠な参考文献となっています。また、ポピュリズムなどの現代社会の経済的・政治的動向に関する分析は、後進の学者や政策立案者が複雑なグローバル課題に取り組む上での新たな視点を提供し、広範な影響を及ぼし続けています。