1. 生涯と家族
マンフレート・ロンメルは、その生涯を通じて、著名な父の影と、戦後のドイツにおける新たな民主主義的価値観の構築という二つの大きな影響を受けてきた。
1.1. 出生と家庭環境
マンフレート・ロンメルは、1928年12月24日にシュトゥットガルトで、エルヴィン・ロンメル元帥の長男として生まれた。彼の名「マンフレート」は、幼くして亡くなった父エルヴィンの兄の名を継ぐ形で名付けられた。母はルチア・マリア・モリンである。
1.2. 父エルヴィン・ロンメルとの関係
マンフレートは、14歳の時、空軍補助員(Luftwaffenhelferルフトヴァッフェンヘルファードイツ語)として高射砲中隊に配属された。彼は武装親衛隊への入隊を考えていたが、父エルヴィンに強く反対されたため、入隊を断念した。
1944年10月14日、マンフレートは自宅で、父エルヴィンが7月20日事件におけるアドルフ・ヒトラー暗殺計画への関与を疑われ、自殺を強要される現場に居合わせた。ナチス指導部は、父の死を戦傷によるものと公表したが、マンフレートは後にこの真実を明かすことになる。
1.3. 第二次世界大戦中の経験
1945年2月、マンフレートは空軍補助員の職を解かれ、同年3月には準軍事組織である国家労働奉仕団に徴兵された。4月末、リートリンゲンに駐屯していた彼は、フランス第1軍が町に侵攻する直前に脱走した。その後、彼は捕虜となり、ジャン・ド・ラトル・ド・タシニー将軍らによる尋問を受けた際、父の死の真相を初めて明かした。
2. 学歴と公職キャリア
戦後の混乱期を経て、マンフレート・ロンメルは学業に専念し、法曹界に進んだ後、バーデン=ヴュルテンベルク州政府で重要な公職を歴任した。
2.1. 戦後学業と法曹界での活動
1947年、マンフレートはアビトゥーアに合格し、ビーベラハ・アン・デア・リスで学んだ後、テュービンゲン大学で法学と政治学を学んだ。卒業後、彼は弁護士として活動を開始した。1954年にはリーゼロッテと結婚し、娘カトリーヌをもうけた。
2.2. バーデン=ヴュルテンベルク州政府での職務
1956年、ロンメルはバーデン=ヴュルテンベルク州政府の公務員として入庁した。1959年にはハンス・フィルビンガー内相の秘書として参事官に昇進。1971年には州財務省大臣官房長に転じ、その後次官に就任した。
フィルビンガーがナチス時代の過去を問われ州首相を辞任した際、マンフレートはその後継に名乗りを上げたが、党内の指名争いでロタール・シュペートに敗れた。
3. シュトゥットガルト市長としての任期
マンフレート・ロンメルはシュトゥットガルト市長として22年間にわたり都市運営を担い、その革新的な政策と人道的な姿勢で市民から高い評価を得た。
3.1. 市長就任と在任期間
1974年、マンフレート・ロンメルはドイツキリスト教民主同盟(CDU)の候補として故郷シュトゥットガルトの市長選挙に出馬し、第2回投票で58.5%の得票率を獲得して当選した。彼はアルヌルフ・クレットの後任として市長職に就き、ドイツ社会民主党のペーター・コンラーディを破った。その後、1982年の選挙では69.8%、1990年の選挙では71.7%の得票率で再選を果たし、1996年に勇退するまでの22年間にわたり市長を務めた。退任と同時に、彼はシュトゥットガルト市の名誉市民の称号を贈られた。
3.2. 主要な市政運営と業績
市長として、ロンメルは市の財政を厳格に管理し、負債を削減した。これにより、道路や公共交通機関といった都市インフラの抜本的な改善を可能にした。彼はまた、ドイツ都市会議の会長を務め、国際地方自治体委員会の設立にも関与するなど、地方自治の発展に貢献した。
3.3. 社会的課題への対応と論争
ロンメルの在任中、最も注目された出来事の一つは、シュトゥットガルトのシュタムハイム刑務所で自殺した赤軍派のテロリスト、アンドレアス・バーダーとグドルン・エンスリンの埋葬問題であった。彼は、遺族の依頼を受けてドルハーレン共同墓地に適切な埋葬場所を手配したが、これは墓地が過激派の巡礼地となることを懸念する自党内からの激しい批判に直面した。しかし、ロンメルはこの決定を擁護し、「全ての敵意はどこかで終わらなければならない。そしてこの場合、それは彼らの死をもって終わると思う」と述べ、人道的な立場を貫いた。
また、好景気に沸くシュトゥットガルトに流入する外国人移民に対し、公平な扱いを支持したことで、彼は自身の人気を危険に晒すこともあった。しかし、彼のこの姿勢は、寛容で自由主義的な政治信条を示すものであった。
3.4. 国際関係と和解への貢献
ロンメルは、戦後のドイツにおける国際的な融和と和解に重要な役割を果たした。彼は、父エルヴィン・ロンメルの第二次世界大戦中の敵対者であったジョージ・パットン・ジュニアの息子ジョージ・パットン4世と、バーナード・モントゴメリーの息子デビッド・モントゴメリーとの間に深い友情を築いた。パットン4世がシュトゥットガルト近郊のアメリカ陸軍第7軍団司令部に赴任してきたことがきっかけで出会い、同じ戦車指揮官の息子同士という共通点から、終生にわたる交友関係を築いた。この友情は、戦後の英独関係の和解と西ドイツのNATO加盟の象徴と見なされた。
1996年にヴュルテンベルク州立劇場で行われたロンメルの退任祝賀会では、当時のドイツ連邦共和国首相ヘルムート・コールが、ロンメル市長在任中にフランスとドイツの間で維持・構築された良好な関係を特に強調した。ロンメル自身も、市長として独仏関係の促進に尽力した。
4. 政治的信条と姿勢
マンフレート・ロンメルの政治的スタンスは、一貫して寛容で自由主義的と評された。彼は「リベラル保守」とも言われ、その思想は市政運営や公の発言に明確に反映されていた。特に、赤軍派テロリストの埋葬問題や外国人移民への公平な待遇を支持したことは、彼の人間中心の価値観と、対立や偏見を超えた社会の実現を目指す姿勢を示している。彼は、困難な状況においても対話と理解を重視し、社会の分断を乗り越えるための努力を惜しまなかった。
5. 退任後の活動
公職を退いた後も、マンフレート・ロンメルは社会において積極的な役割を果たし続けた。
5.1. 執筆活動
1996年に政治から引退した後も、ロンメルはパーキンソン病を患いながらも、作家や感動的な講演者として需要があった。彼は政治やユーモアに関する様々な本を執筆し、その地に足の着いた、しばしばユーモラスな言葉や引用で知られた。また、地元紙『シュトゥットガルト新聞』に定期的に記事を寄稿していた。
彼は、父エルヴィン・ロンメルが軍事作戦中およびその後に書いた日記、書簡、手記をまとめた『ロンメル戦記』の出版に際し、バジル・リデル=ハートと協力した。
5.2. 講演活動と公共的な役割
市長退任後も、ロンメルは精力的に講演活動を行い、メディアへの寄稿や公の場での発言を続けた。彼の講演は、その洞察力とユーモアに富んだ語り口で多くの聴衆を魅了し、社会に対する継続的な影響力を持っていた。
6. 著作
マンフレート・ロンメルは、政治、文化、ユーモア、そして個人的な回想に至るまで、多岐にわたるテーマで多くの著作を発表した。
- 『Abschied vom Schlaraffenland. Gedanken über Politik und Kulturドイツ語』(1987年)
 - 『Manfred Rommels gesammelte Sprücheドイツ語』(1988年、2001年)
 - 『Wir verwirrten Deutschenドイツ語』(1989年)
 - 『Manfred Rommels gesammelte Gedichteドイツ語』(1993年)
 - 『Die Grenzen des Möglichen. Ansichten und Einsichtenドイツ語』(1995年)
 - 『Trotz allem heiter. Erinnerungenドイツ語』(1998年)
 - 『Neue Sprüche und Gedichteドイツ語』(2000年)
 - 『Holzwege zur Wirklichkeitドイツ語』(2001年)
 - 『Soll und Habenドイツ語』(2001年)
 - 『Das Land und die Weltドイツ語』(2003年)
 - 『Ganz neue Sprüche & Gedichte und andere Einfälleドイツ語』(2004年)
 - 『Vom Schlaraffenland ins Jammertal?ドイツ語』(2006年)
 - 『Gedichte und Parodienドイツ語』(2006年)
 - 『Manfred Rommels schwäbisches Allerlei. Eine bunte Sammlung pfiffiger Sprüche, witziger Gedichte und zumeist amüsanter Geschichtenドイツ語』(2008年)
 - 『Auf der Suche nach der Zukunft. Zeitzeichen unter dem Motto: Ohne Nein kein Jaドイツ語』(2008年)
 - 『1944 - das Jahr der Entscheidung. Erwin Rommel in Frankreichドイツ語』(2010年)
 - 『Die amüsantesten Texteドイツ語』(2010年)
 
7. 大衆文化における描写
マンフレート・ロンメルは、父エルヴィン・ロンメルを題材とした第二次世界大戦に関する複数の映画やテレビドラマに登場し、様々な俳優によって演じられた。
- 1951年: 『砂漠の鬼将軍』(Rommel, der Wüstenfuchsドイツ語、監督: ヘンリー・ハサウェイ) - ウィリアム・レイノルズがマンフレート・ロンメルを演じた。
 - 1962年: 『史上最大の作戦』(der längste Tagドイツ語、監督: ケン・アナキン/アンドリュー・マートン/ベルンハルト・ヴィッキ/ゲルト・オスヴァルト/ダリル・F・ザナック) - ミヒャエル・ヒンツがマンフレート・ロンメルを演じた。なお、ミヒャエルの父ヴェルナー・ヒンツは同作でエルヴィン・ロンメル元帥を演じている。
 - 1989年: 『戦争の嵐』(テレビシリーズ) - マティアス・ヒンツがマンフレート・ロンメルを演じた。
 - 2012年: 『Rommelドイツ語』(監督: ニキ・シュタイン) - パトリック・メレケンがマンフレート・ロンメルを演じた。
 
さらに、2021年のドキュメンタリー『Rommel: The Soldier, The Son, and Hitler』(ナレーション: グレッグ・キニア)では、彼の父に関するマンフレート自身のインタビューが収録されている。
8. 受賞歴と栄誉
マンフレート・ロンメルは、国内外から数多くの賞と栄誉を受けており、その功績は後世に記憶されている。彼自身は、自身の多くの栄誉についてユーモラスにこう記している。「Die Zahl der Titel will nicht enden. Am Grabstein stehet: bitte wenden!ドイツ語」(栄誉の数は尽きないようだ。墓石には『裏返してください!』と刻まれるだろう)。
8.1. 主要な受賞歴
彼は以下の主要な賞や栄誉を受けている。
- 1979年: カイロ名誉市民
 - 1982年: アールンの動物的真面目さに対する勲章(彼のユーモアのセンスに対して)
 - 1982年: オラニエ=ナッサウ勲章大将校章(オランダ)
 - 1982年: シュトゥットガルト応用科学大学名誉上院議員
 - 1984年: クレイ将軍メダル
 - 1985年: レジオンドヌール勲章シュヴァリエ章(フランス共和国)
 - 1987年: エルサレムの守護者
 - 1987年: イタリア共和国功労勲章大将校十字章
 - 1990年: 大英帝国勲章コマンダー章
 - 1990年: バーデン=ヴュルテンベルク州功労勲章
 - 1990年: フリードリヒ・レーナー博士メダル(公共交通機関の発展に対して)
 - 1990年: 独米友好のための絆メダル
 - 1992年: メリーランド大学名誉博士号
 - 1993年: 国際陸上競技連盟金功労勲章
 - 1995年: オットー・ヒルシュ・メダル
 - 1996年: シュトゥットガルト市名誉市民
 - 1996年: 統合参謀本部賞(卓越した公共サービスに対して)
 - 1996年: フリードリヒ・E・フォークト・メダル(シュヴァーベン語方言への貢献に対して)
 - 1996年: ウェールズ大学名誉博士号
 - 1996年: ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字章(1978年に功労十字章、1989年に星章、1996年に大功労十字章を受章)
 - 1996年: 教授号
 - 1997年: 独仏友好のための独仏協商賞
 - 1997年: ドイツ都市会議名誉会員
 - 1997年: ハインツ・ヘルベルト・カリー賞
 - 1998年: ドルフ・シュテルンベルガー賞
 - 2008年: ハンス=ペーター・シュティール賞
 - アメリカ合衆国 自由勲章
 
8.2. 記念物と遺産
彼の死後、シュトゥットガルト空港は正式名称に「マンフレート・ロンメル」を追加した。また、シュトゥットガルト21計画の過程で建設されるシュトゥットガルト中心部の広場の一つは、彼にちなんで「マンフレート・ロンメル広場」と命名される予定である。
