1. Overview
マーク・アンソニー・アイクホーンは、1980年代後半から1990年代初頭にかけてトロント・ブルージェイズを中心に活躍したアメリカ合衆国の元メジャーリーグ投手である。彼は主に中継ぎとして、クローザーであるトム・ヘンケのセットアッパーを務めた。特に1986年にはアメリカンリーグの新人投手最優秀選手に選出され、新人の中継ぎ投手としては防御率、登板数、勝利数、奪三振数において球団記録を樹立した。彼の投球スタイルは、肩の負傷によって速球を失った後、従来のスリークォーターからサイドスローとアンダースローの中間という独特なものへと転向した点が特徴であり、球速は遅いながらも、その優れたコントロールと特異な投球フォームによって効果的な投球を見せた。ブルージェイズが1992年と1993年にワールドシリーズを連覇した際には、その主要な一員としてチームに貢献した。
2. 経歴
アイクホーンは、1979年のドラフトでプロ入りしてからマイナーリーグで着実にステップアップし、1982年にメジャーデビューを果たすも、直後に肩の負傷に見舞われる。この負傷が転機となり、彼はそれまでの速球主体の投球スタイルを捨て、独特なサイドスロー/アンダースローへと投球フォームを大きく変更した。この新たなスタイルが功を奏し、1986年にメジャーリーグに復帰すると、その異常な低めから放たれる投球でブルージェイズの主要なリリーフ投手として台頭した。ブルージェイズでの全盛期を経て、複数の球団を渡り歩き、最終的には1996年にメジャーリーグでの最後の登板を迎え、2000年に完全に引退した。
2.1. プロ入りとマイナーリーグ
アイクホーンは、カリフォルニア州にあるカブリロ・カレッジ在学中の1979年1月、MLBドラフト2巡目(全体30番目)でトロント・ブルージェイズから指名され、同年5月18日に契約を結びプロとしてのキャリアを開始した。プロ入り後、1979年から1982年にかけて、ルーキーリーグ、アドバンストA、AA、AAAと着実にマイナーリーグの階段を昇っていった。
2.2. メジャーリーグ昇格と負傷
1982年8月20日、アイクホーンはメジャーリーグに初昇格し、7試合に先発登板した。しかし、彼の速球主体のピッチングはメジャーでは通用せず、特に同年9月24日のシアトル・マリナーズ戦では6回1/3までパーフェクトに抑えながらも、本塁打を打たれて敗戦投手となるなど、結局勝ち星を挙げることはできなかった。シーズンオフにはベネズエラのウィンターリーグに参加したが、そこで肩を負傷するというアクシデントに見舞われた。この負傷は、彼のその後のキャリアを大きく変えることになる。
2.3. 投球フォームの変更
ウィンターリーグで負傷した肩は、フランク・ジョーブ博士の診断により右肩回旋筋の断裂が判明した。この診断を受け、ピッチングコーチのアル・ウイドマーと、カンザスシティ・ロイヤルズのマイナー時代にダン・クイゼンベリーを指導した経験を持つジョン・サリバンコーチの勧めにより、アイクホーンはスリークォーターから投げる従来のピッチングフォームの変更を決意した。このフォーム変更により、肩の痛みは無くなり、シンカー、スライダー、チェンジアップでストライクを取れるようになった上、特にスライダーの曲がりが大きくなったという。これにより彼は軟投派の投手として生まれ変わった。フォーム変更後の1983年は、AA級で21試合に登板し防御率4.33、6勝12敗、AAA級で7試合に登板し防御率7.92、0勝5敗と振るわず、続く2年間もAA級とAAA級で過ごした。
2.4. トロント・ブルージェイズでの活躍 (1986-1988)
1986年、アイクホーンは開幕ロースター入りを果たし、中継ぎ投手としてメジャーリーグに再昇格した。この年、彼は69試合に登板し、防御率はロジャー・クレメンスの2.48を大きく上回る1.72を記録。リリーフでありながら157イニングを投げ、チーム最多タイの14勝、10セーブを挙げた。あと5イニング投げて規定投球回をクリアすれば最優秀防御率のタイトルを獲得できる状態であったが、監督のジミー・ウィリアムズが"意味のない5イニング"を投げるかどうかを尋ねたところ、彼はこれを拒否した。この活躍により、彼は1986年のアメリカンリーグ新人投手最優秀選手に選出され、新人の中継ぎ投手としてはブルージェイズの球団記録である防御率、登板数、勝利数、奪三振数を樹立した。
翌1987年も、彼はアメリカンリーグのリリーフ投手登板数タイ記録となる89試合に登板し、前年と同様の活躍を見せた。しかし、この時期には彼の投球フォームが盗塁されやすいという問題も指摘されていた。1989年には、盗塁されにくくするために投球フォームを若干変更したが、その結果、右打者に変化球を見極められるようになり、成績は低下した。
2.5. 移籍とキャリア後期 (1989-1996)
ブルージェイズの信頼を失ったアイクホーンは、1990年3月29日にアトランタ・ブレーブスへ保有権が売却された。ブレーブスでは前年同様の低調な成績に終わり、同年11月20日に解雇され、フリーエージェント(FA)となった。同年12月19日にはカリフォルニア・エンゼルスとマイナー契約を交わし、アメリカンリーグへと復帰した。1990年には投げるのをやめていたフォークボールを再び投げ始めたことで復調し、翌1991年も1986年並みの好成績を記録した。
1992年7月30日、彼はロブ・デューシー、グレッグ・マイヤーズとの交換で、トレードによりブルージェイズへ移籍し、4年ぶりに古巣のユニフォームに袖を通した。この移籍後、彼は再びブルージェイズのブルペンを支える重要な存在となった。FAとなった後、1993年12月14日にはボルチモア・オリオールズと2年契約を結んだ。1994年は好調を維持したが、翌1995年は故障によりシーズン全休となった。同年11月8日にはFAとなる。1996年2月6日に再びエンゼルスと契約し、24試合に登板したが、6月から8月にかけてはほぼ故障者リスト入りしており、防御率も5.04と精彩を欠いた。このシーズン終了後にメジャーリーグでのキャリアを終えた。
しかし、プロ野球選手としての活動はすぐに終わったわけではなく、その後も1998年と2000年にはマイナーリーグでプレーを続けた。2000年8月17日、彼はプロ野球選手としての活動を完全に引退した。メジャーリーグでの最後の登板は1996年9月14日だった。
2.6. ワールドシリーズ連覇への貢献 (1992, 1993)
アイクホーンは、1992年にブルージェイズがアメリカンリーグ東地区で優勝した際、ロブ・デューシーとグレッグ・マイヤーズとのトレードでシーズン途中にブルージェイズに復帰していた。彼はチャンピオンシップシリーズでオークランド・アスレチックスを、ワールドシリーズでアトランタ・ブレーブスをそれぞれ4勝2敗で下し、球団史上初のワールドチャンピオンとなる際に貢献した。
翌1993年も好調を維持し、チームの連続地区優勝に貢献。前年と同様、彼はチャンピオンシップシリーズでシカゴ・ホワイトソックスを、ワールドシリーズでフィラデルフィア・フィリーズをそれぞれ4勝2敗で破り、チームは連覇を達成した。特にワールドシリーズ第6戦では、ジョー・カーターがサヨナラ逆転3ラン本塁打を放つという劇的な幕切れとなり、現在でも語り草となっている。アイクホーンはこれらのワールドシリーズにおいて、いずれも1試合ずつ登板している。
2.7. 引退
アイクホーンは、1996年9月14日にメジャーリーグで最後の登板を果たし、そのシーズン終了後にメジャーリーグのキャリアを終えた。その後、1998年と2000年にはマイナーリーグでプレーを続けたが、2000年8月17日をもってプロ野球選手としての活動を完全に引退した。
3. 投球スタイル
マーク・アイクホーンの投球スタイルは、肩の負傷後に転向した独特なサイドスロー/アンダースローの中間からのフォームが特徴的であった。腕の角度はベルトよりもかなり低い位置からボールがリリースされ、球速はメジャーリーグの投手としては極めて遅かった。しかし、この珍しい投球フォームと優れたコントロールにより、彼は効果的な投球を実現した。フォーム転向後、彼は肩の痛みなく投球できるようになり、シンカー、スライダー、チェンジアップでストライクを取れるようになった。特にスライダーの曲がりは大きく、彼は「軟投派」の投手として生まれ変わった。
4. 引退後の活動
プロ野球選手を引退後、マーク・アイクホーンはカリフォルニア州アプトスのアプトス高校でピッチングコーチを務めている。また、2002年には、彼の12歳の息子ケビンが所属するアプトス・リトルリーグチームを指導し、チームがリトルリーグ・ワールドシリーズ西地区大会で優勝し、ペンシルベニア州ウィリアムズポートで開催されたリトルリーグ・ワールドシリーズ本戦に出場した。この一夏は、ドキュメンタリー映画『Small Ballスモール・ボール英語』として記録され、2004年にはPBSで放送された。
現在も、彼はかつてのブルージェイズのチームメイトであるデュウェイン・ウォード、ロイド・モスビー、キャンディー・マルドナード、ジェシー・バーフィールド、ケリー・グルーバー、ランス・マリニクス、ナイジェル・ウィルソン、ポール・スポールジャイリックらと共に、野球教室を開催し、後進の指導にあたっている。
5. 私生活と家族
マーク・アイクホーンには、4人の息子と1人の娘の計5人の子供がいる。息子たちはケビン(1990年生)、ブライアン(1991年生)、スティーブン(1995年生)、デビッド(2001年生)、娘はサラ(1999年生)である。
長男のケビンは、2002年にドキュメンタリー映画『Small Ballスモール・ボール英語』で描かれたリトルリーグチームでマークがコーチを務めた際に所属していた。その後、ケビンはサンタクララ大学への進学を表明していたが、2008年のMLBドラフトでアリゾナ・ダイヤモンドバックスから3巡目(全体104番目)で指名され、大学進学を取りやめプロ契約を結んだ。2011年1月24日には、投手アルマンド・ガララーガとのトレードでデトロイト・タイガース傘下の組織に移籍し、2014年シーズンまでプレーを続けた。ケビンのプロとしての通算成績は、89試合登板で26勝23敗、防御率3.73であった。
6. 詳細情報
6.1. 年度別投手成績
年度 | 球団 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | GF | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 打者 | 投球回 | 被安打 | 被本塁打 | 与四球 | 与敬遠 | 与死球 | 奪三振 | 暴投 | ボーク | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1982 | TOR | 7 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | -- | ---- | 171 | 38.0 | 40 | 4 | 14 | 1 | 0 | 16 | 3 | 0 | 28 | 23 | 5.45 | 1.42 |
1986 | TOR | 69 | 0 | 0 | 0 | 0 | 14 | 6 | 10 | -- | .700 | 612 | 157.0 | 105 | 8 | 45 | 14 | 7 | 166 | 2 | 1 | 32 | 30 | 1.72 | 0.96 |
1987 | TOR | 89 | 0 | 0 | 0 | 0 | 10 | 6 | 4 | -- | .625 | 540 | 127.2 | 110 | 14 | 52 | 13 | 6 | 96 | 3 | 1 | 47 | 45 | 3.17 | 1.27 |
1988 | TOR | 37 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | -- | ---- | 302 | 66.2 | 79 | 3 | 27 | 4 | 6 | 28 | 3 | 6 | 32 | 31 | 4.19 | 1.59 |
1989 | ATL | 45 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 5 | 0 | -- | .500 | 286 | 68.1 | 70 | 6 | 19 | 8 | 1 | 49 | 0 | 1 | 36 | 33 | 4.35 | 1.30 |
1990 | CAL | 60 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 5 | 13 | -- | .286 | 374 | 84.2 | 98 | 2 | 23 | 0 | 6 | 69 | 2 | 0 | 36 | 29 | 3.08 | 1.43 |
1991 | CAL | 70 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 1 | -- | .500 | 311 | 81.2 | 63 | 2 | 13 | 1 | 2 | 49 | 0 | 0 | 21 | 18 | 1.98 | 0.93 |
1992 | CAL | 42 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 4 | 2 | -- | .333 | 237 | 56.2 | 51 | 2 | 18 | 8 | 0 | 42 | 3 | 1 | 19 | 15 | 2.38 | 1.22 |
1992 | TOR | 23 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 135 | 31.0 | 35 | 1 | 7 | 0 | 2 | 19 | 6 | 0 | 15 | 15 | 4.36 | 1.35 |
1992計 | -- | 65 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 4 | 2 | -- | .500 | 372 | 87.2 | 86 | 3 | 25 | 8 | 2 | 61 | 9 | 1 | 34 | 30 | 3.08 | 1.27 |
1993 | TOR | 54 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | -- | .750 | 309 | 72.2 | 76 | 3 | 22 | 7 | 3 | 47 | 2 | 0 | 26 | 22 | 2.73 | 1.35 |
1994 | BAL | 43 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 5 | 1 | -- | .545 | 290 | 71.0 | 62 | 1 | 19 | 4 | 5 | 35 | 1 | 0 | 19 | 17 | 2.16 | 1.14 |
1996 | CAL | 24 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | -- | .333 | 135 | 30.1 | 36 | 3 | 11 | 3 | 2 | 24 | 0 | 1 | 17 | 17 | 5.04 | 1.55 |
MLB:11年 | 563 | 7 | 0 | 0 | 0 | 48 | 43 | 32 | -- | .527 | 3702 | 885.2 | 825 | 49 | 270 | 63 | 40 | 640 | 25 | 11 | 328 | 295 | 3.00 | 1.24 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 「--」は記録なし
6.2. 年度別守備成績
アイクホーンはメジャーリーグ11年間のキャリアで、守備率9割9分2厘という堅実な守備能力を持つ投手であった。彼は885と2/3イニング、563試合に登板する中で、243の総守備機会でわずか2つの失策しか犯していない。唯一の失策は、1987年8月19日のオークランド・アスレチックス戦と、1992年7月4日のトロント・ブルージェイズ戦で記録された。
年度 | 球団 | 投手(P) | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | ||
1982 | TOR | 7 | 1 | 3 | 0 | 0 | 1.000 |
1986 | TOR | 69 | 16 | 21 | 0 | 1 | 1.000 |
1987 | TOR | 89 | 2 | 30 | 1 | 2 | .970 |
1988 | TOR | 37 | 5 | 13 | 0 | 1 | 1.000 |
1989 | ATL | 45 | 9 | 17 | 0 | 1 | 1.000 |
1990 | CAL | 60 | 7 | 16 | 0 | 0 | 1.000 |
1991 | CAL | 70 | 4 | 18 | 0 | 2 | 1.000 |
1992 | CAL | 42 | 5 | 11 | 1 | 0 | .941 |
1992 | TOR | 23 | 0 | 8 | 0 | 0 | 1.000 |
1992計 | -- | 65 | 5 | 19 | 1 | 0 | .960 |
1993 | TOR | 54 | 7 | 18 | 0 | 1 | 1.000 |
1994 | BAL | 43 | 3 | 19 | 0 | 1 | 1.000 |
1996 | CAL | 24 | 2 | 6 | 0 | 0 | 1.000 |
MLB | 563 | 61 | 180 | 2 | 9 | .992 |
- 各年度の太字はリーグ最高
6.3. 背番号
- 28 (1982年)
- 38 (1986年 - 1988年、1994年)
- 49 (1989年)
- 45 (1990年 - 1992年途中)
- 34 (1992年途中 - 同年途中)
- 48 (1992年途中 - 1993年)
- 58 (1996年)
7. 評価と遺産
マーク・アイクホーンは、メジャーリーグの歴史において、肩の負傷を乗り越え、独特な投球スタイルを確立したことで知られる投手である。特にトロント・ブルージェイズでのキャリアが最も印象深く、1986年にはアメリカンリーグの新人投手最優秀選手に輝き、リリーフ投手として多くの球団記録を樹立した。彼の貢献は、ブルージェイズが1992年と1993年にワールドシリーズを連覇した時期にも顕著であり、チームの歴史に深く名を刻んだ。低い球速にもかかわらず、その卓越したコントロールと予測困難な投球フォームは、多くの打者を翻弄し、リリーフ投手として非常に効果的な存在であったと評価されている。彼は堅実な守備能力も持ち合わせており、総合的に見てメジャーリーグで長く活躍した稀有な存在として、野球界にその足跡を残した。