1. 概要
ラウル・アルベルト・ラスティリ(Raúl Alberto Lastiriラウル・アルベルト・ラスティリスペイン語、1915年9月11日 - 1978年12月11日)は、アルゼンチンの政治家であり、1973年7月13日から同年10月12日まで同国の暫定大統領を務めた。彼はアルゼンチン下院議長の職にあったが、当時の大統領エクトル・カンポラと副大統領ビセンテ・ソラノ・リマの辞任を受けて暫定大統領に就任した。ラスティリの短い任期は、ペロニズム党内の右派勢力への回帰を特徴づけるものであった。彼は新たな選挙を実施し、9月に60%以上の得票で当選したフアン・ペロンに政権を移譲した。
2. 生涯と経歴
ラウル・アルベルト・ラスティリの生涯は、アルゼンチンの激動の政治状況と密接に結びついていた。
2.1. 家族と出自
ラウル・アルベルト・ラスティリは、1915年9月11日にブエノスアイレスで生まれた。彼の父ホセ・マリア・ラスティリはスペイン北部のナバラ州アルマンドスの出身であり、母マリア・フェラーリはイタリア中部のラツィオ州ローマの出身であった。彼には9人の兄弟姉妹がいた。
3. 政治経歴
ラスティリの政治経歴は、アルゼンチンの政治的転換期において重要な役割を果たした。
3.1. 初期経歴と権力掌握
ラスティリは暫定大統領に就任する以前、アルゼンチン下院議長を務めていた。1973年7月13日、当時の大統領エクトル・カンポラと副大統領ビセンテ・ソラノ・リマが辞任したことを受け、下院議長であったラスティリが憲法の規定に基づき暫定大統領に昇格した。彼は1975年7月17日まで下院議長の職に留まり、ニカシオ・サンチェス・ソロンドに交代した。
3.2. 暫定大統領時代 (1973年)
ラスティリの暫定大統領としての任期は、わずか3ヶ月間であったが、その後のアルゼンチンの政治動向に大きな影響を与えた。
3.2.1. 就任背景と政治的状況
ラスティリが暫定大統領に就任した背景には、エクトル・カンポラ大統領とビセンテ・ソラノ・リマ副大統領の辞任があった。カンポラ政権は、フアン・ペロンの帰国とペロニズムの復権を目的としていたが、左右両派の対立が激化し、政情不安が深刻化したため、わずか49日で辞任を余儀なくされた。
ラスティリの短い任期は、ペロニズム党内の右派勢力への明確な回帰を明確に示した。彼の義父であるホセ・ロペス・レガは、プロパガンダ・ドゥエ(P2)のメンバーであり、国家テロリズム組織であるアルゼンチン反共産主義同盟(Triple Aトリプレ・アスペイン語)の創設者であったが、社会福祉大臣として政権内で実権を握った。外務大臣にはアルベルト・フアン・ビグネスが、内務大臣にはベニート・リャンビーがそれぞれ就任した。
3.2.2. 主要政策と外交
ラスティリ政権下でも、経済大臣に留任したホセ・ベル・ヘルバルドは、銀行預金の国有化や「3カ年開発計画」の発表など、前政権の経済政策を継続した。外交政策においては、右派への回帰にもかかわらず、第三世界志向が維持された。例えば、1973年8月には、アルゼンチンはキューバに対し、機械や自動車の購入のために2.00 億 USDの融資を行った。
3.2.3. 社会不安と政治的暴力
ラスティリ政権末期には、反政府左翼勢力による暴力が著しく増加した。1973年9月25日には、モンテネーロスの部隊がアルゼンチン労働総同盟(CGT)の書記長であり、フアン・ペロンの親友であったホセ・イグナシオ・ルッチを暗殺したとされている。同月、人民革命軍(ERP)は、ブエノスアイレスのパルケ・パトリシオス地区にある陸軍医療部隊を襲撃し、将校1名を殺害した。これらの事件は、人民革命軍の非合法化と、新聞『El Mundoエル・ムンドスペイン語』の閉鎖を正当化するために利用された。
3.2.4. フアン・ペロンへの政権移譲
ラスティリは、新たな選挙を準備し、1973年9月に行われた選挙で60%以上の得票率で当選したフアン・ペロンに政権を移譲した。1973年10月12日、ラスティリは正式に大統領職をペロンに引き渡した。
4. 大統領退任後と晩年
大統領職を退任した後も、ラスティリの人生は政治的な影響を受け続けた。
4.1. プロパガンダ・ドゥエ(P2)との関連
1980年にリチオ・ジェッリ率いるフリーメイソンの秘密結社プロパガンダ・ドゥエ(P2)の会員名簿が発見された際、ラスティリの名前もその中に含まれていたことが明らかになった。この事実は、彼の政治的活動に対する批判と論争をさらに深めることとなった。
4.2. 政治的キャリアの終焉
ラスティリの政治的キャリアは、彼の義父であるホセ・ロペス・レガとの関係に大きく影響された。ロペス・レガが権力乱用と汚職の容疑で告発され、亡命を余儀なくされた後、ラスティリの政治的影響力も失墜し、彼のキャリアは事実上終焉を迎えた。
4.3. 自宅軟禁と死去
1976年3月24日に軍事独裁政権が樹立されると、ラスティリは自宅軟禁下に置かれた。彼はその後、1978年12月11日に死去した。
5. 受賞歴と栄誉
ラスティリは、その政治的キャリアの中でいくつかの外国勲章を受章している。
5.1. 外国勲章
ラスティリは、以下の外国勲章を受章している。
- カトリック女王イサベル勲章グランドクロス(スペイン、1973年)
- 白獅子勲章2級(チェコスロバキア、1974年)
6. 評価と論争
ラスティリの短い大統領任期は、アルゼンチンの政治史において批判と論争の対象となっている。
6.1. 批判と論争
ラスティリの任期は、ペロニズム党内の右派勢力への明確な転換点として批判されている。特に、彼の義父であり、国家テロリズム組織であるアルゼンチン反共産主義同盟(Triple Aトリプレ・アスペイン語)の創設者であるホセ・ロペス・レガが社会福祉大臣として政権内で実権を握ったことは、その後のアルゼンチンの政治的弾圧と暴力の激化につながったと見なされている。また、1980年に発覚したフリーメイソンの秘密結社プロパガンダ・ドゥエ(P2)への彼の所属は、その後の彼の評価に影を落としている。
6.2. 社会的・政治的影響
ラスティリの短い暫定大統領としての任期は、アルゼンチンの民主主義、人権、社会安定に広範な負の影響を与えた。彼の政権下での右派への回帰と、ホセ・ロペス・レガのような人物の台頭は、政治的暴力の増加と反政府勢力の弾圧を招いた。ホセ・イグナシオ・ルッチの暗殺や人民革命軍の非合法化、新聞『El Mundoエル・ムンドスペイン語』の閉鎖といった出来事は、当時の社会不安を象徴しており、民主主義的なプロセスと表現の自由が著しく侵害されたことを示している。これらの動きは、その後の軍事独裁政権の台頭へとつながる道筋の一部を形成したと分析されている。