1. 幼少期とアマチュア時代
ルーブ・マーカードは1886年10月9日にオハイオ州クリーブランドで、ドイツからの移民であるフレッド・マーカードとレナ・ハイザー・マーカードの間に生まれた。母親のレナは1899年に腹部感染症で死去し、その後は祖母が彼の養育を引き受けた。マーカードは5年生で学校を中退しており、伝記作家のラリー・マンシュは彼が「単純にこれ以上通うのを拒否した」と記している。
新聞報道でマーカードが初めて言及されたのは1905年で、彼はクリーブランドのアマチュアチームでプレーしていた。彼のチームは一時期1勝15敗と成績不振であったにもかかわらず、マーカードはトップ投手として注目を集めた。彼はブリトンズ・プリンティングとの試合で16奪三振を記録し、シティリーグの記録を更新した。同年9月にシティリーグのシーズンが終了した後、彼はアイスクリーム会社が後援する独立系のセミプロチーム、テリング・ストローラーズと契約した。
2. プロ野球キャリア
ルーブ・マーカードのプロ野球キャリアは、マイナーリーグでの基礎を築いた後、ニューヨーク・ジャイアンツでの目覚ましい成功と、その後のブルックリン・ロビンズなど複数球団での活躍、そして引退後の活動や関連する論争によって特徴づけられる。
2.1. マイナーリーグとニックネーム
マーカードは1906年にマイナーリーグでのキャリアを開始した。彼のニックネームである「ルーブ」(Rube田舎者英語の意)は、マイナーリーグ時代に、当時の著名な左腕投手ルーブ・ワッデルになぞらえて記者がつけたものである。このニックネームにもかかわらず、マーカードは都会育ちの少年であった。
マイナーリーグでの成績は以下の通りである。
- 1907年:セントラルリーグで23勝13敗、防御率2.01を記録し、リーグ最多勝利投手となった。
- 1908年:アメリカン・アソシエーションで28勝19敗、防御率1.69を記録し、リーグ最多勝利投手となった。
彼の成功を受け、ニューヨーク・ジャイアンツは当時としては破格の1.10 万 USDでマーカードの契約を獲得した。この金額は、当時のプロ野球選手にとって前例のないものであったため、メジャーリーグキャリア初期の不振から、彼は「1.10 万 USDのレモン」という不名誉なニックネームで呼ばれることになった。日本語の報道では当初1.30 万 USDと伝えられ、「1.30 万 USDのレモン」と称されることもあった。
2.2. ニューヨーク・ジャイアンツ時代 (1908-1915)
1908年にジャイアンツに入団したマーカードは、キャリア初期に苦戦を強いられた。1909年は29試合に登板して防御率2.60ながら5勝13敗、翌1910年は13試合で4勝4敗と、なかなか勝利に恵まれなかった。
しかし、4年目の1911年に、現在でいうスプリットフィンガード・ファストボールの原型ではないかと一部の野球史家が指摘する、縦に落ちる変化球を習得したことで、彼の成績は急上昇する。同年、リーグ最多の237奪三振を含む24勝を挙げ、ジャイアンツをナショナルリーグ優勝に導いた。

続く1912年には、開幕から無敗を続け、4月11日の対ブルックリン・ドジャース戦から7月3日の同カード(ダブルヘッダー)にかけて、シーズン開幕からの19連勝というメジャーリーグ記録を樹立した。これは、19世紀のティム・キーフの記録に並ぶものであり、開幕からの連勝記録としてはMLB記録である。この年、彼はリーグ最多の26勝を挙げた。マーカードは、19連勝を祝ってオパール製のネクタイピンを購入したとされるが、友人にオパールがジンクス(縁起の悪いもの)だと告げられると、それを川に投げ捨てたという。しかし、すでにその呪いは効いてしまったようで、彼はその後の登板で敗戦投手となった。
翌1913年も23勝10敗を記録し、3年連続で20勝以上を挙げ、ジャイアンツのリーグ3連覇に貢献した。しかし、1914年には12勝22敗と大きく成績を落とした。
2.3. ブルックリン・ロビンズおよびその他の球団時代 (1915-1925)
1915年、マーカードは不調に陥り、同年シーズン途中にブルックリン・ロビンズ(現在のロサンゼルス・ドジャース)へ移籍した。移籍直後の1915年4月15日にはノーヒットノーランを達成している。ロビンズには5年間在籍し、1916年と1920年にはチームのリーグ優勝に貢献し、ロビンズの一員としてワールドシリーズに2度出場した。
その後、1921年にはシンシナティ・レッズ、1922年から1925年まではボストン・ブレーブス(現在のアトランタ・ブレーブス)でプレーした。彼は1925年、38歳で現役を引退した。
2.4. 主要な記録と統計
- 通算成績:** メジャーリーグキャリア通算536試合に登板し、201勝177敗、防御率3.08を記録した。
- 奪三振:** 通算1,593奪三振は、引退当時、左腕投手としてはルーブ・ワッデル、エディ・プランクに次ぐ歴代3位の記録であり、カール・ハッベルが1942年に記録を更新するまでナショナルリーグの左腕投手における最多奪三振記録であった。
- タイトル:**
- 最多勝利: 1回 (1912年)
- 最多奪三振: 1回 (1911年)
- 記録:**
- シーズン連勝記録: 19連勝 (1912年)。これはティム・キーフと並ぶメジャーリーグ記録であり、開幕からの連勝記録としてはMLB記録である。彼の19連勝には1つの救援勝利が含まれていたが、田中将大が2013年に日本のプロ野球で達成した24連勝は全て先発投手としての記録であった。
- ノーヒットノーラン: 1915年4月15日達成。
- ワールドシリーズ出場:** 5回 (1911年、1912年、1913年、1916年、1920年)。
- 打撃成績:**
- 通算成績: 536試合、1107打数198安打、1本塁打、64打点、打率.179。
年 球団 登板 先発 完投 完封 勝 敗 セーブ 勝率 投球回 被安打 被本塁打 与四球 与死球 奪三振 自責点 防御率 WHIP 1908 NYG 1 1 0 0 0 1 0 .000 5.0 6 0 2 1 2 2 3.60 1.60 1909 NYG 29 22 8 0 5 13 1 .278 173.0 155 2 73 9 109 50 2.60 1.32 1910 NYG 13 8 2 0 4 4 0 .500 70.2 65 2 40 4 52 35 4.46 1.49 1911 NYG 45 33 22 5 24 7 3 .774 277.2 221 9 106 4 237 77 2.50 1.18 1912 NYG 43 38 22 1 26 11 1 .703 294.2 286 9 80 3 175 84 2.57 1.24 1913 NYG 42 33 20 4 23 10 3 .697 288.0 248 10 49 3 151 80 2.50 1.03 1914 NYG 39 33 15 4 12 22 2 .353 268.0 261 9 47 2 92 91 3.06 1.15 1915 NYG 27 21 10 2 9 8 2 .529 169.0 178 8 33 1 79 70 3.73 1.25 1915 BRO 6 3 0 0 2 2 1 .500 24.2 29 0 5 0 13 17 6.20 1.38 1916 BRO 36 21 15 2 13 6 5 .684 205.0 169 2 38 0 107 36 1.58 1.01 1917 BRO 37 29 14 2 19 12 0 .613 942 232.2 200 5 60 0 117 66 2.55 1.12 1918 BRO 34 29 19 4 9 18 0 .333 239.0 231 7 59 1 89 70 2.64 1.21 1919 BRO 8 7 3 0 3 3 0 .500 59.0 54 1 10 0 29 15 2.29 1.09 1920 BRO 28 26 10 1 10 7 0 .588 189.2 181 5 35 1 89 68 3.23 1.14 1921 CIN 39 36 18 2 17 14 0 .548 265.2 291 8 50 7 88 100 3.39 1.28 1922 BSN 39 25 7 0 11 15 1 .423 198.0 255 12 66 0 57 112 5.09 1.62 1923 BSN 38 29 11 3 11 14 1 .440 239.0 265 10 65 2 78 99 3.73 1.38 1924 BSN 6 6 1 0 1 2 0 .333 36.0 33 3 13 1 10 12 3.00 1.28 1925 BSN 26 8 0 0 2 8 0 .200 72.0 105 5 27 0 19 46 5.75 1.83 通算:18年 536 408 197 30 201 177 20 .532 3306.2 3233 107 858 39 1593 1130 3.08 1.24 - 各年度の太字はリーグ最高
2.5. 引退後の活動と論争
メジャーリーグ引退後、マーカードは1933年までマイナーリーグで投手兼監督として活動した。野球界を離れた後は、ロードアイランド州ポータケットに位置するナラガンセットパークで賭博窓口の係員として働いた。
彼のキャリア中には論争も発生した。1920年のワールドシリーズ中にクリーブランドでチケット転売の容疑で逮捕された。彼は8枚のボックス席のチケットを350 USDで販売したとされたが、元の価格は52.8 USDであった。彼は有罪判決を受け、1 USDと裁判費用3.5 USDの罰金を科された。
3. 私生活
ルーブ・マーカードはボードビルのパフォーマーとしても活動しており、ブロッサム・シーリー(Blossom Seeley)と共演し、後に彼女と結婚した。結婚した同じ年に、シーリーは息子リチャード・ウィリアム・マーカード2世(Richard William Marquard II)を出産している。
4. 評価と遺産
ルーブ・マーカードの野球界における遺産は、その殿堂入りという栄誉と、それを取り巻く批判的評価、そして彼の回想録の信憑性に関する議論によって多角的に捉えられている。
4.1. アメリカ野球殿堂入り
マーカードは1971年にアメリカ野球殿堂にベテランズ委員会によって選出された。
4.2. 批評的受容と歴史的評価
マーカードの野球殿堂入りは、セイバーメトリクスコミュニティによってしばしば批判されてきた。彼の調整防御率+ (adjusted ERA+) がリーグ平均をわずかに上回る程度であったため、その殿堂入りは疑問視されてきたのである。野球史家のビル・ジェームズは、マーカードを「おそらく野球殿堂入りした先発投手の中で最悪の選手」と評した。
また、マーカードは1966年に出版された人気の野球書『ザ・グローリー・オブ・ゼア・タイムズ』(The Glory of Their Timesザ・グローリー・オブ・ゼア・タイムズ英語)のためにインタビューを受けており、彼の章が殿堂入り選出の主要な理由の一つと考えられている。しかし、彼がこの本で「語った」とされる話のほとんどは、後に虚偽であることが判明した。
5. 死去
ルーブ・マーカードは1980年6月1日に93歳で、メリーランド州ボルチモアで死去した。彼はボルチモアにあるボルチモア・ヘブライ墓地に埋葬されている。