1. 来歴
大日ノ出崇揚は、野球一筋の少年時代を過ごした後、ひょんなことから相撲に転身し、アマチュア相撲界で実績を積んでプロ入りするという特異な道のりを歩んだ。しかし、プロ入り後は怪我や病気に苦しみ、その出世は決して順調ではなかった。
1.1. 野球一筋から相撲へ
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1970年1月19日、兵庫県宍粟郡千種町(現:兵庫県宍粟市)で、税理士の長男として生まれた。親戚に阪神タイガースの二塁手がいた影響で、千種町立千種南小学校3年生の時にリトルリーグに入団し、投手兼4番打者として活躍。千種町立千種中学校(現:宍粟市立千種中学校)では硬式野球部に所属した。
それまで相撲の経験は全くなかったが、中学3年生の時、中学校側が試しに宍粟郡の相撲大会に出場させたところ、順調に勝ち進んで兵庫県大会へ出場。さらに近畿大会でも活躍したことで、市川高等学校から勧誘を受けた。野球では実力を認めてもらえず、試合にも出場させてもらえなかった経験があったため、相撲で認められたことが嬉しく、市川高等学校へ進学後は野球を辞めて本格的に相撲の道へ進んだ。高校では国民体育大会や全国高等学校相撲選手権大会に出場し、団体優勝に貢献した。高校3年生で出場した国民体育大会の会場で日本大学相撲部から勧誘され、日本大学へ進学。大学では全日本相撲選手権大会で活躍し、アマチュア横綱にも輝いた。大学時代の同期には後の肥後ノ海や濱ノ嶋らがいる。
大学卒業後は和歌山県庁への就職が内定していたが、大学4年生であまり活躍できなかったことから相撲への思いを断ち切ることができず、大学時代の2年先輩だった大翔鳳昌巳の紹介で立浪部屋に入門。1992年1月場所において幕下60枚目格付出で初土俵を踏んだ。四股名は本名に因んで「西田山」としたが、1994年3月場所で「大日ノ出」に改名した。
1.2. スロー出世と現役引退
高校・大学時代の活躍から幕下付出の資格を得たため、当初は早い出世が期待されていた。しかし、右膝の故障に悩まされ、長らく幕下中位での相撲が続いた。1996年7月場所では6戦全勝と好調を維持していたものの、もう1人の6戦全勝が同部屋の広瀬山(後の十両・双筑波)だったため、13日目に行われた7番相撲は星違いの後藤(後の関脇・栃乃洋)との対戦が組まれた。この取組に敗れ、広瀬山も敗れたことで全勝力士がいなくなり、1敗力士9人による優勝決定戦となった。大日ノ出は優勝決定戦でも敗れて優勝を逃すなど、ここ一番での勝負弱さが見られた(この場所の幕下優勝は、7番相撲で広瀬山を破った金作であった)。
その後、右膝の具合が改善したことで幕下上位まで番付を上げ、得意の左四つからの上手投げなどで勝利を重ね、1997年1月場所において新十両昇進を果たした。初土俵からの所要場所数は30場所であった。十両には定着したものの、惜しいところで敗れて負け越す場合が多く、十両下位と上位を往復する生活が2年ほど続いた。1999年1月場所でようやく自己最高位となる東十両筆頭まで番付を上げ、この場所を8勝7敗と辛くも勝ち越して新入幕を決めた。これは初土俵から所要43場所での新入幕であり、当時の幕下付出からの新入幕では史上最も遅い記録となった。
一時幕内に定着したが、内臓疾患(肺の病気)を患い、2000年1月場所を最後に十両に陥落。内臓疾患の病状が悪化したことで同年7月場所を休場した後、同年9月場所では幕下へ陥落した。日常生活には支障がない程度まで回復したものの、この場所を全休したことで相撲を続けるには無理があると判断され、同場所限りで現役を引退した。同年12月15日には都内のホテルで断髪式が行われ、日本大学時代の恩師である田中英壽が止め鋏を入れた。引退後は日本相撲協会には残らず、実業家へと転身した。
2. 相撲スタイル・得意技
大日ノ出は、四つ相撲を得意とする力士であった。特に、相手のまわしに右四つ(左を外から、右を内から取る形)で組むことを好んだ。最も多く見られた決まり手は、寄り切りであった。また、左四つからの上手投げも得意技の一つであった。
3. 主な成績
大日ノ出崇揚の主な成績は以下の通りである。
3.1. 通算成績
- 通算成績:262勝243敗27休 (勝率.519)
- 幕内成績:42勝48敗 (勝率.467)
- 通算在位:53場所
- 幕内在位:6場所
3.2. 場所別成績
年 | 1月場所(初場所) | 3月場所(春場所) | 5月場所(夏場所) | 7月場所(名古屋場所) | 9月場所(秋場所) | 11月場所(九州場所) |
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1992 | 幕下60枚目 4勝3敗 | 東幕下51枚目 4勝3敗 | 西幕下39枚目 4勝3敗 | 東幕下28枚目 5勝2敗 | 東幕下17枚目 4勝3敗 | 東幕下12枚目 3勝4敗 |
1993 | 西幕下19枚目 4勝3敗 | 西幕下14枚目 2勝5敗 | 西幕下32枚目 3勝4敗 | 東幕下40枚目 4勝3敗 | 西幕下31枚目 4勝3敗 | 西幕下23枚目 5勝2敗 |
1994 | 東幕下13枚目 6勝1敗 | 東幕下4枚目 3勝4敗 | 東幕下10枚目 4勝3敗 | 西幕下6枚目 3勝4敗 | 東幕下11枚目 4勝3敗 | 西幕下6枚目 4勝3敗 |
1995 | 西幕下2枚目 2勝5敗 | 東幕下16枚目 4勝3敗 | 東幕下12枚目 3勝4敗 | 東幕下19枚目 3勝4敗 | 東幕下27枚目 6勝1敗 | 東幕下11枚目 4勝3敗 |
1996 | 東幕下6枚目 0勝2敗5休 | 東幕下41枚目 全休 | 東幕下41枚目 4勝3敗 | 東幕下32枚目 6勝1敗 | 西幕下13枚目 5勝2敗 | 東幕下6枚目 6勝1敗 |
1997 | 西十両12枚目 8勝7敗 | 東十両10枚目 8勝7敗 | 東十両7枚目 7勝8敗 | 西十両9枚目 9勝6敗 | 東十両4枚目 5勝10敗 | 東十両9枚目 5勝10敗 |
1998 | 東幕下筆頭 4勝3敗 | 西十両12枚目 9勝6敗 | 西十両7枚目 7勝8敗 | 東十両11枚目 9勝6敗 | 西十両6枚目 8勝7敗 | 東十両3枚目 8勝7敗 |
1999 | 東十両筆頭 8勝7敗 | 西前頭13枚目 9勝6敗 | 西前頭9枚目 6勝9敗 | 東前頭14枚目 7勝8敗 | 東前頭15枚目 8勝7敗 | 東前頭13枚目 8勝7敗 |
2000 | 西前頭12枚目 4勝11敗 | 東十両4枚目 6勝9敗 | 東十両7枚目 6勝9敗 | 東十両10枚目 全休 | 西幕下11枚目 0勝0敗7休(引退) | - |
3.3. 幕内対戦成績
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
蒼樹山 | 2 | 3 | 朝乃翔 | 1 | 3 | 朝乃若 | 3 | 0 | 皇司 | 2 | 1 |
大碇 | 0 | 1 | 小城錦 | 1 | 0 | 海鵬 | 3 | 2 | 巌雄 | 1 | 3 |
旭鷲山 | 1 | 1 | 旭天鵬 | 2 | 3 | 金開山 | 0 | 2 | 五城楼 | 1 | 0 |
琴龍 | 3 | 1 | 敷島 | 1 | 1 | 大善 | 2 | 1 | 隆乃若 | 1 | 0 |
玉春日 | 0 | 2 | 千代天山 | 1 | 2 | 寺尾 | 2 | 0 | 時津海 | 2 | 3 |
栃乃洋 | 1 | 1 | 栃乃和歌 | 1 | 0 | 濱ノ嶋 | 5 | 0 | 肥後ノ海 | 0 | 2 |
湊富士 | 0 | 2 | 雅山 | 0 | 1 | 燁司 | 2(1) | 0 | 若の里 | 0 | 1 |
若ノ城 | 0 | 3 | 和歌乃山 | 0 | 3 |
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
4. エピソード
- 幕下付出で初土俵を踏んでから新入幕を果たすまでの所要43場所は、当時の幕下付出からの新入幕としては史上最も遅い記録となった。1999年3月場所には、雅山も同時に新入幕を果たしているが、雅山は1998年7月場所に幕下付出から所要4場所という史上1位タイのスピード出世での新入幕であった。これにより、幕下付出からの新入幕記録が最長の力士(大日ノ出)と最短の力士(雅山)が同時に新入幕を果たしたことで、当時の相撲界で話題となった。両者はこの場所で対戦し、熱戦の末に雅山が勝利している。
- 1998年1月場所では、幕下筆頭に位置しながら、7番の取組のうち5番が十両力士との対戦となり、これは記録的なものであった。
5. 引退後の活動
大日ノ出崇揚は、2000年9月場所での現役引退後、日本相撲協会には残らず、実業家へと転身した。内臓疾患は相撲の継続を困難にさせたものの、日常生活に支障はなかったため、新たな道に進むことができた。
6. 改名歴
- 西田山 崇晃(にしだやま たかあき):1992年1月場所 - 1994年1月場所
- 大日ノ出 崇揚(おおひので たかあき):1994年3月場所 - 2000年9月場所