1. Overview
モンゴル出身の元大相撲力士である旭天鵬 勝は、現在は大島部屋の師匠を務め、後進の指導に当たっています。本名は太田 勝おおた まさる日本語、モンゴル名はНямжавын Цэвэгнямニャムジャブ・ツェベクニャムモンゴル語です。彼は1992年3月に大島部屋から初土俵を踏み、幕内で活躍を続け、2012年5月場所では37歳8か月で史上最年長となる幕内初優勝を果たしました。これは現代相撲史において画期的な出来事であり、「角界のレジェンド」と称されました。そのキャリアは非常に長く、幕内通算出場1470回は歴代1位、通算出場1871回は歴代2位という記録を打ち立てました。2005年には日本国籍を取得し、2015年7月に現役を引退しました。引退後は年寄として友綱部屋を継承し、2022年には部屋名を大島部屋に改称して師匠として活動しています。彼は長身を活かした右四つからの粘り強い相撲で知られ、日本とモンゴルの架け橋として相撲界に多大な影響を与えました。
2. 生涯
旭天鵬勝の生い立ちから現役引退までの相撲人生を時系列で詳述します。
2.1. 相撲界入りと初期の苦闘
モンゴル国ウランバートル市ナラフ区ナライハ町で、本名ニャムジャブ・ツェベクニャムとして1974年9月13日に生まれた旭天鵬は、幼少期には相撲や柔道の経験がほとんどなく、中学時代はバスケットボールに打ち込んでいました。
1992年2月、旭鷲山や旭天山ら他の5人のモンゴル人力士と共に日本へ来日し、大島部屋に入門しました。これは大相撲史上初のモンゴル出身力士グループの一員として、同年3月場所で初土俵を踏んだことを意味します。四股名「旭天鵬」の「鵬」の字は、横綱・大鵬にちなんで名付けられました。
来日当初は、日本の食文化や大相撲の稽古の厳しさに馴染めず、わずか半年後には共に来日した仲間5人と共に部屋を脱走し、モンゴル大使館に逃げ込むという出来事がありました。しかし、故郷モンゴルの実家まで説得に訪れた師匠・2代大島(元大関・旭國)の「3年間は相撲を取るという約束がある」「今に相撲はモンゴルの時代になる」という言葉に説得され、部屋に戻ることを決意しました。この脱走後、1993年1月場所ではその雰囲気に耐えられず、大使館から場所入りする特別な措置が認められたこともありました。
来日後の3か月間は通訳が付いていましたが、部屋の規則でモンゴル語を一言話すたびに3000 JPYの罰金が課されるなど、厳しい制約がありました。彼はカラオケで日本語を覚えるなど工夫を重ね、ほとんど辞書を使わずに流暢な日本語を習得しました。その日本語能力の高さは後に評価され、2000年には早稲田大学で「学習ストラテジー概論:効果的な言語習得のために」というテーマで対話形式の授業を行い、その内容は宮崎里司の著書『外国人力士はなぜ日本語がうまいのか』でも紹介されました。
また、故郷モンゴルでは米は必ず手を加えて何かと混ぜて食べるものであったため、初めて白米が出された際には吐き気がしたというエピソードもあります。来日当初、社会主義国だったモンゴルで日本に関する知識が乏しく、日本を「サムライがチョンマゲを結って刀を差している国」だと思っていたと語っています。また、「子どもの頃はモンゴルが社会主義だったので、ソ連や北朝鮮はいい国で、日本、韓国やアメリカは悪い国だと教えられていた」とも後に述べています。来日直前にモンゴルに資本主義が導入されたことで、日本を紹介するテレビ番組で夜のネオン街が映し出され、たちまち日本に憧れを抱いたといいます。新弟子の頃は、モンゴルにはなかったコーラにはまったとも語っています。
2.2. 各段昇進と関取時代
旭天鵬は1994年3月場所に幕下へ昇進し、1996年1月場所では西幕下9枚目の位置で7戦全勝という成績を収め、優勝決定戦に進出しました。優勝決定戦では幕下付出で初土俵を踏んだ熊谷に敗れましたが、「幕下15枚目以内で7戦全勝すれば無条件で十両昇進する」という内規により、翌3月場所で新十両昇進を果たし、初の関取となりました。
その後、一時的に幕下へ陥落することもありましたが、約2年間の十両在位を経て、1998年1月場所に新入幕を果たしました。しかし、幕内に定着したのは1999年5月場所で3回目の入幕を果たしてからのことでした。2000年1月場所では、幕内での自身初となる11勝4敗という二桁勝利を挙げ、初の敢闘賞を受賞しました。
2002年1月場所には新三役となる東小結へ昇進。同年9月場所では横綱・貴乃花を破り、自身初となる金星を獲得しました。さらに2003年3月場所では、新横綱として初めて土俵に上がった朝青龍を掛け投げで破り2個目の金星を挙げ、東前頭筆頭で9勝6敗と勝ち越し、2回目の敢闘賞を受賞しました。西小結へ昇進した翌5月場所でも10勝5敗と三役として自身初の勝ち越しを決め、3回目の敢闘賞を受賞。自己最高位となる西関脇へと昇進した翌7月場所は6勝9敗と負け越しましたが、翌9月場所では東前頭2枚目で10勝5敗の好成績を挙げ、4回目の敢闘賞を受賞しました。横綱・朝青龍や武蔵丸にも三役として勝利しています。
2007年4月28日、東京で自動車事故を起こし、日本相撲協会の「力士の自動車運転禁止」に違反したため、同年5月場所を全休する出場停止処分を受けました。これは関取となってから初の休場で、1999年5月場所での幕内再入幕以降続いていた幕内連続出場記録720回(当時の現役力士最長)が途切れました。しかし、翌7月場所では十両へ降格しながらも12勝3敗と大きく勝ち越し、優勝決定戦に進出(巴戦で岩木山に敗戦)し、1場所で幕内へ復帰しました。復帰後の9月場所では、横綱・白鵬と優勝を争い、最終的に12勝3敗の好成績を挙げ、5回目の敢闘賞を受賞しました。2007年11月場所に旭天山が引退して以降、旭鷲山らと共に来日したモンゴル出身力士6人の中で、旭天鵬が唯一の現役力士となりました。
2009年1月場所では西前頭筆頭で9勝6敗と勝ち越し、翌3月場所で17場所ぶりに小結に復帰しました。34歳5か月での三役昇進は戦後大関経験者を除いて史上9位の年長記録です。同年7月場所にも小結に昇進し、34歳9か月16日での三役昇進は戦後大関経験者を除いて史上6位の年長記録、通算10回目の三役昇進は史上8位タイの記録となりました。

2.3. 平幕優勝と記録的な活躍
2012年4月、師匠である2代大島が定年退職を迎え大島部屋が閉鎖されたため、他の所属力士と共に友綱部屋へと移籍しました。当時の大島部屋を継承する打診もありましたが、本人が現役続行を強く希望したことと、部屋継承の金銭的条件が折り合わず、実現しませんでした。
友綱部屋移籍後初の場所となった2012年5月場所では、西前頭7枚目の位置で5日目までは2勝3敗と苦戦していましたが、そこから快進撃を見せ10連勝。14日目には大関・琴欧洲を豪快な上手投げで破り、千秋楽には関脇・豪栄道にも勝利し、12勝3敗で優勝決定戦に進出しました。優勝決定戦では、前日に琴欧洲戦で右足首を負傷し休場した栃煌山との平幕力士同士の対戦(現行制度では初)となり、叩き込みで栃煌山を破り、自身初の幕内最高優勝を果たしました。同時に6回目の敢闘賞も受賞しました。優勝パレードでは、横綱・白鵬が自ら旗手を務めました。
この優勝は、大ベテラン力士による数々の新記録を樹立し、マスメディアで大きな話題となりました。
- 37歳8か月での幕内初優勝は、優勝制度制定(1909年6月場所)以降、1916年1月場所の2代目西ノ海嘉治郎(35歳11か月)の記録を96年ぶりに更新する史上最年長記録となりました。
- 昭和以降に限定しても、1930年1月場所の豊國(35歳6か月)の記録を大きく更新する最年長記録です。
- 初優勝に限らない年長優勝記録としても、太刀山の持つ38歳9か月・37歳9か月に次ぐ史上3位。年6場所制となった1958年以降では、1990年11月場所の千代の富士(35歳5か月)を上回る最年長記録です。
- 15日制が定着してから、序盤5日間で3敗した力士が優勝したのは史上初。
- 初日に黒星を喫した平幕力士の優勝は、1960年5月場所の若三杉(後の大豪)以来52年ぶりです。
- 初土俵から所要121場所、新入幕から所要86場所での初優勝は、2000年3月場所の貴闘力(同103場所・58場所)を抜いて1909年以降の史上1位のスロー記録です。
- 平幕優勝は、2001年9月場所の琴光喜以来10年8か月ぶり。外国出身力士の平幕優勝は1972年7月場所の高見山以来39年10か月ぶりです。
- モンゴル出身力士としては、朝青龍、白鵬、日馬富士に続く4人目であり、モンゴル出身力士で関脇以下での初優勝は初です。
- モンゴル出身力士通算では、50回目の幕内最高優勝となりました。
- 日本国籍を持つ力士の優勝は、2006年1月場所の栃東以来37場所ぶりでした。
- 優勝した場所は新大関に鶴竜がいましたが、新大関がいた場所で平幕優勝が見られた事例は、戦後の15日制下では史上初です。
優勝に続く2012年7月場所では、東前頭筆頭の番付で初日から8連敗と早々に負け越しが決まり、最終的に2勝13敗という大敗に終わりました。1場所15日制が定着した1949年以降、前場所優勝力士が翌場所で初日から8連敗して負け越したのは史上初のことでした。また、前場所優勝力士が翌場所に皆勤して13敗を喫したのは、1968年5月場所の若浪や2000年5月場所の貴闘力と並ぶ史上ワースト記録です。
しかし、東前頭11枚目まで番付を下げた翌9月場所では、幕内では自身初となる初日からの8連勝で中日に勝ち越しを決めました。38歳0か月3日での幕内中日勝ち越しは、1952年1月場所の羽黒山(37歳2か月)の記録を60年ぶりに更新する史上最年長記録です。9日目には栃煌山を破り通算813勝目を挙げ、高見山が持つ外国出身力士の最多通算勝利記録を28年ぶりに更新しました。この場所では優勝争いからは脱落したものの、10勝5敗の好成績を挙げました。翌11月場所でも10勝5敗の成績を挙げ、自身初となる2場所連続の二桁勝利を記録しました。
2013年3月場所では9日目に通算出場1655回を記録し、高見山が持つ外国出身力士の最多通算出場記録を29年ぶりに更新しました。同年9月13日には39歳の誕生日を迎え、年6場所制となった1958年以降に初土俵を踏んだ力士としては、高見山に次いで2人目となる39歳の幕内力士となりました。直後に行われた同年9月場所では13日目に勝ち越しを決め、年6場所制となった1958年以降では高見山に次いで2人目となる39歳での幕内勝ち越しを記録しました。この年の夏、これまで平気で食べられた牛丼の特盛を完食すると翌朝に胃もたれしたことが、約2年後の引退の予兆となったと語っています。
2014年1月場所では10日目に白鵬と結びの一番で対戦し、昭和以降では1983年7月場所の千代の富士戦における高見山(39歳0か月)を抜いて史上最年長となる39歳4か月での結びの一番への出場を記録しました。11日目には魁皇を抜き、史上3位となる通算出場1732回を記録しました。翌3月場所では12日目に勝ち越しを決め、年6場所制となった1958年以降では高見山を抜いて史上最年長記録となる39歳6か月での幕内勝ち越しを記録すると同時に、39歳を迎えて以降に複数回の幕内勝ち越しを記録した史上初の力士となりました。
翌5月場所では初日の時点で39歳7か月28日となり、年6場所制となった1958年以降に初土俵を踏んだ力士としては、1984年1月場所千秋楽における高見山(39歳7か月6日)の記録を30年ぶりに更新しての史上最年長幕内力士となりました。6日目には新横綱の鶴竜と、7日目には白鵬とそれぞれ結びの一番で対戦し、自身が持つ結びの一番の史上最年長出場記録を39歳8か月に更新しました。10日目には同場所における初白星を挙げ、1984年1月場所初日に幕内にて高見山が39歳206日で挙げた白星の記録を抜き、年6場所制となった1958年以降に初土俵を踏んだ力士としては最年長記録となる39歳249日での幕内勝利を記録しました。翌7月場所では14日目に寺尾を抜き、史上3位となる幕内通算出場1379回を記録しました。
2014年9月13日には40歳の誕生日を迎え、昭和以降では1954年9月場所における名寄岩以来となる5人目、年6場所制となった1958年以降に初土俵を踏んだ力士としては史上初となる40歳の幕内力士となりました。その翌日から開始された同年9月場所では、初日に隠岐の海を上手投げで破り、1954年9月場所千秋楽において名寄岩が増巳山に勝利して以来60年ぶりとなる40歳での幕内勝利を記録しました。13日目には栃乃若を破って勝ち越しを決め、昭和以降では1935年5月場所の能代潟と1941年5月場所の藤ノ里に続いて3人目、戦後および年6場所制となった1958年以降では史上初となる40歳代での幕内勝ち越しを記録しました。千秋楽には寺尾を抜いて史上2位となる通算出場1796回を記録しました。
翌11月場所では4日目に大潮に次いで史上2人目となる通算出場1800回を記録し、5日目には高見山・魁皇に続いて3人目となる幕内通算出場1400回を記録しました。6日目には千代大龍を寄り切りで破り、魁皇・千代の富士・大潮・北の湖に続いて史上5人目となる通算900勝を達成しました。9日目には豊ノ島を破って勝ち越しを決め、昭和以降では1935年5月場所の能代潟(40歳1か月15日)を抜き、史上最年長記録となる40歳2か月4日での幕内勝ち越しを記録すると同時に、40歳代を迎えて以降に複数回の幕内勝ち越しを記録した史上初の力士となりました。その後、優勝争いからは脱落したものの、千秋楽の千代丸戦に勝利し、最終的に10勝5敗の好成績を挙げ、7回目の敢闘賞を受賞しました。これは1958年11月場所の若瀬川(38歳9か月)の史上最年長三賞受賞記録を56年ぶりに更新すると同時に、昭和以降では史上初となる40歳代での三賞受賞ならびに幕内での二桁勝利を記録しました。
2.4. 現役後期と引退
2015年3月場所では6日目に高見山を抜き、史上2位となる幕内通算出場1431回を記録しました。翌5月場所では5日目に魁皇を抜き、史上1位となる幕内通算出場1445回を記録し、14日目には佐田の富士を破って勝ち越しを決め、自身が持つ昭和以降における幕内勝ち越しの史上最年長記録を40歳8か月10日に更新しました。
西前頭11枚目の位置で迎えた同年7月場所では、9日目に豊ノ島に敗れて寺尾を抜き、史上1位となる通算939敗目を記録しました。11日目には貴ノ岩に敗れて負け越しが決定し、以降も精彩を欠き、最終的に3勝12敗と大敗し、翌9月場所での十両陥落が確実となりました。本人は十両へ陥落した場合には十両で相撲を取らずに引退することを公言していました。これは、故郷モンゴルでは幕内であれば取組が生中継されるのに対し、十両では結果しか伝えられないため、家族に雄姿を見てもらうためという理由がありました。
千秋楽の翌日となる同年7月27日、現役引退を発表し、年寄・4代大島を襲名して友綱部屋の部屋付き親方に就任しました。引退会見では、「白星黒星で左右される勝負の世界。年齢がいくと気持ちのダメージが大きい。自分の力が無くなったんじゃないかと。気持ちの糸が切れた感じ」とコメントし、「十両で、もう一回(関取の)スタートラインにいく自信はない」と語りました。思い出の一番として2012年5月場所の優勝決定戦を挙げ、「土俵の上で泣いたのは初めて。あの優勝で、いろんな人に知ってもらったし、僕も成長できた」と振り返りました。親方としての目標を「たくさんの拍手、声援をもらい、みんなに愛される力士を育てたい」と語り、将来は部屋持ち親方として「旭天鵬2世」を送り出す夢を明らかにしました。同年7月29日には、ウランバートル市内で夫人と9年越しに結婚式を挙行しました。
現役最後の場所となった2015年7月場所では、その場所で優勝した横綱・白鵬が、旭天鵬の引退に際し、自身の優勝パレードで自ら旗手を買って出て、共にオープンカーに乗るという異例の配慮を見せました。
3. 取り口
旭天鵬勝の相撲は、右四つを最も得意とする四つ相撲でした。実際に右四つに組むことが多かったものの、左四つでも遜色なく取れる柔軟なスタイルを持っており、「なまくら四つ」とも呼ばれていました。右でも左でも胸を合わせたがっぷり四つの体勢になれば強く、廻しを引きつけて吊り寄り気味に寄り出る相撲を見せました。この型に入れば、横綱や大関とも互角以上に渡り合う地力があり、長身を活かした懐の深さから、両上手を差されるいわゆる外四つの状態でも一定の相撲を取ることができました。また、逆転技の叩き込みや引き落としも効果的に決まりました。しかし、自身も腰が高いことが多いため、攻めに出ながら土俵際で逆転負けを喫することも少なくありませんでした。
立合いでは勢い良く足を出して差すか上手を狙う型でしたが、当たりはあまり強くなく、脇が甘いという弱点がありました。また、突き押しが不得手であったため、立合いで優位に立てない場合には、攻め手に欠ける傾向がありました。四つ相撲の力士としては珍しく、ツラ相撲の傾向があるとも評されていました。
40歳を迎えた2014年9月13日以降も、がっぷり四つになれば新進気鋭の若手にも負けない実力を示していましたが、上位陣には昔から対戦成績で大きく引き離されていました。しかし、2004年5月場所では、当時無敵を誇った横綱・朝青龍をがっぷり四つからの吊り出しで破り、四つに組み止めた際の地力の高さを見せつけました。朝青龍が横綱になってから吊り出しで敗れたのは、この1回だけでした。
彼は怪我に非常に強く、2007年の自動車事故による出場停止処分を除けば、序二段時代の脱走による全休一度きりで、幕内で休場したことは一度もありませんでした。40歳に達しても若々しい体の張りを保ち続け、大相撲中継ではアナウンサーや解説者から「体が若い」と感嘆されるほどでした。北の富士勝昭は、彼が幕内最高優勝を果たした2012年5月場所千秋楽のNHK総合・大相撲中継で「この人はあと5年は(相撲を)取れるね」と評しました。筋力も年齢を重ねても衰えず、2015年1月10日に放送されたTBS『ジョブチューンSP』にゲスト出演した際には、白鵬ら他の力士と共に背筋力測定に挑戦し、296.5kgを記録して優勝、出演者を驚かせました。

4. 年寄として
現役引退後の旭天鵬勝は、年寄としての日本相撲協会での役割を担っています。2015年7月27日に現役引退を発表し、年寄・4代大島を襲名して友綱部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たり始めました。
現役引退から10か月後の2016年5月29日には、両国国技館で断髪式が執り行われました。元小結・旭鷲山、元横綱・朝青龍らが駆け付け、先代大島親方や伊勢ヶ濱(元横綱・旭富士)、横綱・白鵬など、約400人の関係者がはさみを入れました。最後に先代大島親方が見守る中、友綱親方が止めばさみを入れると、涙ながらに断髪を終えた大島親方は「これで本当に、お相撲さんとして卒業だな」としみじみと語りました。モンゴル勢の隆盛の礎を築いたことについては「結果的に、我々が行ったから(日本に)来やすくなったのは事実。頑張りは本人たち。そこにたまたま、自分が最初にいた。ついてる男だなと思う」と述べ、現役時代の一番の思い出には、37歳8カ月での史上最年長初優勝を果たした2012年5月場所を挙げ、「やっぱり優勝がなかったら、レジェンドとか呼ばれることもなかったと思う」と振り返りました。
2017年6月12日に10代友綱親方(元関脇・魁輝)が定年を迎えることから、同年5月場所終了後に年寄名跡を交換し、11代友綱を襲名して友綱部屋をそのまま継承することが決定しました。これにより、旭天鵬は外国出身力士としては4人目、モンゴル出身力士としては初の部屋の師匠となりました。2017年6月11日には、10代友綱との名跡交換を行い、11代友綱として正式に部屋の師匠に就任し、同日には東京都墨田区内のホテルで襲名披露パーティーも開催されました。このパーティーには約800人の来賓が出席しました。友綱親方は「いつも(上がり座敷の)端っこに座ってたから違和感があるね」と語りつつ、「明るい部屋をつくる」と抱負を述べました。また、「2つの異なる部屋に所属した経験があるので、両方の良い慣行を取り入れたい」と述べました。
2020年12月10日には、同郷のモンゴル出身である横綱・鶴竜が日本国籍を取得したことに対し、「素直にうれしいし、良かった。国籍を変えることは複雑で難しいこともある。覚悟もいる。だけど頑張っていけばみんな理解してくれる。これで心もすっきりして相撲が取れると思う」とコメントしました。
2022年2月1日付で、5代大島(10代友綱)と再び名跡を交換し、6代大島となりました。これに伴い、友綱部屋は名称変更され、大島部屋が再興されました。
2024年5月場所では、健康上の問題により勝負審判として土俵下に座る予定であったが、これを休場することを発表しました。
5. 人物・エピソード
旭天鵬勝の個人的な側面や、彼の相撲人生と関わる様々な逸話を紹介します。
5.1. 帰化と家族関係
旭天鵬は2005年、当時の師匠である元大関・旭國(2代大島親方)の支援を受け、日本国籍取得を申請しました。同年5月12日にモンゴル国籍を離脱し、同年6月22日には旭天山と共に日本国籍を取得し、モンゴル出身力士としては初の日本への帰化を果たしました。これにより、彼の法的な名前は「太田 勝(おおた まさる)」となりました。これは、師匠に敬意を払って「太田」の姓を名乗ったものであり、2代大島親方の養子となったわけではありません。
日本国籍取得に際し、母国モンゴルでは「なぜ祖国を捨てるのか」という非難の声も上がりました。しかし、旭天鵬は現地のマスコミに対し、「将来親方となり後進を指導するためには日本国籍を取得する必要がある」という現在の制度に従ったことを説明しました。彼はまた、2021年の取材で、「ダメだったら母国に帰るのではなく、日本に骨を埋めようとしていると伝われば、応援しがいがあると思う。こういう指導でなきゃダメというのはない。国ごとの良さがある」と、自身の日本への思いが変化していったことを語っています。2006年1月にはモンゴル政府より、オリンピックのメダリストなどに贈られるスポーツ功労賞を受賞しており、大相撲力士では旭鷲山、朝青龍に続いて3人目の受賞者となりました。
彼は日本人女性と結婚しており、2008年9月には長女が誕生しました。
実弟は元幕下・不動山(本名:ニャムジャブ・ロブサンドルジ)です。不動山は2000年1月場所で初土俵を踏みましたが、一門1部屋あたりの外国出身力士の制限があったため、旭天鵬と同じ部屋には所属できず、高島部屋に入門しました。最高位は東幕下38枚目でしたが、2008年1月に引退し、2010年8月には藤波辰爾が主宰するプロレス団体・ドラディションにてプロレスラーとしてデビューしました。
また、旭天鵬の妹は元前頭・翔天狼の妻であり、翔天狼は義弟にあたります。さらに、従妹は第73代横綱・照ノ富士の妻です。
夫人が福島県いわき市出身である縁で、いわき市の応援大使に任命されています。2019年10月21日には、台風19号の被害により断水中のいわき市を訪れ、市民にちゃんこ鍋を振る舞いました。
趣味はゴルフで、十両昇進時に親方に誘われて始めました。ベストスコアは72で、ゴルフ専門誌にコラムを連載しています。好きな料理はジンギスカン鍋です。
5.2. 相撲人生に関するエピソード
彼の相撲人生において特に記憶に残る出来事や、土俵内外での興味深いエピソードを具体的に紹介します。
5.2.1. 取組中のエピソード
序二段時代の1993年5月場所中日に不戦敗を喫しましたが、相撲協会の発行する成績表では幕下以下の通常の黒星と不戦敗を区別していないため、この不戦敗は公式記録上では通常の黒星扱いとなり、出場回数にも含まれています。厳密に不戦敗を除いた実際の出場回数は1870回であり、節目の記録達成日も1日ずつ繰り下がることになります。
2002年9月場所2日目の貴乃花戦や、2012年5月場所の栃煌山との優勝決定戦などでは、「外国出身力士である自分が日本出身力士に勝っても良いのか」という葛藤があったと語っています。実際にそれらの取組で勝利を収めた後には、部屋に無言電話や嫌がらせの手紙が届いたこともあったといいます。特に2012年5月場所での優勝決定戦後には、「久々に日本人が優勝するチャンスだったのに、なんてことするんだ」などと書かれた抗議の手紙が3通届きましたが、旭天鵬は「読んだけど、別に気にしなかったよ。逆に、すごいな、この人って思ったよ」と引退後のインタビューで寛容に笑い飛ばしました。さらに、「モンゴル相撲で、もし日本人の横綱が生まれたら、向こうの人は見なくなるかもしれない。それに比べたら、日本人は温かいよ。ヤジもないしね」とも話し、日本の相撲ファンに対する理解を示しました。
2004年9月場所3日目の栃東戦では、幕内では自身初となるつきひざにより勝利を収めました。
2006年5月場所6日目の雅山(当時西関脇)と、2010年11月場所3日目の豊ノ島(当時西前頭9枚目)と、2回にわたって本割唯一となる黒星を付けています。両力士ともその場所の成績は旭天鵬に負けたのみの14勝1敗でした。これらの場所ではいずれも優勝決定戦で白鵬が制しており、結果的に両方で旭天鵬が白鵬の援護射撃を果たしたことになりました。豊ノ島の場合は、勝っていれば1957年11月場所の玉乃海以来の平幕力士の全勝優勝を達成していました。雅山の場合は当時関脇で白鵬との本割の直接対決には勝っていただけに、この黒星が大いに響きました。
2012年9月場所14日目には、若の里との間で、史上初となる通算800勝以上を記録する力士同士による対決が実現しました。この取組では若の里が寄り切りで勝利し、旭天鵬は「負けたけど、力を出し切った。今日に限っては悔しくないな」と語りました。また、自身が史上3位となる幕内通算出場1379回を記録した2014年7月場所14日目には、同日に通算出場1600回を記録した38歳0か月の若の里との「合計77歳幕内対決」が実現しました。この取組では若の里が39歳10か月の旭天鵬を押し出して勝利し、旭天鵬は「あ~、疲れた。向こうも(力を)出し切ったろうし、オレも出し切ったよ。やっぱり(若の里は)強いな、まだ」「2人が土俵に上がったら、お客さんも盛り上がってくれた。久々に疲れた感じがする。負けたけど、気持ちいいな」と語り、ベテラン同士の取組に満足感を示しました。
5.2.2. 土俵外でのエピソード
2012年12月29日にNHK総合で放送された番組『大相撲この一年』にゲストとして登場し、同年5月場所における自身の幕内最高優勝について「一言で表すなら『最高』。観客からの拍手も明らかに違うようになり、ますます頑張らなきゃと思った」と感想を述べました。また、舞の海秀平から優勝賞金の使途について尋ねられると、「置いてあります」と答えました。さらに、「(賞金は)振込なのか現金なのか」と問われると、「どんなもんだろうと思って(日本相撲協会に)取りに行った。意外にあっさり(現金を)『ハイ』と渡され、入れ物はないんですか、と言うと、そこら辺にある紙をパンパンして渡された」と、当時の状況を面白おかしく語りました。賞金の受け取り方法は、振込と現金のどちらかを選択できると証言しました。
モンゴルは1990年まで社会主義国であったため、来日当初の旭天鵬は日本に関する知識が乏しく、「サムライがチョンマゲを結って刀を差している国だと思っていた」と語っています。また、「子どもの頃はモンゴルが社会主義だったので、ソ連や北朝鮮はいい国で、日本、韓国やアメリカは悪い国だと教えられていた」とも後に述べています。来日直前にモンゴルに資本主義が導入されたことで、日本を紹介するテレビ番組で夜のネオン街が映し出され、たちまち日本に憧れを抱いたといいます。新弟子の頃は、モンゴルにはなかったコーラにはまったとも語っています。
入門当初は大相撲に入門したこと自体を認識しておらず、後に「最初は日本の相撲学校で3年間勉強して帰るつもりだった。まさかプロの世界に入るとは思ってなかった」と、あくまで留学気分だったことを強調していました。半ば観光気分であった上に、当時85 kgの軽量だった自分では関取にはなれないだろうと自信を失っていました。大阪場所、東京場所、名古屋場所と日本の三大都市を回れた上に、親方が息抜きにディズニーランドにも連れて行ってくれたことなので、そろそろモンゴルに帰ろうという気分になり、脱走に至ったとのことです。
引退発表前日に「(ところが)ぎっちょんちょんかもしれないよ」という言い回しで明言を避けたことがあり、日本語が日本人以上にうまいと話題になったこともあります。また、現在の妻と知り合った際には大阪弁で流暢にコミュニケーションを取っていたため、本格的に付き合うまでモンゴル人だと分からなかったと言われています。
2018年11月場所では、弟子の魁鵬龍明が東三段目3枚目の地位で勝ち越しをかけた7番相撲に挑みましたが敗れて負け越しとなり、この時勝負審判として土俵下で取り組みを見ていた友綱親方は落胆して天を仰ぎました。この様子はテレビ中継でも映し出され、Twitterでも話題になりました。
6. 主な成績・記録
旭天鵬勝がプロの相撲選手として残した主要な成績、達成した記録、および受賞歴をまとめます。
6.1. 通算成績
- 通算成績:927勝944敗22休 勝率.495
- 幕内戦歴:697勝773敗15休 勝率.474
- 通算927勝は歴代6位
- 通算944敗と幕内773敗は歴代1位
- 通算出場:1871回(歴代2位)
- (1不戦敗を含むため実際の出場回数は1870回だが、公式記録は1871回)
- 幕内出場:1470回(歴代1位)
- 現役在位:140場所
- 幕内在位:99場所(歴代2位)
- 三役在位:12場所(関脇3場所、小結9場所)
- 関取在位:115場所(歴代3位)
6.2. 各段優勝・三賞・金星
- 幕内最高優勝:1回(2012年5月場所)
- 三賞:7回
- 敢闘賞:7回(2000年1月場所、2003年3月場所、2003年5月場所、2003年9月場所、2007年9月場所、2012年5月場所、2014年11月場所)
- 金星:2個
- 貴乃花1個、朝青龍1個
6.3. 横綱・大関との対戦成績
彼が対戦した歴代横綱や大関との個別の対戦成績をまとめます。
区分 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|
横綱 | 曙 | 0 | 1 |
貴乃花 | 2 | 2 | |
若乃花 | 1 | 0 | |
武蔵丸 | 1 | 10 | |
朝青龍 | 2 | 28 | |
白鵬 | 0 | 19 | |
日馬富士 | 0 | 4 | |
鶴竜 | 0 | 1 | |
大関 | 貴ノ浪 | 0 | 1 |
千代大海 | 7 | 27 | |
出島 | 1 | 3 | |
武双山 | 11 | 9 | |
雅山 | 0 | 2 | |
魁皇 | 5 | 33 | |
栃東 | 9 | 11 | |
朝青龍 | 0 | 3 | |
白鵬 | 0 | 3 | |
琴欧洲 | 4 | 19 | |
琴光喜 | 3 | 7 | |
日馬富士 | 2 | 10 | |
把瑠都 | 0 | 6 | |
琴奨菊 | 0 | 7 | |
稀勢の里 | 0 | 4 | |
鶴竜 | 0 | 4 |
※カッコ内は勝数・負数の中に占める不戦勝・不戦敗の数を含まない。
他に優勝決定戦で、栃煌山に1勝があります。
7. 改名歴
旭天鵬勝が力士として名乗った四股名と、年寄として襲名した名跡の変遷を時系列で列挙します。
7.1. 力士
- 旭天鵬 大助(きょくてんほう だいすけ) 1992年3月場所 - 1995年3月場所
- 旭天鵬 勝(きょくてんほう まさる) 1995年5月場所 - 2015年7月27日
7.2. 年寄
- 大島 勝(おおしま まさる) 2015年7月27日 - 2017年6月10日
- 友綱 勝(ともづな まさる) 2017年6月11日 - 2022年1月31日
- 大島 勝(おおしま まさる) 2022年2月1日 -
8. 著書
旭天鵬勝が執筆または監修した書籍、出版物に関する情報を記載します。
- 『旭天鵬自伝 気がつけばレジェンド』(ベースボール・マガジン社、2015年9月)
9. 外部リンク
- [http://sumo.goo.ne.jp/rikishi/65.html Goosumo プロフィール]
- [http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=41 Sumodb プロフィール]
- [https://twitter.com/tenhou_ohsima 友綱親方 Nyamjav Tsev (Twitter)]
- [http://www.natural-magic.jp/management/kyokutenho.html 旭天鵬|株式会社ナチュラルマジック]