1. 概要
山田暢久(やまだ のぶひさ、Nobuhisa Yamada英語、1975年9月10日 - )は、静岡県藤枝市出身の元プロサッカー選手であり、現在はサッカー指導者として活躍している。弟の山田智紀も元プロサッカー選手である。浦和レッドダイヤモンズ(浦和レッズ)に1994年の入団以来、2013年の引退まで20年以上にわたり在籍し、浦和レッズ史上最長の「ワン・クラブ・マン」として知られる。そのプレースタイルは極めて多才であり、フォワード、ミッドフィールダー、ディフェンダーといったゴールキーパーを除くあらゆるポジションでプレーし、チームに貢献した。この多岐にわたる適応能力と献身的な姿勢は、日本サッカー界において特筆すべき業績として高く評価されている。
2. 幼少期と初期のキャリア
2.1. 幼少期と学生時代
山田暢久は1975年9月10日に静岡県藤枝市で生まれた。藤枝市立稲葉小学校、藤枝市立藤枝中学校を経て、静岡県立藤枝東高等学校でサッカーの才能を磨いた。学生時代にはユースチームで活躍し、将来のプロキャリアの基礎を築いた。
2.2. プロデビューと初期の活躍
高校卒業後、1994年に浦和レッズに入団し、プロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた。1994年4月27日、静岡県草薙総合運動場陸上競技場で行われた清水エスパルス戦でJリーグ初出場を果たした。同年11月19日には富山県総合運動公園陸上競技場での横浜F・マリノス戦でプロ初ゴールを記録している。
デビュー当初はフォワードとして福田正博と2トップを組むこともあったが、1995年以降は主に右サイドバックや右ウイングバックとしてプレーするようになった。その多才な能力は初期から顕著であり、様々なポジションでの経験がその後のキャリアを特徴づけることになった。
3. クラブキャリア
浦和レッズに「ワンクラブマン」として20年以上にわたり在籍し、チームの中心選手として多大な貢献を果たした。
3.1. 浦和レッズでの活躍
山田暢久は浦和レッズでの選手生活を通じて、ディフェンダー、ミッドフィールダー、フォワードのあらゆるポジションで起用され、その都度チームの勝利に貢献した。特に右サイドを主戦場としたが、センターバック、ボランチ、トップ下、ストッパー、リベロ、さらには左サイドバックまでこなすなど、ゴールキーパー以外の全てのポジションを経験した。
2003年には右ウイングバックのレギュラーとしてナビスコカップ優勝に貢献し、自身初のタイトルを獲得した。2004年には、負傷離脱した山瀬功治に代わり、セカンドステージでトップ下を務め、ステージ優勝に貢献した。この年、彼はキャプテンとしてチームを率いた。2004年から2008年までキャプテンを務め、チームの精神的支柱となった。
2006年シーズンには自己最多となる6得点を挙げ、浦和レッズのJ1リーグ初優勝に大きく貢献した。2007年には再び右ウイングバックに戻り、AFCチャンピオンズリーグなど多くの公式戦で先発出場した。
2009年シーズンにはチームが8シーズンぶりに4バックを採用する中で、右サイドバックのレギュラーとして活躍。また、田中マルクス闘莉王の離脱時にはセンターバックとしてもプレーした。2010年には田中マルクス闘莉王が移籍したため、開幕戦からセンターバックとして出場し、夏場にマシュー・スピラノビッチが復帰してからもセンターバックとしてチームを支えた。2011年には開幕当初はセンターバック、中断明けからはボランチ、終盤戦は左右のサイドバックとして出場するなど、その万能性を存分に発揮した。
3.2. 主な記録と成果
山田暢久は浦和レッズ一筋でプロキャリアを全うし、数々の重要な記録を打ち立てた。Jリーグ通算500試合出場を達成し、これは伊東輝悦、楢﨑正剛に次ぐ史上3人目の快挙であり、同一チーム在籍20年目の選手による500試合出場はJリーグ史上初である。また、20代でのJ1リーグ300試合出場、J1最年少での350試合出場、J1リーグ400試合出場も達成している。
浦和レッズでは、J1リーグ(2006年)、Jリーグカップ(2003年)、天皇杯(2005年、2006年)といった国内主要タイトルを複数回獲得した。国際舞台では、2007年のAFCチャンピオンズリーグ優勝に貢献し、同年のFIFAクラブワールドカップでは3位入賞を果たした。これらの功績は、彼がチームの黄金期を支えた中心選手であったことを示している。
4. 日本代表としての経歴
4.1. ユース代表
山田暢久は日本のユース代表としても活躍した。1995年にはFIFAワールドユース選手権(開催地:カタール)の日本U-20代表メンバーに選出された。この大会では、右ミッドフィールダーとして全4試合に出場し、ブルンジ戦で1ゴールを挙げた。
4.2. A代表
2002年11月20日、埼玉スタジアム2002で行われたアルゼンチンとの親善試合で日本A代表デビューを果たした。2003年にはFIFAコンフェデレーションズカップを含むほとんどの試合で右サイドバックとしてプレーした。国際A代表での初ゴールは、2004年2月7日に茨城県立カシマサッカースタジアムで行われたマレーシアとの親善試合で記録された。2004年までに日本代表として15試合に出場し、1得点を挙げた。東アジアサッカー選手権にも出場している。
4.3. 代表チーム関連の論争
2004年2月9日、茨城県鹿嶋市での日本代表合宿中に、他の7選手とともに無断で外出していたことが発覚した。山田は飲食はしなかったものの、当時の監督であったジーコは「裏切り行為と感じた」として、山田を含む8選手を代表から外すという厳しい処分を下した。この事件は当時の日本サッカー界に大きな波紋を広げ、代表チームの規律と選手倫理について議論が巻き起こった。
5. プレースタイルと特徴
山田暢久のプレースタイルは、その驚異的な多才性によって特徴づけられる。プロ入り当初はフォワードとして起用されたが、その後、右サイドバック、右ウイングバックとして定位置を確立した。さらに、チームの戦術や選手の負傷状況に応じて、トップ下、ボランチ、センターバック、ストッパー、リベロ、さらには左サイドバックまで、フィールドプレイヤーのほぼ全てのポジションをこなすことができた。
このような適応能力は、高い戦術理解度、優れた身体能力、そして献身的なプレー意欲の賜物であった。彼はどのポジションでも高い水準のパフォーマンスを発揮し、チームのピンチを救い、様々な局面で貢献した。特に、守備では堅実なプレーで相手の攻撃を食い止め、攻撃では的確なパスや持ち前の突破力でチャンスを創出した。彼の多才さは、浦和レッズの戦術に柔軟性をもたらし、長期間にわたってチームの核であり続けることを可能にした。
6. 引退と引退試合
6.1. 引退発表と背景
山田暢久は2013年シーズン限りで浦和レッズとの契約が満了となり、現役を引退することを発表した。浦和レッズ一筋で20年間プレーした彼のキャリアは、クラブ史上最長であり、「バンディエラ」(旗頭)あるいは「ミスター・レッズ」と称されるにふさわしいものであった。ゴールキーパーを除くフィールドプレーヤーとして、同一チームに20年以上在籍した選手は、フランチェスコ・トッティやライアン・ギグスなど、世界でもごく少数しか存在しない稀有な記録である。
6.2. 引退記念試合
2014年7月5日、埼玉スタジアム2002で「山田暢久引退試合 NOBUHISA YAMADA TESTIMONIAL」が開催された。試合は浦和レッズ現役チームと「レッズ歴代選抜 Rest of the REDS」が対戦し、熱戦の末5-6でレッズ歴代選抜が勝利した。
この試合では、山田暢久自身が両チームでプレーするという異例の演出がなされ、浦和レッズの選手として1ゴール、レッズ歴代選抜として1ゴールを挙げた。浦和レッズの得点者は李忠成(11分)、関根貴大(62分)、矢島慎也(65分)、山田直輝(78分)、そして山田暢久(自身)(82分)であった。レッズ歴代選抜の得点者はポンテ(19分)、ワシントン(26分、45分)、山田暢久(自身)(28分)、池田伸康(54分)、山田樹生(71分)であった。
監督は浦和レッズがミハイロ・ペトロヴィッチ、レッズ歴代選抜がギド・ブッフバルトが務めた。主審は東城穣が担当し、33,828人の観客が訪れ、引退するレジェンドを盛大に送り出した。
参加選手には、現役の浦和レッズ選手に加え、坪井慶介、田中マルクス闘莉王、小野伸二、福田正博、鈴木啓太、平川忠亮、ワシントン、岡野雅行など、浦和レッズの歴史を彩った多くのOB選手が顔を揃えた。山田暢久の長男である山田樹生もレッズ歴代選抜として出場し、ゴールを挙げた。
7. 引退後のキャリア
7.1. 指導者・クラブスタッフとしての活動
現役引退後も、山田暢久はサッカー界での活動を続けている。2015年には浦和レッズのユースチームのサポートコーチに就任し、若手選手の育成に尽力した。しかし、2017年2月8日に浦和レッズとの業務委託契約が解除された。
その後、2019年には神奈川県社会人サッカーリーグ1部に所属するイトゥアーノFC横浜の監督に就任。さらに2020年には監督兼選手として登録され、再びピッチに立つ姿勢を示した。
8. 獲得タイトルと栄誉
8.1. クラブタイトル
- J1リーグ:1回(2006年)
- J1リーグ 2ndステージ:1回(2004年)
- Jリーグカップ:1回(2003年)
- 天皇杯全日本サッカー選手権大会:2回(2005年、2006年)
- FUJI XEROX SUPER CUP:1回(2006年)
- AFCチャンピオンズリーグ:1回(2007年)
8.2. 個人タイトル・栄誉
- Jリーグ功労選手賞(2014年)
9. 個人成績
9.1. クラブでの成績
クラブ | シーズン | リーグ | 天皇杯 | Jリーグカップ | ACL | その他 | 合計 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
浦和レッズ | 1994 | 15 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | - | - | 18 | 1 | ||
1995 | 42 | 1 | 3 | 0 | - | - | - | 45 | 1 | ||||
1996 | 30 | 3 | 4 | 1 | 11 | 0 | - | - | 45 | 4 | |||
1997 | 22 | 1 | 2 | 0 | 6 | 0 | - | - | 30 | 1 | |||
1998 | 34 | 0 | 3 | 0 | 4 | 0 | - | - | 41 | 0 | |||
1999 | 29 | 1 | 2 | 1 | 4 | 1 | - | - | 35 | 3 | |||
2000 | 39 | 2 | 2 | 0 | 2 | 0 | - | - | 43 | 2 | |||
2001 | 27 | 3 | 4 | 1 | 6 | 0 | - | - | 37 | 4 | |||
2002 | 28 | 1 | 1 | 0 | 8 | 0 | - | - | 37 | 1 | |||
2003 | 27 | 3 | 1 | 0 | 11 | 0 | - | - | 39 | 3 | |||
2004 | 27 | 2 | 4 | 0 | 9 | 2 | - | 2 | 0 | 42 | 4 | ||
2005 | 32 | 3 | 5 | 2 | 10 | 1 | - | - | 47 | 6 | |||
2006 | 32 | 6 | 5 | 0 | 7 | 1 | - | 1 | 0 | 45 | 7 | ||
2007 | 29 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 9 | 1 | 6 | 0 | 46 | 1 | |
2008 | 28 | 0 | 2 | 0 | 6 | 0 | 4 | 0 | - | 40 | 0 | ||
2009 | 30 | 0 | 1 | 0 | 7 | 1 | - | - | 38 | 1 | |||
2010 | 27 | 0 | 4 | 0 | 4 | 0 | - | - | 35 | 0 | |||
2011 | 24 | 0 | 4 | 0 | 4 | 0 | - | - | 32 | 0 | |||
2012 | 8 | 0 | 2 | 0 | 5 | 0 | - | - | 15 | 0 | |||
2013 | 10 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | - | 15 | 0 | ||
合計 | 540 | 27 | 53 | 5 | 109 | 6 | 14 | 1 | 9 | 0 | 725 | 39 |
9.2. 代表での成績
日本代表 | ||
---|---|---|
年 | 出場 | ゴール |
2002 | 1 | 0 |
2003 | 11 | 0 |
2004 | 3 | 1 |
合計 | 15 | 1 |
9.2.1. U-20代表ゴール
# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦相手 | スコア | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1995年4月19日 | ハリファインターナショナルスタジアム, ドーハ, カタール | ブルンジU-20 | 2-0 | 2-0 | 1995 FIFAワールドユース選手権 |
9.2.2. A代表ゴール
# | 開催年月日 | 開催地 | 対戦相手 | スコア | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1. | 2004年2月7日 | カシマスタジアム, 鹿嶋, 日本 | マレーシア | 3-0 | 4-0 | 親善試合 |
10. 主なエピソード
彼のキャリアには、いくつかの記憶に残るエピソードがある。
- 2004年2月、茨城県鹿嶋市での日本代表合宿中、他の7選手とともに無断で外出していたことが発覚した。山田は飲食はしなかったものの、当時の監督であるジーコはこれを「裏切り行為」と捉え、山田らを代表から外した。この事件は、代表チームの規律に対する厳しい姿勢を示すものとして、多くの議論を呼んだ。
- 2005年4月に行われた大分トリニータ戦で、ペナルティエリア内で相手選手に倒され、肩を脱臼するというアクシデントに見舞われた。しかし、審判はそのプレーを相手のファールではなく、山田のシミュレーションと判定し、イエローカードを与えた。この出来事は、2013年8月22日にテレビ朝日で放送された『マツコ&有吉の怒り新党』のコーナーで「気の毒なイエローカード」として取り上げられ、その不運な判定が改めて注目された。
11. 遺産と評価
11.1. 「ワンクラブマン」としての象徴性
山田暢久は、浦和レッズ一筋で20年間という長きにわたってプレーした「ワンクラブマン」の象徴として、日本サッカー界において特別な存在である。浦和レッズの「バンディエラ」(イタリア語で旗頭を意味し、チームの象徴的な選手を指す)として、彼はクラブの歴史の中で「ミスター・レッズ」福田正博をも超える最長在籍期間を誇った。その忠誠心と献身的な姿勢は、浦和レッズのファンに深く愛され、クラブのアイデンティティの一部となった。彼の引退時には、ファン・サポーターがコレオグラフィーで感謝の意を示すなど、その影響力の大きさが示された。
11.2. 日本サッカーへの貢献
山田暢久は、その多才なプレースタイルとリーダーシップを通じて、日本サッカーの発展に多大な貢献をした。フォワードからディフェンダーまで、あらゆるポジションを高いレベルでこなす彼の能力は、日本のサッカー選手における多様な役割への適応能力の重要性を示した。また、長年にわたるトップレベルでの安定したパフォーマンスと、チームを牽引するキャプテンシーは、若手選手にとって手本となった。彼のキャリアは、単なる選手としての成功だけでなく、クラブへの忠誠心とサッカーへの情熱がいかに大きな影響を与え得るかを示す、模範的なものとして評価されている。