1. 生涯
崔仁勲の生涯は、朝鮮半島の激動の歴史と深く結びついており、その経験は彼の文学に色濃く反映されている。
1.1. 出生と家族背景
崔仁勲は1936年4月13日、日本統治時代の朝鮮の咸鏡北道会寧郡(現在の朝鮮民主主義人民共和国咸鏡北道会寧市)で、木材商人である父のもと、4男2女の長男として生まれた。本貫は全州崔氏である。
1.2. 朝鮮戦争と韓国への移住
1950年に朝鮮戦争が勃発すると、同年12月、崔仁勲は家族と共に北朝鮮から韓国へと避難した。彼らは米海軍の揚陸艦に乗船して慶尚南道に移動し、その後韓国に定着した。この戦争と分断の経験は、彼の作品の根幹をなすテーマとなった。
1.3. 学歴
崔仁勲は、まず咸鏡北道会寧国民学校に在籍した後、咸鏡南道元山国民学校を1947年に卒業した。その後、咸鏡南道元山中学校を1950年に卒業し、咸鏡南道元山高等学校に在籍したが、朝鮮戦争により転校を余儀なくされ、全羅南道木浦高等学校を1953年に卒業した。1952年にはソウル大学校法科大学に入学したが、1956年に最終学期を修了することなく中退した。その後、1960年に韓国陸軍歩兵学校を卒業している。
1.4. 軍務
大学を中退した後、崔仁勲は韓国陸軍に将校として入隊した。彼は1959年から1962年までの約3年間軍務に服し、英語の通訳や兵士の情報・教育将校(TI&E officer)として勤務した。1962年に中尉として除隊した。この軍隊での経験もまた、彼の後の文学活動に影響を与えたとされる。
2. 文学活動
崔仁勲の文学活動は、韓国現代文学において重要な位置を占めている。彼は多作であり、その作品は常に社会や人間の根源的な問題に深く切り込んできた。
2.1. デビューと初期作品
崔仁勲は軍務に就きながら文学活動を開始した。1958年に詩人として文壇にデビューした後、1959年には雑誌『自由文学』に短編小説『GREY구락부전말기GREY倶楽部顛末記韓国語』と『라울전ラウル伝韓国語』を発表し、小説家として正式にデビューした。翌1960年には、長編小説『광장広場韓国語』と『가면고仮面考韓国語』を発表し、大きな注目を集めた。『仮面考』は、現代人の悲劇とその苦しみを克服し、救済をもたらす「愛」の可能性を描いている。
2.2. 主要長編小説
崔仁勲の文学的キャリアにおいて特に重要な長編小説群は、彼の思想と時代認識を色濃く反映している。
2.2.1. 『広場』
『広場』は、崔仁勲の代表作であり、韓国現代文学の金字塔とされている。1960年の四月革命直後に発表され、瞬く間に大きな成功を収めたこの作品は、韓国現代文学の新たな時代の幕開けを告げるものと見なされている。
作品は、朝鮮戦争後の激しいイデオロギー対立の中で、北朝鮮と韓国のどちらの「広場」(社会)にも属することができず、実存的な苦悩を抱える主人公の姿を描いている。主人公は南北の体制を拒否し、どこにも生きる道を見出せない中で、イデオロギーの選択という問題を正面から提起し、読者に大きな反響を呼んだ。この小説は、現実、世界との関係、そして存在そのものに対する深い考察を含んでいる。
2.2.2. 『灰色人』
『広場』のテーマ的後継作と位置づけられる『회색인灰色人韓国語』は、1964年に発表された。この作品もまた、当時の韓国の政治状況、特に李承晩大統領の失脚につながった政治的退廃の問題に焦点を当てている。時代背景と批評的な受容状況を考えると、『灰色人』は『広場』と同様に、社会と個人の関係における深い洞察を提供する作品である。
2.2.3. その他の長編小説
崔仁勲は、『広場』や『灰色人』以外にも数多くの長編小説を発表している。
- 『구운몽九雲夢韓国語』(1962年)
- 『열하일기熱河日記韓国語』(1962年)
- 『서유기西遊記韓国語』(1966年)
- 『크리스마스캐럴クリスマスキャロル韓国語』(1966年)
- 『주석의 소리首席の音韓国語』(1969年)
- 『소설가 구보씨의 일일小説家丘甫氏の一日韓国語』(1972年、1969年から1970年代半ばにかけて連作として発表)
- 『태풍台風韓国語』(1973年)
- 『총독의 소리総督の音韓国語』(1976年)
- 『화두話頭韓国語』(1994年)
これらの作品は、社会的なテーマを知的に追求する作家としての彼の姿勢を示している。『小説家丘甫氏の一日』は、主人公である小説家の視点から捉えられた生活の断片を、理性と情緒によって分析し、総合した作品である。
2.3. 戯曲とエッセイ
崔仁勲は小説だけでなく、戯曲やエッセイといった他のジャンルでも執筆活動を行った。
戯曲としては、『봄이 오면 산에 들에春になると山と野原に韓国語』、『달아 달아 밝은 달아月よ月よ明るい月よ韓国語』、『옛날 옛적에 훠어이 훠이昔々あるところに韓国語』(1976年)などがある。彼の戯曲は、説話や伝説の物語を現代的に変形し、自己発見という新しい意味と価値を見出すことを特徴としている。ただし、彼の戯曲は舞台上演を主目的として書かれたものではなく、レジェドラマに近いと評されている。彼の戯曲が初めて舞台にかけられたのは2009年であった。
エッセイとしては、『길 위에서道の上で韓国語』(1989年)などがある。1980年代には、創作活動よりも芸術論や生活の断層に関するエッセイを主に発表した。
2.4. 文学的なテーマと思想
崔仁勲の作品群を通して一貫して探求された主要なテーマは、民族分断、イデオロギー対立、そして「人間の条件」である。彼は、韓国の国家分断を巡るイデオロギー的な葛藤の中で苦しむ個人に焦点を当てた。彼の作品は、現実、世界との関係、そして存在そのものに対する深い考察を含み、現代人の悲劇や実存的な探求、そしてその苦しみを克服しうる「愛」の可能性を追求した。社会的なテーマを知的に追求する姿勢も彼の文学の大きな特徴である。
3. 教育・学術活動
崔仁勲は、自身の文学活動と並行して、教育者としても貢献した。1977年にソウル芸術大学校(当時のソウル芸術専門大学)文芸創作科の教授に就任し、2001年5月に定年退職するまで教壇に立った。定年退職後も特別講義を行うなど、後進の育成に尽力した。また、韓国芸術総合学校の碩座教授も務めた。彼自身が「創作する人々に引退というものはない」と語ったように、教育活動もまた彼の創作活動の一環であった。
4. 受賞・叙勲
崔仁勲は、その文学的功績に対して数多くの賞と栄誉が贈られた。
- 1966年:第11回東仁文学賞(短編『웃음소리笑い声韓国語』に対して)
- 1971年:東亜演劇賞
- 1977年:韓国演劇映画芸術賞戯曲賞、文化勲章大統領賞、韓国日報戯曲賞、ソウル市文学賞
- 1978年:中央文化大賞芸術部門奨励賞
- 1979年:ソウル劇評論家グループ賞
- 1994年:第6回怡山文学賞
- 2004年:ソウル大学校法科大学「誇らしいソウル法大出身者賞」
- 2011年:第1回朴景利文学賞
叙勲としては、1999年に文化勲章宝冠文化勲章を、そして死去後の2018年には金冠文化勲章が追叙された。
5. 私生活
崔仁勲の私生活に関する公開情報は限られているが、彼は自身の創作活動と人生を一体と捉えていた。2009年に自身の戯曲が初めて舞台化された際、「創作する人々に引退というものはない」と語った言葉は、彼の創作への情熱と人生哲学を象徴している。
6. 死去と評価
崔仁勲は韓国文学界に多大な影響を与え、その死後も彼の作品と思想は高く評価され続けている。
6.1. 死去
崔仁勲は2018年7月23日、大腸癌のため京畿道高陽市徳陽区花井洞の明知病院で死去した。享年82歳(満82歳)。
6.2. 死後の評価と影響
崔仁勲の死去に際し、李文烈、成碩済、金承鈺などの著名な文学者や、李御寧元文化体育観光部長官、白楽晴ソウル大学校名誉教授らが弔問に訪れた。李文烈は彼を「私に最も大きな影響を与えた作家」と評し、その文学的遺産がいかに偉大であったかを物語っている。
彼の作品、特に『広場』は、朝鮮半島の分断という歴史的現実の中で、人間のイデオロギー的選択と実存的苦悩を深く掘り下げたことで、韓国文学史において不朽の傑作として位置づけられている。彼の死後、金冠文化勲章が追叙されたことは、国家がその功績を公式に認めた証しである。崔仁勲の文学は、韓国の現代社会におけるアイデンティティ、自由、そして人間の尊厳を問い続ける普遍的なテーマを提供し、後世の作家や読者に深い影響を与え続けている。
7. その他の経歴
文学活動や教育活動以外にも、崔仁勲はいくつかの公的な経歴を持っている。
- 1962年:韓国陸軍中尉として予備役に編入。
- 1995年12月~1996年6月:統合民主党党務委員。
- 1996年6月~1997年8月:民主党党務委員。
- ソウル芸術大学校教授。
- 韓国芸術総合学校碩座教授。
8. 外部リンク
- [https://web.archive.org/web/20160303172138/http://www.koreafocus.or.kr/design2/layout/content_print.asp?group_id=102301 Interview with Choi at Korea Journal]
- [http://www.ktlit.com/uncategorized/house-of-idols-by-cho-in-hoon Review of House of Idols at KTLIT]