1. 概要
平塚らいてうは、日本の女性解放運動と平和運動を主導した中心人物の一人として知られている。特に大正時代から昭和時代にかけて、女性の権利獲得に奔走し、その思想と活動は近代日本の社会変革に大きな影響を与えた。
1911年(明治44年)9月、25歳の時に日本初の女性による文芸誌『青鞜』を創刊し、その創刊の辞「元始、女性は太陽であった」は、女性の精神的独立と権利獲得運動を象徴する言葉として、長く人々の記憶に刻まれている。この言葉は、女性が本来持っていた精神的な独立性を失ったことへの言及であり、神道の太陽神である天照大神にちなんだものである。
第二次世界大戦後は、主に反戦運動や平和運動に身を投じた。彼女が奔走した婦人参政権の実現は、結局、第二次世界大戦後、GHQ主導による「日本の戦後改革」を待たなければならなかったものの、その活動は日本の女性運動の基盤を築いた。
日本女子大学校(現:日本女子大学)家政学部を卒業しており、同大学は2005年(平成17年)に卒業100年を記念して「平塚らいてう賞」を創設し、彼女の功績を称えている。
2. 生涯
平塚らいてうの生涯は、明治から昭和にかけての日本の社会変革期と深く結びついており、その活動は女性の地位向上と平和の実現に捧げられた。
2.1. 出自と幼少期
平塚明は、1886年(明治19年)2月10日、東京府東京市麹町区土手三番町(現在の東京都千代田区五番町)に、3人姉妹の末娘として生まれた。父・平塚定二郎は明治政府の高級官僚(会計検査院勤務)で、後に一高の講師も務めた。母・光沢(つや)は徳川御三卿の一つ田安家の奥医師の飯島家の夫婦養子であった。両親は共に教育熱心な家庭環境であった。らいてうは生まれつき声帯が弱く、声が出にくい体質であった。
幼少期は、1887年(明治20年)から1年半にわたり欧米を視察巡遊した父の影響で、ハイカラで自由な欧米的な家風の中で育った。しかし、1892年(明治25年)に富士見尋常高等小学校(現:千代田区立富士見小学校)に入学してまもなく、父は従来の欧米的な家風を捨て、国粋主義的な家庭教育を施すようになった。1894年(明治27年)、平塚家は本郷区駒込曙町(現:文京区本駒込一丁目、二丁目辺り)に転居し、明は本郷区公立誠之尋常小学校(現:文京区立誠之小学校)に転入した。
1898年(明治31年)に誠之小学校高等科を卒業後、父の意思で当時国粋主義教育のモデル校だった東京女子高等師範学校附属高等女学校(現:お茶の水女子大学附属高等学校)に入学させられた。しかし、この学校で推進された良妻賢母主義の教育に不満を抱き、級友と「海賊組」を結成して修身(道徳)の授業をボイコットしたこともあった。
2.2. 学生時代と思想形成

1903年(明治36年)、平塚は「女子を人として、婦人として、国民として教育する」という教育方針に憧れ、父を説得して日本女子大学校(現:日本女子大学)家政学部に入学した。しかし、翌年に日露戦争が勃発すると、大学の教育も国家主義的な傾向を強め、お茶の水時代と同じ思想を見出した彼女は大学生活にひどく幻滅した。
この頃から、自身の内面の葛藤の理由を求めるために、宗教書や哲学書などの読書に没頭するようになる。1905年(明治38年)には禅の存在を知り、日暮里にある禅の道場「両忘庵」(現:人間禅擇木道場)に通い始めた。禅の公案修行を通じて見性を許され、悟りを開いた証明として慧薫(えくん)禅子という道号を授かっている。
1906年(明治39年)に日本女子大学校を卒業後も、両忘庵で禅の修行を続けながら、二松学舎(現:二松學舍大学)、女子英学塾(現:津田塾大学)で漢文や英語を学び、1907年(明治40年)にはさらに成美高等英語女学校に通うようになった。
成美高等英語女学校でテキストとして使われたゲーテの『若きウェルテルの悩み』で初めて文学に触れ、文学に目覚める。東京帝大出身の新任教師生田長江に師事し、生田と森田草平が主催する課外文学講座「閨秀文学会」に参加するようになった。生田の勧めで処女小説「愛の末日」を書き上げ、それを読んだ森田が才能を高く評価する手紙を明に送ったことがきっかけで、二人は恋仲になった。
この時期、彼女はスウェーデンのフェミニスト作家エレン・ケイの思想に深く影響を受け、その作品の一部を日本語に翻訳した。また、ヘンリック・イプセンの戯曲『人形の家』の個人主義的なヒロインにも感銘を受けた。さらに、バールーフ・スピノザ、マイスター・エックハルト、G. W. F. ヘーゲルといった西洋哲学者の著作にも関心を抱き、彼女の思想的基盤を形成していった。
2.3. 森田草平との心中未遂事件
22歳であった1908年(明治41年)2月1日、平塚明は森田草平と初めてのデートをした。しかし、同年3月21日には、塩原から日光に抜ける尾頭峠付近の山中で、雪の中、森田草平と心中未遂を起こし、警察に救助されるという「塩原事件」あるいは「煤煙事件」として知られる事件を引き起こした。
森田は夏目漱石の弟子である既婚の作家であり、高学歴の二人の心中未遂は社会に大きな衝撃を与え、スキャンダルとして大きく報じられ、平塚の名が一躍広く知られることとなった。新聞各紙は「自然主義の高潮 紳士淑女の情死未遂 情夫は文学士、小説家 情婦は女子大学卒業生」とスキャンダラスに報道し、世論の激しい非難にさらされた。この事件のため、平塚明の名は日本女子大学校の桜楓会の名簿から一時抹消されたが、1992年(平成4年)に復活している。
2.4. 『青鞜』創刊と「元始、女性は太陽であった」
心中未遂事件後、平塚明は生田長江の強い勧めを受け、日本で最初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』の製作に着手した。『青鞜』という誌名は、18世紀イギリスの女性サロンであるBlue Stockings Society英語や、そこから転じて知的な女性を指す言葉ブルーストッキングにちなんだものである。
資金は母からの援助で、明の「いつか来るであろう娘の結婚資金」を切り崩して充てられた。この資金を元に青鞜社を立ち上げ、企画は明の同窓生や同年代の女性に拠り、明は主にプロデュースに回った。表紙は長沼智恵が描き、与謝野晶子が「山の動く日来る」の一節で有名な「そぞろごと」という詩を寄せた。
明は『元始女性は太陽であつた - 青鞜発刊に際して』という創刊の辞を書くことになり、その原稿を書き上げた際に、初めて「らいてう」という筆名を用いた。ペンネーム「らいてう」は、塩原事件の後、傷心の時に一時期過ごした長野県で心惹かれた鳥の「雷鳥」から名付けられたもので、雷鳥が高山に棲む「孤独の鳥」「冬山の鳥」とも呼ばれていたことを意識した筆名だと言われている。
らいてうらによる青鞜社の発起人会は6月1日に開かれ、『青鞜』は1911年(明治44年)9月に創刊された。創刊号は男女で両極端な反響を巻き起こした。女性の読者からは手紙が殺到し、時には平塚家に訪ねてくる読者もいたほどであった。しかし、男性の読者や新聞の視線は冷たく、青鞜社を揶揄する記事を書き、時には平塚家に石が投げ込まれるほどであった。
『青鞜』は創刊当初は文学に焦点を当てていたが、数年以内にその焦点は女性のセクシュアリティ、貞操、人工妊娠中絶に関する率直な議論を含む女性問題へと移行していった。寄稿者には、著名な詩人であり女性の権利の提唱者である与謝野晶子などがいた。
日本のメディアは『青鞜』の主張を真剣に受け止めず、らいてうとその同志たちが歴史に名を残そうとしているだけだと考え、反発した。また、主流の報道機関によって広められた彼女たちの恋愛関係や非順応主義に関する誇張された記事は、世論を雑誌に敵対させ、らいてうに自らの理想を擁護する激しい反論を出版させることとなった。
1913年(大正2年)4月のエッセイ「世の婦人たちに」では、女性の従来の役割である良妻賢母を拒絶し、「人生の経済的安定のために、どれほどの女性が愛のない結婚をして、一人の男性の生涯の召使い、そして売春婦になったことだろう」と述べた。この非順応主義は、『青鞜』を社会だけでなく国家とも対立させ、「公序良俗を乱す」または日本と相容れない「西洋の女性に関する思想」を導入する女性誌の検閲につながった。
なお、同年9月、金子筑水が初めて日本にエレン・ケイを紹介しており、そのケイに関心を持ったらいてうが河井酔茗に話したところ、酔茗から「今森鴎外さんの処(ところ)でも話が出た」と言われたという。らいてうは「そののち、ケイの思想が、わたくしの、ものの考え方や生活の上にも変化をもたらした」と、51年後に鴎外の回想文で書いている。1912年(大正元年)12月、石坂養平がケイを紹介する「自由離婚説」を『帝国文学』に発表すると、らいてうは早速ケイの著作『恋愛と結婚』を購入し、ケイに傾倒していった。
2.5. 奥村博史との関係と「新しい女」

『青鞜』創刊の翌1912年(明治45年)5月5日、読売新聞が「新しい女」の連載を開始し、第1回に与謝野晶子のパリ行きを取り上げた。翌6日には、総勢500余名が見送ったという晶子の出発の様子を「ソコへ足早に駆け付けたのは青鞜同人の平塚明子で(中略)列車の中へ入って叮嚀(ていねい)に挨拶を交換して居る。」などと報じた。翌6月の『中央公論』(与謝野晶子特集号)は、鴎外の評価が掲載され、鴎外は「樋口一葉さんが亡くなってから、女流のすぐれた人を推すとなると、どうしても此人であらう。序だが、晶子さんと並べ称することが出来るかと思ふのは、平塚明子さんだ。詩の領分の作品は無いらしいが、らいてうの名で青鞜に書いてゐる批評を見るに、男の批評家にはあの位明快な筆で哲学上の事を書く人が一人も無い。立脚点の奈何は別として、書いてゐる事は八面玲瓏である。男の批評家は哲学上の問題となると、誰も誰も猫に小判だ」と記している。
対するらいてうは、鴎外の回想をいくつか書き残した。「たとえば、『青鞜』-ブリュウ・ストッキングという名は非常によかったと褒めていられたということが、まず誰からか伝えられたのでした。後日、『青鞜』は鴎外のつけた名だなどもっぱら伝えられたのは、あるいはこれが転化したものかもしれません。奥様の森しげ女さんが『青鞜』の賛助員でしたから、雑誌が毎号お手許に届いているからでもありましょうけれど、とにかく『青鞜』とともに先生に見守られているのだというような気持ちをある期間もっていたものでした。そしてこれらのことは夏目漱石の婦人に対する態度、その無関心さと、無理解さと比べて何という違い方でしょう」と述べている。
青鞜社に集まる女性が「五色の酒事件」や「吉原登楼事件」、「らいてうと紅吉の同性愛事件」などの騒動を起こすと、平塚家には投石が相次いだ。しかし、らいてうはそれをさほど意に介さず、「ビールを一番沢山呑むだのはやはりらいてうだった」と編集後記に書くなど、社会を挑発するだけの余裕があった。そのうちに「新しい女」というレッテルを貼られるようになった。
すると、らいてうは『中央公論』の1913年(大正2年)1月号に「私は新しい女である」という文章を掲載すると同時に婦人論を系統立てて勉強し始め、同年の『青鞜』の全ての号には、付録として婦人問題の特集が組まれるようになった。しかし、『青鞜』の1913年2月号の付録で福田英子が「共産制が行われた暁には、恋愛も結婚も自然に自由になりましょう」と書き、「安寧秩序を害すもの」として発禁に処せられると、らいてうは父の怒りを買い、家を出て独立する準備を始めることになった。
青鞜社は『青鞜』の他にも1912年(大正元年)末に岡本かの子の詩集『かろきねたみ』を皮切りに、翌1913年3月に『青鞜小説集』などを出版している。『青鞜』1912年5月-10月に評論「円窓」を発表し、1913年5月にらいてうの処女評論集『円窓より』も出版されたが、出版直後の5月に「家族制度を破壊し、風俗を壊乱するもの」として発禁に処せられている。同書は1913年6月『閉ざしある窓にて』と改題して刊行された。

また、時期を並行して、1912年夏(26歳)に茅ヶ崎で画家志望で美術学校に通う5歳年下の青年奥村博史と出会い、青鞜社自体を巻き込んだ騒動ののちに事実婚(夫婦別姓)で同居を始めている。らいてうはその顛末を『青鞜』の編集後記で読者に報告し、同棲を始めた直後の1914年(大正3年)2月号では『独立するに就いて両親に』という私信を『青鞜』誌上で発表している。ここで、パートナーは画家の奥村博史で「共同生活」ということを公表した。結婚制度への反発から、入籍はせず、奥村と二児をもうけた。長男の兵役を前にして軍隊内で私生児として不利益を被らないようにという考えから、1941年(昭和16年)に奥村家の籍に入っている。奥村は病弱かつ絵はあまり売れず、家計はらいてうの原稿収入頼みであったため、経済的な苦労は多かった。これは、後述の出産・育児への国の支援の在り方について、与謝野晶子らと激しい「母性保護論争」を繰り広げることに繋がっている。
なお、奥村がらいてうと別れることを決意した際に書いた手紙の一節「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。若いツバメは池の平和のために飛び去っていく」を、らいてうが『青鞜』誌上で発表したことから、「相手の女性よりも年下の恋人」を「ツバメ」と呼ぶ流行語が生まれたと言われている。
らいてうは1917年に発表した原稿「避妊の可否を論ず」において優生学を肯定的に取り上げ、産児制限の重要性を説いた。彼女は花柳病の蔓延が日本人の「種族」に悪影響を及ぼしていると主張し、花柳病患者の男性が結婚することを禁止するキャンペーンを試みたが、これは彼女のキャリアにおける論争の的となっている。
独立後、奥村の看病や子育て、そして『青鞜』での活動の両立が困難になり始めると、1915年(大正4年)1月号から伊藤野枝に『青鞜』の編集権を譲った。『青鞜』は従来の文芸雑誌とは別の、「無政府主義者の論争誌」として活気付いたが、その1年後には、伊藤野枝と交際を始めた大杉栄が、以前より大杉と交際していた神近市子に刺される日蔭茶屋事件があり、休刊することになった。
2.6. 母性保護論争
『青鞜』の編集権譲渡後は奥村の看病や子育てなどに追われていたが、1918年(大正7年)、『婦人公論』3月号で与謝野晶子が『女子の徹底した独立』(国家に母性の保護を要求するのは依頼主義にすぎない)という論文を発表すると、これに噛み付き、同誌5月号で『母性保護の主張は依頼主義か』(恋愛の自由と母性の確立があってこそ女性の自由と独立が意味を持つ)という反論を発表した。
らいてうは、エレン・ケイの翻訳作品を通じて母性優先の主張に影響を受けていたため、当時の状況では完全な独立は非現実的であると主張し、与謝野の主張に対し、女性労働者の困難な状況を考慮すれば、政府による財政的支援を伴う母性保護が女性の国家的、社会的地位を確立するために必要であると付け加えた。
すると、山川菊栄がこの論争に加わり、同誌9月号で『与謝野、平塚2氏の論争』(真の母性保護は社会主義国でのみ可能)という論文を発表。その後、山田わかなどが論争に加わると、この議論は一躍社会的な現象となり、「母性保護論争」として知られるようになった。
この論争の中、1919年(大正8年)の同誌1月号で、らいてうは『現代家庭婦人の悩み』(家庭婦人にも労働の対価が払われてしかるべき、その権利はあるはず)を発表している。同年夏には愛知県の繊維工場を視察し、その際に女性労働者の現状に衝撃を受け、その帰途に新婦人協会設立の構想を固めた。
2.7. 新婦人協会と政治活動



新婦人協会は、1919年(大正8年)11月24日に、市川房枝、奥むめおらの協力のもと、らいてうにより協会設立が発表された。これは「婦人参政権運動」と「母性の保護」を要求し、女性の政治的・社会的自由を確立させるための日本初の婦人運動団体として設立された。協会の機関紙「女性同盟」では再びらいてうが創刊の辞を執筆している。
新婦人協会は「衆議院議員選挙法の改正」、「治安警察法第5条の修正」、「花柳病患者に対する結婚制限並びに離婚請求」の請願書を提出した。特に治安警察法第五条改正運動(女性の集会・結社の権利獲得)に力を入れた。この法律は1900年に制定され、女性が政治団体に加入したり、政治集会を開催したり出席したりすることを禁止していた。主にこの団体の努力により、1922年(大正11年)に治安警察法第5条が改正され、女性の政治活動への参加が認められるようになった。しかし、婦人参政権は日本では依然として獲得されなかった。
さらに、花柳病患者の男性が結婚することを禁止しようとする、より論争の的となるキャンペーンも展開された。このキャンペーンは成功しなかったが、花柳病の蔓延が日本人の「種族」に悪影響を及ぼしていると主張し、優生学運動と連携した点で、平塚のキャリアにおける論争の的となっている。
1921年(大正10年)に過労に加え、市川房枝との対立もあり協会運営から退いた。また、伊藤野枝、堺真柄、山川菊栄などの社会主義者は赤瀾会を結成し、『新婦人協会と赤瀾会』(『太陽』大正10年7月号)を皮切りに新婦人協会およびらいてうを攻撃した。らいてうが去り、市川房枝も渡米した後、新婦人協会は坂本真琴と奥むめおらを中心に積極的な運動を継続し、1922年(大正11年)に治安警察法第5条2項の改正に成功した。しかし、その後の活動は停滞し、翌1923年(大正12年)末に解散。らいてうは文筆生活に入った。
2.8. 戦後の平和運動と社会活動
世界恐慌時代になると、平塚は消費組合運動などにも尽力し、社会改革の主要な目標に向けて、より多くの人々を巻き込む最良の選択肢であると結論付けた。高群逸枝らの無政府系の雑誌『婦人戦線』へも参加している。その後数年間は、借金や愛人の健康問題に苦しんだため、公の場からやや身を引いたが、執筆や講演活動は続けた。

第二次世界大戦後は、日本共産党のシンパサイザーとして活動し、婦人運動と共に反戦・平和運動を推進した。1950年(昭和26年)6月、朝鮮戦争勃発の翌日、来日したアメリカのダレス特使へ、全面講和を求めた「日本女性の平和への要望書」を連名で提出した。これは、日本が中立で平和主義を維持できるシステムを構築するよう求めるものであった。翌1951年(昭和26年)12月には、対日平和条約及び日米安全保障条約に反対して「再軍備反対婦人委員会」を結成した。
1953年(昭和28年)4月5日、日本婦人団体連合会を結成し初代会長に就任。同年12月には国際民主婦人連盟副会長に就任した。1955年(昭和30年)、世界平和アピール七人委員会の結成に参加し、同会の委員となる。1960年(昭和35年)には、連名で「完全軍縮支持、安保条約廃棄を訴える声明」を発表した。
1962年(昭和37年)10月19日、平塚はいわさきちひろ、野上弥生子、羽仁説子、岸輝子、桑沢洋子、櫛田ふき、深尾須磨子、壺井栄ら32人の女性の呼びかけにより「新日本婦人の会」を結成した。この戦後の組織は現在も活動を続けている。
1964年(昭和39年)2月18日には、1941年に入籍した夫の奥村博史が東京都世田谷区関東中央病院で急性骨髄性白血病により死去した。
1970年(昭和45年)6月にも市川房枝らと共に日米安保廃棄のアピールを発表する。またベトナム戦争が勃発すると反戦運動を展開し、1966年(昭和41年)には「ベトナム話し合いの会」を結成、1970年(昭和45年)7月には「ベトナム母と子保健センター」を設立した。「女たちはみな一人ひとり天才である」と宣言する孤高の行動家として、らいてうは終生婦人運動および反戦・平和運動に献身した。
自伝の執筆に取り掛かるも、1970年(昭和45年)に胆嚢・胆道癌を患い、東京都千駄ヶ谷の代々木病院に入院。らいてうは入院後も口述筆記で執筆を続けていたが、1971年(昭和46年)5月24日に入院先で逝去した。享年86(満85歳没)。法名は明媼之命。命日の5月24日は筆名をそのまま当てて「らいてう忌」と呼ばれている。13歳まで同居していた孫によると、肉親から見た姿は、世間一般の「らいてう」像とはだいぶ異なり、「身長は約145 cmで同世代と比べても小柄。声は小さく内向的で言葉少ない人だった」と内実を語っている。
平塚らいてうは菜食主義者でもあった。彼女は36、37歳頃、頭痛と嘔吐に苦しんでいた際に、石塚左玄の食養や二木謙三の玄米食について読み、食生活の誤りを悟って以来、30年近く実践したという。
3. 思想と哲学
平塚らいてうの思想と哲学は、彼女の生涯を通じて多岐にわたる影響を受けながら形成された。その根底には、女性の精神的独立と社会変革への強い信念があった。
彼女は、エレン・ケイやヘンリック・イプセンの作品を通じて個人主義の思想に深く傾倒した。特にイプセンの『人形の家』の主人公ノラに共感し、女性が個としての自立を追求することの重要性を訴えた。彼女の「私は新しい女である」という宣言は、従来の女性像からの脱却と、個人の自由な生き方を追求する姿勢を明確に示したものである。
また、若い頃から禅仏教に深く傾倒し、禅の修行を通じて精神的な安定と自己認識を深めた。この経験は、彼女の思想の根幹に流れる精神性や、内省的な態度に大きな影響を与えた。
平塚らいてうは、アナキズム的な思想を持つフェミニストとしても知られている。彼女は、既存の社会制度や慣習、特に結婚制度や「家」制度に批判的な姿勢を示し、個人の自由と平等を重視した。この思想は、彼女が奥村博史と事実婚という形を選び、子供たちを私生児として自身の戸籍に入れたことにも表れている。
女性解放の思想においては、「元始、女性は太陽であった」という言葉に象徴されるように、女性が本来持っていた力と輝きを取り戻すべきだと主張した。彼女は女性のセクシュアリティや貞操、人工妊娠中絶といったタブー視されがちな問題についても、雑誌『青鞜』を通じて率直な議論を促し、女性が自身の身体と生殖に関する決定権を持つべきだと訴えた。
母性保護論争では、女性が母となることの社会的な価値を強調し、国家による母性への経済的支援を強く主張した。これは、女性の経済的自立を重視する与謝野晶子の主張とは対照的であったが、女性が安心して子供を産み育てられる社会の実現を目指すという点で共通していた。
社会改革への関心も深く、世界恐慌時代には消費組合運動に尽力した。彼女は、この運動が広範な社会改革を実現するための最良の手段であると考えた。
晩年には、反戦運動と平和運動に献身した。第二次世界大戦後の日本の再軍備に反対し、日本が中立で平和主義を貫くことを強く訴えた。彼女の平和への願いは、新日本婦人の会の設立や、ベトナム戦争反対運動への参加など、具体的な社会活動として結実した。
一方で、彼女の思想には優生学的な側面も存在した。花柳病患者の結婚制限を主張するなど、当時の社会に存在した優生思想の影響を受けていたことは、現代の視点から見ると批判の対象となるが、当時の社会状況と彼女の目指した「より良い社会」の実現という文脈の中で理解されるべき点である。
4. 著作と活動
平塚らいてうは、文筆活動を通じて自らの思想を社会に発信し、多くの人々に影響を与えた。彼女の著作は、女性解放運動、社会改革、平和運動の歴史を理解する上で重要な資料となっている。
4.1. 主要な著作
- 『円窓より』(1913年、東雲堂書店) - 処女評論集。出版直後に発禁処分を受け、『閉ざしある窓にて』と改題して再刊行された。
- 『現代と婦人の生活』(1914年、日月社)
- 『らいてう第三文集 現代の男女へ』(1917年、南北社)
- 『婦人と子供の権利』(1919年、天佑社)
- 『女性の言葉』(1926年、教文社)
- 『らいてう随筆集 雲・草・人』(1933年、小山書店)
- 『母の言葉』(1937年、刀江書院)
- 『わたくしの歩いた道』(1955年、新評論社)
- 『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝』(1971年 - 1973年、大月書店) - 上・下巻、続、完の全4巻で刊行された自伝。
4.2. 論文・評論
平塚らいてうは、『青鞜』や『婦人公論』などの雑誌に多数の評論や論文を発表し、女性問題、社会問題、平和問題について活発な議論を展開した。
彼女の主要な評論には、「元始、女性は太陽であった」(『青鞜』創刊の辞)、「世の婦人たちへ」(1913年)、そして「私は新しい女である」(1913年)などがある。これらの作品では、女性の精神的独立と自己確立の重要性を訴え、従来の良妻賢母像を批判した。
母性保護論争においては、「母性の主張は依頼主義にあらず」(1918年)や「現代家庭婦人の悩み」(1919年)といった論文で、母性保護の必要性と家庭婦人への労働対価の支払いを主張した。
戦後には、反戦運動や平和運動に関する論文を多数発表。「昭和婦人解放運動史」(1951年)では、戦後の女性運動の歴史を振り返り、「人類の平和への意志」(1952年)や「平和にいのる」(1952年)では、日本の非武装中立と世界平和への願いを表明した。
彼女の著作は、『平塚らいてう著作集』(全8巻、大月書店、1983年 - 1984年)や『平塚らいてう評論集』(岩波書店、1987年)にまとめられている。
4.3. 翻訳
平塚らいてうは、自身の思想形成に大きな影響を与えたエレン・ケイの作品を中心に、海外の思想書の翻訳にも携わった。
- エレン・ケイ『母性の復興』(1919年、新潮社) - The Renaissance of Motherhood英語の翻訳。
- ジョン・スチュアート・ミル『婦人の隷属』(1929年、平凡社) - The Subjection of Women英語の翻訳。
これらの翻訳は、当時の日本の知識人や女性たちに、西洋のフェミニズム思想や社会思想を紹介し、日本の女性解放運動の発展に貢献した。
5. 家族
平塚らいてうの家族は、彼女の人生と活動に大きな影響を与えた。
- 父・平塚定二郎
元紀州藩士で、東京外国語学校に学び、参事院書記官となる。1886年に会計検査院に移り、翌年より1年半にわたり欧米視察を行った。後に一高のドイツ語講師を兼任した。
- 夫・奥村博史(おくむら ひろし、1889年 - 1964年)
神奈川県藤沢生まれの洋画家であり、舞台人でもあった。指輪の制作者としても知られ、1933年に国画会工芸部門で受賞し会員となった。奥村家は加賀藩前田氏に仕えた藩士だったが、明治維新で開拓民として北海道余市に移り、呉服の行商などで財を成した。博史は18歳で上京し、大下藤次郎の美術学校「日本水彩画会研究所」(1907年設立)に通っているときにらいてうと知り合った。新劇運動に参加し、1913年に上山草人率いる近代劇協会のファウスト公演で帝劇に出演し、以来しばしば舞台に立った。1914年にらいてうと共同生活を始め、事実婚であったが、息子敦史が産まれた後は婚姻届を出して夫婦となった。2児をもうけ、1925年に成城学園の美術講師となる(教え子に大岡昇平らがいる)。武者小路実篤の新しき村の美術部にも所属した。著書に自伝的小説『めぐりあい』(現代社、1956年)などがある。らいてうの墓は博史の没後に建てられ、夫妻は共に眠っている。
- 長女・曙生(あけみ、1915年 - 1993年)
妊娠中にらいてうは、森田草平との心中未遂事件を扱った連載「峠」を執筆していたが、つわりにより中断、奥村入院中に曙生が生まれた。私立滝野川幼稚園から那須郡佐久山町の佐久山尋常小学校に入学後、富士前小学校、成城小学校と転校した。近江学園の職員で社会学者の築添正二と結婚。著書に『母子随筆』(平塚らいてうと共著、桃季書院、1948年)がある。再生不良性貧血から肺炎を併発し、同居していた娘の美可・美土に看取られ没した。
- 長男・奥村敦史(あつふみ、1917年 - 2015年)
早稲田大学理工学部機械工学科教授。『材料力学』、『メカニックス入門』、『わたくしは永遠に失望しない 写真集平塚らいてう-人と生涯』などの編著書がある。老衰により満97歳にて没した。
- 孫・奥村直史(おくむら なおふみ、1945年生)
敦史の子で、らいてうの孫にあたる。早稲田大学第一文学部哲学科心理学専修卒業後、病院の心理療法士として勤務ののち、東洋学園大学非常勤講師。1973年から2007年まで日本臨床心理学会運営委員を務めた。著書に『平塚らいてうー孫が語る素顔』(平凡社新書、2011年)、『平塚らいてう その思想と孫から見た素顔』(平凡社ライブラリー、2021年)がある。
- 孫・築添美可(つきぞえ みか)
長女・曙生の娘にあたる。1970年代に日劇ミュージックホールでダンサーとして活動した(芸名:炎美可)。
- 孫・築添美土(つきぞえ みと)
6. 評価と遺産
平塚らいてうは、その生涯を通じて日本の女性解放運動と平和運動に多大な貢献をした先駆者として高く評価されている。
彼女のキャリアは数十年間に及んだが、特に『青鞜』グループを主導した功績で記憶されている。20世紀初頭の日本の女性運動の指導者として、彼女は非常に影響力のある人物であり、その支持者には、『青鞜』が全盛期であった頃に東京に留学していた朝鮮の先駆的なフェミニスト作家ナ・ヘソク(나혜석韓国語)や、青鞜社の一員で一部論争を巻き起こしたアナキストで社会批評家の伊藤野枝などがいた。
彼女が戦後に設立した新日本婦人の会は、現在も活動を続けており、平塚らいてうの思想と運動が現代社会にも影響を与え続けていることを示している。
日本女子大学は、彼女の卒業100周年を記念して「平塚らいてう賞」を創設し、その功績を顕彰している。また、2014年2月10日には、Googleが平塚らいてうの128回目の誕生日をDoodleで祝うなど、国際的にもその業績が認められている。
彼女の「元始、女性は太陽であった」という言葉は、女性の精神的独立と権利獲得運動を象徴するフレーズとして、日本の歴史に深く刻まれている。平塚らいてうは、女性が自らの内なる力を認識し、社会において主体的に生きる道を切り開いた、まさに「新しい女」の象徴であり、その遺産は現代のジェンダー平等や平和を求める運動にも受け継がれている。