1. 概要
新見政一は、明治から平成にかけての激動の時代を生きた日本の海軍軍人であり、その生涯は大日本帝国海軍の発展と終焉を象徴している。彼は海軍中将として、第二次世界大戦中に重要な職務を歴任しただけでなく、戦前から将来の戦争の形態を正確に予測し、海上交通路の保護の重要性を訴えるなど、独自の戦略思想を持っていた。戦後は、長寿を全うしながら戦史研究に没頭し、特に『第二次世界大戦戦争指導史』を著すなど、歴史の記録と反省に貢献した。温和な人柄で多くの後輩に慕われ、帝国海軍最後の海軍中将として、その功績は高く評価されている。
2. 生涯と海軍経歴
新見政一は、広島県に生まれ、海軍士官としての輝かしいキャリアを築いた。第二次世界大戦中の要職を経て退役した後も、戦史研究に情熱を注ぎ、長寿を全うした。
2.1. 幼少期と教育
新見政一は1887年(明治20年)2月4日、広島県広島市安佐北区(旧安芸郡川内村)に、農業と醤油製造業を営む新見千五郎の二男として誕生した。妻の澄子は小林躋造海軍大将の妹にあたる。旧制広島県立忠海中学校を卒業後、同期生の水戸春造海軍中将は中学同窓でもあった。その後、海軍兵学校に入校した。
2.2. 海軍兵学校および初期のキャリア
1905年(明治38年)12月2日に海軍兵学校第36期に入校し、入校時の席次は200名中35番であった。1908年(明治41年)11月21日に191名中15番(日本側資料では14番)の席次で卒業し、少尉候補生として装甲巡洋艦「阿蘇」に乗組んだ。1909年(明治42年)3月14日には練習艦隊の遠洋航海に出発し、ホノルル、ヒロ、サンフランシスコ、Esquimalt, British Columbiaエスキモルト英語、バンクーバー、タコマ、シアトル、函館、大湊方面を巡航し、同年8月7日に帰着した。その後、8月12日に1等巡洋艦「出雲」に乗組んだ。1910年(明治43年)1月15日に海軍少尉に任官し、佐世保鎮守府附佐世保海兵団附となった。
2.3. 専門教育と海軍大学校
1910年(明治43年)7月31日に海軍砲術学校普通科学生となり、同年12月15日には海軍水雷学校普通科学生となった。1911年(明治44年)4月20日には再び1等巡洋艦「阿蘇」に乗組、少尉候補生指導官附として、同年11月25日からグアム、スバ、オークランド、シドニー、タウンズビル、バタヴィア、シンガポール、マニラ、Olongapo Cityオロンガポ英語方面への練習艦隊遠洋航海に従事し、12月1日に海軍中尉に任官した。1912年(明治45年)3月28日に帰着後、同年7月5日に3等駆逐艦「弥生」に乗組んだ。
1913年(大正2年)12月1日に海軍大学校乙種学生となり、1914年(大正3年)5月27日には海軍砲術学校高等科第13期学生として専門教育を深め、同年11月26日に同高等科を修了した。また、オックスフォード大学で国際法を学んだことで、日本海軍有数の知英派として知られた。
2.4. 主要な海軍職務と指揮
1914年(大正3年)12月1日に海軍大尉に任官し、戦艦「香取」分隊長に就任した。その後、1915年(大正4年)5月1日に巡洋戦艦「伊吹」分隊長、1916年(大正5年)5月15日に戦艦「河内」分隊長、同年12月1日に1等駆逐艦「海風」乗組と、艦船勤務を続けた。1917年(大正6年)4月1日には海軍砲術学校教官兼分隊長を務めた。
1917年(大正6年)12月1日に海軍大学校甲種第17期に入校し、1919年(大正8年)11月26日に24名中第4位の成績で卒業した。同年12月1日には戦艦「伊勢」副砲長兼分隊長となり、1920年(大正9年)12月1日に海軍少佐に任官し、海軍砲術学校教官を務めた。1922年(大正11年)12月1日には軍令部参謀に就任し、この時期に戦時の海上交通線保護の重要性に関する報告書を海軍中央軍令機関に提出している。
1923年(大正12年)12月1日から1925年(大正14年)12月1日まで、在イギリス日本大使館附海軍駐在武官府補佐官として英国に駐在し、この間に1924年(大正13年)12月1日に海軍中佐に任官した。帰国後、1926年(大正15年)3月20日に軽巡洋艦「球磨」副長、同年12月1日に海軍大学校教官を務めた。
1929年(昭和4年)11月27日には陸軍大学校兵学教官を兼務し、同年11月30日に海軍大佐に任官した。1930年(昭和5年)12月1日に横須賀鎮守府附となり、1931年(昭和6年)4月1日には軽巡洋艦「大井」艦長として初の艦長職を務めた。同年10月15日には兵学校訓練用海防艦「八雲」艦長に就任し、1933年(昭和8年)3月6日から7月26日までシアトル、タコマ、エスキモルト、バンクーバー、サンフランシスコ、ロサンゼルス、アカプルコ、バルボア、ホノルル、ヤルート、トラック、サイパン、パラオ方面への練習艦隊遠洋航海を指揮した。同年11月15日には重巡洋艦「摩耶」艦長を務めた。
1934年(昭和9年)11月15日に再び海軍大学校教官となり、1935年(昭和10年)11月15日に海軍少将に任官し、呉鎮守府参謀長に就任した。1936年(昭和11年)4月1日には第2艦隊参謀長、同年12月1日には海軍軍令部出仕を務めた。1937年(昭和12年)1月8日から8月3日にかけて、秩父宮雍仁親王夫妻のイギリス国王ジョージ6世戴冠式参列に随行し、イギリス到着後にはフランス、ドイツ、アメリカ合衆国を訪問した。帰国後、対中国封鎖作戦の研究に従事し、同年12月1日には海軍省教育局長に就任した。
2.5. 第二次世界大戦中の活動
1939年(昭和14年)11月15日に海軍中将に任官し、海軍兵学校長を務めた。1941年(昭和16年)4月4日には第2遣支艦隊司令長官に就任し、南部仏印進駐や香港攻略作戦に協力した。香港攻略作戦においては、小型巡視艇や数隻の軽巡洋艦による香港港の封鎖を主務とする海軍部隊を指揮した。彼は酒井隆陸軍中将と名目上、香港占領地総督の地位を共有したが、その権限は海上区域に限定されていた。
2.6. 高位職と退役
1942年(昭和17年)7月14日には舞鶴鎮守府司令長官に就任した。1943年(昭和18年)12月1日に軍令部出仕となり、1944年(昭和19年)3月15日に待命、同年3月20日に予備役に編入された。退役後も、3月25日には大日本学徒海洋教練振興会副会長兼中央本部長、6月1日には海軍省事務嘱託を務めたが、1946年(昭和21年)3月1日に大日本学徒海洋教練振興会副会長兼中央本部長を辞任した。1947年(昭和22年)11月28日には公職追放仮指定を受けた。
3. 戦略思想と見解
新見政一は、日本海軍において独自の戦略的洞察と見解を持っていた。彼は第一次世界大戦の戦史研究を通じて、将来の戦争が総力戦となること、そして艦隊決戦は生起しないことを予測した。また、大本営は政戦略一致の機関であるべきだと主張し、特に海上交通線防御の必要性を強く訴えた。これらの見解は当時の海軍内では異端視されたが、太平洋戦争の推移は彼の予測が現実であったことを証明した。
海軍大学校で戦史教官を合計5年間務め、教育局長在任中には海軍防衛学校の創設を試み、海上交通防御の対策を講じようとした。しかし、軍務局の反対により、最終的には海軍機雷学校の設立にとどまった。軍務局長であった井上成美は学校の名称に関して反対したが、機雷学校の設立は新見と井上がその役職を離れた後であった。両者は親英米路線では一致していたものの、海軍大学校教官としての授業方針や兵機一系化を巡っては意見が対立していた。
日独防共協定締結後も、ジョージ6世戴冠記念観艦式に随行した際の秩父宮雍仁親王に対する英国の優遇から、英国が日本との連携を望んでいると判断した。また、第一次世界大戦で示されたアメリカ合衆国の国力から、日本は米英と協調すべきであり、独伊とのさらなる接近は危険であると訴えたが、彼の意見は受け入れられることはなかった。
4. 著述活動
新見政一は、戦後も精力的に戦史研究を行い、その成果を著書として残した。特に重要な著作は『第二次世界大戦戦争指導史』である。この著作は彼が82歳から84歳にかけて執筆し、97歳の時に一般に発売された。この著作は昭和天皇に献上され、昭和天皇は「新見の本が出たのか」と喜び、皇太子明仁親王にも贈られたという。その他、『日本海軍の良識 提督 新見政一 自伝と追想』も刊行されている。
5. 戦後活動
戦後、新見政一は海上自衛隊幹部学校の特別講師を務め、また再建された水交会では「海軍反省会」の最高顧問を務めた。彼は生涯にわたり戦史研究に励み、特に第二次世界大戦の戦史研究に情熱を注いだ。
6. 人物
新見政一は、自分の意見を押し通すことはせず、他人と争うことを好まない温和な性格であったと評されている。彼は106歳という長寿を保ち、海軍の最長老として大井篤をはじめとする多くの後輩たちに慕われた。その人間的な魅力は、彼が長きにわたり海軍内外で尊敬を集めた理由の一つである。
7. 死没と功績
新見政一は1993年(平成5年)4月2日に106歳で死去した。彼の死は、帝国海軍最後の海軍中将の逝去を意味し、一つの時代の終わりを象徴する出来事であった。彼は戦前から総力戦や海上交通路保護の重要性を予見し、艦隊決戦が起こらないことを説くなど、その戦略思想は時代の先を行くものであった。彼の見解は当時の海軍内で受け入れられなかったものの、後の太平洋戦争の展開によってその正確性が証明された。戦後も戦史研究に尽力し、その知見を後世に伝えることに貢献した。温和な人柄で多くの人々に慕われた彼の生涯と業績は、日本の海軍史において重要な位置を占めている。
8. 叙勲・栄典
- 1910年(明治43年)3月22日 - 正八位
- 1915年(大正4年)2月10日 - 正七位
- 1942年(昭和17年)7月8日 - 勲一等瑞宝章受章