1. 概要

本因坊秀策(本因坊秀策ほんいんぼう しゅうさく日本語、1829年6月6日 - 1862年9月3日)は、江戸時代後期に活躍した日本の囲碁棋士である。俗名は桑原虎次郎(桑原虎次郎くわばら とらじろう日本語)。備後国因島(現在の広島県尾道市)出身。本因坊秀和の弟子であり、その卓越した棋力と人格から、後世に「碁聖」と称えられ、本因坊道策、本因坊丈和と並ぶ江戸時代の「三棋聖」の一人に数えられる。
秀策は特に、江戸幕府主催の御城碁において19連勝という驚異的な記録を打ち立て、「無敵の秀策」と称されたことで知られる。また、大田雄蔵との三十番碁や、井上幻庵因碩との「耳赤の一局」などの著名な対局を残し、彼が完成させた秀策流布石は、その後の囲碁界に多大な影響を与えた。若くしてコレラにより33歳で死去したが、その短い生涯で築き上げた業績と棋風は、現代に至るまで多くの棋士に影響を与え続けている。
2. 経歴
2.1. 幼少期と教育
秀策は1829年(文政12年)6月6日、備後国因島外浦町(現在の広島県尾道市因島)で、商人である桑原輪三と妻カメの次男として生まれた。幼名は虎次郎。幼少期から囲碁の才能を早くから開花させ、8歳になる頃にはすでにプロ棋士に匹敵するほどの棋力を持っていたとされる。
三原城主で広島藩筆頭家老の浅野甲斐守忠敬は、秀策との対局を通じてその才能を見抜き、彼の後援者となった。浅野忠敬の計らいにより、秀策は浅野家の囲碁指南役であった僧侶の星野道啓(星野道啓ほしの どうけい日本語)に師事し、専門的な指導を受けた。
2.2. 本因坊家への入門と初期のキャリア
1837年(天保8年)、8歳で江戸へ上り、当時の囲碁界で最も権威ある機関であった本因坊家に入門した。正式には本因坊丈和の弟子となったが、実際の指導は主に先輩棋士たちから受けた。本因坊家に入門した際、本家の名字である「安田」を借りて「栄斎」と名乗った。丈和は秀策の打ち筋を見て、「これぞまさに150年来の碁豪にして、我が門風、これより大いに揚がらん」と絶賛したと伝えられている。
秀策は着実に昇段を重ね、1839年(天保10年)に初段、翌1840年(天保11年)には「秀策」と改名し二段に昇段した。その後も順調に昇段し、1841年(天保12年)に三段、1842年(天保13年)には四段に昇格した。
1840年には一時江戸を離れて故郷に戻ったが、その後も棋力は向上し続けた。1844年には四段に到達した後、再び故郷で長期滞在した。
3. プロ棋士としてのキャリア
1846年(弘化3年)4月から5月にかけて、江戸に戻った秀策は、当時最強と目されていた井上幻庵因碩と数度の対局を行った。当初、幻庵因碩(八段)と秀策(四段)の手合は二子であったが、幻庵は秀策の実力を認め、異例の定先(上手が黒番を常に持つ手合)に変更して対局を続行した。
3.1. 御城碁と不敗の連勝記録
1848年(嘉永元年)、秀策は正式に第14世本因坊の跡目となり、同時に六段に昇段した。この年、丈和の娘である花と結婚している。翌年からは江戸幕府主催の御城碁に出仕し、以後1861年までの間に19戦19勝という前代未聞の不敗記録を達成した。この大記録が、秀策が史上最強の棋士であるという説の有力な根拠となっている。この功績により、彼は「無敵の秀策」の異名で広く知られるようになった。
ただし、秀策はこの御城碁での連勝記録に非常にこだわっていた側面も伝えられている。例えば、林有美(当時五段)との二子局や、安井算英(当時二段)との二子局を本因坊秀和から打診された際、「二子の碁は必勝を期すわけにはいかない」と固辞したという逸話が残っている。19局中、二子局が皆無であることは不自然であるという指摘もあるが、同時に「コミなしの白番なら誰が相手でも辞さない」とも語っていたとされ、彼の棋力への自信と勝利への執念がうかがえる。
彼の無敵ぶりは、平明で秀麗な棋風と、師である秀和と並ぶ正確な形勢判断に支えられていた。特に秀策が黒番を持つ際の布石は「秀策流」と呼ばれ、その堅実さで知られる。御城碁の対局結果を問われた際に「先番でした」とだけ答えたという逸話も残っているが、これは彼の謙虚な性格を表すものとして、「先番でしたので、なんとか勝つことができました」という言葉の前半部分だけが一人歩きしたとも言われている。
回数 | 西暦 | 相手 | 家元 | 結果 |
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1 | 1849年 | 安井算知 | 安井家 | 先番11目勝ち |
2 | 阪口仙得 | 阪口家 | 先番中押し勝ち | |
3 | 1850 | 阪口仙得 | 阪口家 | 先番8目勝ち |
4 | 伊藤松和 | 先番3目勝ち | ||
5 | 1851 | 林門入 | 林家 | 先番7目勝ち |
6 | 安井算知 | 安井家 | 先番中押し勝ち | |
7 | 1852 | 十二世井上因碩 | 井上家 | 白番2目勝ち |
8 | 伊藤松和 | 先番6目勝ち | ||
9 | 1853 | 阪口仙得 | 阪口家 | 先番中押し勝ち |
10 | 安井算知 | 安井家 | 白番1目勝ち | |
11 | 1854 | 十二世井上因碩 | 井上家 | 白番中押し勝ち |
12 | 1856年 | 伊藤松和 | 白番中押し勝ち | |
13 | 1857 | 安井算知 | 安井家 | 先番中押し勝ち |
14 | 1858 | 阪口仙得 | 阪口家 | 白番3目勝ち |
15 | 1859 | 伊藤松和 | 先番9目勝ち | |
16 | 服部正徹 | 服部家 | 先番13目勝ち | |
17 | 1860 | 林有美 | 林家 | 白番4目勝ち |
18 | 1861年 | 林門入 | 林家 | 白番14目勝ち |
19 | 林有美 | 林家 | 白番中押し勝ち |
3.2. 主要な対局
秀策は、そのキャリアの中でいくつかの重要な対局を行った。特に有名なのは、大田雄蔵との三十番碁と、井上幻庵因碩との「耳赤の一局」である。
1853年、江戸の邸宅に集まった安井算知、伊藤松和、阪口仙得、服部正徹、そして大田雄蔵といった棋士たちは、秀策が当代最強であるという意見で一致していたが、大田雄蔵だけはこれに同意しなかった。当時、大田雄蔵は秀策との対局シリーズの途中で、3勝3敗と互角の成績を収めていたからである。この話を聞いた当時の著名な囲碁後援者であった赤井五郎作は、前例のない30番勝負(三十番碁)を大田と秀策の間で主催することを決定した。このシリーズは1853年に始まり、当時大田は46歳で七段、秀策は24歳で六段であった。対局は週に一度のペースで行われ、一般的な十番碁よりも速い進行であった。
大田は11局目までは好調であったが、その後秀策が反撃を開始した。17局目終了時には、大田は4局差でリードを許していた。21局目は7月に行われたが、22局目は同年10月まで行われず、その理由は不明である。22局目は大田の自宅で行われたが、これは他の対局がより中立な場所で行われていたことと異なっていた。大田が再び敗れた後、対局場所はより中立な場所に変更された。しかし、23局目は「打ち掛け」(引き分け)にされたと信じられている。この対局はほぼ24時間連続で続き、結果は引き分けとなった。これは大田の恥を救うものであった。白番で引き分けに持ち込んだことは大きな成果と見なされ、秀策の御城碁への招集とともに、対局を中断する口実として使われた。
3.3. 著名な対局と棋風
秀策の対局の中で最も有名で伝説的なものの一つが、1846年(弘化3年)9月に行われた井上幻庵因碩との「耳赤の一局」である。この対局は、黒番の秀策が序盤で大斜定石において誤り、幻庵因碩が繰り出した秘手によって劣勢に陥った。幻庵は自在に打ち回したが、126手目のトビ(白△)が緩手であった。これに対し、秀策が打った黒127手目(図の黒▲)が「耳赤の一手」として現代に語り継がれる妙手であった。この手を打つ直前までは幻庵の優位だったが、この手によって形勢は急接近したとされる。この手は、上辺の模様を拡大し、右辺の白の厚みを消し、下辺の弱石に間接的に助けを送り、左辺の打ち込みを狙う「一石四鳥」の手と評された。
対局を横で見ていたある医師は、この様子を見て「これは秀策の勝ちだ」と断定した。周りの者がなぜかと尋ねると、医師は「碁の内容はよく分からないが、先ほどの一手が打たれた時に井上先生の耳が赤くなった。動揺し、自信を失った証拠であり、これでは勝ち目はないだろう」と述べた。このエピソードに由来して、「耳赤の一手」という名がつけられた。
ただし、この手については「緩手」という評や、「今の超一流棋士なら誰でもそこに打つ」(呉清源)という声もあり、評価は一定していない。また、耳赤の一手もさることながら、全局を通した井上幻庵因碩の打ち回しに対しても評価が高い。現代の囲碁AIでは、この手は最善手とはみなされず、絶芸やKataGoなどのソフトは別の手を最善手として示している。しかし、大橋拓文プロは、この手が相手のリズムを崩す心理戦のような手であるため、AIの評価が低くなると分析している。
秀策の棋風は、その平明さと堅実さで知られている。彼は攻めよりも守りを重視し、着実に地を囲いながら優勢を築くスタイルを得意とした。特に黒番での布石は「秀策流」として確立され、その後の囲碁界に大きな影響を与えた。
4. 秀策流布石
4.1. 発展と特徴
秀策流布石は、秀策が完成させた布石法であり、特に黒番で用いられる。この布石は、黒1、3、5と向きの異なる小目に連打し、多くの場合、黒7手目のコスミまでを「秀策流」と称する。この「コスミ」自体は秀策の創案ではないが、彼が大いに活用して好成績を挙げたことから、「秀策のコスミ」と呼ばれるようになった。秀策は、「碁盤の広さが変わらぬ限り、このコスミが悪手とされることはあるまい」と語ったと伝えられている。
この布石は、堅実でバランスの取れた打ち方であり、安定した地を確保しつつ、相手に隙を与えないことを特徴とする。かつては、コミ(白番が有利になるように黒番に与えられる点数)がない時代の布石であり、現代のコミ碁においては「ヌルい」(手ぬるい、積極性に欠ける)と評されることもあった。
しかし、2019年の世界電脳囲碁オープン戦で優勝した最強囲碁AIの一つである絶芸(FineArt)が、このコスミを最善手として示したことで、秀策の慧眼が改めて評価されることとなった。AIの分析により、秀策流布石の持つ堅実さとバランスの良さが再認識され、その後はプロ棋士のタイトル戦などでも多用されるようになり、有力な布石としての地位を復活させている。
5. 評価と称号
5.1. 「碁聖」としての認識
江戸時代において「棋聖」と呼ばれていたのは、本因坊道策と本因坊丈和の2人であった。しかし、明治時代以降、秀策の人気が高まるにつれて、丈和に代わって秀策が「棋聖」と呼ばれるようになった。秀策は生涯名人になることはなかったが、その卓越した棋力から、史上最強の棋士の候補として挙げる声も多い。
秀策は、その棋力のみならず、極めて優れた人格の持ち主としても知られている。師である本因坊秀和との対局では、秀策が大幅に勝ち越していたにもかかわらず、秀和が「手合いを改めよう」(先から先相先へ変更し、三局に一度は秀和が黒番を持つようにする提案)と言った際、「師匠に黒を持たせるわけにはいきません」と答えて固辞したという逸話が残っている。これは、師に対する深い尊敬の念を示すものであり、彼の高潔な人柄を物語るエピソードとして語り継がれている。
5.2. 現代と歴史的評価
秀策の評価は、時代や地域によって異なる側面を持つ。日本では、秀策と丈和に関する多数の文献が刊行されており、彼の評価はよりバランスの取れたものとなっている。一方で、西洋では情報源が少ないため、彼の評価がやや過大に伝えられている傾向がある。
師である秀和との力量差については、秀策が秀和に対して白番で対局することを拒否したため、両者の正確な棋力差を測る明確な基準がない。しかし、秀策が大田雄蔵を強敵と認めつつも勝ち越していたのに対し、秀和は大田を容易に打ち破っていたという事実や、秀和が安井算知を大田雄蔵よりも強い相手と認めていたにもかかわらず、秀策が安井算知を大差で破っていたことなどから、両者の棋力については様々な議論がある。
現代においては、囲碁AIの登場により、秀策の棋譜や棋風が再評価されている。特に彼の代名詞である「秀策のコスミ」がAIによって最善手の一つとして認識されたことは、彼の囲碁に対する深い洞察力が時代を超えて証明されたことを意味する。
6. 私生活
秀策は1848年(嘉永元年)に、本因坊丈和の娘である花と結婚した。私生活に関する公開された情報は少ないが、彼の生涯は囲碁に捧げられていたことがうかがえる。
7. 死
1862年(文久2年)、江戸でコレラが大流行し、本因坊家内でもコレラ患者が続出した。秀策は、師である本因坊秀和が止めるのも聞かず、献身的に患者たちの看病に当たった。その結果、彼自身もコレラに感染し、同年9月3日に33歳(数え年34歳)の若さで死去した。
秀策の死により、この年の御城碁は中止され、その後御城碁は消滅した。しかし、彼の献身的な看病のおかげで、本因坊家では秀策以外にコレラによる犠牲者は一人も出さなかったと伝えられている。
8. 遺産と影響
8.1. 囲碁界への影響
秀策の死後も、彼の名前は囲碁界に大きな影響を与え続けている。彼が完成させた秀策流布石は、1930年代まで日本の囲碁の主流となる布石法の基礎を築いた。また、「秀策数」という概念も存在し、これはエルデシュ数の囲碁版とも言えるもので、囲碁棋士間の関係性を示す指標として用いられる。
秀策の残した約400局の棋譜は、1900年(明治33年)に石谷広策によって『敲玉余韵』(こうぎょくよいん)としてまとめられ、多くのプロ棋士が彼の棋譜を学ぶようになった。韓国の李昌鎬九段も若い頃から秀策の棋譜を熱心に並べ、「私は一生かけても秀策先生には及ばないだろう」と語るほど、彼を尊敬していた。
8.2. 文化的影響


秀策は、漫画やアニメ作品『ヒカルの碁』に登場したことで、現代の若者にも広く知られるようになった。この作品では、主人公の進藤ヒカルに取り憑いた平安時代の天才棋士・藤原佐為の霊が、かつて憑依していた人物として秀策が描かれている。この作品のヒットに伴う「囲碁ブーム」により、秀策は子供たちの間でも「囲碁史上最強の人物」として親しまれるようになった。
彼の故郷である広島県三原市の糸碕神社には、江戸時代に秀策の生涯を記念して建立された石碑が現在も残されており、『ヒカルの碁』にも登場する。また、因島にある秀策の生家は、現在「本因坊秀策囲碁記念館」として公開されている。因島の所属する尾道市は、この縁から囲碁を「市技」に指定し、年に2回「本因坊秀策囲碁まつり」を開催するなど、彼の功績を称え、囲碁文化の振興に努めている。
2004年(平成16年)には、第1回囲碁殿堂において、徳川家康、本因坊算砂、本因坊道策と並んで顕彰された。
8.3. 歴史的論争
2014年6月6日、Googleは秀策の生誕185周年を記念してGoogle Doodleを公開した。しかし、このDoodleはイギリスで論争を巻き起こした。同日がノルマンディー上陸作戦の70周年記念日と重なっていたため、イギリス国内では、重要な第二次世界大戦の記念日を差し置いて日本人を称えるのは不適切であるという批判が上がった。これを受け、Google.ukのページは急遽修正される事態となった。この出来事は、歴史上の人物の評価や記念のあり方について、国際的な視点と文化的な感受性が求められることを示唆している。
9. 関連作品
秀策の生涯や業績は、様々なメディアで取り上げられている。
- 『敲玉餘韵』(囲碁名著文庫8)池田書店 1983年
- 『完本 本因坊秀策全集』誠文堂新光社 1996年
- 『秀策』(日本囲碁大系15、石田芳夫解説、田村孝雄著)筑摩書房 1976年
- 石田芳夫『道策・秀策・呉清源-道を拓いた三大巨星』誠文堂新光社 1987年
- 福井正明『秀麗秀策 (囲碁古典名局選集) 』日本棋院 1992年
- 福井正明『名人・名局選 秀策』誠文堂新光社 2008年
- 高木祥一『秀策極みの一手』日本棋院 2010年
9.1. パソコンゲーム
- 『本因坊秀策 囲碁トレーナー』、日本ソフト&ハード社、PC-8800シリーズ、1983年7月
- 『秀策御城碁集』、アシーナソフトウェア、FM-8