1. 概要
朴景浩(パク・キョンホ)は、1930年に日本統治下の黄海道海州で生まれ、2021年にソウルでその生涯を終えた、大韓民国出身の著名なサッカー選手、指導者、そしてサッカー行政官である。彼は選手として陸軍特務部隊 축구단で活躍し、韓国代表のフォワードとして1956年AFCアジアカップでの優勝や1958年アジア競技大会での銀メダル獲得に貢献した。引退後は慶熙大学校やソウル大学校などで指導者としてのキャリアを積み、大韓サッカー協会や韓国プロサッカー連盟の要職を歴任。特に、日本の大分トリニータの技術顧問としてクラブの創設期から発展に尽力し、盧廷潤をはじめとする韓国人選手のJリーグ進出を支援するなど、日韓サッカー交流の架け橋としての役割も果たした。また、KBSのサッカー解説委員や著述家としても活動し、多角的な視点から韓国サッカー界の発展に寄与した功績は大きい。
2. 個人史
朴景浩の個人史は、日本統治下の黄海道海州での生い立ちから、解放後の韓国への移住、そしてサッカー選手としてのキャリアを築き、晩年をソウルで過ごし、2021年に死去するまでの道のりを含みます。また、彼には同じくサッカー選手として韓国代表で活躍した弟の朴景和がいました。
2.1. 生い立ちと出生
朴景浩(박경호韓国語)は1930年5月20日、日本統治時代の黄海道海州に生まれた。
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彼は解放後の1946年に弟の景和とともに韓国に逃れた。
慶熙大に編入する前には京信中学校を卒業している。
2.2. 家族
朴景浩には、同じくサッカー選手であり指導者でもあった弟の朴景和(박경화韓国語、1939年6月2日 - 2023年4月4日)がいた。朴景和もまた韓国代表として活躍した経歴を持つ。
2.3. 死去
朴景浩は2021年3月29日にソウルで死去した。
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彼は韓国サッカー界の重鎮として知られていた。
3. 選手としての経歴
朴景浩は、韓国のトップクラブである陸軍特務部隊 축구단での活躍を経て、韓国代表のフォワードとして1950年代に国際舞台でその才能を発揮し、アジアカップ優勝やアジア競技大会での銀メダル獲得に貢献しました。
3.1. クラブでの活動
朴景浩は、当時韓国でトップクラスのサッカー選手が集まっていた陸軍特務部隊 축구단(CIC FC、육군 특무부대 축구단韓国語)にフォワードとして所属し、選手として活動した。
彼は1961年に現役を引退した。
3.2. 韓国代表での活動
朴景浩は1954年から1958年まで韓国代表としてプレーした。
彼は1956年AFCアジアカップの韓国代表メンバーの一員であり、同大会で韓国が優勝した際の重要な選手であった。
また、1958年アジア競技大会では、韓国代表の一員として銀メダル獲得に貢献した。
1956年に香港で開催された第1回AFCアジアカップでは、崔楨珉らとともに18人の代表メンバーに選出され、初代アジアチャンピオンの一員となった。
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4. 主な功績と受賞歴
朴景浩は選手として、1956年AFCアジアカップでの韓国代表の優勝に貢献し、初代アジアチャンピオンの一員となりました。また、1958年アジア競技大会ではチームの銀メダル獲得に大きく寄与しました。
4.1. AFCアジアカップ
朴景浩は、1956年AFCアジアカップで韓国代表が優勝した際の重要な選手の一人であった。この優勝は、韓国にとって初のAFCアジアカップタイトル獲得となった。
4.2. アジア競技大会
朴景浩は、1958年アジア競技大会において韓国代表が銀メダルを獲得した際に貢献した。この大会は東京で開催された。
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5. 指導者・行政官としての経歴
選手引退後、朴景浩は大学や高校で指導者としてのキャリアを積み、大韓サッカー協会や韓国プロサッカー連盟の要職を歴任しました。特に、日本の大分トリニータの顧問として、また韓国人選手のJリーグへの紹介を通じて、日韓サッカー交流に多大な貢献をしました。
5.1. 指導者としての活動
サッカー選手引退後、朴景浩は慶熙大学校に編入し、サッカー部で選手兼コーチを務めた。
その後、漢陽工業高等学校の体育教師を務め、さらに建国大学校、陸軍士官学校、ソウル大学校のサッカー部監督を歴任し、多くの選手を指導した。
5.2. 国際的な活動と顧問
朴景浩は、大韓サッカー協会理事や韓国プロサッカー連盟競技理事といった要職を歴任し、韓国サッカー界の発展に尽力した。
また、彼は日本の大分トリニータの技術顧問としても活動した。1994年のクラブ設立時より、知己であった今西和男の紹介で大分トリニータに加わり、2010年まで技術顧問を務めた。
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彼は大分トリニータの初代監督である文正植や、皇甫官をはじめとする韓国人選手をクラブに呼び寄せるなど、チームの強化に貢献した。彼の活動は、大分トリニータの観客数を大幅に増やすことにも寄与した。
さらに、1993年には盧廷潤をサンフレッチェ広島に紹介し、彼を韓国人Jリーガー第1号としてJリーグに送り出した。これは、日韓のサッカー交流における重要な一歩となった。
6. その他の活動
朴景浩はサッカー選手や指導者としての活動に加え、KBSのサッカー解説委員としてメディアで活躍し、またサッカーに関する複数の書籍を執筆するなど、著述家としてもその才能を発揮しました。
6.1. メディアでの活動
朴景浩はKBSのサッカー解説委員を1972年より担当し、長年にわたりサッカーの魅力を視聴者に伝えた。
6.2. 執筆活動
彼はコラムニストとしても精力的に活動し、サッカーに関する複数の著書を執筆した。
共著には『韓国サッカー100年秘史』(日本語版題『日本は敵・JAPANは友 打倒日本を貫いた韓国サッカー百年恨の秘話』)などがある。
7. 評価と影響力
朴景浩は、選手、指導者、行政官、そしてメディアでの活動を通じて、韓国サッカーの黎明期から発展期にかけて多大な貢献を果たしました。また、日本のJリーグ創設期における関与は、日韓サッカー交流の架け橋となり、特に大分トリニータの発展と韓国人選手の日本進出に大きな影響を与えました。
7.1. 韓国サッカーへの貢献
朴景浩は、韓国サッカーの初期における重要な人物の一人として評価されている。彼は選手として初代アジアカップ優勝に貢献し、引退後は指導者として多くの選手を育成した。また、大韓サッカー協会や韓国プロサッカー連盟での行政官としての役割も果たし、韓国サッカーの制度的発展にも寄与した。彼の多岐にわたる活動は、韓国サッカーの基盤を築き、その発展に不可欠な役割を果たした。
7.2. 日本サッカーへの影響
朴景浩は、日本のサッカー界、特にJリーグ黎明期において顕著な影響を与えた。彼は大分トリニータの技術顧問として、クラブの設立と成長に深く関わり、韓国人監督や選手の導入を通じてチームの強化に貢献した。盧廷潤をJリーグに紹介したことは、その後の多くの韓国人選手が日本でプレーする道を開き、日韓のサッカー交流を促進する上で画期的な出来事であった。彼の日本での活動は、単なる技術指導に留まらず、両国のサッカー文化の相互理解と発展に貢献した点で高く評価されている。