1. 生涯
箕輪登の生涯は、医師としての専門知識と、日本の政治における長期にわたる貢献によって特徴づけられる。彼は激動の昭和時代を生き抜き、戦後の復興から高度経済成長、そして冷戦終結後の国際社会の変革期において、多岐にわたる分野でその能力を発揮した。
1.1. 出生と幼少期
箕輪登は1924年3月5日に北海道小樽市で生まれた。彼の幼少期の詳細な記録は少ないが、この北海道の港町での経験が、後の彼の人間形成に影響を与えたと考えられる。
1.2. 学歴と医師としての初期活動
箕輪は小樽市中学校(現在の北海道小樽潮陵高等学校)を卒業後、北海道帝国大学(現在の北海道大学)医学専門部で学んだ。第二次世界大戦末期の1945年3月には陸軍軍医見習士官に任官し、同年8月に終戦を迎えた。戦後、1946年からは日本医療団寿都病院(現在の寿都町立寿都診療所)で外科医長を務め、1948年には寿都町に自身の箕輪外科医院を開業した。その後、1952年には故郷の小樽市稲穂に戻り、再び箕輪外科医院を開業し、地域医療に貢献した。
2. 政治家としての経歴
箕輪登の政治家としての経歴は、外科医から政治の道へと転身し、長年にわたり日本の国政、特に衆議院で重要な役割を担った点で注目される。彼は地方から国政へと活動の場を広げ、要職を歴任する中で、日本の防衛や通信行政に深く関与した。
2.1. 政界入りと衆議院議員としての活動
箕輪登は1960年、薄田美朝(元警視総監、後に衆議院議員)に見出され、第29回衆議院議員総選挙に旧北海道第1区(定数5)から保守系の無所属候補として立候補した。しかし、立候補者9人中7位で落選し、この選挙区では日本社会党の横路節雄、自由民主党の椎熊三郎(元衆議院副議長)、高田富與(元札幌市長)といった有力候補と競り合う形となった。この挫折を経験した後、1962年からは当時の北海道開発庁長官であった佐藤栄作の秘書兼主治医として活動を開始し、政治の中枢に触れる機会を得た。
1967年1月30日、箕輪は自民党の公認を得て第31回衆議院議員総選挙に再び旧北海道1区から出馬し、得票数4位で初当選を果たした。同期当選者には山下元利、増岡博之、加藤六月、塩川正十郎、河野洋平、中尾栄一、藤波孝生、武藤嘉文、坂本三十次、塩谷一夫、山口敏夫、水野清などがいる。当選後は佐藤が率いる佐藤派に入会し、その後1990年1月24日に引退するまで8期連続で衆議院議員を務めた。1972年の佐藤派分裂後には田中派に所属し、派閥政治の中で自身の基盤を固めた。
2.2. 閣僚・主要役職の歴任
箕輪は衆議院議員として経験を積んだ後、政府の要職に任命された。1972年には第2次田中角栄内閣において防衛政務次官に就任し、日本の防衛政策の形成に関与した。この役職は、後に彼が自衛隊イラク派遣に反対する運動に参加する際に、元防衛担当者としての説得力のある発言を可能にする背景となった。
1981年11月30日には、鈴木善幸改造内閣で郵政大臣に任命され、1982年11月27日まで務め、初めての入閣を果たした。郵政大臣としては、当時の通信行政や郵便事業の近代化に尽力し、日本の情報通信インフラの発展に貢献した。また、国会では衆議院運輸委員長(1978年 - 1979年)や衆議院安全保障特別委員長などの要職も歴任した。
2.3. 政治的挫折と引退
箕輪登の政治家としてのキャリアは順風満帆ではなかった。1987年の北海道知事選挙では、自民党が擁立した元農林水産官僚の松浦昭を支援したが、松浦は現職の横路孝弘知事に大敗を喫した。この結果、当時の自民党北海道連会長であった箕輪は、その責任を取る形で辞任に追い込まれた。派閥政治においては、田中派分裂に際して経世会に参加した。
1990年、箕輪は脳梗塞を患い、政治活動を続けることが困難となり、政界を引退した。引退後、彼は懸命なリハビリテーションによって言語障害を克服し、地元小樽市で私立病院の顧問として医療現場に復帰し、晩年を過ごした。
3. 人物と主な活動
箕輪登は、その政治家としての顔だけでなく、個人の性格や社会活動においても多岐にわたる側面を持っていた。特に、晩年の自衛隊のイラク派遣に対する反対運動は、彼の政治的信念と社会への強い関与を示す象徴的な活動となった。
3.1. 人物像とその他の活動
箕輪登は、衆議院議員に当選する以前から、北海道中央バスの第2代社長である松川嘉太郎や、ジャーナリストで漫画家、そして北海道中央バスの顧問も務めた唯是日出彦など、地元の北海道において複数の有力者と親交があった。これは、彼が地域社会との深い繋がりを持っていたことを示している。
政治的な側面では、元自由民主党副総裁の金丸信が主宰した「日本戦略研究センター」の理事長を務めていた。しかし、竹下登の後見人であった金丸信が結成を主導した創政会への参加を巡り、メンバーに名を連ねていたにもかかわらず、後に金丸の名前を出して入会を撤回したため、金丸の怒りを買い、理事長を解任され出入り禁止になったという逸話がある。この出来事は、彼の政治的立ち回りや、当時の政治力学の中で経験した困難を示している。
また、箕輪は長年にわたり北海道新幹線の計画推進に熱心に取り組んだことで知られている。北海道出身の政治家として、地域の発展と交通インフラの充実に強い関心を持ち、その実現に向けて尽力した。
3.2. 自衛隊イラク派遣反対運動
箕輪登は、元防衛政務次官という政府の防衛政策の要職を経験した人物でありながら、2004年に当時の小泉内閣による自衛隊のイラクへの派遣に強く反対する運動に参加したことは、彼の政治的信念の重要な転換点を示している。彼は国を相手取り、札幌地裁に自衛隊イラク派兵差止を求める訴訟(自衛隊イラク派兵差止北海道訴訟)を起こした。
2005年3月28日に提訴された二次訴訟には、箕輪の他にも、元日本社会党衆議院議員の竹村泰子、元日本共産党衆議院議員の児玉健次、市民運動活動家の花崎皋平ら、様々な政治的立場や背景を持つ人物が原告として加わった。箕輪自身も、訴訟への賛同者を募るために全国各地を精力的に巡り、講演や執筆活動を通じて自衛隊派遣の不当性を訴えた。
イラク日本人人質事件が発生した際には、彼は人質の解放を求めるために、自らを身代わりとして提供するという異例の声明を発表した。この行動は、彼の人命尊重と人権擁護に対する強い姿勢を明確に示したものであり、多くの人々に衝撃を与えた。また、当時の内閣官房長官であった福田康夫らが主張した「自己責任論」に対しては、人質となった日本人3名を擁護し、政府の姿勢を批判する反論を行った。
箕輪の死後、2007年11月19日に札幌地裁は原告の訴えを退ける判決を下したが、原告側は札幌高裁に控訴し、この訴訟は彼の死後も継続された。この一連の活動は、彼の長年の政治家としての経験と、平和主義、立憲主義への深い理解が結びついた結果であり、彼の社会的信条と行動を象徴する重要な部分となった。
4. 著書
箕輪登は政治活動の傍ら、共著として複数の書籍を出版している。これらの著書は、彼の政治的見解や、特に憲法9条と防衛問題に対する深い考察を反映している。
- 共著
- (内田雅敏)『憲法9条と専守防衛』(梨の木舎、2005年)
- (小池清彦、竹岡勝美)『我、自衛隊を愛す 故に、憲法9条を守る-防衛省元幹部3人の志』(かもがわ出版、2007年)
5. 死去
箕輪登は2006年5月14日に肺炎のため、札幌市の札幌医科大学附属病院で死去した。享年82歳であった。彼の死去は、長年にわたり日本の政治に貢献し、晩年には自衛隊イラク派遣反対運動の先頭に立った人物の生涯の終焉を意味した。
6. 評価と遺産
箕輪登の生涯と業績は、多岐にわたる評価と論争の対象となってきた。彼の経歴は、保守政治家としての側面と、平和主義や人権擁護に重きを置いた活動家の側面が共存しており、その複雑さが彼の遺産の評価に深みを与えている。
6.1. 歴史的評価
箕輪登は、8期にわたる衆議院議員としての活動を通じて、日本の国政に長く貢献した。防衛政務次官や郵政大臣などの要職を歴任し、それぞれの分野で政策決定に携わったことは、彼の行政手腕と政治的影響力を示すものである。その功績に対し、勲一等瑞宝章が授与された。特に北海道新幹線の推進に熱心であったことは、地元北海道の発展に対する彼の強いコミットメントを裏付けるものとして評価される。
しかし、彼の歴史的評価において最も特徴的なのは、晩年の自衛隊イラク派遣反対運動への参加である。元防衛担当者でありながら、憲法9条の原則を擁護し、政府の派遣決定に異を唱え、訴訟活動を行ったことは、彼の政治家としての信念の深さと、平和主義に対する強いコミットメントを示すものとして高く評価されている。この行動は、国家の安全保障政策に対する市民的抵抗の重要な事例として、日本の立憲主義や平和運動の文脈で語り継がれるべき遺産である。また、イラク日本人人質事件において「自己責任論」を批判し、人質の人権を擁護した姿勢は、彼のヒューマニズムと社会正義への関心を強く示しており、彼の評価に肯定的な影響を与えている。
6.2. 批判と論争
箕輪登の政治キャリアには、いくつかの批判や論争も存在する。初期の選挙での落選経験や、1987年北海道知事選挙での自民党候補の敗北による党北海道連会長の辞任は、彼の政治的限界や戦略の失敗を示す側面として挙げられる。
特に注目されるのは、金丸信との関係である。箕輪が金丸信が主宰する組織の理事長を務めながら、金丸の意に反して創政会への参加を撤回したことで、金丸の怒りを買い、理事長を解任され出入り禁止になったという出来事は、当時の自民党の権力闘争の中で彼が経験した苦難と、その中で彼がどのような選択をしたかを示す事例として論じられることがある。
これらの批判や論争は、箕輪登という人物が、単一のイデオロギーに縛られず、政治的信念と現実的な力学の間で葛藤し、時に困難な決断を下してきた複雑な政治家であったことを示している。
7. 外部リンク
- [http://kamuimintara.net/sub/129_01.pdf 経歴.pdf]