1. 概要

谷亮子(谷 亮子たに りょうこ日本語、旧姓: 田村たむら日本語)は、日本の元柔道家であり、後に政治家として活動した人物である。女子柔道のエクストラライト級(48kg級)で活躍し、世界選手権で前人未到の7度の優勝、オリンピックでは2つの金メダルを含む5つのメダル(金2、銀2、銅1)を獲得するという輝かしい記録を打ち立てた。その功績から、国際柔道連盟からは「史上最高の女子柔道家」と評され、2013年には同連盟の殿堂入りも果たしている。
幼少期から柔道に打ち込み、その小柄な体格からは想像もつかないほどの敏捷な動きと精神的な強さで「ヤワラちゃん」の愛称で国民的な人気を博した。彼女の活躍は、日本の女子スポーツ、特に女子柔道界に大きな影響を与え、スポーツと育児の両立の象徴としても注目された。
2010年には民主党の比例区から出馬し、参議院議員として政界に進出した。国会議員としてはスポーツ振興に尽力したが、所属政党の変遷や政治資金を巡る疑惑など、政治活動中にいくつかの論争も経験した。2016年に議員を引退した後も、柔道界やスポーツ界との関わりを続けている。
2. 生い立ちと背景
谷亮子は、福岡県福岡市東区で1975年9月6日に生まれた。
2.1. 幼少期と教育
谷は福岡県福岡市で生まれ、4歳年上の兄の影響を受けて城浜小学校2年生の時に東福岡柔道教室で柔道を始めた。柔道開始からわずか数か月後には櫛田神社の奉納試合で5人抜きを達成し、男子を投げ飛ばして負傷させたこともある。この頃は柔道以外にピアノ、書道、乗馬も習っていたが、ピアノの先生に「ピアノには五輪はなかと」と言われたことをきっかけに柔道に専念するようになった。
小学校4年生の時には九州少年柔道大会の団体戦で優勝し、最優秀選手に選ばれた。小学校5年生の時には全国少年柔道大会の団体戦に東福岡柔道教室の先鋒として出場し、準決勝で敗れたものの3位に入賞した。小学校6年生の時には団体戦の全日本少年少女武道錬成大会で優勝を飾った。小学校の卒業文集では「私は柔道が好きな女三四郎でーす」と自己紹介し、レベッカとジョージ・マイケルのファンでもあった。
城香中学校2年生の時、体重別九州予選の準決勝で柳川高校3年生の衛藤裕美子に送襟絞で敗れ、本選出場を逃した。この際、道場の師範である稲田明から顔を叩かれ、「試合を放棄するようなことはするな。あと20秒辛抱すれば勝ったのに、今までやってきたことが台なしではないか。やり直しだ」と叱責された。その後、全日本女子代表チームの強化合宿に参加したが、体が小さく白帯だったため当初は相手にされなかった。しかし、48kg級トップレベルの埼玉大学1年生、鈴木若葉を豪快な背負投で投げ飛ばし、周囲を驚かせた。また、篠栗町の道場に出稽古に赴いた際には、自分より30 kg近く重い男子中学生を次々と投げ飛ばし、投げられた生徒の中には柔道を辞めてしまう者もいた。
中学3年生の時には6月の都道府県対抗全日本女子柔道大会に福岡県チームの一員として出場し、予選リーグで2戦全勝を収めたがチームは敗退した。7月の体重別では準決勝でこの階級の第一人者である筑波大学1年生の江崎史子に横四方固で一本負けしたが、3位に入賞した。8月には全日本代表チームのフランス遠征メンバーに選ばれ、現地での練習試合で5戦全勝を記録した。10月の強化選手選考会では、決勝で京都産業大学3年生の坪井由香里に判定勝ちし、福岡国際の代表に選ばれた。
12月の福岡国際では、大会最年少の15歳で優勝を飾り、衝撃的な国際大会デビューを果たした。初戦で中国の湯礼紅に優勢勝ち、準決勝で長年この階級の女王であったイギリスのカレン・ブリッグスをわずか28秒の合技一本で破り、決勝では前年の優勝者である中国の李愛月に内股すかしで一本勝ちした。この直後には体重無差別の福岡県女子選手権でも、4階級上の66kg級の選手を破り優勝した。この頃は正月以外は年中無休で柔道に取り組み、平日午後6時から9時半、週末は午後2時から6時まで稽古に励んでいた。小学校の頃から引っ込み思案だったが、「ヤワラちゃん」の愛称で呼ばれるようになってからは、自分の意見をはっきりと発言できるようになったという。
1991年4月、谷は柔道を始めた時から指導を受けていた鎌田智博が監督を務める福岡工業大学附属城東高等学校へ進学した。ここでは軽量級の元世界チャンピオンである園田義男と、1976年モントリオールオリンピック中量級金メダリストの園田勇という園田兄弟からも指導を受けた。高校1年生の時には6月の体重別準決勝で筑波大学1年生の永井和恵を掬投で破り、決勝では江崎に判定勝ちして前年の雪辱を果たし、世界選手権代表に選ばれた。
7月のバルセロナ世界選手権では、準決勝でブリッグスに上四方固で一本負けしたが、3位決定戦でポーランドのマウゴジャータ・ロシュコフスカを大外刈で破り銅メダルを獲得した。10月の国体少年女子の部では、福岡県チームの一員として優勝に貢献した。11月のアジア選手権では、右足靱帯を損傷しながらも3位に入賞した。12月の福岡国際では、決勝で江崎に辛うじて勝利し、この後の首脳陣による特別座談会で、その選考を巡る議論が交わされた。
1992年2月にはドイツ国際に出場し、決勝で地元のドルテ・ダンマンを内股で破るなどオール一本勝ちで優勝した。高校2年生の時には5月の体重別決勝で埼玉大学1年生の長井淳子に優勢勝ちし、大会2連覇を達成するとともに、バルセロナオリンピック代表に選ばれた。
大学は帝京大学文学部に進学し、柔道部監督は東福岡柔道教室時代の恩師である稲田が務めた。また、日本体育大学大学院博士前期課程も修了している。
2.2. 初期キャリア活動
谷は1998年に帝京大学を卒業後、トヨタ自動車に入社し、柔道選手として所属した。2010年3月31日にはトヨタ自動車とのスポンサー契約が終了し、選手としての所属を個人事務所の「オフィス・リョウコ」に変更した。
3. 柔道キャリア
谷亮子は、柔道選手として数々の輝かしい記録を打ち立て、「史上最高の女子柔道家」と称されるほどの圧倒的な戦績を誇った。
3.1. 柔道への参入と初期キャリア
谷が柔道を始めたのは、城浜小学校2年生の時、4歳年上の兄の影響を受けて東福岡柔道教室に入門したのがきっかけである。指導者としては、東福岡柔道教室時代の稲田明、高校時代の鎌田智博、そして1976年モントリオールオリンピック金メダリストの園田勇と園田義男の「園田兄弟」から指導を受けた。
柔道を始めてわずか数か月で頭角を現し、小学校4年生で九州少年柔道大会団体戦優勝、6年生で全日本少年少女武道錬成大会団体戦優勝を経験した。中学3年生の時には体重別で3位に入賞し、同年12月には福岡国際に初出場し、15歳で優勝という衝撃的な国際大会デビューを飾った。この優勝は、彼女にとって忘れられない試合の一つと回想されている。
高校時代には、世界選手権で銅メダルを獲得し、翌1992年にはドイツ国際で優勝するなど、国際舞台での実績を積み重ねた。
3.2. 主要大会での成績
谷亮子は、国際柔道界において圧倒的な戦績を誇り、数々の主要大会で優勝を重ねた。
3.2.1. オリンピックメダル
谷は5度のオリンピックに出場し、出場した全ての大会でメダルを獲得するという偉業を成し遂げた。その内訳は金メダル2個、銀メダル2個、銅メダル1個である。
- バルセロナ1992:銀メダル
- アトランタ1996:銀メダル
- シドニー2000:金メダル
- アテネ2004:金メダル
- 北京2008:銅メダル
特に、シドニーとアテネでの連続金メダル獲得は、女子柔道家として初の快挙であり、その歴史的意義は大きい。
3.2.2. 世界選手権
谷は世界選手権で、女子柔道史上最多となる7度の優勝という前人未到の記録を樹立した。
- 1991年バルセロナ:銅メダル
- 1993年ハミルトン:金メダル(初優勝、史上最年少の18歳1か月)
- 1995年千葉:金メダル(2連覇)
- 1997年パリ:金メダル(3連覇)
- 1999年バーミンガム:金メダル(4連覇)
- 2001年ミュンヘン:金メダル(5連覇)
- 2003年大阪:金メダル(6連覇)
- 2007年リオデジャネイロ:金メダル(2大会ぶり7度目の優勝)
2005年の世界選手権は長男の妊娠・出産のため欠場している。この7度の優勝記録は、男子柔道でテディ・リネールが2015年に8度目の優勝を果たすまで、世界最多記録であった。
3.2.3. その他の主要タイトル
谷はオリンピックや世界選手権以外にも、数々の国際大会で圧倒的な強さを示した。
- 福岡国際女子柔道選手権大会:12度の優勝(1990年から2000年まで11連覇、2002年にも優勝)。
- 全日本選抜柔道体重別選手権大会:14度の優勝(1991年から2001年まで11連覇、2003年、2004年、2005年にも優勝)。
- アジア競技大会:1994年広島大会で金メダル。
- ユニバーシアード:1995年福岡大会で金メダル。
- 東アジア競技大会:1993年上海大会で金メダル。
- 国民体育大会少年女子の部:1991年、1993年に優勝。
- 全日本女子柔道強化選手選考会:1990年、1994年に優勝。
- 全国高等学校柔道選手権大会:1993年に優勝。
- 全国女子柔道体重別選手権:1998年に優勝。
- ドイツ国際:1992年に優勝。
- フランス国際:1993年に優勝。
3.3. オリンピック出場
谷亮子は5度のオリンピックに出場し、その全てでメダルを獲得した。各大会での具体的な試合内容とエピソードは以下の通りである。
3.3.1. バルセロナ1992
1992年バルセロナオリンピックに16歳で出場した谷は、初戦でキューバのアマリリス・サボンに優勢勝ち、準々決勝で李愛月に一本勝ち、準決勝では前年の世界選手権で敗れたカレン・ブリッグスを反則負けに追い込み、決勝に進出した。決勝では世界チャンピオンであるフランスのセシル・ノバックと対戦。開始30秒過ぎに双手刈で効果を取られると、その後も攻め込むもののポイントは取れず、敗れて銀メダルに終わった。しかし、16歳331日でのメダル獲得は、オリンピックの柔道競技における史上最年少メダリストの記録となった。ノバックは試合後、「田村は小さすぎる、勝てるわけがない。田村は16歳と若くきゃしゃだ。全く怖くなく、初めてだったが勝つ自信があった」とコメントした。谷は「ノバックは(2階級上の)56kg級の選手のように懐が深く力が強かった。あともう少しがんばったら金メダルがもらえたのに」と悔しさを滲ませた。
3.3.2. アトランタ1996
1996年アトランタオリンピックでは、バルセロナでの敗戦後から続いていた84連勝という驚異的な記録を引っ提げて臨んだ。大会開会式では日本選手団の旗手を務めるなど、金メダルへの期待が非常に高かった。初戦から順調に勝ち進み、準決勝では最大のライバルと目されたアマリリス・サボンを背負投で破った。しかし、決勝ではワイルドカードで出場してきた全く無名の北朝鮮のケー・スンヒと対戦し、予想外の敗戦を喫し再び銀メダルに終わった。ケーは柔道衣を左前に着るという異例の組み手で谷を撹乱し、試合終盤に小外刈で効果を取られ、さらに指導まで与えられて敗れた。この敗戦により、谷の連勝記録は84でストップした。アトランタの畳は滑りやすく、谷のような小柄な選手には不利だったという指摘もされた。この敗戦は谷にとって大きな挫折となり、日本のメディアは「オリンピックの呪い」と報じた。しかし、谷自身は後に「呪いなどなかった。1992年は16歳で経験が不足していたし、1996年は20歳だった」と振り返り、持田典子からの「神様は乗り越えられない人には試練を与えない」という手紙に感銘を受け、立ち直るきっかけをつかんだ。「アトランタでは準決勝でサボンに一本勝ちした時、これでもう優勝は決まったようなものだと自信満々になったのは間違いだった。これを教訓にそれからは対戦が予想される全ての選手をライバルと思うようになった」「金メダルを取るまで私はあきらめない。自分が完璧になったとき、最高の喜びが待っていると思います」と語った。
3.3.3. シドニー2000
2000年シドニーオリンピックには、「最高で金(メダル)、最低でも金(メダル)」という決意を胸に臨んだ。初戦の中国の趙順心戦では苦戦を強いられたものの、終了1秒前に内股返の有効で辛うじて勝利した。準々決勝ではウクライナのリウドミラ・ルシニコワに払腰で一本勝ち、準決勝では北朝鮮のチャ・ヒョニャンに判定勝ちを収めた。そして決勝ではロシアのリュボフ・ブルレトワをわずか38秒の内股一本で破り、悲願のオリンピック金メダルを獲得した。谷は嬉し涙を流し、「ようやく初恋の人に出会えた」と勝利の喜びを表現した。この金メダル獲得の功績が評価され、福岡県では初となる県民栄誉賞を受賞した。
3.3.4. アテネ2004
2004年アテネオリンピックには、結婚して「谷亮子」として臨んだ。大会1か月前に左足首を負傷し、その影響が懸念されたが、初戦から決勝まで全て一本勝ちで勝ち進んだ。決勝ではフランスのフレデリク・ジョシネと対戦し、開始早々に大外刈で効果、直後に背負投で有効を奪うなど圧倒し、最終的には大内刈で技ありを取り快勝。オリンピック2大会連続の金メダルを獲得した。これは女子柔道家として初の快挙であり、試合後には「シドニーの時よりも何倍も嬉しいです」と涙を流して喜んだ。また、夫であるプロ野球選手の谷佳知も野球競技で銅メダルを獲得したため、夫婦揃ってのメダリストという快挙も達成し、マスコミからは「谷でも金」と賞賛された。
3.3.5. 北京2008
2008年北京オリンピックは、谷にとって5大会連続の出場となり、日本選手の夏季オリンピック最多連続出場記録を更新した。柔道競技初日に登場し、準々決勝まで順調に勝ち進んだ。しかし、準決勝でルーマニアのアリナ・ドゥミトルと対戦。互いに組み手を嫌って牽制し合う膠着状態が続き、指導2となった後、残り33秒でスペイン出身の主審が谷にだけ指導3を与え、谷は反撃むなしく敗れた。この判定によりオリンピック3連覇の夢は破れ、外国選手に敗れたのはアトランタオリンピック決勝以来12年ぶり、ヨーロッパの選手に敗れたのはバルセロナオリンピック決勝以来16年ぶりのことだった。この敗戦により、対外国選手の連勝記録も61でストップした。その後の3位決定戦ではロシアのリュドミラ・ボグダノワに内股で一本勝ちを収め、オリンピック5大会連続となる銅メダルを獲得した。準決勝の判定については、全日本柔道連盟の強化委員長や女子代表監督などから疑問の声が上がったが、審判員からは「勇気ある正しい判断」との見解も示された。
3.4. 柔道スタイルと哲学
谷亮子は、身長146 cmと小柄ながらも、その敏捷な動きと多彩な技で柔道界を席巻した。もともと背負投、小内刈、大内刈を得意技としていたが、背負投が警戒されるようになると、大外刈、内股、体落、掬投、小外刈など、他の技も積極的に習得し、試合で多用するようになった。特に選手キャリア中盤以降は、背負投以外の技で勝利することが多かった。また、抑込技や腕挫十字固などの寝技も得意とし、寝技での勝利も少なくなかった。
全日本代表チームで谷のコーチを務めた出口達也(広島大学教授)によれば、谷の柔道には「技」という概念はなく、一連の素早い動きの中に技が含まれているに過ぎず、相手が反応できれば結果的にどんな技になっても構わないという哲学があった。彼女は駆け引きがうまく、試合の組み立てが秀逸で、組み手にも強く、相手に良い組み手を取られても瞬時に技を掛けながら外すなど、桁外れの危機管理能力を持っていた。判定で敗れることはほとんどなく、組み際や相手が油断した瞬間を逃さない試合運びは特筆すべき点である。
1999年頃からは、従来の絶妙なタイミングで相手を投げるスタイルに限界を感じ、それを補うためにさらなるパワーアップとスピードアップに努めた。これにより、全身反応速度の高速化と、外国人選手とも互角に渡り合える筋力を獲得した。古賀稔彦は、谷の柔道スタイルを評して「こんな選手は2度と出てこない」と最大級の賛辞を贈っている。
アトランタオリンピックでの敗戦後、谷は負けた試合を精査するよりも、勝った試合を徹底的に分析して勝ちパターンを把握し、それを揺るぎないセオリーにまで高めることに気付いた。また、自らをコントロールできる強さを身に付けるため、オリンピックや世界選手権の2か月ほど前から毎日を「今日が試合当日」と思い聞かせて過ごし、常に最高の状態で試合に臨めるよう自己を律した。小学生の頃から「負けて学ぶことは少ない。勝ってさらに高い目標を掲げる」という基本思考が形成されていたという。
柔道人生で敗れた試合は10試合ほどであり、寝技ではジュニア時代に3回一本負けを喫したことがあるが、立ち技では一度もない。長井淳子は谷が最も強かった時期を1995年と語り、園田兄弟も1993年と1995年の世界選手権で優勝した時がピークだったと述べている。アトランタオリンピック後のインタビューでは対戦が予想される全ての選手をライバルと語っていたが、引退後には「私の柔道人生の中でライバルは作れませんでした」と否定的な見解を示している。
オリンピック及び世界選手権では計9度も優勝しているが、オール一本勝ちで優勝したことは一度もない。しかし、これは一本勝ちが少なかったことを意味するものではなく、大阪世界選手権とアテネオリンピックでは1試合を除いて全て一本勝ちで優勝し、他の世界大会でも多くの試合で一本勝ちを収めている。
21世紀以降、外国人柔道選手が多用する朽木倒(タックル)への対処も巧みであり、相手のタックルを避ける能力もオリンピック2連覇を可能にした要因の一つとされている。現役晩年時には、出産によるブランクと年齢による動きの衰えも見られたが、常にメディアの注目と「勝って当然」というプレッシャーの中で、長年にわたりモチベーションを維持し、頂点に立ち続けた精神力は桁外れである。井上康生は「どういう精神構造なのかな。ゆっくり話を聞きたい。真剣にそう思う」と評している。
3.5. 選手評価と記録
谷亮子は、その圧倒的な戦績と柔道界への貢献から、「史上最高の女子柔道家」として高く評価されている。
主な記録と評価は以下の通りである。
- 国際柔道連盟による評価**: 2011年8月には国際柔道連盟から女子柔道の「史上最高選手」に選出され、2013年8月には同連盟の殿堂入りを果たした。
- 連勝記録**:
- 1992年バルセロナオリンピック決勝での敗戦後から1996年アトランタオリンピック決勝での敗戦まで、4年間で84連勝を記録した。
- 1996年アトランタオリンピック以降、2008年北京オリンピック準決勝で敗れるまで、12年間無敗を維持した。
- 対外国人選手には、1996年12月の福岡国際2回戦から2008年8月の北京オリンピック準々決勝までの約11年8か月の間に61連勝を記録した。通算成績は127勝5敗で、そのうち82勝が一本勝ちである。
- 国内大会では、2002年4月の体重別で福見友子に敗れるまで、121連勝を記録した。
- キャリア通算成績**: 約20年間の選手キャリアで、公式戦での敗戦はわずか5回(または10試合ほど)に留まっている。
- 受賞歴**: 柔道選手としての功績により、数々の賞や栄誉を受けている(詳細は「#受賞と栄誉」の節を参照)。
3.6. 選手選考を巡る論争
谷亮子の選手選考を巡っては、特にオリンピックや世界選手権の代表選考において、いくつかの議論が生じた。
2007年4月8日に福岡国際センターで開催された選抜体重別の決勝で、谷は筑波大学の福見友子に出足払で有効を取られて敗れた。この大会は同年9月のリオデジャネイロ世界選手権の代表選手選考を兼ねていた。大会後の強化委員会では、48kg級の代表選考を巡って約2時間にもわたり議論が紛糾した。結果として、ここ2年間国内外の大会に出場していなかったにもかかわらず、谷が過去の実績を考慮され代表に選出された。これは、北京オリンピックの出場権獲得のために世界選手権で5位以内に入る必要があり、その目的を達成するためには「計算できる」谷が選ばれたという理由が示された。谷自身は「ああ終わったなと思ったのに、選ばれちゃった。私はいつまでやったらいいんですかね」と発言し、北京オリンピックが目標だったため、2007年も休んで体作りをしたかったと語っている。
谷を選出した理由について、当時の全日本柔道連盟強化委員長である吉村和郎は、「ただ世界選手権に出るだけでいいなら、若手を出す。しかし、目指すのはあくまでも金メダル。それを考えると谷のほうが金メダルに近い。われわれの選考を信じてほしい」「世界で戦うということは想像を絶する重圧と戦うこと。(世界選手権で)負けてよくやった、ということはない。勝ち方を知っているベテランならメダルを確実に獲ってくれる」「谷の動きは同じ階級の選手にはまねができないし、このままで終わるヤツではない」と述べた。また、大会3か月前のインタビューで吉村は、「若手3人(福見友子、山岸絵美、中村美里)の力ではまだ谷に追い付き追い越すのは難しい。例え谷に勝ったとしても、彼女たちが世界で戦えるのかという話になる。やはり大方の見方では(代表は)谷になるだろう」とも語っていた。
一方、勝利しながらも代表に選ばれなかった福見は、「悔しいけどコーチの方々がそう判断したのなら仕方ない」とコメントした。強化委員の一人であり、筑波大学で福見を指導していた山口香は、この代表選考に納得がいかず、スポーツ仲裁裁判所に提訴することも考えていたという。谷は後に、「確かに彼女(福見)は国際大会で活躍していましたけど、私にはそれまでに積み上げてきた実績がありました。当時の国内大会では、優勝する選手というのが毎年異なっていた。福見選手は、翌年の北京五輪予選でも結局決勝まで残れなかった。世界を相手に戦うという点においては安定感が兼ね備わっていなかった。だから、リオデジャネイロ世界選手権も北京五輪も代表には私が選ばれたのではないでしょうか」「(ライバルと思える選手がいなかったからこそ)私が一度や二度負けたぐらいで代表から落選するはずはないという考えが私自身の中にあったのは事実です」との見解を示した。
外部からはこの選考を批判する声も少なくなかったが、当時雑誌『近代柔道』の編集長を務めていた桐生邦雄は、今大会が「代表選手選考最終選考会」とテレビや新聞で喧伝されたことで、一般人や柔道に詳しくないマスコミ関係者に「この大会で勝った選手が代表に選ばれる」という先入観を与えてしまったのが問題であると指摘した。強化委員会は、今大会以外に講道館杯や冬季ヨーロッパ遠征における国際大会など、複数の選考対象大会の成績と「これまでの実績」を総合的に判断して代表を決定する基準を設けているため、今回の選考も問題はないとの見解を示した。
2008年4月6日に福岡国際センターで開催された北京オリンピックの代表選手選考を兼ねた選抜体重別の決勝では、谷は山岸絵美に逆転負けを喫した。しかし、前年の世界選手権優勝の実績などを踏まえ、再び谷が代表に選出された。女子代表監督の日蔭暢年は、「谷はディフェンスがよく、ディフェンスからのカウンターも狙える試合巧者。これは他の選手と比べて際立っているという判断で代表に選出した。決勝で敗れたが、コーチ陣の見解は、『ここは谷』で一致した」と選出理由を説明した。
谷が2年連続で決勝で敗れながらも代表に選出されたことから、前年同様に物議を醸し出し、世間からはより透明性のある選考を望む声が噴出した。強化委員の山口香は、世間も納得する明確な選考方法として、ポイント制度の導入を提案した。これに対し、国際柔道連盟は2009年から世界ランキング制度を本格的に導入し、2014年からは国内でもポイント制度を導入しているが、これは「あくまで参考とする一つの指標」であり、最終的には強化委員会の判断によって代表選手が選考されるとしている。
4. 政治キャリア
谷亮子は、柔道選手引退後に政治家へと転身し、国会議員として活動した。
4.1. 政界への参入
谷は小沢一郎の紹介で政界入りした。2010年5月10日、民主党は同年夏の第22回参議院議員通常選挙の比例区公認候補として谷を擁立することを発表した。谷は当初、柔道選手としての現役続行を表明し、2012年ロンドンオリンピックでの金メダルを目指す意欲を示していたが、最終的には参議院議員に当選した後、柔道競技からの引退を表明した。同年7月の参議院選挙では、民主党公認候補の中で2位となる352,594票を獲得し、初当選を果たした。この際、一部メディアからは「小沢ガールズ」の一員として報じられた。
参議院議員として、谷は現役選手と国会議員の活動を両立する意向を持っていたが、同年9月17日、全日本柔道連盟の強化委員会が谷の強化指定ランクを最上位の「ナショナル」から「シニア」に1段階格下げしたことにより、国際大会への出場が大幅に制限されることとなった。その後も練習は続けていたものの、2010年10月15日、国会議員として国政でのスポーツ振興に全力を注ぐことを優先し、ロンドン五輪への代表選考試合への不参加を表明し、「柔道家引退」と報じられた。なお、2008年北京オリンピックで銅メダルに終わって以降、柔道の公式試合には一度も出場していない。
4.2. 議員活動と政党の変遷
谷は2010年7月26日から2016年7月10日まで参議院議員を務めた。議員としては、民主党スポーツ議員連盟会長などを歴任した。
2012年7月2日には、小沢一郎の民主党離党に同調して離党届を提出し、翌3日に受理され、10日に離党した。その後、2012年7月11日には小沢が率いる新党「国民の生活が第一」の結党に参加した。同年11月28日には、嘉田由紀子滋賀県知事が代表を務める「日本未来の党」に参加し、12月1日には党幹事(遊説担当)に就任した。日本未来の党の解党後は、小沢一郎の率いる「生活の党」(後に「生活の党と山本太郎となかまたち」に改称)に所属した。
2013年6月には、全日本柔道連盟の理事に田辺陽子・北田典子とともに女性として初めて起用された。この際、「(女子選手の)窓口的な役割が求められていると思う。柔道を通じて夢や希望を持てる体制を作りたい」「選手と所属(団体)、全柔連などの組織が孤立しないように、意思の疎通を深めたい」「日本発祥の柔道には素晴らしい伝統と文化がある。それを広げながら改革していきたい」と決意を語った。2013年8月2日には、生活の党副代表兼参議院幹事長に就任した。しかし、2015年6月には公務多忙を理由に全柔連の理事から外れている。
4.3. 議員引退
2016年6月、谷は第24回参議院議員通常選挙に出馬しない意向を代表の小沢一郎に伝えた。小沢は、谷が離党すれば政党要件(国会議員5人以上)を満たさなくなるため、党に留まるよう求めたとされる。谷は2016年6月に、選挙まで党に留まるが、2期目の立候補はしないことを発表した。
参議院議員引退後、谷は2018年1月14日に女子四段から女子六段へ飛び昇段したことが講道館から発表された。これは九州柔道協会からの推薦によるもので、谷自身は政治活動に一区切りをつけた2年ほど前から形の稽古などの準備を進めていたとしている。柔道界への現役復帰はしていないものの、2022年6月からは日本プロ野球OBクラブの理事を務めている。
5. 私生活
谷亮子の私生活は、結婚や出産、家族といった側面で注目を集めた。
5.1. 結婚と家族
谷は2003年12月1日、プロ野球のオリックス・ブルーウェーブに所属していた谷佳知と結婚した。結婚披露宴は同年12月20日に行われ、日本テレビで生中継され、推定300.00 万 USDの費用がかかったと報じられた。この披露宴は2000万人の視聴者が見守ったとされる。披露宴では、夫婦のエピソードVTRに谷夫妻自身が出演し、ウェディングケーキは地球をイメージした巨大な青いものであった。柔道を始めたきっかけとなった兄は式を欠席した。
谷夫妻には2人の息子がおり、長男は2005年12月31日に、次男は2009年に誕生している。谷はシドニーオリンピック金メダル獲得当時、将来は専業主婦になるのが理想で、自分の子供には柔道をさせたくないと語っていた。実際に、息子たちは柔道ではなくアイスホッケーに取り組んでいる。参議院議員を一期務めた後は、専業主婦となっている。長男の出産は主要な報道イベントとなり、病院から出てくる姿を一目見ようとカメラクルーが待ち構えていた。
6. 影響と遺産
谷亮子は、スポーツ界、社会、文化全般にわたり広範な影響を与え、後世に多くの功績を遺した。
6.1. 女子スポーツへの影響
谷は、1984年に日本人女子として初めて世界選手権を制した山口香の後に続き、女子柔道界の道を切り開いた。谷が1992年バルセロナオリンピックに出場した際、日本の人々は彼女を浦沢直樹の人気漫画・アニメシリーズ『YAWARA!』の主人公、猪熊柔の「リアル版ヤワラ」と見なし、すぐに「ヤワラちゃん」または「タワラ」という愛称で呼ばれるようになった。
彼女の成功と明るい人柄は、日本で絶大な人気を博した。谷は、1990年代に日本で見られた女子柔道ブームの立役者とされ、新世代の選手たちの台頭を促した。また、結婚後も競技生活を続け、若い母親として最後の世界タイトルを獲得したことから、日本の社会における女性の役割の変化の象徴としても見られている。彼女は女性アスリートのロールモデルとなり、スポーツと育児の両立の可能性を示した。
6.2. 社会的・文化的影響
「ヤワラちゃん」という愛称と共に国民的な人気を得た谷は、数多くのテレビCMに出演した。彼女の結婚式は日本のテレビで生中継され、2000万人が視聴したと報じられている。長男の誕生も主要な報道イベントとなり、病院から出てくる姿を一目見ようとカメラクルーが待ち構えた。
格闘ゲームシリーズ『ワールドヒーローズ』の出雲亮子や、『ファイターズヒストリー』の嘉納亮子といったキャラクターは、谷亮子をモチーフにしている。また、谷をイメージした楽曲「小さくたってでっかいぞ!」(歌:かわさきかつじ)が1996年1月10日にシングルCDとして発売された。消しゴム版画家のナンシー関は、1995年に連載されたコラムで「10年後にヤワラちゃんは選挙に出ていると思う」と予想しており、実際に谷が2010年の参議院選挙に出馬・当選したことで、関の予想は15年越しで的中した。
7. 受賞と栄誉
谷亮子は、柔道選手および政治家としてのキャリアを通じて、数多くの賞、褒章、栄誉を受賞している。
- 1993年度 JOCスポーツ賞 優秀賞
- 1995年度 JOCスポーツ賞 最優秀賞
- 1995年 福岡県 県民スポーツ栄誉賞
- 2000年10月3日 銀杯一組(菊紋)
- 2000年11月6日 内閣総理大臣顕彰
- 2000年度 JOCスポーツ賞 特別栄誉賞
- 2000年 福岡県 県民栄誉賞
- 2002年度 JOCスポーツ賞 特別貢献賞
- 2003年11月3日 紫綬褒章
- 2004年11月3日 紫綬褒章飾版
- 2007年11月3日 紫綬褒章飾版
- 2011年8月 国際柔道連盟より女子「史上最高選手」に選出
- 2013年8月 国際柔道連盟殿堂入り
8. 批判と論争
谷亮子は、選手選考に関する論争に加え、政治家としての活動中に政治資金を巡る疑惑が浮上した。
2015年の収支報告書において、谷の政治団体が人件費として554.00 万 JPYを計上し、そのうち494.00 万 JPYが政治活動の実態がないとされる谷の父親に支払われていたことが報じられた。この件は、政治資金規正法違反の虚偽記載の疑惑として浮上し、谷自身も疑惑を否定しなかった。
9. 戦績
年月 | 大会 | 成績 |
---|---|---|
1986年4月 | 全国少年柔道大会 団体戦 | 3位 |
1987年8月 | 全日本少年少女武道錬成大会 | 優勝 |
1990年7月 | 選抜体重別 | 3位 |
1990年10月 | 全日本女子柔道強化選手選考会 | 優勝 |
1990年-2000年、2002年12月 | 福岡国際 | 11連覇を含め、合計12度の優勝 |
1991年-2001年、2003年-2005年 | 選抜体重別 | 11連覇を含め、合計14度の優勝 |
1991年7月 | 世界選手権 | 3位 |
1991年10月 | 国体 少年女子の部 | 優勝 |
1991年11月 | アジア選手権 | 3位 |
1992年2月 | ドイツ国際 | 優勝 |
1992年7月 | バルセロナオリンピック | 2位 |
1993年2月 | フランス国際 | 優勝 |
1993年3月 | 全国高校選手権 | 優勝 |
1993年5月 | 東アジア大会 | 優勝 |
1993年10月 | 世界選手権 | 優勝 |
1993年10月 | 国体 少年女子の部 | 優勝 |
1994年10月 | アジア大会 | 優勝 |
1994年11月 | 全日本女子柔道強化選手選考会 | 優勝 |
1995年8月 | ユニバーシアード | 優勝 |
1995年10月 | 世界選手権 | 優勝(2連覇) |
1996年7月 | アトランタオリンピック | 2位 |
1997年1月 | ワールドカップ団体戦 | 3位 |
1997年10月 | 世界選手権 | 優勝(3連覇) |
1998年9月 | ワールドカップ団体戦 | 5位 |
1998年11月 | 全国女子柔道体重別選手権 | 優勝 |
1999年10月 | 世界選手権 | 優勝(4連覇) |
2000年9月 | シドニーオリンピック | 優勝 |
2001年7月 | 世界選手権 | 優勝(5連覇) |
2003年9月 | 世界選手権 | 優勝(6連覇) |
2004年8月 | アテネオリンピック | 優勝(2連覇) |
2007年4月 | 選抜体重別 | 2位 |
2007年9月 | 世界選手権 | 優勝(合計7度目の優勝) |
2008年4月 | 選抜体重別 | 2位 |
2008年8月 | 北京オリンピック | 3位 |
10. 対外国人選手の連勝記録
1996年12月の福岡国際2回戦から2008年8月の北京オリンピック準々決勝までの約11年8か月の間に対外国人選手に61連勝しており、浅見八瑠奈の46連勝を上回っている。また、1992年12月の福岡国際2回戦から1996年7月のアトランタオリンピック準決勝までの約3年7か月の間にも42連勝を記録していた。なお、対外国人選手の通算成績は127勝5敗、そのうち一本勝ちが82勝となっている。
連勝数 | ラウンド | 対戦相手 | 内容 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
福岡国際 (1996年12月8日) 優勝 | ||||||
1 | 2回戦 | フジカワ(アメリカ) | 一本勝ち(横四方固) | |||
2 | 3回戦 | ピレス(ブラジル) | 一本勝ち(崩上四方固) | |||
3 | 準決勝 | 李愛月(中国) | 判定勝ち(2-1) | |||
4 | 決勝 | サボン(キューバ) | 優勢勝ち(注意) | |||
ワールドカップ団体戦 (1997年1月19日) 3位 | ||||||
5 | 準決勝 | サボン(キューバ) | 優勢勝ち(有効) | |||
世界選手権 (1997年10月12日) 優勝 | ||||||
6 | 2回戦 | ムートゥー(モーリシャス) | 一本勝ち(大外刈) | |||
7 | 3回戦 | ダマン(ドイツ) | 一本勝ち(横四方固) | |||
8 | 準々決勝 | モスクビナ(ベラルーシ) | 優勢勝ち(有効) | |||
9 | 準決勝 | ペ・ドンスク(北朝鮮) | 一本勝ち(合技) | |||
10 | 決勝 | サボン(キューバ) | 優勢勝ち(有効) | |||
福岡国際 (1997年12月14日) 優勝(決勝は長井と対戦) | ||||||
11 | 1回戦 | 黄麗紅(中国) | 一本勝ち(内股) | |||
12 | 2回戦 | ニシロ=ロッソ(フランス) | 一本勝ち(内股) | |||
13 | 準決勝 | グラダンテ(ドイツ) | 一本勝ち(崩上四方固) | |||
ワールドカップ団体戦 (1998年9月12日) 5位 | ||||||
14 | 1回戦 | マクリ(イタリア) | 一本勝ち(小外刈) | |||
15 | 2回戦 | ベルティ(ブラジル) | 一本勝ち(合技) | |||
16 | 準決勝 | ジョシネ(フランス) | 優勢勝ち(有効) | |||
17 | 3位決定戦 | シモンス(ベルギー) | 優勢勝ち(効果) | |||
福岡国際 (1999年1月17日) 優勝(決勝は真壁と対戦) | ||||||
18 | 2回戦 | ガディチョ(インド) | 一本勝ち(合技) | |||
19 | 3回戦 | 余淑珍(台湾) | 優勢勝ち(有効) | |||
20 | 準決勝 | サボン(キューバ) | 優勢勝ち(技あり) | |||
世界選手権 (1999年10月10日) 優勝 | ||||||
21 | 1回戦 | ルイニ(チュニジア) | 一本勝ち(合技) | |||
22 | 2回戦 | カリイエワ(カザフスタン) | 一本勝ち(横四方固) | |||
23 | 3回戦 | クロプストラ(オランダ) | 一本勝ち(合技) | |||
24 | 準々決勝 | ニシロ=ロッソ(フランス) | 判定勝ち(3-0) | |||
25 | 準決勝 | 朴成子(韓国) | 優勢勝ち(注意) | |||
26 | 決勝 | サボン(キューバ) | 判定勝ち(3-0) | |||
福岡国際 (1999年12月12日) 優勝 | ||||||
27 | 2回戦 | ラウ(香港) | 一本勝ち(合技) | |||
28 | 3回戦 | ヘイレン(ベルギー) | 優勢勝ち(有効) | |||
29 | 準決勝 | 朴成子(韓国) | 優勢勝ち(警告) | |||
30 | 決勝 | サボン(キューバ) | 判定勝ち(3-0) | |||
シドニーオリンピック (2000年9月16日) 優勝 | ||||||
31 | 2回戦 | 趙順心(中国) | 優勢勝ち(有効) | |||
32 | 3回戦 | ルスニコワ(ウクライナ) | 一本勝ち(払腰) | |||
33 | 準決勝 | チャ・ヒョニャン(北朝鮮) | 判定勝ち(3-0) | |||
34 | 決勝 | プロレトワ(ロシア) | 一本勝ち(内股) | |||
福岡国際 (2000年12月10日) 優勝(決勝は濱野と対戦) | ||||||
35 | 2回戦 | タンプラパッソン(タイ) | 一本勝ち(大外刈) | |||
36 | 3回戦 | フデイベルゲノワ(ウズベキスタン) | 一本勝ち(大外刈) | |||
37 | 準決勝 | 金英蘭(韓国) | 一本勝ち(体落) | |||
世界選手権 (2001年7月29日) 優勝 | ||||||
38 | 1回戦 | モスクビナ(ベラルーシ) | 一本勝ち(燕返) | |||
39 | 2回戦 | エンジェルス(メキシコ) | 一本勝ち(払腰) | |||
40 | 準々決勝 | マティヤス(ドイツ) | 優勢勝ち(有効) | |||
41 | 準決勝 | マクリ(イタリア) | 一本勝ち(内股) | |||
42 | 決勝 | リ・キョンオク(北朝鮮) | 判定勝ち(2-1) | |||
福岡国際 (2002年12月8日) 優勝(準決勝は福見、決勝は北田と対戦) | ||||||
43 | 2回戦 | チョウ(香港) | 一本勝ち(合技) | |||
44 | 3回戦 | ジョシネ(フランス) | 優勢勝ち(有効) | |||
世界選手権 (2003年9月14日) 優勝 | ||||||
45 | 2回戦 | グンダル(インド) | 一本勝ち(払腰) | |||
46 | 3回戦 | ドゥミトル(ルーマニア) | 一本勝ち(大外刈) | |||
47 | 準々決勝 | レバーグ(カナダ) | 一本勝ち(合技) | |||
48 | 準決勝 | 高峰(中国) | 一本勝ち(背負投) | |||
49 | 決勝 | ジョシネ(フランス) | 優勢勝ち(指導3) | |||
アテネオリンピック (2004年8月14日) 優勝 | ||||||
50 | 2回戦 | カラヤノブルー(ギリシャ) | 一本勝ち(合技) | |||
51 | 3回戦 | ハッダ(アルジェリア) | 一本勝ち(大外刈) | |||
52 | 準決勝 | ドゥミトル(ルーマニア) | 一本勝ち(合技) | |||
53 | 決勝 | ジョシネ(フランス) | 優勢勝ち(技あり) | |||
世界選手権 (2007年9月16日) 優勝 | ||||||
54 | 2回戦 | マイズラ(マレーシア) | 一本勝ち(体落) | |||
55 | 3回戦 | ジョシネ(フランス) | 優勢勝ち(GS効果) | |||
56 | 準々決勝 | 呉樹根(中国) | 優勢勝ち(GS指導1) | |||
57 | 準決勝 | ドゥミトル(ルーマニア) | 優勢勝ち(技あり) | |||
58 | 決勝 | ベルモイ(キューバ) | 優勢勝ち(有効) | |||
北京オリンピック (2008年8月9日) 3位 | ||||||
59 | 2回戦 | マツモト(アメリカ) | 優勢勝ち(有効) | |||
60 | 3回戦 | 呉樹根(中国) | 優勢勝ち(GS技あり) | |||
61 | 準々決勝 | パレト(アルゼンチン) | 優勢勝ち(指導1) |
11. 有力選手との対戦成績
国籍 | 選手名 | 内容 |
---|---|---|
日本 | 江崎史子 | 2勝1敗 |
日本 | 衛藤裕美子 | 4勝1敗(うち1戦1本勝ち) |
日本 | 長井淳子 | 10勝 |
日本 | 真壁友枝 | 4勝(うち1戦1本勝ち) |
日本 | 北田佳世 | 4勝 |
日本 | 福見友子 | 3勝2敗(うち2戦1本勝ち) |
日本 | 山岸絵美 | 3勝1敗(うち1戦1本勝ち) |
日本 | 浅見八瑠奈 | 1勝 |
イギリス | カレン・ブリッグス | 2勝1敗(うち2戦1本勝ち) |
フランス | セシル・ノバック | 1敗 |
フランス | フレデリク・ジョシネ | 7勝 |
中国 | 李愛月 | 6勝(うち3戦1本勝ち) |
中国 | 湯礼紅 | 2勝1敗(うち1戦1本勝ち) |
キューバ | アマリリス・サボン | 12勝(うち4戦1本勝ち) |
北朝鮮 | ケー・スンヒ | 1敗 |
ルーマニア | アリナ・ドゥミトル | 3勝1敗(うち2戦1本勝ち) |