1. 生涯と背景
金一の生涯は、日本の植民地支配下での抗日運動から始まり、朝鮮半島解放後の北朝鮮政権樹立、そしてその後の国家建設と外交活動に至るまで、激動の時代と共に歩んだ。
1.1. 出生と幼少期
金一は1910年3月20日、朝鮮帝国の咸鏡道(現在の朝鮮民主主義人民共和国の咸鏡北道)に貧しい農家の息子として生まれた。本名は朴徳山であり、金徳山という別称も用いた。金日成の配下にあったことから、金日成に忠実であるという意味で「金一」の仮名を用いたとされる。
1.2. 抗日運動とソ連での活動
金一は1932年に地下朝鮮共産党に入党し、大衆団体での扇動活動を積極的に展開した。1935年10月からは満州の抗日パルチザンに参加し、日本の植民地支配に抵抗する武装闘争に従事した。彼は中国共産主義青年団延吉県委員会の書記を務め、東北抗日連軍第6師第8団の政治委員として活動した。
その後、ソ連領に入った金一は、ソ連軍の第88独立狙撃旅団第1大隊の党書記を務めた。1945年9月には、その功績により赤星勲章を受章した。
2. 解放後の経歴
第二次世界大戦後の朝鮮半島解放以降、金一は北朝鮮の政治・軍事の中心人物として、政権樹立と国家建設に深く関与した。
2.1. 北朝鮮政権樹立への貢献

1945年8月の朝鮮解放後、金一は同年9月に第88独立狙撃旅団の隊員らと共にソ連軍艦プガチョフ号に乗船し、9月19日に元山市港に入港した。帰国後、彼は朝鮮共産党の党中央執行委員に就任した。
1946年4月には北朝鮮労働党中央委員会常務委員兼政治委員となり、同年9月には第1師団文化副師団長を兼任し、朝鮮人民軍の強化発展に貢献した。また、保安幹部訓練大隊の副司令官兼文化副司令官も務めた。1946年11月24日には、北朝鮮労働党第1期中央委員会委員に選出され、以降、死去するまでその地位を維持した。
1948年の朝鮮民主主義人民共和国建国に際しては、第1期最高人民会議代議員に選出され、その後も死去するまで代議員を務めた。同年8月には民族保衛省文化訓練局長兼副相に任命された。当時、金一(김일キム・イル韓国語)文化訓練副局長という同名の人物がいたため、金一は「大きな金一」、金日(金日)は「小さな金日」と呼ばれて区別された。1949年には朝鮮人民軍政治保衛局長に就任し、中国共産党への秘密特使として派遣され、毛沢東らに朝鮮戦争の南侵計画を説明し、支援を要請した。
2.2. 主要な政府および党職
金一は、朝鮮戦争中および戦後の復興期において、北朝鮮の主要な政府および党の要職を歴任し、国家の政策決定と実行に深く関与した。
朝鮮戦争勃発後の1950年6月、金一は朝鮮人民軍前線司令部軍事委員に任命された。しかし、同年12月21日の党中央委員会全体会議では、「飛行機がなければ戦えない」と発言し、投降主義に陥ったとして武亭、林春秋、崔光、金漢中らと共に批判を受け、解任された。その後、彼は復帰し、内務省政治局長、平安南道党委員会委員長を歴任した。朝鮮戦争中は、朝鮮人民軍文化部司令官、逓信省政治局長、民族保衛省副相、平壌南道委員会委員長、内務省政治局長、前線司令部軍事委員などの職務にあり、主に後方での戦時業務を管轄した。
1953年6月には朝鮮労働党中央委員会書記に就任し、同年8月には第2期党中央委員会第6回総会で新設された党中央委員会副委員長に選出された。また、中央委員会常務委員会委員、中央党政治委員会委員、党軍事委員会委員にも選出された。
1954年3月、金一は内閣副首相に任命され、翌4月には農業相を兼任した。副首相兼農業相として、彼は朝鮮戦争後の復興と社会主義の基礎建設に関する政策を推進し、党の路線を整備した。1956年4月の第3回党大会では、党常務委員会委員(政治局員)に選出され、党内序列第4位となった。
1959年1月には内閣第一副首相に昇格し、1962年10月23日にも再度第一副首相に昇格した。1966年10月の第2回党代表者会では、党政治委員会常務委員(政治局常務委員)兼中央委員会書記に就任した。1970年までには、彼は金日成と崔庸健に次ぐ朝鮮労働党最高位のメンバーとなっていた。
1972年12月27日、第5期最高人民会議第1回会議で朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法が制定され、内閣が政務院に改組された。金一は12月28日に初代の政務院総理(首相)に任命された。1976年4月29日、健康上の理由で首相を辞任したが、直ちに国家副主席に転任した。国家副主席としては、1977年12月15日に再任され、1984年に死去するまでその職を務めた。彼は朴成哲と共に国家副主席を務めた。
1979年には祖国平和統一委員会委員長も兼任し、韓国との交渉にあたった。1980年10月の第6回党大会では、党政治局常務委員に再選された。
3. 主要な政治活動
金一は北朝鮮の対外政策と南北統一問題において、重要な役割を担った。
3.1. 対外関係と政策
1960年代、金一は中ソ対立の時期において、ソビエト連邦と中華人民共和国の双方から独立した北朝鮮の立場をさらに強化した。彼はルーマニア社会主義共和国に対し、北朝鮮と同様にコメコン(経済相互援助会議)から距離を置くよう説得を試みた。
また、金一はソ連との貿易および防衛協定の交渉にも参加し、1967年3月にはモスクワとの経済・軍事協定の締結を発表した。
3.2. 南北統一関連活動
金一は北朝鮮の南北統一政策において中心的な役割を担った。1980年の第6回党大会で金日成が「高麗民主連邦共和国」による朝鮮統一を提案したが、これは全斗煥大統領が失脚した場合に限るという条件付きであった。
1981年の新年の辞で全斗煥が金日成に韓国訪問を要請した際、金一はこれに対し、韓国政府を非難し、いかなる対話も行われる前に金日成の要求が全て満たされるべきだと主張した。金一は声明の中で、「これは、全斗煥の汚れた民族分断的な性質を糊塗し、目前に迫った『大統領選挙』で国民の支持を得るための愚かな茶番に過ぎない」「我々がすでに明確に発表したように、全斗煥は我々が何かをするに値する人物ではない」「(この提案は)自分の立場をわきまえない悪党の愚かな行為である」と述べた。
金一はさらに次のように述べた。
「現在の南北関係の複雑さを鑑みると、総選挙が可能な時期は遠く、さらに外国軍が駐留し、韓国に軍事ファシスト体制が維持されている中で、民族自決と民主的手続きの原則に従って総選挙を行うのは論理的ではないことは誰の目にも明らかである。人民の意思を代表する者たちとの民族統一協議会議の結成については、韓国で良心的な人々が人民大衆の要求を代弁して投獄され、その政治活動が法によって禁止されている現状では、単なる空虚な話としか見なせない。...米軍は韓国から撤退し、そこで民主化が実施され、反共対決政策は終結されなければならない。もし彼らが、民族統一の道を阻むこれらの障害を取り除くことによって、新たな出発をその行動で示すならば、我々は現在の韓国の支配者たちと明日にでも会う用意がある。その場合、組織される統一協議体は、民族統一促進会議であろうと民族統一協議会であろうと、どのような形であっても構わない。我々は名称にこだわることはない。我々が主張するのは、南北当局と国内外の様々な政党・団体、各界各層の代表が参加し、高麗連邦制共和国の樹立提案を含む、提起される全ての統一提案と、民族統一の利益のために南北関係を発展させるための喫緊の課題が議論されるべきであるということである。」
3週間後、金一は祖国平和統一委員会委員長として、南北双方から50人ずつの代表による会議の開催を要求した。この提案には、1980年に韓国で禁止された政党の著名な政治家を含む南側の望ましい代表者の名前が含まれていたが、与党からの代表は含まれていなかった。
4. 人生と評価
金一の私生活や家族関係については、公にされる情報は限られているが、彼の人物像や周囲からの評価は、北朝鮮政治における彼の立ち位置を理解する上で重要な手がかりとなる。
4.1. 家族関係
金一の配偶者は中国籍の女性であったが、その名前は不明である。彼には二人の息子がいた。長男は朴容錫(박용석パク・ヨンソク韓国語、1928年 - 2007年3月)で、政務院鉄道部長や朝鮮労働党中央委員会検閲委員会委員長などを歴任した。次男は朴基瑞(박기서パク・ギソ韓国語、1929年 - 2010年1月5日)である。
4.2. 人物評価と関係
金一は、その温厚な人柄と実務能力で多くの同僚政治家から高く評価された。兪成哲は金一を「なかなかの人物で、人間の温かみと幅を感じさせる人柄で、ものの理解力も早くて正確だった」と評した。一方で、「権力欲が少なく、権力闘争を経て権力を自分のものにしていくような策謀をしなかった人物だった」とも指摘している。また、ソ連派の金奉律が金日成体制下で生き残ることができたのは金一のおかげであるとされている。
許真は著書『北朝鮮王朝成立秘史』の中で、金一を「原則的だが性格は温厚で、金策、姜健らと共に抗日パルチザン出身者の中で最も信望の高い人物の一人だった」と記述している。さらに、「一言で評するならば、彼は性格が温厚で人間性に富んでおり、実務能力のある人である。ソ連、延安、国内およびパルチザン出身幹部から一様に尊敬と信任を受けてきた人である」と付け加えている。
朱栄福は『朝鮮戦争の真実』で、金一を「背の高い教養のある人であった。また現実主義者でもある。数多くの将官のうちで、現代戦における飛行機の役割を切実に認めたのは彼一人くらいであろう」と評価している。
彼は、親日派のレッテルを貼られ、父の財産を没収された李闊を保護し、財産を取り戻してあげたという逸話も残っている。
金日成との関係においては、朝鮮中央通信社(KCNA)によって「金日成の最も親密で最高の革命的戦友」と称された。しかし、金正日の後継者体制においては複雑な関係性があったとされる。一部の報道では、金一が金正日に対して批判的であったとされているが、北朝鮮の公式見解では、金一が1974年2月の第5期党中央委員会第8回総会で、金日成が金正日の若さを理由に政治局員就任をためらっていた際に、金正日の党政治局員選出と後継者擁立を率先して主張したとされている。これにより、他の幹部もこれに追随し、金正日が後継者として扱われるようになったという。金一は死去する時点では、金日成に次ぐ党内序列第2位であり、金日成の指定後継者であった金正日よりも形式的には上位であった。
5. 健康と死去
金一は晩年、健康問題に悩まされ、それが彼の政治活動にも影響を与えた。
1966年には癌と診断されたとされている。この診断を受け、金日成は新年の挨拶をスキップし、金一の治療の手配に奔走したという北朝鮮の資料がある。1976年4月30日には、健康状態の悪化を理由に政務院総理を辞任した。
1982年から1983年のほとんどの期間、金一はルーマニア社会主義共和国で医療を受けていた。1983年に公の場に再登場した後も、彼の健康状態は芳しくなく、多くの儀式的な集まりを欠席していたことが確認されている。
金一は1984年3月9日、73歳で死去した。彼はルーマニアのブカレストで息を引き取った。彼の死に際しては、69人からなる葬儀委員会が組織され、国葬が執り行われた。彼の遺体は大城山革命烈士陵に埋葬された。
6. 著作と受賞
金一は政治家としての活動の傍ら、いくつかの著作を残し、その功績に対して数々の勲章や栄誉が授与された。
彼の主な著作には以下のものがある。
- 『当面の情勢に即して経済建設と国防力強化をより成功裏に遂行するための1968年人民経済発展計画について』(1964年)
- 『アジア人民よ、団結してアメリカ侵略者をアジアから追い出せ!』(1970年)
- 『敬愛する首領金日成同志が提起された「わが国の社会主義農村問題に関するテーゼ」の実行総括と今後の課題について:報告』(1974年)
- 『赤い太陽の光芒の下での20年間の抗日革命:1926年6月 - 1931年8月』(崔賢との共著、1981年)
- 『赤い太陽の光芒の下での20年間の抗日革命:1931年9月 - 1936年2月』(崔賢、朴成哲らとの共著、1982年)
- 『赤い太陽の光芒の下での20年間の抗日革命:1936年2月 - 1938年10月』(1984年)
- 『赤い太陽の光芒の下での20年間の抗日革命:1938年11月 - 1940年8月』(1986年)
- 『赤い太陽の光芒の下での20年間の抗日革命:1940年8月 - 1945年8月』(1988年)
受賞歴と栄誉は以下の通りである。
- 赤星勲章(1945年)
- 金日成勲章(北朝鮮の最高勲章)
- 労力英雄称号
- 国旗勲章第1級
- 自由独立勲章第1級
- 共和国創建記念勲章など多数の勲章とメダル
また、彼はタシュケント総合大学から名誉博士号を授与されている。
7. 遺産と影響力
金一の死去は、金日成が権力を掌握する以前から彼と共にあった「旧守派」の政治指導者たちの支配の時代の終焉を告げるものとされている。彼の死の時点では、金一は金日成に次ぐ序列第2位であり、金日成の指定後継者であった金正日よりも形式的には上位に位置していた。
朝鮮中央通信社(KCNA)は、金一の死を「わが党と人民にとって痛ましい、大きな損失」と報じ、彼を金日成の「最も親密で最高の革命的戦友」と称賛した。金一は、北朝鮮の建国と初期の国家運営において重要な役割を果たし、特に外交政策や南北統一問題において彼の影響力は大きかった。彼の政治的遺産は、北朝鮮の歴史において重要な一章を形成している。