1. 生涯とキャリア
高松大樹の生涯は、幼少期からプロサッカー選手としてのキャリア、そして引退後の政治活動に至るまで、サッカーへの情熱と地域への貢献に貫かれている。
1.1. 幼少期・アマチュア時代
高松大樹は1981年9月8日に山口県宇部市で生まれた。小学校3年生の9歳の時にサッカーを始める。1997年に多々良学園高校(現:高川学園高校)に進学し、当時ディフェンダーとしてプレーした。在学中の3年間、総体(インターハイ)と選手権に連続出場し、3年時の1999年には、高校同期の中山元気と共にJ1のサンフレッチェ広島に強化指定選手として登録された。この年、総体では全国3位という成績を収めている。
1.2. プロサッカー選手時代
高校卒業後、高松大樹はプロサッカー選手として輝かしいキャリアを築き、クラブと日本代表の双方で重要な役割を果たした。
1.2.1. クラブキャリア
2000年にJ2の大分トリニータに加入し、プロとしてのキャリアをスタートさせた。プロ入り当初は「2、3年現役を続けられれば良い方」と考えていたという。プロ2年目の2001年シーズン途中から小林伸二が監督に就任すると出場機会を増やし、2002年には背番号を引退まで背負うこととなる「13」に変更。リーグ戦33試合に出場し、大分のJ1昇格に貢献した。
2003年には大分でレギュラーの座を掴み、その年のオフには浦和レッズから獲得オファーを受けた。田中マルクス闘莉王や田中達也など同世代の選手が在籍していたこともあり移籍へと気持ちが傾いたが、サポーターによる残留を願う署名活動があり、最終的には残留を決意した。
2006年にはリーグ戦で自己最多となる12得点を挙げ、松橋章太との2トップで大分の上位進出に貢献。サポーターからは「ミスター・トリニータ」と呼ばれるようになった。2007年は怪我の影響で序盤は調子が上がらなかったが、後半戦からアルビレックス新潟から鈴木慎吾が加入すると、鈴木のクロスからゴールを量産し、最終的に8得点を記録した。
2008年からはチームキャプテンに就任し、チームのことを第一に考えるようになった。この年は両足首の負傷離脱が続き、リーグ戦はプロ入り以来初の無得点に終わったが、ナビスコカップ決勝では清水戦で決勝点となる先制ゴールを豪快なヘディングで決め、大会MVPに選出され、クラブに初の主要タイトルをもたらした。2009年もキャプテンを務めたが、怪我に悩まされ得点数は3点にとどまり、チームのJ2降格を食い止めることはできなかった。しかし、名古屋グランパスエイト戦でのロスタイム同点弾や、清水戦での2得点による逆転勝利など、要所で活躍を見せた。
2010年、J2降格に加え経営問題の影響で多数の主力選手が移籍する中、「今の状況なら出て行ってもらっても構わない」と伝えられながらも、大分をJ2に落とした責任感から残留を決意。自身にとって8年ぶりのJ2でのプレーとなったが、この年も故障が続き得点は3にとどまった。
2011年には、自身の高年俸の影響などにより、長身FWを求めていたFC東京に期限付き移籍した。負傷離脱した平山相太に代わるFWとして期待されたが、自身も右脛骨高原を骨折し長期離脱。シーズン終盤に復帰したものの、レギュラーの座を奪取することはできなかった。しかし、FC東京ではJ2リーグ優勝と天皇杯優勝を経験した。
2012年は大分に復帰。相変わらず故障に悩まされながらも強行出場を続け、主にスーパーサブとしてリーグ戦32試合、プレーオフ1試合に出場し、大分のJ1復帰に貢献した。
2013年は4年振りにJ1でプレー。開幕戦こそ控えに回るも、第2節・川崎戦で森島康仁からCFのスタメンの座を奪取。以降シーズンを通して多くの試合でレギュラーとして出場したが、得点は年間5点にとどまり、大分は再びJ2降格となった。しかし、シーズン終了後すぐに契約更新が発表された。
2014年と2015年は、主にサブに回る起用法が続いた。2015年7月12日の東京V戦では先発出場し得点をあげ、チームの14試合ぶりの勝利に貢献。その後5試合連続で先発起用されたが、負傷により再びサブに回った。J2・J3入れ替え戦・町田戦では2試合共に出場したが、PKを失敗するなど無得点に終わり、チームのJ3降格を食い止めることができなかった。
2016年も大分に副キャプテンとして残留し、自身初のJ3でのプレーとなった。同年11月8日、自身のイメージ通りのプレーができなくなったことを理由に現役引退を発表した。大分がJ3優勝をかけて栃木SCと争っていた残り2試合というタイミングでの発表は、チームを一丸にさせる狙いもあったという。現役最後の試合となった11月13日のJ3リーグ第29節Y.S.C.C.横浜戦では、ラスト6分間出場した。サポーターからは高松がピッチに立つ前から試合終了までチャントが歌われ続けた。高松の狙い通り一丸となった大分は残り2試合を全勝し、逆転でJ3優勝を果たした。
1.2.2. 日本代表キャリア
高松大樹はU-23日本代表として、2004年アテネオリンピックに出場した。2003年8月にはU-22日本代表に初招集され、打点の高いヘディングを武器に中山悟志からポジションを奪い、主力FWとして定着。アジア予選では平山相太の控えであったが、平山の不調によりポジション争いを制し、オリンピック本大会では全3戦に先発出場した。チームは1勝2敗でグループリーグ最下位に終わったものの、個人としては2試合目のイタリア戦で1得点を挙げた。
A代表としては、2006年11月15日に札幌ドームで行われたAFCアジアカップ2007最終予選・サウジアラビア戦でイビチャ・オシム監督のもと国際Aマッチ初出場を果たした。この試合で我那覇和樹に代わって74分から出場している。その後、2007年までに日本代表として2試合に出場した。
2. 引退後の活動
プロサッカー選手引退後、高松大樹は多岐にわたる公的活動に従事し、特に政治の分野で地域社会への貢献を続けている。
2.1. 政治活動
2017年1月10日、高松は大分市役所にて「スポーツを活かした街づくり」をスローガンに掲げ、大分市議会議員選挙に無所属新人として出馬表明した。2月19日の大分市議選では、同市議選で過去最多となる13,653票を獲得し、トップで初当選を果たした。当選後も特定の会派には属さず、無所属で活動している。2021年2月22日に投開票された同市議選では、5,888票を獲得し、得票数2位で再選されている。
2.2. その他の活動
議員活動と並行して、高松はサッカー界にも関与し続けている。Jリーグ中継の大分ホームゲームでは不定期でサッカー解説者を務めている。また、2023年には九州サッカーリーグに所属するジェイリースFCのクラブ・リレーションズ・オフィサーに就任し、クラブと地域社会の連携強化に貢献している。
3. 主要記録とタイトル
高松大樹は選手生活を通じて、数々の個人栄誉とチームタイトルを獲得してきた。
3.1. 個人タイトルと栄誉
- JリーグカップMVP (2008年)
- FIFA年間最優秀選手候補 (2003年)
3.2. クラブおよび国際大会でのタイトル
- 多々良学園高校**
- 山口県サッカー選手権大会 (1997年)
- 大分トリニータ**
- Jリーグカップ (2008年)
- Jリーグ ディビジョン2 (2002年)
- J3リーグ (2016年)
- FC東京**
- 天皇杯 (2011年)
- Jリーグ ディビジョン2 (2011年)
4. 人物・エピソードと評価
高松大樹はその誠実な人柄とピッチ内外での貢献により、多くのサポーターから尊敬を集めた。
4.1. 人物・エピソード
高松大樹は大分スポーツ公園総合競技場のオープン後初ゴール、2003年1stステージ第3節のガンバ大阪戦での大分のJ1初ゴール、2007年第29節の柏レイソル戦での大分のJ1ホーム戦通算100ゴール、そして2008年のナビスコカップ決勝・清水エスパルス戦での決勝点となるゴールなど、クラブにとって節目となる重要なゴールを数多く決めてきた。2014年6月21日に開催された大分のクラブ創立20周年記念試合の愛媛戦でも得点を記録している。
私生活では、2004年に一般女性と結婚している。
4.2. 評価と愛称
高松大樹は、大分トリニータのサポーターから「ミスター・トリニータ」の愛称で親しまれ、クラブの象徴的な存在として特別視されてきた。2010年にクラブが深刻な経営問題を抱え、多くの主力選手が移籍する中で、高松はJ2に降格させた責任感から残留を決意し、そのチームへの強い愛と忠誠心を示した。
また、現役引退を発表する際に、チームのJ3優勝争いの渦中というタイミングを選んだことで、チームを結束させ、実際にその後の2試合を全勝してJ3優勝を勝ち取ったことは、彼が単なる選手としてだけでなく、チーム全体を鼓舞するリーダーとしても高く評価されている証である。引退セレモニーでのサポーターからの熱烈なチャントは、彼がいかに愛され、日本サッカー界、特に大分トリニータの歴史に大きな遺産を残したかを物語っている。
5. 統計
高松大樹のプロサッカー選手としてのキャリアは、クラブと日本代表での詳細な統計に示されている。
5.1. クラブ統計
クラブ成績 | リーグ | 天皇杯 | Jリーグカップ | 合計 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
シーズン | クラブ | リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | |
1997 | 多々良学園高 | - | - | - | 1 | 0 | 1 | 0 | |||
2000 | 大分 | J2 | 6 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | 7 | 1 | |
2001 | J2 | 22 | 8 | 2 | 1 | 0 | 0 | 24 | 9 | ||
2002 | J1 | 33 | 6 | - | 3 | 0 | 36 | 6 | |||
2003 | J1 | 26 | 4 | 3 | 1 | 0 | 0 | 29 | 5 | ||
2004 | J1 | 24 | 8 | 2 | 1 | 2 | 0 | 28 | 9 | ||
2005 | J1 | 21 | 5 | 3 | 1 | 1 | 0 | 25 | 6 | ||
2006 | J1 | 29 | 12 | 5 | 1 | 2 | 0 | 36 | 13 | ||
2007 | J1 | 30 | 8 | 4 | 1 | 2 | 2 | 36 | 11 | ||
2008 | J1 | 16 | 0 | 5 | 2 | 0 | 0 | 21 | 2 | ||
2009 | J1 | 21 | 3 | 0 | 0 | 1 | 1 | 22 | 4 | ||
2010 | J2 | 18 | 3 | - | 1 | 0 | 19 | 3 | |||
2011 | FC東京 | J2 | 5 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 5 | 0 | |
2012 | 大分 | J2 | 32 | 5 | - | 1 | 0 | 33 | 5 | ||
2013 | J1 | 28 | 5 | 1 | 0 | 1 | 0 | 30 | 5 | ||
2014 | J2 | 24 | 3 | - | 2 | 1 | 26 | 4 | |||
2015 | J2 | 22 | 3 | - | 0 | 0 | 22 | 3 | |||
2016 | J3 | 8 | 1 | - | 0 | 0 | 8 | 1 | |||
J1通算 | 195 | 45 | 23 | 7 | 9 | 3 | 225 | 55 | |||
J2通算 | 162 | 29 | 2 | 1 | 8 | 1 | 172 | 31 | |||
J3通算 | 8 | 1 | - | 0 | 0 | 8 | 1 | ||||
その他公式戦 | - | - | 1 | 0 | 1 | 0 | |||||
総通算 | 365 | 75 | 25 | 8 | 18 | 4 | 418 | 87 |
その他公式戦
- 2009年 パンパシフィックチャンピオンシップ2009 2試合1得点
- 2012年 J1昇格プレーオフ 1試合0得点
- 2015年 J2・J3入れ替え戦 2試合0得点
出場歴
- J1 初出場 - 2003年3月23日 1st第1節 ベガルタ仙台戦(仙台スタジアム)
- 初得点 - 2003年4月12日 1st第3節 ガンバ大阪戦(大分スポーツ公園総合競技場)
- J2 初出場 - 2000年5月13日 第12節 モンテディオ山形戦(山形県総合運動公園陸上競技場)
- 初得点 - 2000年5月21日 第14節 湘南ベルマーレ戦(平塚競技場)
- J3 初出場 - 2016年5月22日 第10節 セレッソ大阪U-23戦(キンチョウスタジアム)
- 初得点 - 同上
5.2. 日本代表統計
日本代表 | ||
---|---|---|
年 | 出場 | 得点 |
2006 | 1 | 0 |
2007 | 1 | 0 |
通算 | 2 | 0 |
出場