1. Overview
ユルキ・ユハニ・ヤルヴィレヘト(J.J.レート)は、フィンランドを代表する元レーシングドライバーであり、引退後はスポーツ放送の分野でも活躍している。彼は1989年から1994年にかけてF1に参戦し、スポーツカーレースではル・マン24時間レースで2度(1995年と2005年)、セブリング12時間レースでも2度(1999年と2005年)優勝という輝かしい実績を残した。
エスポーで生まれ育ったレートは、8歳でカートレースを開始し、その後フォーミュラ・フォードに進んだ。1982年F1ワールドチャンピオンのケケ・ロズベルグの秘蔵っ子として、彼は数々の国内および欧州のフォーミュラ・フォード選手権でタイトルを獲得し、1988年イギリス・フォーミュラ3選手権ではパシフィックを駆って圧倒的な強さで優勝した。F1ではオニクス、イタリア、ザウバー、ベネトンで計70戦に出走し、1989年ポルトガルグランプリでデビュー。1991年サンマリノグランプリではスクーデリア・イタリアで自身唯一のF1表彰台を獲得した。
モータースポーツ引退後はMTV3のスポーツ解説者および専門家として活動した。2010年6月にはエーケナスでボート事故に巻き込まれ、同乗者が死亡するという悲劇に見舞われた。彼は当初、過失致死と飲酒運転で有罪となり、2年4ヶ月の懲役刑を宣告されたが、トゥルク控訴裁判所は2012年11月に、レートがボートを操縦していたという証拠が不十分であるとして、この有罪判決を覆した。
2. 生い立ちとキャリアの始まり
ユルキ・ユハニ・ヤルヴィレヘトは、1966年1月31日にフィンランドのウーシマー地方エスポーで生まれた。幼い頃からモータースポーツへの情熱を抱き、後の輝かしいキャリアの礎を築いた。
2.1. 幼少期、教育、そして改名
レートは6歳になった1972年に故郷フィンランドでカートを始め、多くのレースで優勝を重ねた。この頃のライバルには、後にF1で活躍するミカ・ハッキネンやミカ・サロがいた。学業においては、大学の数学課程を修了している。
彼の本名「ユルキ・ユハニ・ヤルヴィレヘト」は、フィンランド語の発音が英語圏の人々には難解であった。そこで、同郷の1982年F1ワールドチャンピオンであるケケ・ロズベルグが、より覚えやすいように「J.J.」というニックネームを名乗るよう助言した。この「J.J.」は彼の愛称でもあり、ロズベルグ自身も本名であるケイヨから「ケケ」と略して親しまれていたことから、同様の親しみやすさを意図したものであった。ロズベルグは、レートが1987年にシルバーストンでのフォーミュラ2000のレースで圧勝するのを見て、その速さに衝撃を受け「光り輝く原石」と評し、自ら設立したスポーツプロモーション企業「ユーロ・プロモーション」のクライアントとして、彼のレース活動のプロモーション全てを引き受けることを申し出た。これにより、レートはプロのレーシングドライバーとしての道を明確に歩むことになり、同年からマールボロの支援を受ける契約ドライバーとなった。
2.2. 初期カート・ジュニアフォーミュラ時代
カートで数々のイベントを制した後、レートは15歳でフォーミュラ・フォードにステップアップし、すぐにその才能を開花させた。当初は1981年に2輪のモトクロスレースにも出場し、好成績を収めたことから、その後3年間はモトクロスを活動の中心とした。しかし、競技中の事故で膝を負傷し、モトクロスにおける着地の衝撃吸収が困難になったため、活動継続を断念せざるを得なかった。4輪レースへの転向を検討し始めた当初はラリードライバーになることを志したが、ラリーデビュー直前にスポンサーが降りてしまい、その話は立ち消えとなった。
1985年に改めて4輪レースに転向し、フィンランドフォーミュラ・フォード1600にデビュー。チャンピオン争いを展開するも、最終戦でのクラッシュにより惜しくも王座を逃した。しかし、翌1986年にはEFDAヨーロッパFF1600、スカンジナビアFF1600、フィンランドFF1600の各選手権でチャンピオンを獲得し、圧倒的な速さを見せた。
1987年にはパシフィック・レーシングに所属し、イギリスF2000選手権へとステップアップ。シーズン11勝を挙げる圧倒的な速さでチャンピオンを獲得し、ヨーロッパFF2000でも6勝を挙げてチャンピオンに輝いた。
1988年にはイギリスF3選手権に参戦。マールボロ・パシフィック・レーシングのレイナード・883-トヨタを駆り、8勝、ポールポジション6回、ファステストラップ11回を記録し、シリーズを制圧してチャンピオンの座に就いた。この年、ランキング3位にはデイモン・ヒル、4位マーティン・ドネリー、5位エディ・アーバインのほか、ローランド・ラッツェンバーガーやジル・ド・フェランといった後のトップカテゴリードライバーたちが多数参戦しており、その中でのチャンピオン獲得は彼の才能を際立たせた。
1989年には国際F3000選手権へステップアップし、再びマールボロ・パシフィック・レーシングからレイナード・89D-無限で参戦。チームメイトはエディ・アーバインであった。これまでのフォーミュラカーキャリアでは順調に結果を出しつづけていたが、F3000参戦時は時折速さを見せるに留まり、最高位はポー市街地コースでの4位であった。しかし、師であるケケ・ロズベルグとスポンサーのマールボロの強い後押しにより、フェラーリのテストドライバーに抜擢された。フィオラノのテストコースではフェラーリ640の熟成・開発、そして新搭載されていたセミオートマチックトランスミッションの開発に携わった。同年ポール・リカール・サーキットで行われたF1合同テストでは、マールボロが支援していたF1新興チームのオニクス・ORE-1をテストする機会を得た。既にフェラーリでのF1マシン経験があったレートは、F1初ドライブのチームメイトエディ・アーバインよりも約2秒速いラップタイムを記録し、F1デビューへの道を切り開いた。
3. フォーミュラ1キャリア
J.J.レートは1989年から1994年にかけて、F1の世界でその才能を発揮した。複数のチームを渡り歩き、困難な状況下でも速さを見せ、キャリア唯一の表彰台を獲得するなど、印象的なパフォーマンスを披露した。
3.1. オニクス時代 (1989-1990)
1989年、レートはフェラーリのテストを行った後、シーズン途中にベルトラン・ガショーの代役としてオニクスチームから1989年ポルトガルグランプリでF1デビューを果たした。しかし、このレースでは予備予選落ちを喫した。続く1989年スペイングランプリで初めて決勝に進出し、F1初出走を記録するが、ギアボックスのトラブルによりレース序盤でリタイヤした。豪雨に見舞われた最終戦1989年オーストラリアグランプリでは一時5位を走行するなど上位を争ったが、電気系統のトラブルによりリタイヤし、デビューイヤーでの完走はならなかった。
オニクスとの契約を継続した1990年、レートは開幕戦から参戦した。しかし、1990年ブラジルグランプリ終了後、オニクスはスイスの投資家グループに売却され、主要スタッフとベテランのステファン・ヨハンソンらがチームを去った。新たにスイス人ドライバーのグレガー・フォイテク(彼の父カール・フォイテクが新たな出資者であった)が加入したが、新オーナーのペーター・モンテベルディとカール・フォイテクの意向により、グレガーに肩入れする体制となった。チームはトランスミッションを適切に組めるメカニックさえいないという、レーシングチームとしての体を成していない状態だった。レートは1990年サンマリノグランプリで初完走(12位)を記録するも、その後は5度の予選落ちと4度のリタイヤを喫した。8月15日に行われたモンツァでの合同テストでは、エンジニアとメカニックの人数不足によりまともに走行することができず、危険を感じたレートとケケ・ロズベルグはテスト終了後、モンテベルディ・オニクスに見切りをつけチームから離脱した。フォイテク家も同様の理由でチームを去り、資金と両ドライバーを失ったチームは、最終戦までグランプリを戦うことなく消滅した。
なお、レートはこの1990年のル・マン24時間レースにリチャード・ロイド・レーシングのポルシェ・962を駆り初出場を果たしている。
3.2. スクーデリア・イタリア時代 (1991-1992)
1991年、レートはマールボロを主要スポンサーとするスクーデリア・イタリアに移籍し、F1での初のフル参戦シーズンを迎えた。ダラーラシャシーとジャッドV10エンジンを搭載したマシンを駆り、チームメイトのエマニュエル・ピロを度々上回る速さを見せた。この年チームに課された前半8戦の予備予選を全て通過し、そのうち4回をトップで通過するなど、安定した速さを披露した。
特に印象的だったのは、雨中の1991年サンマリノグランプリであった。スタート直前のスコールにより、マクラーレン・ホンダ以外の有力チームが総崩れとなる中、予選16位から着実に順位を上げ、3位でフィニッシュ。これがF1キャリアで唯一となる表彰台獲得となった。同様に上位チームが多数リタイヤした1991年カナダグランプリでも一時4位まで浮上したが、マシントラブルによりリタイヤ。このシーズンはマシンの信頼性の低さに悩まされ、16戦中11回ものリタイヤを喫した。
翌1992年もスクーデリア・イタリアに残留したが、状況は好転しなかった。新たなBMS192シャシーは、フロントサスペンションに採用されたモノショック・ダンパーの失敗によりマシンセッティングの再現性が著しく低下した。さらに、フェラーリV12エンジンを搭載したことでリアヘビーとなり、コーナリング性能が悪化した。チームメイトのピエルルイジ・マルティニと共にシーズンを通して劣悪なハンドリングに苦戦し、決勝レースではほとんどの場面で10位前後を走行するに留まった。マルティニは2度6位に入賞し2ポイントを獲得したが、レートは完走は多かったものの最高位7位とノーポイントでシーズンを終えた。この年は、チームがV12エンジンに過度な期待を寄せ、それが両ドライバーを振り回したシーズンであったと評された。
3.3. ザウバー時代 (1993)
1993年、レートはスポーツカー世界選手権で活躍し、メルセデスとのパイプを持つザウバーチームのF1初参戦ドライバーに抜擢された。これは、メルセデスとの契約を理由にザウバーでのドライブを拒否したミハエル・シューマッハの実質的な代役であった。
開幕前のテストでは、四強の一角であるフェラーリやベネトンを上回るタイムを記録するなど、C12の素性の良さを結果で示した。迎えた開幕戦1993年南アフリカグランプリでは予選6位を獲得し、決勝レースでも5位に入賞。F1に新規参入したザウバーは、わずか1戦目でポイントを獲得するという快挙を成し遂げた。さらに1993年サンマリノグランプリでも4位に入賞し、シーズン序盤は順調な滑り出しを見せた。
しかし、シーズン中盤になるとC12はエンジンなどの信頼性低下に悩まされ、チームメイトのカール・ヴェンドリンガーと共に、予選では上位を確保するものの決勝レースではリタイヤを繰り返す戦いが続いた。ヴェンドリンガーとは予選順位は互角であったが、1993年モナコグランプリでの同士討ち以降、2人の関係悪化が報じられ、レートのシーズンはポイント獲得なしで終わることとなった。


3.4. ベネトン時代 (1994)
1994年、レートはミケーレ・アルボレートやルカ・バドエルとのシート争いを制し、ミハエル・シューマッハのチームメイトとしてベネトンのセカンドドライバーの座を獲得した。しかし、2月にシルバーストンでのテスト中にB194でマシン後部からフェンスに激突する大クラッシュを喫し、頸椎を骨折するという重傷を負った。腰部の骨の一部を頸部に移植するという大掛かりな手術を受け、開幕直前の合同テストで復帰を試みたが、縦方向の振動に対して首に痛みが残ることが判明し、開幕2戦を欠場した。その間、サードドライバーのヨス・フェルスタッペンが代役を務めた。
復帰初戦となった1994年サンマリノグランプリでは、予選5位の好タイムを記録したが、決勝スタート時にエンジンストールを起こし、後方からスロットル全開で来たロータスのペドロ・ラミーに激しく追突され、0周リタイヤとなった。続く1994年モナコグランプリの予選ではチームメイトのシューマッハに4秒もの差をつけられるなど、体調が万全でない様子がうかがえた。
1994年スペイングランプリではフリー走行でトップタイムを記録し、予選でも4位につけるなど復調の兆しを見せたが、決勝では3位走行中にエンジンブローに見舞われリタイヤ。1994年カナダグランプリでは予選20位から、前方を走っていたクリスチャン・フィッティパルディの失格により6位に入賞し、この年唯一のポイントを獲得した。しかし、このグランプリを最後に、レートの代役として開幕2戦に出場したヨス・フェルスタッペンに正規シートを奪われ、レートは「休養」という名目で実戦から降ろされた。
7月以降は首の回復状況の確認も兼ねて、フラビオ・ブリアトーレが買収しベネトン傘下となったリジェのテストチームに参加。TWRによるチームの立て直しが始まったリジェのJS39Bを、フェルスタッペンと共にテストした。ベネトンのロリー・バーンも加わった開発チームの一員として、アンダートレイや空力パーツの性能評価を繰り返し行った。この貢献により、性能が向上したJS39Bは7月末の1994年ドイツグランプリで2台揃って表彰台を獲得するなど、水面下でチームに貢献した。
9月にミハエル・シューマッハが出場停止処分を受けたため、レートは1994年イタリアグランプリと1994年ポルトガルグランプリに再びベネトンから代役参戦したが、それぞれ9位、リタイヤと目立った成績は残せなかった。これによりチームはジョニー・ハーバートと契約し、レートは完全に放出されることとなった。
シーズン終盤の日本・オーストラリアの2戦は、アンドレア・デ・チェザリスの後任として前年所属したザウバーから出走した(ベネトンから許可を得てザウバーがレンタル契約を結んだもの)。しかし、それぞれリタイヤと10位という結果に終わった。
最終戦終了後、ザウバーから1995年についてのオファーがあり、F3000時代まで所属しこの年F1参戦初年度を終えた古巣パシフィック・レーシングとも交渉したが、マネージメント担当のケケ・ロズベルグがDTMに参戦するオペルでの戦闘力の高いオプションを用意していたため、カテゴリー転向を決意し1994年をもってF1でのキャリアを終えた。また、1994年7月の休養期間中にベネトン傘下となったリジェ・JS39Bのテストを担当したことで、ルノーV10エンジンに関する知識を得ていた。旧知のロズベルグを通じて、レートがリジェ・ルノーに乗った経験があることを知ったマクラーレンのロン・デニス(翌1995年からメルセデスV10エンジンの搭載が決定していた)は、レートに「イルモア(メルセデス)V10と、ルノーV10、そしてゼテックRV8の違いについてレポートを書いてほしい」と依頼した。これが翌年マクラーレンF1 GTRでル・マン24時間レースに出場するきっかけとなった。
4. フォーミュラ1引退後のレーシングキャリア
フォーミュラ1のキャリアが失速した後、J.J.レートはマネージャーであるケケ・ロズベルグの助言により、DTMやITCといった主要なツーリングカー選手権、そしてスポーツカーレースで広範囲かつ成功したキャリアを築き上げた。
4.1. ツーリングカーレース
1995年から1996年にかけて、レートはロズベルグが組織したチームからDTMおよびITCにオペル・カリブラを駆って参戦した。高い評価を受けていたものの、この期間中に勝利を挙げることはできなかった。しかし、特に1996年シーズンでは優勝こそなかったものの、地元ヘルシンキを含む多くのレースで着実にポイントを重ね、ランキング5位に入った。

4.2. スポーツカーレースと耐久レース
1997年には活動の場をFIA GT選手権に移し、シュニッツァー・マクラーレンから参戦。スティーブ・ソパーとペアを組み、4勝を挙げてシリーズ2位となった。
スポーツカーレースでの成功は、ツーリングカーでの勝利の欠如を補うものであった。
1995年ル・マン24時間レースのル・マン24時間レースでは、急遽マクラーレンF1 GTRのドライバーとして追加参戦したが、これが3度目の挑戦で総合優勝という快挙に繋がった。彼はヤニック・ダルマス、関谷正徳と共に車両をシェアし、特に雨の夜間走行中に他のドライバーが慎重になる中、レートは車を滑らせながら走行し、時に他のドライバーより30秒も速いラップタイムを記録してチームをリードした。この勝利は、フィンランド人として初のル・マン制覇でもあった。翌年、同じ車両でさらに3回のレースにゲスト参戦し、1勝を挙げた後、BMWのワークスチームに加入し、初のFIA GT選手権シーズンでスティーブ・ソパーとパートナーを組んだ。当初は成功を収め、地元ヘルシンキでのイベントでも勝利を挙げたが、最終的にはメルセデス・ベンツの猛追を受け、元DTMのライバルであるベルント・シュナイダーにタイトルを奪われることとなった。
1999年、BMWモータースポーツはALMSにV12 LMRスポーツカーで参戦し、レートもこれに加わった。この年、彼は4勝を挙げたものの、当時の規定によりアメリカのレースライセンスを保持していなかったため、セブリング12時間レースで獲得したポイントが認められず、タイトルを逃した。2000年はアウディR8の登場により、BMWの競争力は低下し、レートの成功は少なかった。
その後もBMWとレートはALMSに留まり、議論を呼んだM3 GTRでGTクラスに参戦。チームはほぼ無敵の状態だったが、レートはチームメイトのヨルグ・ミューラーにチャンピオンシップを奪われた。ミューラーがより多くのファステストラップとリード周回数を記録していたためである。
レートはM3の速さにすでに不満を抱いていたため、翌年ヨーロッパツーリングカー選手権(ETCC)に参戦するというBMWのオファーを断ったのは当然のことであった。2002年は一時的に失業状態となったが、その後キャデラックのノーススターLMPスポーツカープログラムの一員としてル・マンとALMSシリーズに参戦することとなった。この車両はアウディR8やパノスLMPほどの速さはなかったが、年後半には定期的に表彰台を獲得し、状況は好転する兆しを見せた。しかし、キャデラックの親会社であるゼネラルモーターズがプロジェクトを中止したため、レートは再び無職となる危機に瀕したが、チャンピオン・レーシングが彼にアウディR8のドライブをオファーした。

2003年、レートはロード・アトランタで開催された権威あるプティ・ル・マンを含む4勝を挙げた。そして、ファクトリーアウディチームがALMSシリーズを去った2004年には、ついにその努力が報われ、1988年イギリス・フォーミュラ3選手権以来となるチャンピオンシップタイトルを獲得した。このシーズンで彼は6勝を挙げている。
2005年はシーズン後半の不調が響き、2度目のチャンピオンシップ獲得は逃したが、同年、セブリング12時間レースとル・マン24時間レースで再び優勝し、フルタイムのレースキャリアの最後の年を印象的な形で締めくくった。
2006年には、ソラローリ・チームが2台のポルシェ・RSスパイダーを購入しALMSシリーズに参戦するという発表があり、その1台をジョニー・ハーバートと組んでレートがドライブする予定であった。しかし、2007年初頭にこの契約が進行しているとの確認があったにもかかわらず、結局実現することはなかった。
レートは2007年のデイトナ24時間に、クローン・レーシングのポンティアック・ライリーでコリン・ブラウンとマックス・パピスと共に参戦したが、このイベントでの初参加は成功しなかった。車にミスファイアが発生し、長時間のピットストップを強いられた結果、17位で終わった。
2008年には、マレーシアグランプリのサポートレースであるスピードカー・シリーズに、ナレイン・カーティケヤンが以前使用していたNo.90の車両で参戦し、予期せぬレース復帰を果たした。
4.3. CARTシリーズ
1998年、レートは再びフォーミュラカーレースへの参戦を望み、アメリカを拠点とするCARTワールドシリーズへの参戦を目指した。パックウェスト・レーシングでのテストに参加した後、ホーガン・レーシングと契約し、レイナード・メルセデス9号車でフル参戦した。彼はラップリーダーとして走行するレースもあったが、1カー体制でメインスポンサーを持たない予算上の制約もあり、レース中のマシントラブルが頻繁に発生した。このため、最高成績は5位に留まった。この1998年が、彼にとって最後のフォーミュラカーレースの年となり、その後はスポーツカーレースに活動の場を移した。
4.4. その他のレース参戦
彼の主要なキャリア以外にも、J.J.レートは様々なレースイベントに参戦している。これにはロレックス・スポーツカー・シリーズやスピードカー・シリーズが含まれる。2007年のデイトナ24時間では、クローン・レーシングから参戦し、コリン・ブラウンやマックス・パピスとチームを組んだ。しかし、このレースはマシントラブルにより17位に終わった。2008年にはスピードカー・シリーズに参戦し、一時的ながらもレーストラックへの復帰を果たした。
5. 放送業界でのキャリア
レーシングドライバーとしての現役引退後、J.J.レートはフィンランドのテレビ局でスポーツ解説者および専門家として活動を開始した。2001年にMTV3のフィンランド語F1中継(および有料チャンネルMTV3 MAX)の専門解説者として加わり、2010年までオスカリ・サーリと共にその主要な役割を担った。彼の深いレース知識と経験は、視聴者にとって貴重な情報源となった。
6. ボート事故と法的問題
2010年6月17日、レートはフィンランド南部のエーケナスでボート事故に巻き込まれた。事故は、レートと同乗していた友人(身元は非公表)を乗せたボートが運河内の橋脚に衝突した際に発生した。この事故でレートは頭部を負傷し、友人は死亡した。事故時、ボートは運河の制限速度である9.3 km/h (5 knots)(約9.3 km/h)を大幅に超える約74 km/h (40 knots)(約74 km/h)で橋脚に衝突したと推定された。警察の調べでは、レートは事故当日を通して飲酒しており、事故発生時にはひどく酩酊状態であったことが明らかになった。
2011年1月、フィンランドの新聞『イルタ・サノマット』は、警察の捜査により、事故発生時にレート以外にボートを操縦できた者はいないと結論付けられたと報じた。これにより、レートは過失致死、危険運転、そして飲酒運転の容疑で起訴された。係争中の状況にもかかわらず、レートはフィンランドのスポーツチャンネルURHOtvでDTMイベントの解説者としてスポーツ放送に復帰した。
2011年12月14日、地方裁判所はレートに対し、飲酒航行および過失致死で有罪判決を下し、懲役2年4ヶ月の実刑判決を言い渡した。しかし、レートは判決を不服として控訴。2012年11月30日、トゥルク控訴裁判所で行われた控訴審において、ボートが橋脚に衝突した際の操縦者がレートであったという証拠が不十分であるとの判断が下され、彼は事故に関連する全ての容疑について無罪となった。これにより、レートは実刑を免れた。

7. 主な功績と受賞
J.J.レートは、そのレーシングキャリアを通じて数々の主要な功績と受賞を記録している。彼は特に耐久レースとジュニアフォーミュラでの成功で知られている。
- 1986年 EFDAヨーロッパフォーミュラ・フォード1600チャンピオン
- 1986年 スカンジナビアフォーミュラ・フォード1600チャンピオン
- 1986年 フィンランドフォーミュラ・フォード1600チャンピオン
- 1987年 イギリスフォーミュラ2000チャンピオン
- 1987年 ヨーロッパフォーミュラ2000チャンピオン
- 1988年 イギリス・フォーミュラ3チャンピオン
- 1991年サンマリノグランプリ 3位(F1キャリア唯一の表彰台)
- 1995年ル・マン24時間レース 総合優勝(フィンランド人初)
- 1997年FIA GT選手権 シリーズ2位
- 1999年セブリング12時間レース 総合優勝
- 2001年アメリカン・ル・マン・シリーズ GTクラス シリーズ2位
- 2003年ル・マン24時間レース LMP900クラス優勝(総合3位)
- 2004年アメリカン・ル・マン・シリーズ LMP1クラスチャンピオン
- 2005年セブリング12時間レース 総合優勝
- 2005年ル・マン24時間レース 総合優勝
8. キャリア統計
J.J.レートのキャリア統計を以下の表にまとめる。
8.1. キャリア概要
シーズン | シリーズ | チーム | 出走 | 優勝 | PP | FL | 表彰台 | ポイント | 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1985年 | フォーミュラ・フォード フィンランド | 5 | 0 | ? | ? | 3 | 31 | 4位 | |
北欧フォーミュラ・フォード | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 13位 | ||
1986年 | フォーミュラ・フォード フィンランド | フォーミュラ・フォード フィンランド | ? | ? | ? | ? | ? | ? | 1位 |
EFDA フォーミュラ・フォード 1600 | 5 | 3 | ? | ? | 3 | 70 | 1位 | ||
フォーミュラ・フォード・フェスティバル | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | NC | ||
1987年 | フォーミュラ・フォード 2000 ヨーロッパ | パシフィック・レーシング | 7 | 6 | ? | 4 | 6 | 128 | 1位 |
フォーミュラ・フォード 2000 グレートブリテン | ? | ? | ? | ? | ? | ? | 1位 | ||
フォーミュラ・フォード 2000 オランダ | ? | ? | ? | ? | ? | 40 | 5位 | ||
1988年 | 1988年イギリス・フォーミュラ3 | パシフィック・レーシング | 18 | 8 | 6 | 11 | 14 | 164 | 1位 |
1988年マカオグランプリ | パシフィック・レーシング / マールボロ・セオドール・レーシング | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF | |
1989年 | 1989年国際F3000 | パシフィック・レーシング | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 14位 |
1989年フォーミュラ1世界選手権 | マネートロン・オニクス・フォーミュラ1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC | |
1990年 | 1990年フォーミュラ1世界選手権 | モンテベルディ オニクス・フォーミュラ1 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC |
1990年ル・マン24時間レース | リチャード・ロイド・レーシング | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF | |
イタリア・スポーツ | |||||||||
1991年 | 1991年フォーミュラ1世界選手権 | スクーデリア・イタリア | 16 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 12位 |
1991年ル・マン24時間レース | ポルシェ クレマー・レーシング | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | 9位 | |
1992年 | 1992年フォーミュラ1世界選手権 | スクーデリア・イタリア | 15 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC |
1993年 | 1993年フォーミュラ1世界選手権 | チーム・ザウバー・フォーミュラ1 | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 13位 |
1994年 | 1994年フォーミュラ1世界選手権 | ミドルセブン ベネトン フォード | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 24位 |
ザウバー メルセデス | |||||||||
1995年 | 1995年ドイツツーリングカー選手権 | オペル・チーム・ヨースト | 14 | 0 | 0 | 0 | 0 | 36 | 13位 |
1995年国際ツーリングカーシリーズ | 10 | 0 | 0 | 0 | 1 | 26 | 11位 | ||
1995年BPRグローバルGTシリーズ | トヨタ・チーム・トムス | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC | |
1995年ル・マン24時間レース | コクサイ・カイハツ・レーシング | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | N/A | 1位 | |
1996年 | 1996年国際ツーリングカー選手権 | チーム・ロズベルグ・オペル | 25 | 0 | 0 | 0 | 5 | 148 | 5位 |
1996年BPRグローバルGTシリーズ | ガルフ・レーシング/GTCモータースポーツ | 2 | 1 | 1 | 0 | 2 | 55 | 32位 | |
1996年ル・マン24時間レース | ガルフ・レーシング/GTCレーシング | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | 9位 | |
1997年 | 1997年FIA GT選手権 | BMWモータースポーツ | 11 | 4 | 3 | 1 | 8 | 59 | 2位 |
1997年ル・マン24時間レース | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF | ||
1998年 | 1998年CART FedEx チャンピオンシップシリーズ | ホーガン・レーシング | 19 | 0 | 0 | 0 | 0 | 25 | 20位 |
1999年 | 1999年アメリカン・ル・マン・シリーズ | BMWモータースポーツ | 6 | 4 | 3 | 3 | 6 | 123 | 4位 |
1999年ル・マン24時間レース | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF | ||
2000年 | 2000年アメリカン・ル・マン・シリーズ | BMWモータースポーツ | 11 | 2 | 1 | 0 | 8 | 220 | 6位 |
2001年 | 2001年アメリカン・ル・マン・シリーズ | BMWモータースポーツ | 10 | 4 | 2 | 0 | 7 | 180 | 2位 |
2002年 | 2002年アメリカン・ル・マン・シリーズ | チーム キャデラック | 5 | 0 | 0 | 0 | 4 | 101 | 13位 |
2002年ル・マン24時間レース | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | 12位 | ||
2002年ドイツツーリングカー選手権 | OPCユーロチーム | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 21位 | |
2003年 | 2003年アメリカン・ル・マン・シリーズ | チャンピオン・レーシング | 9 | 4 | 2 | 2 | 8 | 163 | 3位 |
2003年ル・マン24時間レース | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | N/A | 3位 | ||
2004年 | 2004年アメリカン・ル・マン・シリーズ | チャンピオン・レーシング | 9 | 6 | 1 | 6 | 9 | 164 | 1位 |
2004年ル・マン24時間レース | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | N/A | 3位 | ||
2005年 | 2005年アメリカン・ル・マン・シリーズ | チャンピオン・レーシング | 10 | 3 | 0 | 2 | 7 | 148 | 3位 |
2005年ル・マン24時間レース | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | N/A | 1位 | ||
2007年 | 2007年ロレックス・スポーツカー・シリーズ | クローン・レーシング | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 20 | 66位 |
2008年 | 2008年スピードカー・シリーズ | スピードカー・チーム | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 16位 |
8.2. イギリス・フォーミュラ3選手権
(太字はポールポジション、斜体はファステストラップ)
年 | エントラント | エンジン | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 総合順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1988 | パシフィック・レーシング | トヨタ | A | THR 1 | SIL 1 | THR Ret | BRH 24 | DON 2 | SIL 1 | BRH 1 | THR Ret | SIL 1 | DON 1 | SIL 3 | SNE 3 | OUL 2 | SIL 1 | BRH Ret | SPA 1 | THR 2 | SIL 3 | 1位 | 164 |
8.3. マカオグランプリ
年 | チーム | シャーシ/エンジン | 予選 | レース1 | レース2 | 総合順位 |
---|---|---|---|---|---|---|
1988 | パシフィック・レーシング / マールボロ・セオドール・レーシング | レイナード・トヨタ | 2位 | 4位 | DNF | DNF |
8.4. 国際F3000選手権
(太字はポールポジション、斜体はファステストラップ)
年 | エントラント | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 総合順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989 | パシフィック・レーシング | SIL DSQ | VAL Ret | PAU 4 | JER 6 | PER Ret | BRH Ret | BIR Ret | SPA 5 | BUG Ret | DIJ | 14位 | 6 |
8.5. フォーミュラ1
(太字はポールポジション、斜体はファステストラップ)
年 | エントラント | シャーシ | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989 | マネートロン・オニクス・フォーミュラ1 | オニクス ORE-1 | フォード V8 | BRA | SMR | MON | MEX | USA | CAN | FRA | GBR | GER | HUN | BEL | ITA | POR DNPQ | ESP Ret | JPN DNPQ | AUS Ret | NC | 0 |
1990 | モンテベルディ オニクス・フォーミュラ1 | オニクス ORE-1 | フォード V8 | USA DNQ | BRA DNQ | NC | 0 | ||||||||||||||
オニクス ORE-1B | フォード V8 | SMR 12 | MON Ret | CAN Ret | MEX Ret | FRA DNQ | GBR DNQ | GER NC | HUN DNQ | BEL | ITA | POR | ESP | JPN | AUS | ||||||
1991 | スクーデリア・イタリア | ダラーラ BMS-191 | ジャッド V10 | USA Ret | BRA Ret | SMR 3 | MON 11 | CAN Ret | MEX Ret | FRA Ret | GBR 13 | GER Ret | HUN Ret | BEL Ret | ITA Ret | POR Ret | ESP 8 | JPN Ret | AUS 12 | 12位 | 4 |
1992 | スクーデリア・イタリア | ダラーラ BMS-192 | フェラーリ V12 | RSA Ret | MEX 8 | BRA 8 | ESP Ret | SMR 11 | MON 9 | CAN 9 | FRA 9 | GBR 13 | GER 10 | HUN DNQ | BEL 7 | ITA 11 | POR Ret | JPN 9 | AUS Ret | NC | 0 |
1993 | チーム・ザウバー・フォーミュラ1 | ザウバー C12 | ザウバー V10 | RSA 5 | BRA Ret | EUR Ret | SMR 4 | ESP Ret | MON Ret | CAN 7 | FRA Ret | GBR 8 | GER Ret | HUN Ret | BEL 9 | ITA Ret | POR 7 | JPN 8 | AUS Ret | 13位 | 5 |
1994 | ミドルセブン ベネトン フォード | ベネトン B194 | フォード V8 | BRA | PAC | SMR Ret | MON 7 | ESP Ret | CAN 6 | FRA | GBR | GER | HUN | BEL | ITA 9 | POR Ret | EUR | 24位 | 1 | ||
ザウバー メルセデス | ザウバー C13 | メルセデス V10 | JPN Ret | AUS 10 |
8.6. 24時間ル・マン
年 | チーム | コ・ドライバー | 車 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1990 | リチャード・ロイド・レーシング イタリア・スポーツ | マヌエル・ロイター ジェームス・ウィーバー | ポルシェ962C GTi | C1 | 181 | DNF | DNF |
1991 | ポルシェ クレマー・レーシング | マヌエル・ロイター ハリ・トイヴォネン | ポルシェ962CK6 | C2 | 343 | 9位 | 9位 |
1995 | コクサイ・カイハツ・レーシング | ヤニック・ダルマス 関谷正徳 | マクラーレンF1 GTR | GT1 | 298 | 1位 | 1位 |
1996 | ガルフ・レーシング GTCレーシング | レイ・ベルム ジェームス・ウィーバー | マクラーレンF1 GTR | GT1 | 323 | 9位 | 7位 |
1997 | チーム BMWモータースポーツ BMW チーム・シュニッツァー | スティーブ・ソパー ネルソン・ピケ | マクラーレンF1 GTR | GT1 | 236 | DNF | DNF |
1999 | チーム BMWモータースポーツ | トム・クリステンセン ヨルグ・ミューラー | BMW・V12 LMR | LMP | 304 | DNF | DNF |
2002 | チーム キャデラック | エリック・ベルナール エマニュエル・コラール | キャデラック・ノーススター・LMP02 | LMP900 | 334 | 12位 | 10位 |
2003 | チャンピオン・レーシング | エマニュエル・ピロ ステファン・ヨハンソン | アウディR8 | LMP900 | 372 | 3位 | 1位 |
2004 | ADT チャンピオン・レーシング | マルコ・ヴェルナー エマニュエル・ピロ | アウディR8 | LMP900 | 368 | 3位 | 3位 |
2005 | ADT チャンピオン・レーシング | トム・クリステンセン マルコ・ヴェルナー | アウディR8 | LMP900 | 370 | 1位 | 1位 |
8.7. ドイツツーリングカー選手権/マスターズ
(太字はポールポジション、斜体はファステストラップ)
年 | チーム | 車 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 総合順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995 | オペル・チーム・ヨースト | オペル・カリブラ V6 4x4 | HOC 1 | HOC 2 | AVU 1 | AVU 2 | NOR 1 | NOR 2 | DIE 1 | DIE 2 | NÜR 1 | NÜR 2 | ALE 1 | ALE 2 | HOC 1 | HOC 2 | 13位 | 36 | ||||||
2002 | OPCユーロチーム | オペル・アストラ V8 クーペ 2001 | HOC QR | HOC CR | ZOL QR | ZOL CR | DON QR | DON CR | SAC QR | SAC CR | NOR QR | NOR CR | LAU QR | LAU CR | NÜR QR | NÜR CR | A1R QR | A1R CR | ZAN QR | ZAN CR | HOC QR | HOC CR | 21位 | 0 |
8.8. 国際ツーリングカー選手権
年 | チーム | 車 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 総合順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995 | オペル・チーム・ヨースト | オペル・カリブラ V6 4x4 | MUG 1 | MUG 2 | HEL 1 | HEL 2 | DON 1 | DON 2 | EST 1 | EST 2 | MAG 1 | MAG 2 | 11位 | 26 | ||||||||||||||||
1996 | チーム・ロズベルグ・オペル | オペル・カリブラ V6 4x4 | HOC 1 | HOC 2 | NÜR 1 | NÜR 2 | EST 1 | EST 2 | HEL 1 | HEL 2 | NOR 1 | NOR 2 | DIE 1 | DIE 2 | SIL 1 | SIL 2 | NÜR 1 | NÜR 2 | MAG 1 | MAG 2 | MUG 1 | MUG 2 | HOC 1 | HOC 2 | INT 1 | INT 2 | SUZ 1 | SUZ 2 | 5位 | 148 |
8.9. アメリカンオープンホイールレース
8.9.1. CART
年 | チーム | No. | シャーシ | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1998 | ホーガン・レーシング | 9 | レイナード 98i | メルセデス・ベンツ IC108E | MIA 14 | MOT 29 | LBH 18 | NZR 16 | RIO 10 | STL 9 | MIL 19 | DET 26 | POR 25 | CLE 28 | TOR 24 | MIS 20 | MDO 15 | ROA 18 | VAN 8 | LS 28 | HOU 10 | SRF 5 | FON 21 | 20位 | 25 |
8.10. アメリカン・ル・マン・シリーズ
年 | エントラント | クラス | シャーシ | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 総合順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1999 | BMWモータースポーツ | LMP | BMW・V12 LMR | BMW S70 6.0L V12 | SEB 1 | ATL | MOS | SON 1 | POR 2 | PET 3 | MON 1 | LSV 1 | 4位 | 123 | ||||
2000 | BMWモータースポーツ | LMP | BMW・V12 LMR | BMW S70 6.0L V12 | SEB 3 | CHA 1 | SIL 1 | NÜR 2 | SON 3 | MOS 2 | TEX 4 | ROS 3 | PET 5 | MON 3 | LSV 9 | ADE | 6位 | 220 |
2001 | BMWモータースポーツ | GT | BMW M3 | BMW 3.2L I6 | TEX 5 | 2位 | 180 | |||||||||||
BMW M3 GTR | BMW 4.0L V8 | SEB 3 | DON Ret | JAR 2 | SON 1 | POR 3 | MOS 1 | MID 1 | MON 1 | PET 4 | ||||||||
2002 | チーム キャデラック | LMP900 | キャデラック・ノーススターLMP02 | キャデラック ノーススター 4.0L ターボ V8 | SEB Ret | SON | MID | AME | WAS | TRO | MOS 3 | MON 3 | MIA 2 | PET 3 | 13位 | 101 | ||
2003 | ADT チャンピオン・レーシング | LMP900 | アウディR8 | アウディ 3.6L ターボ V8 | SEB 2 | ATL 1 | SON 2 | TRO 2 | MOS 4 | AME 1 | MON 3 | MIA 1 | PET 1 | 3位 | 163 | |||
2004 | ADT チャンピオン・レーシング | LMP1 | アウディR8 | アウディ 3.6L ターボ V8 | SEB 2 | MID 1 | LIM 1 | SON 1 | POR 1 | MOS 2 | AME 1 | PET 1 | MON 2 | 1位 | 164 | |||
2005 | ADT チャンピオン・レーシング | LMP1 | アウディR8 | アウディ 3.6L ターボ V8 | SEB 1 | ATL 1 | MID 5 | LIM 1 | SON 3 | POR Ret | AME 3 | MOS 2 | PET 3 | MON 4 | 3位 | 148 |
8.11. セブリング12時間レース
年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回 | 順位 | クラス 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1999 | BMWモータースポーツ | トム・クリステンセン ヨルグ・ミューラー | BMW・V12 LMR | LMP | 313 | 1位 | 1位 |
2000 | ヨルグ・ミューラー | LMP | 359 | 3位 | 3位 | ||
2001 | ヨルグ・ミューラー | BMW・M3 GTR | GT | 324 | 10位 | 3位 | |
2002 | チーム・キャデラック | エリック・ベルナール エマニュエル・コラール | キャデラック・ノーススター・LMP02 | LMP900 | 256 | DNF | DNF |
2003 | ADT チャンピオン・レーシング | エマニュエル・ピロ ステファン・ヨハンソン | エマニュエル・ピロ マルコ・ヴェルナー | LMP900 | 345 | 2位 | 2位 |
2005 | トム・クリステンセン マルコ・ヴェルナー | LMP1 | 361 | 1位 | 1位 |
8.12. BPR GT
(太字はポールポジション、斜体はファステストラップ)
年 | チーム | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 総合順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1995 | トヨタ・チーム・トムス | トヨタ・スープラ LM-GT | GT1 | JER | PRI | MNZ | JAR | NÜR | DON | PAR | AND | SUZ | SIL | NOG | ZHU Ret | NC | 0 |
1996 | ガルフ・レーシング GTC | マクラーレンF1-GTR | GT1 | PRI | MNZ | JAR | SIL | NÜR | AND | SUZ 1 | BRA | SPA | NOG | ZHU 3 | 32位 | 14 |
8.13. FIA GT選手権
(太字はポールポジション、斜体はファステストラップ)
年 | チーム | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 総合順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1997 | BMWモータースポーツ | マクラーレンF1-GTR | GT1 | HOC 1 | SIL 3 | HEL 1 | NÜR 3 | SPA 1 | A1R 3 | SUZ 4 | DON 3 | MUG 1 | SEB 16 | LAG Ret | 2位 | 59 |