1. 経歴
エリック・ベルナールは、そのレーシングキャリアを通じて、才能と不屈の精神を示した。特に、幾度もの困難に直面しながらも、目標に向かって粘り強く努力し続ける姿は、多くの関係者から高く評価された。
1.1. 初期キャリア
ベルナールの初期キャリアは、着実な成長と才能の開花を示すものであった。
1.1.1. カート時代
ベルナールはマルティーグ近郊で生まれ、1976年にカートレースを開始した。続く7年間でフランスのカートタイトルを4度獲得するなど、幼少期からその才能を際立たせた。1980年、16歳の時に同い年のジャン・アレジが同じカートチームに加入し、以後F1に至るまで、彼らは同じカテゴリーで競い合う良きライバル関係を築いた。ベルナールはアレジとの関係について、「最初にジャンとレースをしたのはカートだったが、最初からはっきりと速かった。同じカート大会でも参戦クラスが違っていれば僕らはいい友人だよ」と語っている。
1.1.2. フォーミュラ・ルノー
1983年、ベルナールはポール・リカール・サーキットのウィンフィールド・レーシングスクールに入校し、ヴォラン・エルフ奨学金を獲得する。これは、ジャン・アレジやベルトラン・ガショーといった有力なライバルを破っての獲得であり、彼の才能が認められた証であった。この奨学金により、1984年のフォーミュラ・ルノーへのフル参戦が決定した。彼はこれを「ヴォラン・エルフを得たのがとても重要だった。そのおかげでフォーミュラ・ルノー・ターボに乗れるようになったからね」と振り返っている。
1984年、ベルナールはフランス・フォーミュラ・ルノー選手権にフル参戦し、シリーズランキング7位を獲得した。この年のチャンピオンはヤニック・ダルマス、2位はミシェル・トロレであった。ジャン・アレジはランキング10位であった。翌1985年にはエルフ・アキテーヌのワークスチームであるエキュリー・エルフに起用され、シーズン中に6勝を挙げ、4度のポールポジションと8度のファステストラップを記録、9回の表彰台に登り、総ポイント140点でシリーズチャンピオンを獲得した。彼はエリック・コマス(1勝/ランキング4位)やアレジ(ランキング5位)を抑えてのタイトル獲得であった。
1.1.3. フォーミュラ3
1986年からはフランス・フォーミュラ3選手権にステップアップした。このF3初年度もエルフからの支援はあったものの、ベルナール自身がチームを組織しスポンサー獲得を行う必要があった。彼は出身スクールであるウィンフィールドの名をチーム名に使用することを打診し、許可された。これは、ウィンフィールドが1973年のフォーミュラ・ルノーにルネ・アルヌーを参戦させて以来13年ぶりに名義使用を許可したものであり、ベルナールへの高い期待の現れであった。この頃、ベルナールはアレジ、コマス、ダルマスと共に、それぞれの頭文字を取って「フランスの有望株ABCD」と呼ばれた。初年度はランキング5位を獲得した。
1987年にはチーム名をエキュリー・エルフと変更し、コマスをチームメイトに迎えた。同年、名門オレカのドライバーとなったアレジとタイトル争いを展開し、チャンピオンは7勝を挙げたアレジが獲得したが、ベルナールは2勝、2位4回、3位3回でランキング2位となった。彼のチームメイトであるコマスはランキング6位であった。同年、マカオグランプリにも参戦し8位で完走した。
1.1.4. 国際F3000
F3での活躍が認められ、国際F3000選手権に参戦するイギリスのラルト・ワークスからオファーを受け、1988年にフル参戦を開始した。これはベルナールにとって初めての母国以外のチームへの在籍となった。同じ時期にアレジもフランスのオレカから国際F3000にステップアップしていたが、この年はレイナードシャシーが圧倒的な戦闘力を持つシーズンであり、ベルナールのラルトRT22は苦戦を強いられた。ラルトのロン・トーラナックはF2でのアルミ製モノコックの製作実績は豊富だったものの、当時主流となりつつあったカーボンファイバー製モノコックの設計・制作は初のシーズンであったため、重量配分に苦しみ操縦性が悪かった。
ベルナールはこうした状況下でも、チームメイトのラッセル・スペンスやマルコ・グレコを常に上回り、4位や6位入賞を果たすなどその実力を示した。しかし、第5戦モンツァでラルト勢が揃って予選落ちを喫したのを機に、ベルナールはラルトから離脱した。彼は当時の状況を「ラルトRT22はとても運転しづらかったが、チームの誰もあのマシンがどれほどひどいものなのか本当のところ理解していなかった。頑張って2回ポイントも取った。だけどモンツァで予選通過もできなくなった時、途中だけどもうここは辞めるべきだと決めた。僕は富豪ではないし、せっかく集めたレース参戦資金は大事にもっと戦えるマシンを得るために使いたかった」と説明している。
1戦欠場後、彼はレイナード88Dを使用するブロムレイ・モータースポーツに移籍した。ブロムレイでのチームメイトであるロベルト・モレノは当時ポイントリーダーであり選手権トップの存在であったが、レイナードを得たベルナールは終盤3戦で予選・決勝ともにモレノに匹敵する成績を収めた。特に第9戦ル・マンでは首位を走行し、最終戦ディジョンでは2位表彰台を獲得し、その評価を取り戻した。1988年シーズンは総合9位で終えた。
シーズン終了後、ルネ・アルヌーとジャン=ポール・ドゥリオを中心に、フランス人ドライバー育成を主眼に新しく興されたDAMSのドライバーに起用されることが決定した。この頃からF1参戦時代まではマルセイユ近郊に在住していた。
1989年、新チームのDAMSはベルナールとコマスのフランス人コンビで国際F3000選手権に参戦した。6月、第4戦ヘレス・サーキットでベルナールはポールポジション、ファステストラップ、優勝を全て獲得するハット・トリックを達成した。この直後、F1のラルースからグランプリデビューの打診を受けた。国際F3000の年間ランキングではアレジ、コマスに次ぐ年間3位を獲得し、25ポイントを獲得した。
1.2. F1キャリア
ベルナールのF1キャリアは、華々しいデビューとチームの財政難、そして怪我による試練の時期を経て、最終的な表彰台獲得に至るまでの波乱に満ちた道のりであった。
1.2.1. ラルース時代 (1989年 - 1991年)
1989年7月、ベルナールはヤニック・ダルマスの後任としてラルースのシートを獲得し、F1デビューを果たした。地元フランスでのデビュー戦となったフランスGPでは、予選15位から一時5位まで順位を上げる活躍を見せ、終盤まで7位を走行していたが、数周を残してランボルギーニV12エンジンが故障し、11位完走に終わった。続くイギリスGPにも参戦したがリタイヤに終わった。その後、ベルナールを長年支援してきたエルフ石油が、ベルナールのF3000タイトル争いを重視したことと、ラルースがエルフのライバルであるBPからの支援拡大を受け入れたことに難色を示したため、ベルナールはラルースのシートをミケーレ・アルボレートに譲る結果となり、彼のF1初年度はわずか2レースの参戦に留まった。
この年のシーズンオフには、マクラーレンを離れることになったアラン・プロストがジョン・バーナードと共同で立ち上げた新チームにセカンドドライバーとして加入する話が持ち上がったが、スポンサー獲得に至らずプロストがフェラーリ移籍を決めたため、チーム設立の話も立ち消えとなった。
1990年、ベルナールはラルース・ランボルギーニのレギュラーシートを獲得し、鈴木亜久里のチームメイトとなった。開幕当初に義務付けられていた予備予選を全戦で突破し、第4戦モナコGPでは決勝6位に入り、F1初ポイントを獲得した。その後、第8戦イギリスGPで4位、第10戦ハンガリーGPで6位と、計3度の入賞を果たした。亜久里と共にチームをコンストラクターズランキング6位に導く活躍を見せた。亜久里とは良好なチームワークを築き、当時の記者取材においてベルナールは亜久里を「亜久里は去年大変だったけど、今年は疑いようがない速さがあるってことを周囲に見せたし、ヨーロッパのドライバーに負けないスピードがあることを証明したと思う。日本からヨーロッパに来て成功するのは普段の環境から全く違う世界だろうけど、うまく適応してるよ。今後数年間F1でやっていける実績を残したね」と高く評価するコメントを残している。
しかし、シーズン終了後、リジェチームからローラ製マシンを使用しての参戦がコンストラクターズ・ランキングに「ラルース」として登録されているのは違反であるとの抗議が入り、ラルースチームは1990シーズンの全獲得ポイントを抹消される結果となった(ただし、ドライバーズポイントは抹消されなかった)。これにより国際自動車連盟(FIA)から支給されるはずだった資金が激減し、チームの資金難が深刻化した。さらに、ランボルギーニV12エンジンもリジェに奪われる形となった。
このような厳しい状況で迎えた1991年シーズンは、ベルナールも亜久里も苦戦を強いられた。エンジンは非力でトラブルの多いコスワースDFRとなり、完走はわずか2回に留まったが、第6戦メキシコGPでは6位入賞を果たし、1ポイントを獲得した。しかし、これ以後は第14戦スペインGPまで、2度の予選落ちを含めて一度も完走することができなかった。特に第11戦ポルトガルGPでの予選落ちは、身内の不幸も一部影響したとされる。最悪の事態は第15戦日本GPで発生した。フリー走行中にヘアピンの立ち上がりでスピンし、コース内側のコンクリートウォールに激しく衝突。このクラッシュの衝撃で外れたペダルにより、ベルナールは左足を骨折し、このレースと最終戦を欠場することとなった。
1.2.2. 負傷と休養 (1991年 - 1993年)
1991年の日本GPでの負傷後、ベルナールは左足のリハビリに専念した。1992年シーズンはF1に参戦せず、怪我の治療と回復に時間を費やした。この間、ウィリアムズからテストドライバー、チーム・メナードからインディ500、プジョーからル・マン24時間レースのオファーを受けるなど、彼の才能への評価は根強かった。彼はプジョー・905のテストに参加したが、怪我が完治していなかったためマーク・ブランデルが選ばれた。ブランデルはデレック・ワーウィック、ヤニック・ダルマスと共にその年のル・マンを制覇することになる。
1993年、ベルナールはエルフの支援によりリジェのテストドライバーとして契約を結んだ。リザーブドライバーとしても登録されたが、この年はレースへの出走機会はなかった。
1.2.3. リジェ、ロータス時代 (1994年)
1994年、3年ぶりにF1のレースシーンに復帰し、リジェのレギュラードライバーとなった。開幕前にチームの主要な出資者が詐欺容疑で逮捕され、予算が削減されたことが、ベルナールがルーキーのオリビエ・パニスと共にレースシートを獲得できた一因となった。チームは1993年のJS39の「Bスペック」シャシーを使用しており、当時のF1では非常に珍しい運用で競争力に影響を与えた。

第9戦ドイツGPでは、26台中18台がリタイヤする波乱のレースを生き残り、3位に入賞した。これはベルナールにとって最初で最後のF1での表彰台獲得となった。しかし、シーズンを通して、予選ではパニスに3勝10敗と遅れを取り、獲得ポイントでもパニスに差をつけられるなど、速さ・安定感ともにルーキーのパニスに及ばなかった。ベルナールが3位に入ったドイツGPでも、パニスはその前である2位を獲得している。
第14戦ヨーロッパGP直前、ラルース時代の資金難と類似した経緯で、ジョニー・ハーバートとのトレードという形で深刻な資金難に陥っていたロータスに移籍した。しかし、ロータス109での参戦はヨーロッパGPの1レースに留まり、ラスト2戦はミカ・サロにシートを奪われた。
1.2.4. F1後
1995年シーズンに向けて、ベルナールは再びラルースと契約していたが、チーム自体が開幕戦に参戦することなくF1から撤退した。これにより、ベルナールがF1シートを獲得する機会は二度と訪れなかった。
1.3. スポーツカーキャリアと引退
F1でのキャリアを終えた後、ベルナールはFIA GT選手権、アメリカン・ル・マン・シリーズ(ALMS)、そしてル・マン24時間レースなどのスポーツカーレースに転向し、ここでも大きな成功を収めた。2002年にドライバーとしてのキャリアを引退。引退後は、若手ドライバーであるシャルル・ピックとその弟であるアーサー・ピックのサポートを行っていた。現在は、南プロバンスのルベロンでトリュフの栽培を営んでいる。
2. 人物と評価
エリック・ベルナールは、そのレースにおける才能だけでなく、人間性においても高く評価されている。
ラルース時代のチームメイトである鈴木亜久里は、ベルナールについて「速かったし、性格もすごく良かった。マシンセッティングの方向性も近くて1990年はレースウィークの進め方がやりやすかった」と語っている。さらに亜久里は「ヨーロッパのレース関係者の中でエリックの評価は高かったので、その彼に予選タイムで勝てれば自分の評価も良くなると思ってモチベーションになった」と、ベルナールとの関係が自身の成長に繋がったと述懐している。1991年夏、ラルースの資金状況が厳しい中で、宿泊するホテルのグレードが良くなったグランプリがあった際、ベルナールと亜久里は「いよいよ最後だから良い部屋にしてくれたんじゃないの?」と冗談を言い合ったという。亜久里は「彼はそういう時でも悲壮感がないんだよね。あの2年ラルースはとてもいいチームでしたよ」と、ベルナールが困難な状況下でも前向きな姿勢を崩さなかったことを評価している。
また、ラルースのエンジニアであったミッシェル・テツは、ドライバーとしてのベルナールを「技術に明るく、忍耐強くて、気分に左右されない安定感がある」と評した。その人柄については、「礼儀正しく品があって、育ちの良さを感じさせた。困難な時でもいつも前向きだから、苦しいチーム事情の中で士気を維持するのにどれほど役立ってくれたか」と述べている。一方で、テツはベルナールが「アグレッシブなレースをするが、根が優しくて物静かな男だったため、エンジニアに厳しく接することができない」という一面も指摘している。
パーマをかけた特徴的な髪型から、日本のテレビ実況担当であった古舘伊知郎は、彼を「フランス片田舎のパンチパーマ男」と呼んだ。
3. レース戦績
3.1. キャリア概要
シーズン | シリーズ | チーム | レース数 | 優勝 | ポール | F/L | 表彰台 | ポイント | 順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1984 | フランス・フォーミュラ・ルノー・ターボ選手権 | ? | 11 | 0 | 0 | 0 | 1 | 55 | 7位 |
1985 | フランス・フォーミュラ・ルノー・ターボ選手権 | エキュリー・エルフ | 12 | 6 | 4 | 8 | 9 | 140 | 1位 |
1986 | フランスF3 | エキュリー・エルフ | 10 | 0 | 0 | 0 | 2 | 48 | 5位 |
イタリアF3 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC | ||
1987 | フランスF3 | エキュリー・エルフ | 13 | 2 | 3 | 7 | 9 | 129 | 2位 |
マカオグランプリ | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | 8位 | ||
1988 | 国際F3000 | ブロムレイ・モータースポーツ | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 13 | 9位 |
ラルト・レーシング | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||||
1989 | 国際F3000 | DAMS | 10 | 1 | 2 | 3 | 3 | 25 | 3位 |
フォーミュラ1 | エキープ・ラルース | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC | |
1990 | フォーミュラ1 | エスポ・ラルースF1 | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 13位 |
1991 | フォーミュラ1 | ラルースF1 | 13 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 18位 |
1994 | フォーミュラ1 | リジェ ジタン・ブロンズ | 13 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 18位 |
ロータス | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||||
1995 | ル・マン24時間 | クラージュ・コンペティション | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF |
1996 | BPRグローバルGTシリーズ | エンネア/イゴール | 10 | 0 | 0 | 0 | 3 | 155 | 8位 |
ル・マン24時間 | エンネアSRLイゴール | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF | |
1997 | FIA GT選手権 | DAMSパノス | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | NC |
ル・マン24時間 | ソシエテ・DAMS | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF | |
1998 | FIA GT選手権 | DAMS | 8 | 0 | 0 | 0 | 2 | 15 | 11位 |
ユナイテッド・ステイツ・ロード・レーシング選手権 | パノス-ヴィステオン・レーシング | 5 | 0 | 1 | 0 | 2 | 8 | 4位 | |
ル・マン24時間 | パノス・モータースポーツ | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF | |
1999 | アメリカン・ル・マン・シリーズ | パノス・モータースポーツ | 8 | 2 | 1 | 2 | 4 | 135 | 2位 |
スポーツレーシング・ワールド・カップ | DAMS | 5 | 3 | 1 | 2 | 3 | 60 | 9位 | |
ル・マン24時間 | パノス・モータースポーツ | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | 7位 | |
2000 | アメリカン・ル・マン・シリーズ | モトローラ-DAMS | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 66 | 20位 |
スポーツレーシング・ワールド・カップ | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 37位 | ||
ル・マン24時間 | DAMS | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | 19位 | |
2001 | ル・マン24時間 | DAMS | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | DNF |
2002 | アメリカン・ル・マン・シリーズ | チーム・キャデラック | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 78 | 18位 |
ル・マン24時間 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | N/A | 12位 |
3.2. フランス・フォーミュラ3選手権
年 | チーム | シャーシ | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986年 | エキュリエ・エルフ・ウィンフィールド | マルティニ・Mk49 | アルファロメオ | 7 | 13 | 4 | Ret | Ret | 3 | 3 | 4 | 4 | Ret | DNQ | 5位 | 48 | ||
1987年 | エキュリエ・エルフ | ラルト・RT31 | 4 | 2 | 3 | 1 | 2 | 3 | 3 | 2 | 2 | 10 | 19 | 1 | 5 | 2位 | 129 |
- 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。
3.3. マカオグランプリ
年 | チーム | シャーシ/エンジン | 予選 | レース1 | レース2 | 総合順位 |
---|---|---|---|---|---|---|
1987年 | Écurie Elfエキュリー・エルフフランス語 | ラルト・RT31-アルファロメオ | 12位 | 台風のため1ヒート制 | 8位 |
3.4. 国際F3000選手権
年 | チーム | シャーシ | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1988年 | チーム・ラルト | ラルト・RT22 | ジャッド | 6 | 10 | 4 | 11 | DNQ | PER | 9位 | 13 | |||||
ブロムレイ・モータースポーツ | レイナード・88D | コスワース | DSQ | DSQ | Ret | 4 | 2 | |||||||||
1989年 | DAMS | ローラ・T89/50 | 無限・MF308 | Ret | Ret | Ret | 1 | Ret | 4 | 4 | Ret | 3 | 2 | 3位 | 25 |
- 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。
3.5. F1世界選手権
年 | 所属チーム | シャーシ | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989 | エキープ・ラルース | LC89 | ランボルギーニ V12 | BRA 11 | SMR Ret | MON | MEX | USA | CAN | FRA 11 | GBR Ret | GER | HUN | BEL | ITA | POR | ESP | JPN | AUS | NC | 0 |
1990 | エスポ・ラルースF1 | LC89B | ランボルギーニ V12 | USA 8 | BRA Ret | 13位 | 5 | ||||||||||||||
LC90 | SMR 13 | MON 6 | CAN 9 | MEX Ret | FRA 8 | GBR 4 | GER Ret | HUN 6 | BEL 9 | ITA Ret | POR Ret | ESP Ret | JPN Ret | AUS Ret | |||||||
1991 | ラルースF1 | LC91 | コスワースV8 | USA Ret | BRA Ret | SMR Ret | MON 9 | CAN Ret | MEX 6 | FRA Ret | GBR Ret | GER Ret | HUN Ret | BEL Ret | ITA Ret | POR DNQ | ESP Ret | JPN DNQ | AUS | 18位 | 1 |
1994 | リジェ | JS39B | ルノーV10 | BRA Ret | PAC 10 | SMR 12 | MON Ret | ESP 8 | CAN 13 | FRA Ret | GBR 13 | GER 3 | HUN 10 | BEL 10 | ITA 7 | POR 10 | 18位 | 4 | |||
ロータス | 109 | 無限ホンダV10 | EUR 18 | JPN | AUS |
3.6. ル・マン24時間レース
年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1995年 | Courage Compétitionクラージュ・コンペティションフランス語 | Henri Pescaroloアンリ・ペスカロロフランス語 | クラージュ・C41 | WSC | 26 | DNF | DNF |
1996年 | Ennea SRL IgolエンネアSRLイゴールイタリア語 | Jean-Marc Gounonジャン=マルク・グーノンフランス語 | フェラーリF40 GTE | LMGT1 | 40 | DNF | DNF |
1997年 | Société DAMSソシエテ・DAMSフランス語 | Franck Lagorceフランク・ラゴルスフランス語 | パノスGTR-1 | LMGT1 | 149 | DNF | DNF |
1998年 | Panoz Motor Sportsパノス・モータースポーツ英語 | Christophe Tinseauクリストフ・タンソーフランス語 | パノスGTR-1 | LMGT1 | 236 | DNF | DNF |
1999年 | Panoz Motor Sportsパノス・モータースポーツ英語 | David Brabhamデビッド・ブラバム英語 | パノス・LMP-1 ロードスター-S | LMP | 336 | 7位 | 6位 |
2000年 | DAMSチーム・DAMSフランス語 | Emmanuel Collardエマニュエル・コラールフランス語 | キャデラック・ノーススター・LMP | LMP900 | 300 | 19位 | 9位 |
2001年 | DAMSチーム・DAMSフランス語 | Emmanuel Collardエマニュエル・コラールフランス語 | キャデラック・ノーススターLMP01 | LMP900 | 56 | DNF | DNF |
2002年 | Team Cadillacチーム・キャデラック英語 | Emmanuel Collardエマニュエル・コラールフランス語 | キャデラック・ノーススターLMP02 | LMP900 | 334 | 12位 | 10位 |
4. 関連項目
- モータースポーツ
- F1ドライバーの一覧
- ジャン・アレジ
- 鈴木亜久里
- ラルース
- リジェ
- チーム・ロータス