1. 幼少期
シモンズはウィスコンシン州ミルウォーキーで、ポーランド系移民の家庭にアル・シマンスキ(Alois Szymanski英語)として生まれた。彼は幼少期からフィラデルフィア・アスレチックスの熱心なファンであった。小学4年生の時、プロ野球選手になりたいと主張したため、父親からお仕置きを受けたが、その意思を貫いたことで、父親からは「それなら一流の選手になれ」と言われた。シモンズは、地元のマイナーリーグチームでプレーしていた際、本名である「シマンスキ」が人々に誤って発音されることにうんざりし、ある日「シモンズ・ハードウェア」という会社の広告を見て、その姓を取り入れ「アル・シモンズ」と名乗るようになった。
2. 選手経歴
アル・シモンズの選手としてのキャリアは、フィラデルフィア・アスレチックスでの輝かしい全盛期と、その後の複数の球団を渡り歩いた晩年とに分けられる。彼はその打撃技術と長打力で多くの記録を打ち立て、史上最高の打者の一人として名を残した。
2.1. フィラデルフィア・アスレチックス時代 (1924-1932)
1923年にフィラデルフィア・アスレチックスと契約し、その際に登録名を「アル・シモンズ」とした。1924年にメジャーデビューし、ルーキーシーズンから打率3割、100打点を記録する活躍を見せた。
1925年には、当時歴代2位となる253安打を放ち、打率.387、24本塁打、129打点を記録した。この年、122得点、43二塁打、長打率.599をマークし、1シーズンにおける85試合でのマルチヒットゲームはMLB記録として残っている。MVP投票ではロジャー・ペキンポーに次ぐ2位に食い込んだ。続く3シーズン(1926年、1927年、1928年)では、それぞれ打率.341、.392、.351を記録し、110、108、107打点を挙げた。MVP投票では1926年に5位、1927年には4位に入った。
1929年、シモンズはアスレチックスをAL優勝に導いた。チームは104勝46敗で、ニューヨーク・ヤンキースに18ゲーム差をつけてリーグ優勝を果たした。アスレチックスはその後、シカゴ・カブスを5試合で破り、ワールドシリーズを制覇した。このシーズン、シモンズは打率.365、34本塁打を記録し、AL最多の157打点を挙げた。この年、彼は3番のジミー・フォックスに続く4番打者として強力な打線を形成した。また、114得点、212安打、41二塁打、長打率.642をマークした。1929年のワールドシリーズでは、打率.300、2本塁打、5打点、6得点を記録した。

1930年はシモンズにとって選手としての最高の年となり、キャリアで初の首位打者を獲得した(打率.381)。36本塁打、211安打、41二塁打、16三塁打を放ち、長打率.708、165打点、152得点をわずか138試合で記録した。アスレチックスは再びAL優勝を果たし(102勝52敗)、セントルイス・カージナルスを破って2年連続のワールドシリーズ優勝を達成した。1930年のワールドシリーズでは、打率.364、2本塁打、4打点、長打率.727を記録した。
1931年、アスレチックスはヤンキースに13.5ゲーム差をつけて3年連続のAL優勝を飾った(107勝45敗)。シモンズは2度目の首位打者となり、打率.390、22本塁打、128打点、100得点、200安打、37二塁打、13三塁打、長打率.641を、わずか128試合で記録した。この年のAL MVP投票では、チームメイトのレフティ・グローブとヤンキースのルー・ゲーリッグに次ぐ3位に入った。シーズン開幕まで契約問題でチームと揉めていたが、開幕日に世界恐慌の当時としては破格の3年10.00 万 USDで契約した。ちなみに契約当日の開幕試合では、本拠地シャイブ・パークの屋根を直撃する特大のホームランを放っている。しかし、アスレチックスは3年連続のワールドシリーズ制覇を目指したが、1931年のワールドシリーズではカージナルスに7試合で敗れた。シモンズはこのシリーズで打率.333、2本塁打、8打点を記録した。
フィラデルフィアでの最後のシーズンとなった1932年、シモンズはAL最多の216安打を記録した。打率.322、35本塁打、151打点、144得点をマークした。アスレチックスでの9年間で、シモンズは1,290試合に出場し、打率.356、209本塁打、1,179打点、969得点を残した。彼は全9シーズンで100打点以上を記録し、5シーズンで100得点以上を達成した。アスレチックスでの3度のワールドシリーズ出場では、18試合で打率.333、6本塁打、17打点、15得点を記録した。
2.2. 後期キャリア (1933-1944)
1932年9月下旬、アスレチックスはシモンズ、ミュール・ハース、ジミー・ダイクスを現金トレードでシカゴ・ホワイトソックスに放出することを発表した。このトレードの金額は当時明らかにされなかったが、ホワイトソックス史上最大、そしてAL史上最大の現金トレードであると報じられた。これは、アスレチックスのオーナー兼監督であるコニー・マックが、1929年から1931年にかけて成功を収めたチームを解体している可能性が新聞で報じられたことを示唆している。
シカゴでの最初のシーズンとなった1933年、シモンズは打率.331、14本塁打、119打点、200安打を記録した。この年、初めて開催されたMLBオールスターゲームではファン投票で最多得票を獲得し、出場を果たした。1934年には、138試合で打率.344、18本塁打、104打点、102得点、192安打をマークした。ホワイトソックスでの最後のシーズンとなった1935年は、128試合で打率.267、16本塁打、79打点と不振に陥った。これは彼の11年間のキャリアで初めて打率3割と100打点を下回る成績だった。
しかし、1936年にデトロイト・タイガースに移籍すると、打率.327、13本塁打、112打点、96得点と成績を回復させた。
1937年にはワシントン・セネタースで再び不調に陥り、103試合で打率.279、8本塁打、84打点に終わった。しかし、1938年には好成績を残し、わずか125試合で打率.302、21本塁打、95打点を記録した。この21本塁打は、シモンズがセネタースの選手として初めてシーズン20本塁打を達成したという栄誉を与えた。
1938年12月、シモンズはセネタースからボストン・ビーズに放出された。移籍金はすぐには明らかにされなかったが、シモンズがセネタースのオーナークラーク・グリフィスと不仲であったと報じられている。
1939年8月31日、シモンズはビーズからシンシナティ・レッズにトレードされた。レッズはその年NL優勝を果たし、シモンズは自身最後のワールドシリーズに出場する機会を得た。1939年のワールドシリーズでは1試合に出場し、4打数1安打、二塁打1、1得点を記録した。
シモンズは1944年までメジャーリーグでプレーし、キャリアの最後は古巣のフィラデルフィア・アスレチックスで終えた。
2.3. キャリアのハイライトと特筆すべき記録
シモンズはMLB史上最高の打者の一人として評価されている。キャリア通算打率は.334を記録した。特に、20世紀以降の右打者としては歴代5位の通算打率である。彼は8シーズンで打率.340以上、うち4シーズンで打率.380以上を記録した。また、メジャーリーグでの最初の11シーズン全てで打率.300以上、かつ100打点以上を達成している。
シモンズは1,040試合で通算1,500安打、1,393試合で通算2,000安打を達成しており、これはどちらの記録もメジャーリーグ史上最速の到達試合数として現在も残っている。彼はシーズン200安打以上を6回記録しており、そのうち5回は連続達成(1929年~1933年)だった。また、1926年には199安打、1934年には192安打を記録している。ALの右打者としては、アル・ケーラインに抜かれるまで、史上最多安打を記録していた。デビューから1000試合出場時点での通算安打数(1443本)は、1900年以降では1位の記録である。この記録は2007年5月に1000試合出場を達成したイチローが通算1414安打で迫ったことで注目された。
メジャーリーグでは、5安打試合を8回、4安打試合を52回記録した。キャリア通算307本塁打を放ち、7シーズン連続(1925年~1932年)でALのホームランランキングトップ6に入った。ワールドシリーズ19試合では、打率.329、6本塁打、17打点、15得点、長打率.658を記録した。1925年 - 1934年の10年間は打撃3部門(打率、本塁打、打点)でいずれもリーグ10位以内を記録している。
彼はその時代において優れた外野手でもあり、キャリア通算の守備率は.982を記録し、メジャーリーグキャリアで正確に5,000刺殺を記録した。
シモンズはバッティング時に三塁方向へ大きく踏み出す独特の打撃フォームであったため、「バケットフット・アル」という愛称で呼ばれた。これはまるで足がバケツに突っ込まれているように見えたことに由来する。コニー・マック監督はシモンズを大変気に入り、彼がアスレチックスを離れた後も監督室にシモンズの写真を飾っていたという。
2.3.1. 年度別打撃成績
年度 | 球団 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1924 | PHA | 152 | 644 | 594 | 69 | 183 | 31 | 9 | 8 | 256 | 102 | 16 | 15 | 18 | -- | 30 | -- | 2 | 60 | -- | .308 | .343 | .431 | .774 |
1925 | PHA | 153 | 696 | 654 | 122 | 253 | 43 | 12 | 24 | 392 | 129 | 7 | 14 | 6 | -- | 35 | -- | 1 | 41 | -- | .387 | .419 | .599 | 1.018 |
1926 | PHA | 147 | 642 | 583 | 90 | 199 | 53 | 10 | 19 | 329 | 109 | 11 | 3 | 10 | -- | 48 | -- | 1 | 49 | -- | .341 | .392 | .564 | .956 |
1927 | PHA | 106 | 458 | 406 | 86 | 159 | 36 | 11 | 15 | 262 | 108 | 10 | 2 | 20 | -- | 31 | -- | 1 | 30 | -- | .392 | .436 | .645 | 1.081 |
1928 | PHA | 119 | 509 | 464 | 78 | 163 | 33 | 9 | 15 | 259 | 107 | 1 | 4 | 11 | -- | 31 | -- | 3 | 30 | -- | .351 | .396 | .558 | .954 |
1929 | PHA | 143 | 629 | 581 | 114 | 212 | 41 | 9 | 34 | 373 | 157 | 4 | 3 | 16 | -- | 31 | -- | 1 | 38 | -- | .365 | .398 | .642 | 1.040 |
1930 | PHA | 138 | 611 | 554 | 152 | 211 | 41 | 16 | 36 | 392 | 165 | 9 | 2 | 17 | -- | 39 | -- | 1 | 34 | -- | .381 | .423 | .708 | 1.131 |
1931 | PHA | 128 | 563 | 513 | 105 | 200 | 37 | 13 | 22 | 329 | 128 | 3 | 3 | 0 | -- | 47 | -- | 3 | 45 | -- | .390 | .444 | .641 | 1.085 |
1932 | PHA | 154 | 718 | 670 | 144 | 216 | 28 | 9 | 35 | 367 | 151 | 4 | 2 | 0 | -- | 47 | -- | 1 | 76 | -- | .322 | .368 | .548 | .916 |
1933 | CWS | 146 | 648 | 605 | 85 | 200 | 29 | 10 | 14 | 291 | 119 | 5 | 1 | 2 | -- | 39 | -- | 2 | 49 | -- | .331 | .373 | .481 | .854 |
1934 | CWS | 138 | 613 | 558 | 102 | 192 | 36 | 7 | 18 | 296 | 104 | 3 | 2 | 0 | -- | 53 | -- | 2 | 58 | -- | .344 | .403 | .530 | .933 |
1935 | CWS | 128 | 561 | 525 | 68 | 140 | 22 | 7 | 16 | 224 | 79 | 4 | 6 | 1 | -- | 33 | -- | 2 | 43 | -- | .267 | .313 | .427 | .740 |
1936 | DET | 143 | 620 | 568 | 96 | 186 | 38 | 6 | 13 | 275 | 112 | 6 | 4 | 1 | -- | 49 | -- | 2 | 35 | -- | .327 | .383 | .484 | .867 |
1937 | WAS | 103 | 453 | 419 | 60 | 117 | 21 | 10 | 8 | 182 | 84 | 3 | 2 | 3 | -- | 27 | -- | 4 | 35 | -- | .279 | .329 | .434 | .763 |
1938 | WAS | 125 | 512 | 470 | 79 | 142 | 23 | 6 | 21 | 240 | 95 | 2 | 1 | 2 | -- | 38 | -- | 2 | 40 | -- | .302 | .357 | .511 | .868 |
1939 | BSB | 93 | 358 | 330 | 39 | 93 | 17 | 5 | 7 | 141 | 43 | 0 | -- | 4 | -- | 22 | -- | 2 | 40 | 13 | .282 | .331 | .427 | .758 |
1939 | CIN | 9 | 23 | 21 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | 0 | -- | 0 | -- | 2 | -- | 0 | 3 | 0 | .143 | .217 | .143 | .360 |
1939計 | 102 | 381 | 351 | 39 | 96 | 17 | 5 | 7 | 144 | 44 | 0 | -- | 4 | -- | 24 | -- | 2 | 43 | 13 | .274 | .324 | .410 | .734 | |
1940 | PHA | 37 | 85 | 81 | 7 | 25 | 4 | 0 | 1 | 32 | 19 | 0 | 0 | 0 | -- | 4 | -- | 0 | 8 | 4 | .309 | .341 | .395 | .736 |
1941 | PHA | 9 | 25 | 24 | 1 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 1 | 0 | 0 | 0 | -- | 1 | -- | 0 | 2 | 2 | .125 | .160 | .167 | .334 |
1943 | BOS | 40 | 141 | 133 | 9 | 27 | 5 | 0 | 1 | 35 | 12 | 0 | 1 | 0 | -- | 8 | -- | 0 | 21 | 3 | .203 | .248 | .263 | .511 |
1944 | PHA | 4 | 6 | 6 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 0 | 0 | 1 | .500 | .500 | .500 | 1.000 |
通算:20年 | 2215 | 9515 | 8759 | 1507 | 2927 | 539 | 149 | 307 | 4685 | 1827 | 88 | 65 | 111 | -- | 615 | -- | 30 | 737 | 23 | .334 | .380 | .535 | .915 |
2.4. タイトルと記録
- タイトル**
- 首位打者:2回(1930年、1931年)
- 打点王:1回(1929年)
- 記録**
- 最多安打:2回(1925年、1932年)
- オールスター出場:3回(1933年、1934年、1935年)
- 通算1500安打到達までの試合数は1040試合で、これは1900年以降で最少記録である。
- 通算2000安打到達までの試合数は1390試合で、これも1900年以降で最少記録である。
- デビューから1000試合出場時点での通算安打数(1443本)は、1900年以降では史上1位の記録である。
3. 引退後の生活とコーチ経歴
選手引退後、シモンズはコニー・マック監督率いるアスレチックスでコーチ(1945年~1949年)を務めた。その後、クリーブランド・インディアンスでもコーチを務めた(1950年)。1951年4月初め、シモンズは未公表の病気のためインディアンスのコーチを辞任すると発表した。インディアンスの監督アル・ロペスはシモンズに再考を促したが、シモンズはこれ以上チームに貢献できないと述べ、職を辞した。
4. 死去
シモンズは1956年5月26日に死去した。彼は当時居住していたミルウォーキー・アスレチック・クラブ近くの歩道で倒れ、心臓発作を起こしたとみられている。短時間後に病院で死亡が確認された。彼はミルウォーキーのセント・アダルベルト墓地に埋葬されている。
5. 功績と栄誉
アル・シモンズは、その卓越した野球選手としての功績により、複数の名誉ある殿堂に迎えられ、史上最高の選手の一人として高く評価されている。
5.1. 殿堂入り
シモンズは野球界におけるその功績が認められ、複数の殿堂入りを果たしている。
- ウィスコンシン州スポーツ殿堂:1951年
- アメリカ野球殿堂:1953年
- 全米ポーランド系アメリカ人スポーツ殿堂:1975年
5.2. ランキングと評価
1999年には、『スポーティングニュース』誌が選ぶ「史上最も偉大な野球選手100人」のリストで43位にランクインし、メジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チームの候補にも名を連ねた。ビル・ジェームズが2001年に発表した著書『ビル・ジェームズ・ヒストリカル・ベースボール・アブストラクト』では、シモンズを史上71番目に偉大な野球選手、そして史上7番目に偉大なMLBの左翼手として評価している。