1. 選手経歴
アンドニ・ゴイコエチェアの選手としての活動は、彼のアグレッシブなプレースタイルと、それがもたらした成功および論争によって特徴づけられる。
1.1. 初期とアスレティック・ビルバオでのデビュー
ゴイコエチェアは1956年8月23日にビスカヤ県アロンソテギで生まれた。地元のクラブであるアルブージョでサッカーを始めた後、1973年にアスレティック・ビルバオに加入した。当初はリザーブチームでプレーしていたが、すぐにトップチームに昇格。1975-76シーズンには、ラ・リーガで27試合に出場し4得点を記録し、トップチームデビューを果たした。しかし、続く3シーズンは出場機会が減り、合計でわずか24試合の出場にとどまった。
1.2. アスレティック・ビルバオの黄金期
1980年代に入ると、ゴイコエチェアはハビエル・クレメンテ監督率いるアスレティック・ビルバオの主力選手として頭角を現した。ダニ、ホセ・ラモン・ガジェゴ、ホセ・ヌニェス、マヌエル・サラビア、そしてアンドニ・スビサレタらと共に、彼はクラブの成功に大きく貢献した。
1982-83シーズンにはリーグ優勝を達成し、翌1983-84シーズンにはリーグタイトルを防衛するとともに、コパ・デル・レイも制覇し、クラブ史上初の二冠を達成した。さらに、スーペルコパ・デ・エスパーニャも獲得し、3冠を達成した。この時期、ゴイコエチェアは「アロンソテギの巨人」(El Gigante de Alonsoteguiエル・ヒガンテ・デ・アロンソテギスペイン語)という愛称でクラブのファンから親しまれた。
1.3. 議論を呼んだプレー:マラドーナとシュスターへのファウル事件
ゴイコエチェアの選手としてのキャリアは、そのアグレッシブなプレースタイルと、それに伴う悪名高いファウルによって特徴づけられる。特に、ディエゴ・マラドーナとベルント・シュスターに対して行ったファウルは、彼の評価を決定づけるものとなった。

1983年9月24日、ゴイコエチェアはカンプ・ノウで行われたバルセロナとのリーグ戦で、ディエゴ・マラドーナに背後から悪質なタックルを仕掛け、彼の足首を骨折させた。このファウルは「スペインサッカー史上最も残忍なファウルの一つ」と評された。マラドーナは、その瞬間に聞こえた音を「木が折れるような音」と表現した。この事件の後、イギリスのジャーナリスト、エドワード・オーウェンはゴイコエチェアを「ビルバオの肉屋」(Butcher of Bilbaoブッチャー・オブ・ビルバオ英語)と名付け、この異名は彼のキャリアを通じて彼に付きまとった。
当時のバルセロナ監督であったマラドーナと同郷のセサル・ルイス・メノッティは、ゴイコエチェアを「『反サッカー選手』の種族に属する」と非難し、永久追放を要求した。この結果、ゴイコエチェアはスペイン王立サッカー連盟から10試合の出場停止処分を受けた。後に、彼はこのファウルに使ったスパイクを自宅のガラスケースに保管していたと報じられ、その冷酷な一面をさらに浮き彫りにした。
また、この事件の2シーズン前には、ゴイコエチェアはバルセロナのミッドフィールダーであったベルント・シュスターにも重傷を負わせていた。シュスターは右膝に深刻な怪我を負い、その影響から完全に回復することはなかった。
1984年5月の1984 コパ・デル・レイ決勝で、アスレティック・ビルバオとバルセロナが再び対戦した際、試合はアスレティックの1-0の勝利で終わったものの、試合後には両チームによる大規模な乱闘が発生した。この乱闘中に、ゴイコエチェアは再びマラドーナの胸を蹴りつけた。この行為により、彼は当初18試合の出場停止処分を受けたが、後に7試合に軽減された。これらの事件は、彼のプレースタイルが単なる「激しさ」ではなく、「危険性」と「悪質性」を伴うものであったことを明確に示している。
1.4. 後期のクラブ経歴と引退
アスレティック・ビルバオを退団した後、ゴイコエチェアはアトレティコ・マドリードで3シーズンを過ごしたが、出場機会は限られた。1990年、33歳で現役を引退した。アスレティック・ビルバオでのキャリアを通じて、彼は公式戦369試合に出場し、44得点を記録している。
2. 代表経歴
ゴイコエチェアはスペイン代表として39試合に出場し、4得点を挙げた。1983年2月16日に行われたオランダ代表との試合で代表デビューを果たした。
彼はUEFA欧州選手権1984と1986 FIFAワールドカップの両大会でスペイン代表の一員としてプレーした。特に1986年のワールドカップでは、決勝トーナメント1回戦のデンマーク代表戦でPKから1得点を挙げ、エミリオ・ブトラゲーニョの4得点と合わせて5-1の勝利に貢献した。
スペイン代表での活動に加え、ゴイコエチェアは1978年から1990年にかけて、バスク代表としても4試合に出場している。
3. プレースタイル
ゴイコエチェアは、その極めて攻撃的で荒々しいプレースタイルで悪名高かった。彼のディフェンダーとしての特徴は、相手を徹底的に潰すことを厭わない強靭なマークと、しばしば危険なタックルにあった。
特に、ディエゴ・マラドーナやベルント・シュスターに対する悪質なファウルは、彼に「ビルバオの肉屋」という異名をもたらした。これらの事件は、彼のプレースタイルが単なる激しさを超え、相手選手の安全を脅かすものであると広く認識されるきっかけとなった。
2007年には、イギリスの新聞社である『タイムズ』から「史上最もタフなディフェンダー」の一人に選ばれるなど、その強度は高く評価された一方で、その倫理的な側面は常に批判の対象であった。彼のプレーは、サッカーにおけるフェアプレーの精神と、勝利への執着の間に存在する緊張関係を象徴するものであった。
4. 指導者経歴
アンドニ・ゴイコエチェアは、現役引退から2年後の1992年に指導者としてのキャリアを開始した。
最初の指導者としての役割は、1994 FIFAワールドカップにおいて、かつてアスレティック・ビルバオで師事したハビエル・クレメンテ監督の下でスペイン代表のアシスタントコーチを務めることだった。また、同時期にU-21スペイン代表の監督も務め、UEFA U-21欧州選手権1994では3位、UEFA U-21欧州選手権1996では準優勝という成績を収めた。
1996年からはクラブチームの監督を務め、UDサラマンカを2度にわたり率いた。最初の指揮ではセグンダ・ディビシオンで2位となり、チームを1部リーグ昇格に導いたが、1997年10月に解任された。その後、SDコンポステーラ(1998-1999)、CDヌマンシア(1999-2000、2005-2007)、ラシン・サンタンデール(2000-2001)、ラージョ・バジェカーノ(2001)など、スペイン国内の多くのクラブを率いた。ヌマンシアでの2度目の在任中には、チームを2008-09シーズンに1部リーグに昇格させるという功績を残した。
2007年6月には、2部リーグに所属するエルクレスCFの監督に就任したが、クラブの内部体制を批判する発言が原因で出場停止処分を受け、2007-08シーズン終了後に解任された。
彼の指導者キャリアで最も注目されたのは、2013年2月に赤道ギニア代表の監督に就任したことである。しかし、ポルトガルの格下チームに敗れるなど、親善試合での成績不振を理由に、2015 アフリカネイションズカップ開幕のわずか3週間前の2015年1月に解任された。
5. タイトル・栄誉
5.1. 選手時代
アスレティック・ビルバオ
- プリメーラ・ディビシオン: 1982-83、1983-84
- コパ・デル・レイ: 1983-84
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ: 1984
サッカースペイン代表
- UEFA欧州選手権: 準優勝 1984

5.2. 監督時代
サッカーU-21スペイン代表
- UEFA U-21欧州選手権
- 準優勝: 1996
- 3位: 1994
6. キャリア統計
6.1. クラブ統計
クラブ | シーズン | リーグ | コパ・デル・レイ | その他国内大会 (コパ・デ・ラ・リーガ出場) | 欧州 | 合計 | ||||||
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ディビジョン | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
ビルバオ・アスレティック | 1973-74 | テルセーラ・ディビシオン | 4 | 0 | 0 | 0 | - | - | 4 | 0 | ||
1974-75 | 21 | 8 | 0 | 0 | - | - | 21 | 8 | ||||
合計 | 25 | 8 | 0 | 0 | - | - | 25 | 8 | ||||
アスレティック・ビルバオ | 1974-75 | ラ・リーガ | 0 | 0 | 2 | 0 | - | - | 2 | 0 | ||
1975-76 | 27 | 4 | 1 | 0 | - | - | 28 | 4 | ||||
1976-77 | 10 | 0 | 2 | 0 | - | 4 | 0 | 16 | 0 | |||
1977-78 | 4 | 1 | 0 | 0 | - | 3 | 0 | 7 | 1 | |||
1978-79 | 10 | 1 | 3 | 0 | - | 0 | 0 | 13 | 1 | |||
1979-80 | 30 | 3 | 12 | 4 | - | - | 42 | 7 | ||||
1980-81 | 27 | 4 | 9 | 1 | - | - | 36 | 5 | ||||
1981-82 | 31 | 6 | 7 | 0 | 0 | 0 | - | 38 | 6 | |||
1982-83 | 24 | 4 | 5 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 32 | 4 | ||
1983-84 | 28 | 2 | 7 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 39 | 3 | ||
1984-85 | 31 | 3 | 6 | 2 | 2 | 0 | 2 | 0 | 41 | 5 | ||
1985-86 | 31 | 5 | 6 | 1 | - | 6 | 0 | 43 | 6 | |||
1986-87 | 24 | 2 | 5 | 0 | - | 3 | 0 | 32 | 2 | |||
合計 | 277 | 35 | 65 | 8 | 4 | 0 | 23 | 1 | 369 | 44 | ||
アトレティコ・マドリード | 1987-88 | ラ・リーガ | 13 | 0 | 4 | 0 | - | - | 17 | 0 | ||
1988-89 | 14 | 0 | 8 | 0 | - | 0 | 0 | 22 | 0 | |||
1989-90 | 8 | 0 | 0 | 0 | - | 2 | 0 | 10 | 0 | |||
合計 | 35 | 0 | 12 | 0 | - | 2 | 0 | 49 | 0 | |||
キャリア合計 | 337 | 43 | 77 | 8 | 4 | 0 | 25 | 1 | 443 | 52 |
6.2. 代表チーム得点
スペイン代表の得点を先に記載。スコア欄はゴイコエチェアの各得点後のスコアを示す。
7. 評価と影響
アンドニ・ゴイコエチェアは、その強靭なフィジカルと執拗なマークで知られる、傑出したディフェンダーであった。アスレティック・ビルバオの黄金期を支え、数々のタイトル獲得に貢献した功績は、クラブの歴史に深く刻まれている。しかし、彼の選手としての評価は、その輝かしい功績と、議論を呼んだ悪質なプレーという二つの側面で常に語られる。
特に、ディエゴ・マラドーナやベルント・シュスターといった世界的スター選手に重傷を負わせた事件は、単なるプレースタイルの問題を超え、サッカーにおけるスポーツマンシップや倫理の限界を問うものとして、歴史に悪名を残している。彼に付けられた「ビルバオの肉屋」という異名は、そのアグレッシブさを称えるものではなく、むしろその危険なプレーに対する批判的な視点から生まれたものである。マラドーナの監督であったセサル・ルイス・メノッティがゴイコエチェアを「反サッカー選手」と断じたことは、彼が当時のサッカー界からいかに強く非難されていたかを示すものである。
これらの事件は、彼の選手としての技術的な評価とは別に、彼の人間性やプロフェッショナルとしての態度についても疑問を投げかけた。スパイクをガラスケースに保管していたというエピソードは、彼の行動に後悔の念がなく、むしろ誇りを感じていた可能性を示唆しており、大衆の彼に対する否定的な認識をさらに強めた。
彼のプレースタイルが、単なる「タフさ」ではなく「悪質さ」を伴うものであったという歴史的評価は、今日のサッカーにおいて選手の安全とフェアプレーが重視される中で、より一層明確なものとなっている。ゴイコエチェアは、サッカーの歴史において、強烈な個性と論争を引き起こす行動が、いかに選手個人の評価と、ひいてはスポーツ全体の倫理に影響を与えるかを示す、典型的な事例として記憶されるだろう。