1. 概要
アービン・マクドウェル(Irvin McDowell英語、1818年10月15日 - 1885年5月4日)は、アメリカ合衆国陸軍の職業軍人である。彼は南北戦争で最初の大規模会戦である第一次ブルランの戦いで敗北を喫したことで最もよく知られている。1862年にはポトマック軍の第1軍団指揮官を務め、トーマス・"ストーンウォール"・ジャクソンの部隊に対してバレー方面作戦で苦戦を強いられ、同年8月の第二次ブルランの戦いでの北軍の敗北に大きく寄与したとして非難された。その指揮はしばしば政治的圧力の下で行われたものの、優柔不断で意思疎通を欠き、無能であったという批判は終生彼につきまとった。
2. 生涯と初期の経歴
アービン・マクドウェルは、南北戦争以前の軍事経歴を通じて、軍人としての基本的な訓練と経験を積んだが、彼の主要な任務は主に兵站や参謀業務であり、大規模な部隊の指揮経験は南北戦争勃発時には不足していた。
2.1. 出生と教育
マクドウェルは1818年10月15日にオハイオ州コロンバスで、エイブラム・アービン・マクドウェルとエリザ・セルドン・マクドウェルの間に生まれた。彼はイングランド系およびスコットランド系アイルランド人の血を引いていた。ジョン・バフォードとは義理のいとこにあたり、彼の兄であるジョン・アデア・マクドウェルは南北戦争中に第6アイオワ志願歩兵連隊の初代連隊長を務めた。
マクドウェルは当初、フランスのトロワ大学で学んだ後、1838年にウェストポイントの陸軍士官学校を卒業した。この時の同級生の一人には、後に第一次ブルランの戦いで敵対者となるP・G・T・ボーリガードがいた。
2.2. 南北戦争以前の軍務
陸軍士官学校卒業後、マクドウェルは少尉に任官し、第1アメリカ砲兵連隊に配属された。彼はウェストポイントで戦術の教官を務めた後、米墨戦争ではジョン・E・ウール将軍の副官を務めた。ブエナ・ビスタの戦いで名誉大尉となり、戦後は総務局長の下で働いた。1856年5月31日には総務局の少佐に昇進した。
1848年から1861年にかけて、マクドウェルは主に上級将校の参謀として勤務し、兵站と補給の経験を積んだ。この間、ウィンフィールド・スコット将軍の参謀を務め、彼と親密な友情を築いた。また、後に南軍の将軍となるジョセフ・E・ジョンストンの下でも勤務した経験がある。
3. 南北戦争
南北戦争が勃発すると、マクドウェルは主要な指揮官として任命され、初めて大規模な軍事作戦を指揮することになった。しかし、その経験不足と政治的圧力、そして複雑な戦略は、彼に大きな困難をもたらした。
3.1. 北東バージニア軍の指揮
マクドウェルは1861年5月14日に正規軍の准将に昇進し、同年5月27日には北東バージニア軍の指揮官に任命された。この昇進は、彼の指導者であった財務長官のサーモン・P・チェイスの影響力が一部にあった。マクドウェルは自身の部隊が経験不足で戦闘の準備ができていないことを認識しており、自身が野戦指揮官ではなく補給士官であると抗議したにもかかわらず、ワシントンD.C.の政治家たちからの強い圧力により、バージニア州北部で南軍に対する時期尚早な攻勢を強いられることになった。
3.2. 第一次ブルランの戦い
1861年7月21日に発生した第一次ブルランの戦いにおけるマクドウェルの戦略は、創意に富んだものではあったが、野心的に複雑なものでもあった。彼の指揮下の部隊は、この複雑な戦略を効果的に実行するには経験が不足しており、その結果、北軍は壊滅的な敗走を喫するという屈辱的な敗北に終わった。この敗戦は、マクドウェルの軍事指導力に対する最初の大きな批判の的となった。

3.3. その後の指揮と任務
ブルランでの敗北後、ジョージ・マクレラン少将がワシントンを防衛する新しい北軍であるポトマック軍の指揮官に任命された。マクドウェルはポトマック軍の師団指揮官となった。1862年3月14日、エイブラハム・リンカーン大統領は軍を軍団に再編成する命令を発し、マクドウェルは第1軍団の指揮官に任命され、志願兵の少将に昇進した。同年4月に軍がバージニア半島に向けて出発した際、マクドウェルの部隊はストーンウォール・ジャクソンのシェナンドー渓谷戦線における活動への懸念からラッパハノック地域での任務に切り離され、後に1個師団のみが半島に送られた。これは、ワシントンD.C.がジャクソンの攻撃を受ける可能性を恐れた政治家たちの意向が強く働いたためであり、マクドウェルが指揮する4万人もの部隊が後方に留め置かれた。
最終的に、マクドウェル将軍、ジョン・C・フレモント将軍、およびナサニエル・P・バンクス将軍の3つの独立した部隊は、ジョン・ポープ少将のバージニア軍に統合され、マクドウェルはバージニア軍の第3軍団を率いることになった。
3.4. 論争と指揮官としての評価
マクドウェルは、シーダー山の戦いでの功績により、1865年には正規軍の名誉少将に昇進したが、その後に続く第二次ブルランの戦いでの壊滅的な敗北において、彼はその責任を追及されることになった。この戦いでの失態により、マクドウェルは広く自身の部隊からも軽蔑され、敵と内通しているとさえ信じられていた。彼はその責任を逃れるため、ジョン・ポープがこの戦闘中の命令不服従の容疑で軍法会議にかけたフィッツ・ジョン・ポーター少将に対して不利な証言を行った。ポープとマクドウェルは互いに嫌っていたものの、マクドウェルは戦後も将軍の地位を維持するために、ポープの下で勤務することを受け入れた。しかし、公式には責任を免れたものの、その後2年間、マクドウェルに新たな指揮任務が与えられることはなかった。この出来事は、マクドウェルの指揮官としての評価をさらに低下させる一因となった。
3.4.1. 第二次ブルランの戦いとフィッツ・ジョン・ポーター軍法会議
ラザフォード・B・ヘイズ大統領が命じた査問委員会が1879年に発表した報告書では、フィッツ・ジョン・ポーターの恩赦を推薦するとともに、第二次ブルランの戦いでの敗北の大部分がマクドウェルに帰するものであると結論付けられた。この報告書の中で、マクドウェルは優柔不断で、意思疎通を怠り、無能であったと厳しく描写された。具体的には、ポーターからの情報要請に対して繰り返し返答を怠り、ロングストリートの部隊配置に関する情報をポープに伝え損ね、さらに軍法に定められた自身の任務であった北軍左翼の指揮を執ることを怠ったと指摘された。この報告は、マクドウェルの軍事的な欠陥と、その決断がもたらした壊滅的な結果を明確に示した。
4. 南北戦争後の経歴と退役
南北戦争後、マクドウェルは様々な軍事職位を歴任したが、特に彼の軍事的な評価は、戦中の失敗と戦後の報告書によって大きく左右された。
4.1. 戦後の軍務
1864年7月、マクドウェルは太平洋方面軍の指揮官に任命された。その後、1865年7月27日から1868年3月31日までカリフォルニア方面軍の指揮官を務め、一時的に第4軍管区(レコンストラクション期のアーカンソー州とルイジアナ州の軍政府)も指揮した。そして、1868年7月16日から1872年12月16日まで東部方面軍の指揮官を務めた。1872年11月25日には少将に昇進し、同年12月16日にはジョージ・G・ミード将軍の後任として南部軍管区の指揮官となり、1876年6月30日までその職に留まった。1876年7月1日からは太平洋師団の指揮官を務めた。
4.2. 退役と晩年
1882年、議会が軍人の強制退職年齢を64歳に定めたことにより、マクドウェルは同年10月14日に軍から退役した。
軍を退役した後、マクドウェルは造園への強い関心を発揮し、カリフォルニア州サンフランシスコの公園委員として、その死去まで勤務した。この職務において、彼は放置されていたサンフランシスコ要塞の敷地内に公園を整備し、ゴールデンゲートの景観を望むことができる道路を敷設するなど、彼の死に至るまでその才能を活かした。
5. 死去と埋葬
マクドウェルは1885年5月4日に心臓発作のため死去した。彼はサンフランシスコ要塞内のサンフランシスコ国立墓地に埋葬されている。
6. 遺産と歴史的評価
マクドウェルの遺産は、特に南北戦争における彼の指揮能力とその結果について、今日に至るまで歴史的な議論の対象となっている。
6.1. 歴史的評価と批判
マクドウェルは、第一次ブルランの戦いと第二次ブルランの戦いでの失敗により、歴史家から厳しく批判されている。彼の指揮は、経験不足、複雑すぎる戦略、そして政治的介入によって妨げられたとされているが、彼の優柔不断さや部隊との意思疎通の欠如、さらには自身の責任を他者に転嫁しようとした行動も指摘される。特に、フィッツ・ジョン・ポーターの軍法会議における彼の証言と、その後の査問委員会の報告書は、彼が軍事的な失敗の責任を免れようとしたこと、そして彼の指揮官としての資質に深刻な欠陥があったことを示している。自身の部隊からも「敵と内通している」とまで非難されるほど、彼の兵士からの信頼は薄かった。これらの批判的な評価は、マクドウェルの南北戦争における役割と、彼が軍事史に残した遺産を形成する上で不可欠な要素となっている。