1. 生涯と経歴
エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールの生涯は、フランス革命期からナポレオン時代、そして王政復古期という激動の時代と重なり、その中で彼は重要な学術的地位を築き、比較解剖学と進化論の分野で数々の業績を残した。
1.1. 出生と初期の人生
ジョフロワは1772年4月15日に、フランスのエソンヌ県エタンプで生まれた。幼少期には、当初僧侶となるための教育を受けていた。
1.2. 学術的背景と教育
パリのナヴァール大学で自然哲学を学び、マチュラン・ジャック・ブリソンに師事した。その後、コレージュ・ド・フランスでルイ=ジャン=マリー・ドーバントンの講義、パリ植物園でアントワーヌ・フランソワ・ド・フルクロワの講義に出席し、学問的基盤を築いた。
1.3. 初期キャリアと活動
1793年3月、ドーバントンの尽力により、ベルナール・ジェルマン・エティエンヌ・ド・ラセペードの辞任によって空席となった自然史陳列室の副管理人兼助手デモンストレーターの職を得た。同年6月に可決された法律により、彼は新設されたフランス国立自然史博物館の12人の教授の一人に任命され、動物学の教授職を担当することになった。この年、彼は同機関に動物園を設立することにも尽力した。また、彼はフクロネコ科のダシュルス属(Dasyurus)を命名した。
1794年、ジョフロワは後に彼の主要な論争相手となるジョルジュ・キュヴィエと文通を開始した。キュヴィエが国立自然史博物館の助手に任命された直後、ジョフロワはキュヴィエを自宅に受け入れた。二人の友人は共同で5つの自然史に関する論文を執筆し、そのうちの1つ、哺乳類の分類に関する論文では、キュヴィエが自身の動物学体系の基礎とした「特徴の従属」という考え方が提示された。1795年に執筆された論文『マキ、あるいはマダガスカルのサルたちの歴史』(Histoire des Makis, ou singes de Madagascar)において、ジョフロワは初めて「有機体の構成の統一性」に関する自身の見解を表明した。この見解は、その後の彼の全ての著作に影響を与えている。彼は、自然は原理的には同じだが、付属的な部分で多様化した、ただ一つの構築計画を提示していると述べている。
1.4. エジプト遠征隊への参加
1798年、ジョフロワはナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征に、エジプト学術院の自然史・物理学部門のメンバーとして選ばれた。この遠征には、ドミニク・ヴィヴァン・ドゥノン、クロード・ルイ・ベルトレ、ジャン=バティスト・ジョゼフ・フーリエを含む151人の科学者と芸術家が参加した。
1801年8月のアレクサンドリア陥落時、彼はイギリス軍司令官が遠征隊の収集品を要求した際、これに抵抗する役割を担った。彼は、もしその要求が貫かれるならば、歴史は彼もまたアレクサンドリアで図書館を焼いたと記録することになるだろうと宣言した。この毅然とした態度は、科学的遺産の保護に対する彼の強い意志を示している。
1.5. フランスへの帰還と学術活動
1802年1月初旬、ジョフロワはパリに帰還した。1807年9月にはフランス科学アカデミーの会員に選出された。翌年3月、すでに国家への貢献を評価されレジオンドヌール勲章を授与されていたナポレオンは、彼をポルトガルの博物館を訪問させ、そこから収集品を確保するよう命じた。イギリスからのかなりの反対にもかかわらず、彼は最終的にそれらをフランスの恒久的な財産として保持することに成功した。1838年にはレジオンドヌール勲章のオフィシエに任命された。
フランス革命中に投獄されたルネ=ジュスト・アユイの解放に尽力したことでも知られている。
2. 主要な科学的業績と理論
ジョフロワ・サンティレールの科学的業績は、当時の生物学の限界を押し広げ、後の進化思想に大きな影響を与えた。彼の中心的な思想は、生命の多様性の背後にある統一性を探求することであった。
2.1. 構成の統一性原理
ジョフロワが確立した最も重要な原理の一つが「構成の統一性」(unity of composition英語)である。彼は、全ての生物が同じ基本設計に基づいて構成されていると主張した。これは、自然が原理的には同一でありながら、付属的な部分において多様化した「単一の構築計画」を提示しているという考えに基づいている。彼は、相同な器官は、形態や大きさが異なっても、常に不変の順序で結合されているべきだと考えた。この原理は、生物の多様性の背後にある普遍的なパターンを解明しようとする彼の試みの核心であった。
2.2. 進化論的見解
ジョフロワはジャン=バティスト・ラマルクの進化論を擁護し、さらに拡張した。ラマルクの唯物論的な見解とは異なり、ジョフロワの科学的見解は超越的な傾向を持ち、ローレンツ・オーケンのようなドイツの形態学者たちの思想と類似していた。彼は、生物の設計の根底にある統一性と、時間とともに種が変容する可能性を信じ、比較解剖学、古生物学、発生学の研究を通じて、自身の主張の証拠を積み重ねた。このため、彼は現代の進化発生生物学(evo-devo)の先駆者と見なされている。
ジョフロワは理神論者であり、神を信じながらも、詳細な存在に超自然的な干渉がない、法則に支配された宇宙を信じていた。この種の意見は啓蒙時代に一般的であり、啓示や奇跡の拒否、そして聖書を神の文字通りの言葉として解釈しないことと関連していた。これらの見解は、有機体の変化に関する彼の自然主義的な思想と矛盾しなかった。
ジョフロワの進化論は、共通祖先の理論ではなく、与えられたタイプの中に存在する潜在能力が発現するというものであった。彼にとって、環境は有機体の変化を直接的に誘発する原因となる。この見解は、エルンスト・マイヤーによって「ジョフロワイズム」(Geoffroyism英語)と名付けられた。これはラマルクの信条(ラマルクは「習慣の変化」が動物を変えると信じた)とは異なり、遺伝的形質に対する環境の直接的な影響は、今日では中心的な進化の力とは考えられていない。
彼はまた、「跳躍進化」(saltational evolution英語)の理論を支持しており、「奇形が、ある形態から次の形態への瞬間的な移行によって、新種の創始者(または創始母)となる可能性がある」と主張した。1831年には、鳥類が爬虫類からエピジェネティックな跳躍によって生じた可能性があると推測した。ジョフロワは、環境圧が新種を瞬時に確立するための突然の変形を生み出す可能性があると記している。1864年にはアルベルト・フォン・ケリカーが、彼の進化が大きな段階を経て進行するという理論を「ヘテロゲネシス」(heterogenesis英語)の名で復活させた。
2.3. 比較解剖学と研究方法論
ジョフロワは、生物の多様性を理解するために比較解剖学を主要な研究方法として用いた。彼は、異なる種の器官や構造を比較することで、それらの間に共通のパターンや相同性を見出すことができると考えた。彼の研究は、古生物学や発生学にも及び、これらの分野からの証拠を統合することで、生物の形態形成と変容のメカニズムを解明しようと試みた。
1820年代後半、ジョフロワの友人であるロバート・エドモンド・グラントは、エディンバラで海洋無脊椎動物の研究中に彼の統一計画に関する見解を共有し、彼と文通を交わした。グラントは1826年から1827年にかけて学生のチャールズ・ダーウィンの助けを得て、軟体動物の膵臓を特定することに成功している。
2.4. 主要理論と概念
ジョフロワの主要な理論には、奇形形成に関する見解が含まれる。彼は、奇形は「発生の停止」(arrest of development英語)や「類似部分の引きつけ」(attraction of similar parts英語)の原理に基づいて形成されると説明した。
また、彼はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテと共に、「成長の補償法則」(law of compensation or balancing of growth英語)を提唱した。これは、ある器官が過剰に発達すると、それは他の部分の犠牲の上に成り立つという考え方である。さらに彼は、自然は突然の飛躍をしないため、たとえ特定の種において不必要に見える器官であっても、同じ科の他の種で重要な役割を果たしていたならば、一般的な創造計画の永続性を示す「痕跡器官」(rudiments英語)として残されると主張した。
ジョフロワは、節足動物の背腹軸の構造が哺乳類とは逆になっていることに注目し、「背腹軸の反転仮説」(inversion hypothesis英語)を提唱した。この仮説は当初批判され、否定されたが、後に一部の現代の分子発生生物学者によって復活している。
2.5. キュヴィエとの論争

1830年、ジョフロワが自身の「動物構成の統一性」に関する見解を無脊椎動物に適用しようとした際、かつての友人であったジョルジュ・キュヴィエから激しい反対を受けた。この論争は、当時の生物学における二つの主要な科学的方法論と理論間の対立を象徴するものとなった。
統合論者であったジョフロワは、有機体構成における統一計画の理論に従い、全ての動物は同じ要素、同じ数、同じ結合で形成されていると主張した。彼は、形態や大きさが異なっても、相同な部分は常に同じ不変の順序で結合されたままでなければならないと主張した。
一方、事実を分析的に観察するキュヴィエは、動物の器官における「共存の法則」または「調和の法則」の普及のみを認め、種の絶対的な不変性を主張した。彼は、種は置かれた環境を考慮して創造され、各器官は果たすべき機能のために考案されたと宣言した。ジョフロワの見解では、これは原因と結果を取り違えているとされた。
この論争は、生物の形態と機能の関係、種の起源と変容に関する根本的な問いを巡るものであり、当時の生物学の発展に大きな影響を与えた。
3. 個人的生活と家族
ジョフロワ・サンティレールの個人的な生活に関する情報は少ないが、彼の家族、特に息子は彼の学術的遺産を継承した。
3.1. 家族関係
彼の息子であるイジドール・ジョフロワ・サン=ティレール(1805年12月16日 - 1861年11月10日)も著名な動物学者となり、1841年には父の後を継いで国立自然史博物館の教授職に就任した。イジドールは父の学術的探求を継承し、特に奇形学の分野で重要な貢献をした。
4. 死
ジョフロワ・サンティレールは晩年、健康上の問題を抱えながらも、その学術的探求を続けた。
4.1. 後期と死
1840年7月、ジョフロワは失明した。数か月後には麻痺の発作に見舞われ、その時から徐々に体力が衰えていった。彼は1841年に博物館の教授職を辞任し、息子のイジドールがその職を引き継いだ。ジョフロワは1844年6月19日にパリで死去し、ペール・ラシェーズ墓地の第19区画に埋葬された。
5. 遺産と評価
ジョフロワ・サンティレールは、その革新的な思想と研究方法により、後世の科学界に多大な影響を与え、その功績は今日まで称えられている。
5.1. 科学界への影響
彼の「構成の統一性」原理や種の変容に関する見解は、後の進化論の発展に重要な基盤を提供した。特に、彼は進化発生生物学(evo-devo)の先駆者と見なされており、生物の形態形成と進化の関連性を探る現代の研究に影響を与えている。また、彼の奇形に関する研究は、奇形学(teratology英語)という分野の基礎を築いた。
5.2. 奇形学およびその他の分野への貢献
ジョフロワは、1836年に「アザラシ肢症」(phocomelia英語)という医学用語を初めて提唱した。これは、彼の奇形に関する広範な研究の一環であり、医学知識の発展に寄与した側面を示している。彼の生物学的現象に関する研究は、単に学術的な関心に留まらず、応用科学としての医学にも影響を与えた。
5.3. 後世への影響と記念
ジョフロワの業績を称え、多くの生物種や場所が彼の名にちなんで命名されている。
- ジョフロイネコ(Leopardus geoffroyi)
- ジェフロアカエルガメ(Phrynops geoffroanus)
- ジェフロイクモザル(Geoffroy's spider monkey英語)
- ジェフロイコウモリ(Geoffroy's bat英語)
- ジョフロワタマリン(Geoffroy's tamarin英語)
- コリドラス・ゲオフロイ(Corydoras geoffroy)
また、パリの第5区にある通り「リュ・ジョフロワ=サン=ティレール」(Rue Geoffroy Saint-Hilaireフランス語)は、パリ植物園やフランス国立自然史博物館の近くに位置しており、彼の功績を記念している。
5.4. ポップカルチャーにおける言及
フランスの著名な作家オノレ・ド・バルザックは、自身の小説『ゴリオ爺さん』(Le Père Goriot)をジョフロワ・サンティレールに捧げ、「彼の労苦と天才への賞賛のしるしとして」献辞を記している。これは、彼の科学的業績が当時の知識人や芸術家にも広く認識され、社会全体に影響を与えていたことを示している。
6. 著作
ジョフロワ・サンティレールは、その生涯を通じて数多くの重要な著作を発表し、彼の科学的見解と研究成果を体系的に提示した。
6.1. 主要な著作
彼の代表作には以下のものがある。
- 『解剖哲学』(Philosophie anatomique、1818年 - 1820年):この著作の第2巻(1822年出版)およびその後の論文では、奇形が「発生の停止」や「類似部分の引きつけ」の原理に基づいて形成されることが説明されている。
- 『哺乳類自然史講義』(Cours de l'histoire naturelle des mammifères、1829年)