1. 生涯と聖職者としての経歴
エティエンヌ・シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌは、政治家として活躍する以前に、カトリック教会において重要な地位を築いた。
1.1. 生い立ちと教育
1727年10月9日にパリで生まれたエティエンヌ・シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌは、リムーザン地域圏(現在のヌーヴェル=アキテーヌ地域圏の一部)のフラヴィニャックを起源とするロメニー家の一員であった。この家系は、15世紀にまで遡る歴史を持ち、その傍系であるロメニー・ド・ブリエンヌ家は、数世紀にわたりフランス王宮の中枢に深く根を張ってきた。
1552年には、マルシャル・ド・ロメニーがアンリ2世の秘書官となることで貴族に叙され、さらに1561年から1571年にはヴェルサイユの領主権を獲得した。1623年には有利な結婚を通じてブリエンヌ伯爵となり、その後もルイ14世の時代には外交分野、アンシャン・レジーム末期には軍事省において重要な政府の役職を歴任した。親族には、クーダンス司教を務めたシャルル=フランソワ・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌ(1668年-1720年)や、後にサンス大司教区の補佐司教となる養子縁組の従兄弟ピエール=フランソワ・マルシャル・ド・ロメニー(1789年-1794年)がいる。
彼は優秀な学生であり、輝かしい地位を得るための道として聖職者の道に進んだ。1751年には神学博士号を取得したが、その学位論文の正統性については疑問が呈された。
1.2. 初期教会の活動と社会との関係
1751年、エティエンヌ・シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌは、ルーアンの枢機卿大司教であったニコラ・ド・ソ=タヴァンヌの副司教(grand vicaireフランス語)に任命された。その後、ローマを訪問し、1760年12月19日にはコンドン司教に、1763年3月21日にはトゥールーズ大司教に転任した。1766年から1769年の間はモン・サン=ミシェルの院長を兼任し、1788年からはコルビーの修道院長も兼務した。1772年には、衰退していた修道院の閉鎖を目的とした「宗教委員会(Commission des Réguliersフランス語)」の委員長を務めた。
彼の交友関係は幅広く、アンヌ=ロベール=ジャック・テュルゴー、アンドレ・モレレ、ヴォルテールといった多くの著名な文化人と親交を持った。1770年にはアカデミー・フランセーズの会員に選出されている。また、フランス聖職者会議の「法務部(bureau de jurisdictionフランス語)」の長を3度にわたって務めた。
彼は当時の政治的、社会的問題に深い関心を示し、特に貧困に関するものを含む多くの覚書をテュルゴーに送った。一部で異論があるものの、ブリエンヌは当初から無神論者であると見なされることが少なくなかった。1781年、パリ大司教であったクリストフ・ド・ボーモンの死去後、ブリエンヌを後任に推す運動があったが、ルイ16世は「パリ大司教は少なくとも神を信じているべきだ!」と叫んでその就任を拒否したとされている。
2. 政治家としての経歴
エティエンヌ・シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌは、その聖職者としての経歴を経て、フランス政治の中枢へと深く関与していくこととなる。
2.1. 名士会での役割
1787年の名士会において、エティエンヌ・シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌは、当時の財務総監であったシャルル・アレクサンドル・ド・カロンヌの財政政策に対して、野党勢力を率いて強い反対の声を上げた。マリー・アントワネット王妃とも親しい関係にあった彼は、この名士会での主導的な役割が評価され、1787年5月25日にはカロンヌの後任として財政国務会議議長に任命され、実質的に宰相の地位に就いた。

2.2. 財務総監として
財務総監に就任したブリエンヌは、国内の自由貿易の推進、地方議会の設立、そして賦役の廃止に関する勅令を高等法院に登録させることに成功した。しかし、彼の財政改革はすぐに大きな壁に直面する。新たな印紙税や広範な土地税の導入を目指した勅令は、高等法院によって登録を拒否された。
これに対し、ブリエンヌはルイ16世を説得し、勅令の強制登録を目的としたリ・ド・ジュスティス(フランス王が主催する高等法院の特別会合)を開催させた。さらに、高等法院の抵抗を抑え込むため、ルイ16世は1787年8月18日に高等法院の評定員をトロワへ追放する強硬策に同意した。高等法院が全ての所得に対する直接税(二十分の一税)の延長に同意すると、評定員はパリへの帰還を許可された。
しかし、ブリエンヌが次に提案した1億2000万リーブルという巨額の公債発行に関する勅令を登録させようとすると、高等法院は再び断固として反対した。この高等法院とブリエンヌの対立は、1788年5月8日に高等法院が、国家の混乱を是正するために三部会が召集されることを条件に、自らの廃止を定めた勅令の登録に同意することで一旦の終結を迎えた。
1788年5月には、税徴収のプロセスが滞り始め、軍隊の忠誠心も揺らぎつつあった。この状況に対応するため、ルイ16世は1788年5月に高等法院を停止し、新たに47の裁判所を設置する措置をとった。ブリエンヌの財政改革は、国民と高等法院の双方から強い反発を招き、結果的に国家の財政危機を解決するどころか、政治的緊張を一層高めることになった。
2.3. 辞任
ブリエンヌは財務総監在任中にサンス大司教に任命された(1788年3月10日にローマによって承認された)。しかし、この頃には彼はほぼ全ての政治勢力からの支持を失っていた。高等法院の代わりに設置されていた「プレニエール裁判所(Cour plenièreフランス語)」を停止せざるを得なくなり、三部会の召集を約束せざるを得なくなった。これらの譲歩をもってしても彼の権力は維持されず、国庫が空のまま、1788年8月29日に財務総監を辞任することとなった。
彼の辞任後、1788年9月14日には国民から憎悪されていたギヨーム=クレティアン・ド・ラモワニョン・ド・マゼルブが呼び戻され、パリでは革命家による暴動が再燃した。暴徒たちは、ラモワニョンとブリエンヌ両氏の自宅を焼き払おうとする動きを見せた。
3. フランス革命と最期
エティエンヌ・シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌは、フランス革命という未曾有の激動期において、その行動が時代の波に翻弄され、悲劇的な最期を迎えることとなる。
3.1. 枢機卿任命と帰国
財務総監の職を辞任した後の1788年12月15日、彼は枢機卿に任命された。その後2年間をイタリアで過ごし、その間、彼の要請により養子縁組の甥であるピエール=フランソワ・マルシャル・ド・ロメニーがサンス大司教区の補佐司教に任命され、エティエンヌ・シャルル自身が彼を聖別した。
フランス革命が勃発し、国内の情勢が大きく変化する中、エティエンヌ・シャルルはフランスへの帰国を決意した。
3.2. 聖職者民事基本法への宣誓
フランス帰国後、1790年に制定された聖職者民事基本法に対し、エティエンヌ・シャルルは宣誓を行った。これはアンシャン・レジームの司教としては異例の行動であり、彼は多くの司祭たちにも同様に宣誓するよう奨励した。
その後、彼は自身をヨン県の憲法司教に選出させた。しかし、この宣誓は教皇ピウス6世によって強く否認され、教皇からの執拗な要請により、彼は枢機卿の地位を剥奪される寸前の1791年に枢機卿職を辞任せざるを得なかった。
3.3. 晩年と死
ブリエンヌはサンス市中心部にあった旧サン=ピエール=ル=ヴィフ修道院を購入し、歴代のサンス大司教が埋葬されていた壮大な教会堂を解体した。その後、彼は家族と共に修道院長の邸宅に住み着いた。彼は人々の人気を勝ち取る才能があり、地元住民の一部には熱心な支持者も存在した。
しかし、憲法教会の時代も長くは続かなかった。彼は憲法司教を叙階することを拒否していたが、革命の最盛期である1793年11月15日にはついに司祭職を放棄した。それでも、彼の過去の行動や移り気な態度、すなわち日和見主義的な姿勢は、当時台頭していた革命家たちの疑いの目を集めることとなった。
1794年2月18日、彼はサンスで逮捕され、その日の夜に獄中で死亡した。死因は脳卒中とも、服毒によるものとも、あるいは自殺とも言われているが、彼の虚勢と必死の生存努力が失敗に終わった衝撃だけでも死に至るには十分であったかもしれない。彼の養子縁組の甥であるピエール=フランソワは、伯父に従って聖職者民事基本法への宣誓を行ったものの、後にその服従を悔い改め、1794年5月10日に家族の他のメンバーと共にギロチンで処刑されている。
4. 著作
エティエンヌ・シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌが生前に発表した主な著作物は以下の通りである。
- 『ドーファン追悼の演説』 (Oraison funèbre du Dauphinフランス語、パリ、1766年)
- 『国王への報告』 (Compte-rendu au roiフランス語、パリ、1788年)
- 『調停者』 (Le Conciliateurフランス語、アンヌ=ロベール=ジャック・テュルゴーとの共著、ローマ、パリ、1754年)
5. 遺産と評価
エティエンヌ・シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌの生涯と政治的行動は、フランス革命前夜の複雑な状況を象徴するものであり、その評価は歴史家の間で多様である。
5.1. 歴史的文脈と影響
エティエンヌ・シャルル・ド・ロメニー・ド・ブリエンヌは、アンシャン・レジーム末期からフランス革命初期にかけてのフランスにおける主要人物であり、彼の政策や決定は、当時のフランス社会に深刻な影響を与えた。特に、彼の財務総監としての改革は、財政危機の根本的な解決には至らず、むしろ高等法院との対立を激化させ、国民の不満を増大させた。彼は三部会の召集を余儀なくされることで、結果的にフランス革命の引き金となる決定を下した人物の一人となった。彼の在任期間は、フランス国家の財政破綻がさらに深まり、社会不安が増大する激動期と重なる。彼の政策の失敗は、既存体制の脆弱性を露呈させ、改革の必要性と同時にその困難さを浮き彫りにした。
5.2. 批判と論争
財務総監としての彼の政策、特に増税や強制的な勅令登録の試みは、国民や高等法院から強い反発を受けた。これらの政策は、貴族や聖職者といった特権階級に負担を課すものであったが、その実行方法が拙劣であったため、ルイ16世の権威を失墜させ、国民の反感を買い、王政への不信感を高める結果となった。彼の個人的な信仰に対する疑念も、当時の社会で広く議論された。特に、パリ大司教への就任をルイ16世に拒否された逸話は、彼の聖職者としての信憑性に疑問を投げかけるものであり、民衆の不信感を増幅させる一因となった。フランス革命期における彼の行動、すなわち聖職者民事基本法への宣誓と、その後の司祭職放棄は、彼の日和見主義的な姿勢として批判の対象となった。彼は、生き残るために立場を変え続けた人物として、歴史家から多様な評価を受けている。