1. 概要
エデル・アレイショ・デ・アシス(Éder Aleixo de Assisエデル・アレイショ・デ・アシスポルトガル語、1957年5月25日 - )は、ブラジルのミナスジェライス州ヴェスパシアーノ出身の元サッカー選手である。主にフォワードや左ウイングとして活躍し、特にカンピオナート・ブラジレイロのアトレチコ・ミネイロやブラジル代表でその名を馳せた。
彼のプレースタイルは、目を見張るような技術と細かいボールコントロール、そして強烈なカーブをかけたシュートが特徴で、その左足の威力から「オ・カニャン(O Canhãoオ・カニャンポルトガル語)」という愛称で親しまれた。1982年FIFAワールドカップでは、ジーコ、ソクラチス、ファルカンらと共に「黄金のカルテット」と称されたブラジル代表の中心選手として活躍し、華麗な攻撃の一端を担った。
本記事では、エデル・アレイショ・デ・アシスの生い立ちからクラブおよび代表チームでのキャリア、その独特なプレースタイル、獲得したタイトル、そして彼の才能に比してしばしば問題視されたピッチ内外での規律問題や、その行動に対する批判的な評価までを詳述する。
2. 生涯とクラブ経歴
エデル・アレイショ・デ・アシスは、ブラジルとトルコのクラブを渡り歩きながら、その独特なプレースタイルでファンを魅了した。
2.1. 生い立ちと初期
エデル・アレイショ・デ・アシスは1957年5月25日にブラジルのミナスジェライス州ヴェスパシアーノで生まれた。彼のサッカーキャリアは、母国ブラジルで始まった。
2.2. クラブキャリア
エデル・アレイショは、アトレチコ・ミネイロで特に名を馳せ、同クラブでは複数回にわたって在籍し、多くのタイトル獲得に貢献した。その他にも、パルメイラスやグレミオ、サントスなど、ブラジルの数々の名門クラブで活躍した。
キャリアの晩年には、1988年から1989年にかけてトルコのマラティヤスポルへ移籍し、元ブラジル代表のチームメイトであるカルロスやセルジーニョと共にプレーした経験も持つ。彼はクラブを転々としたが、どのチームでもその非凡な才能の一端を見せつけた。
彼のクラブキャリアの詳細は以下の表に示されている。
年 | クラブ | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
1975-1976 | アメリカ・ミネイロ | 26 | 6 |
1977-1979 | グレミオ | 47 | 14 |
1980-1985 | アトレチコ・ミネイロ | 79 | 27 |
1985 | インテル・ジ・リメイラ | ||
1986 | パルメイラス | 8 | 1 |
1987 | サントス | ||
1987 | スポルチ・レシフェ | ||
1988 | ボタフォゴ | 6 | 1 |
1988 | アトレチコ・パラナエンセ | ||
1988 | セロ・ポルテーニョ | ||
1989 | フェネルバフチェ | 1 | 0 |
1989-1990 | アトレチコ・ミネイロ | 19 | 2 |
1991 | アトレチコ・パラナエンセ | 9 | 3 |
1991-1992 | ウニオン・サンジョアン | ||
1993 | クルゼイロ | ||
1994-1995 | アトレチコ・ミネイロ | 21 | 2 |
1995 | ウニオン・サンジョアン | 10 | 4 |
1996 | コンキスタFC | ||
1996 | ガマ | ||
1997 | モンテス・クラロスFC |
3. 代表経歴
エデルはブラジル代表として、そのキャリアのハイライトである1982年FIFAワールドカップで輝かしいパフォーマンスを見せた。しかし、その後の代表活動は論争に巻き込まれ、波乱に満ちたものとなった。
3.1. 1982 FIFAワールドカップ
エデル・アレイショは1979年5月から1986年4月にかけて、ブラジル代表として52試合に出場した。その中でも特に国際的にその名を知らしめたのは、1982年FIFAワールドカップでの活躍である。彼はジーコ、ソクラチス、ファルカンといった錚々たるメンバーと共に、史上最高の代表チームの一つと称される「黄金のカルテット」の一員として、ブラジルの華麗な攻撃サッカーを体現した。
大会の初戦、ソビエト連邦との試合では、ファルカンのアシストから決勝点を挙げた。この得点は、約25 ydの距離から浮き上がったボールを、強烈かつ正確なボレーシュートでネットに突き刺したものであり、ソビエト連邦のゴールキーパー、リナト・ダサエフが反応できずに立ち尽くすほどの威力であった。
続くスコットランドとの試合(4-1でブラジルの勝利)でも得点を記録した。彼はシュートを打つフェイントをかけた後、ボールをスコットランドのゴールキーパーアラン・ラフの頭上を越えさせ、ペナルティエリアの端から遠いコーナーに正確に流し込んだ。さらに、2次リーグのアルゼンチン戦では、約30 ydの距離から強烈なカーブをかけたフリーキックを放ち、クロスバーを直撃。このシュートがきっかけとなり、ジーコがその試合の先制点を挙げた。
3.2. その後の代表活動と論争
エデル・アレイショは、その高い能力にもかかわらず、1986年ワールドカップのブラジル代表には選出されなかった。その理由としては、大会直前のシーズンでのフォームの低下と体調不良が挙げられる。しかし、それ以上に決定的な理由と報じられたのは、ブラジル代表のウォーミングアップ中にボールボーイを突き飛ばすという規律違反の事件であった。この一件は、彼の選外に大きな影響を与えたとされる。
彼の最後の代表戦は、1986年4月に行われたペルーとの試合であり、この試合で退場処分を受けている。ピッチ外においても、彼はしばしば論争の的となる人物であった。練習よりもパーティーを好むという噂が広まり、監督やチームメイトとたびたび衝突したとされる。彼のサッカー選手としての類稀な能力とは裏腹に、低い運動量、扱いにくい気まぐれな性格、そしてピッチ内外での規律の欠如は、彼のキャリアに影を落とし、多くの監督との間で問題を抱える原因となった。
4. プレースタイルと特徴
エデル・アレイショは、主に左利きの選手であり、その独特で強力なプレースタイルから「オ・カニャン」の異名で知られた。
彼は通常、ワイドミッドフィールダーとして左サイドでプレーしたが、フォワードやセカンドストライカーとして自由に動く役割もこなすことができた。全盛期には、そのポジションにおける世界最高の選手の一人と見なされていた。彼は最速のウインガーではなかったものの、非常に創造性に富み、身体能力が高く、目を見張るような技術と細かいボールコントロールを持っていた。
特に彼の左足から放たれるシュートは、非常に正確かつ強烈なカーブをかけることができ、その威力は一説によると時速174.5 km/hに達したと報じられている。この圧倒的なシュート力から、ファンからは「オ・カニャン(O Canhãoオ・カニャンポルトガル語)」という愛称で呼ばれた。彼は左足のインステップの内側または外側を使って、あらゆる方向にボールを曲げることができたが、右足の精度は左足ほど高くなかった。
ペナルティエリア外からのシュートや、オープンプレーでのボレーシュートの能力に加え、フリーキックの正確さ、セットプレーやコーナーからの優れたボール供給、そして正確なロングパスやクロス能力でも知られていた。彼の左足のキック力は、ロベルト・リベリーノやロベルト・カルロスといったブラジルの伝説的な選手たちにも匹敵すると評された。
5. 獲得タイトルと栄誉
エデル・アレイショは、選手キャリアを通じて数々のクラブタイトルを獲得し、個人としても栄誉ある賞を受賞している。
5.1. クラブでのタイトル
- グレミオ**
- ヘコンキスタ: 1977
- カンピオナート・ガウショ: 1977, 1979
- ヘシャ: 1978, 1979
- トルネオ・シウダード・デ・ロサリオ: 1979
- アトレチコ・ミネイロ**
- カンピオナート・ミネイロ: 1980, 1981, 1982, 1983, 1985, 1995
- トゥルヌア・ド・パリ: 1982
- トロフェオ・ラモン・デ・カランサ: 1990
- クルゼイロ**
- コパ・ド・ブラジル: 1993
5.2. 個人タイトル
- ブラジリアン・シルバーボール: 1983
- 南米年間最優秀選手賞 銅賞: 1983
6. キャリア統計
エデル・アレイショのクラブおよび代表チームでのキャリア統計を以下に示す。
6.1. クラブ成績
彼のクラブキャリアにおけるリーグ戦やカップ戦などでの出場および得点記録は以下の通りである。
年 | クラブ | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
1975-1976 | アメリカ・ミネイロ | 26 | 6 |
1977-1979 | グレミオ | 47 | 14 |
1980-1985 | アトレチコ・ミネイロ | 79 | 27 |
1985 | インテル・ジ・リメイラ | ||
1986 | パルメイラス | 8 | 1 |
1987 | サントス | ||
1987 | スポルチ・レシフェ | ||
1988 | ボタフォゴ | 6 | 1 |
1988 | アトレチコ・パラナエンセ | ||
1988 | セロ・ポルテーニョ | ||
1989 | フェネルバフチェ | 1 | 0 |
1989-1990 | アトレチコ・ミネイロ | 19 | 2 |
1991 | アトレチコ・パラナエンセ | 9 | 3 |
1991-1992 | ウニオン・サンジョアン | ||
1993 | クルゼイロ | ||
1994-1995 | アトレチコ・ミネイロ | 21 | 2 |
1995 | ウニオン・サンジョアン | 10 | 4 |
1996 | コンキスタFC | ||
1996 | ガマ | ||
1997 | モンテス・クラロスFC |
6.2. 代表成績
国家代表チームでのAマッチ出場および得点記録を以下に詳細に提示する。
代表チーム | 年 | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
ブラジル | 1979 | 3 | 2 |
1980 | 4 | 0 | |
1981 | 12 | 0 | |
1982 | 10 | 3 | |
1983 | 11 | 3 | |
1985 | 10 | 0 | |
1986 | 2 | 0 | |
合計 | 52 | 8 |
国際Aマッチ得点一覧は以下の通りである。
No. | 日付 | 会場 | 対戦相手 | スコア | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1979年5月17日 | マラカナン・スタジアム、リオデジャネイロ、ブラジル | パラグアイ | - | 6-0 | 親善試合 |
2 | 1979年5月31日 | マラカナン・スタジアム、リオデジャネイロ、ブラジル | ウルグアイ | - | 5-1 | 親善試合 |
3 | 1982年5月5日 | カステロン、サン・ルイス、ブラジル | ポルトガル | 2-0 | 3-1 | 親善試合 |
4 | 1982年6月14日 | ラモン・サンチェス・ピスフアン・スタジアム、セビリア、スペイン | ソビエト連邦 | 2-1 | 2-1 | 1982 FIFAワールドカップ |
5 | 1982年6月18日 | エスタディオ・ベニート・ビジャマリン、セビリア、スペイン | スコットランド | 3-1 | 4-1 | 1982 FIFAワールドカップ |
6 | 1983年4月28日 | マラカナン・スタジアム、リオデジャネイロ、ブラジル | チリ | 2-1 | 3-2 | 親善試合 |
7 | 1983年9月1日 | エスタディオ・セーハ・ドウラーダ、ゴイアニア、ブラジル | エクアドル | 4-0 | 5-0 | 1983 コパ・アメリカ |
8 | 1983年10月13日 | エスタディオ・ディフェンソーレス・デル・チャコ、アスンシオン、パラグアイ | パラグアイ | 1-1 | 1-1 | 1983 コパ・アメリカ |
7. 評価と影響
エデル・アレイショは、その卓越した才能と、それに相反する行動の両面から、歴史的・社会的な評価を受けている。
7.1. ポジティブな評価
エデル・アレイショは、その卓越したテクニック、創造性、そして強烈な左足のシュートによって、サッカー史に残る選手の一人として高く評価されている。特に1982年ワールドカップでの活躍は、ジーコ、ソクラチス、ファルカンらと共に「黄金のカルテット」として称賛され、彼の革新的なプレーは多くのファンを魅了した。
強烈なフリーキックや正確なクロスは、得点チャンスを創出し、チームの攻撃を活性化させる上で不可欠な要素であった。彼の左足のキックは、ロベルト・リベリーノやロベルト・カルロスといったブラジルの伝説的な選手たちにも匹敵すると評されるほどであった。その才能は、当時のチームメイトや監督からも高く評価され、全盛期には自身のポジションで世界最高の選手の一人と見なされていた。
7.2. 批判と論争
一方で、エデルのキャリアは、その才能に比して規律の欠如や気まぐれな性格がしばしば問題視された。
1986年ワールドカップのブラジル代表から落選した理由には、直前のシーズンでのコンディション不良や体力低下だけでなく、ウォーミングアップ中にボールボーイを突き飛ばしたとされる事件が決定打となったと報じられている。この出来事は、彼のプロ意識や、公人としての行動が社会に与える影響について、批判的な議論を巻き起こした。
ピッチ外では、練習よりもパーティーを好むという噂が絶えず、実際に多くの監督やチームメイトとの間で衝突を繰り返したとされる。低い運動量、扱いにくい気まぐれな性格、そしてピッチ内外での規律の欠如は、彼のキャリアにおける一貫した課題であり、その才能を最大限に生かせなかった原因の一つと指摘されることもあった。これらの行動は、チームワークや民主主義的なチーム運営の重要性を重んじる視点からすると、しばしば批判の対象となった。