1. 概要

エドゥことエドゥアルド・セザール・ダウド・ガスパール(Eduardo César Daud Gasparポルトガル語、1978年5月16日 - )は、ブラジル・サンパウロ出身の元サッカー選手であり、現在はサッカー行政官・ディレクターとして活動しています。現役時代のポジションはミッドフィールダーで、特に守備的および中央のミッドフィールダーとして知られていました。
エドゥは、母国ブラジルのコリンチャンスでプロキャリアをスタートさせ、1998年と1999年のカンピオナート・ブラジレイロ・セリエA優勝、そして2000 FIFAクラブ世界選手権制覇に貢献しました。その後、2001年にイングランドのプレミアリーグに所属するアーセナルに移籍。同クラブでは、2001-02シーズンと2003-04シーズンのプレミアリーグ優勝に貢献し、特に後者のシーズンでは「無敗優勝」を達成したチームの一員として、重要な役割を果たしました。彼はプレミアリーグで優勝した初めてのブラジル人選手でもあります。アーセナルでは計5シーズンにわたり活躍した後、スペインのバレンシアへ移籍しましたが、度重なる負傷に悩まされました。2009年に古巣のコリンチャンスに復帰し、2010年に現役を引退しました。
引退後、エドゥはサッカー行政の分野で頭角を現します。2011年にはコリンチャンスのフットボールディレクターに就任し、クラブ運営に携わりました。また、2014 FIFAワールドカップ期間中にはカルロス・ケイロス監督率いるイラン代表チームのコーチ陣を補佐。2016年から2019年まではブラジル代表チームの総括コーディネーターを務め、国のサッカー発展に貢献しました。2019年7月には、かつて選手として在籍したアーセナルの初代テクニカルディレクターに就任し、クラブの強化に尽力。2022年11月には、同クラブ史上初のスポーツディレクターに昇進し、トップチームからアカデミーまでクラブ全体のサッカー運営を統括する立場となりました。この功績が評価され、2023年にはゴールデンボーイ賞の欧州最優秀ディレクター賞を受賞しましたが、2024年11月にはアーセナルを退任し、新たな挑戦へと進むことになりました。
2. 生い立ちと背景
エドゥは1978年5月16日にブラジルのサンパウロで生まれました。彼のサッカーキャリアは、故郷のクラブであるコリンチャンスのユースチームで始まりました。プロデビュー後、イングランドのアーセナルへ移籍を試みた際には、彼の父親のイタリア系の血筋が、欧州連合(EU)パスポート取得の助けとなり、移籍が実現する要因の一つとなりました。
3. 選手経歴
エドゥの選手キャリアは、主にブラジル、イングランド、スペインの3カ国にわたるクラブでの活動と、ブラジル国家代表としての国際舞台での活躍に分けられます。
3.1. クラブ経歴
エドゥはプロキャリアの大部分を中盤の要として過ごし、所属クラブでの成功に貢献しました。
3.1.1. SCコリンチャンス・パウリスタ (初期)
エドゥは、ブラジルのトップリーグであるカンピオナート・ブラジレイロ・セリエAでコリンチャンスの選手としてそのキャリアをスタートさせました。彼はコリンチャンス在籍中に、1998年と1999年のカンピオナート・ブラジレイロ・セリエAで優勝を経験し、さらに2000 FIFAクラブ世界選手権でもチームの優勝に貢献しました。
3.1.2. アーセナルFC
エドゥは2000年にアーセナルへの移籍を計画しましたが、彼が偽のポルトガルパスポートを所持していることが発覚し、この移籍は一時保留となりました。数ヶ月後、父親がイタリア系の血筋であったことからEUパスポートの資格を取得し、2001年1月16日に600.00 万 GBPの移籍金でアーセナルと契約を結びました。しかし、彼の初期のアーセナルでの時間は波乱に満ちており、この時期に彼の姉妹が交通事故で亡くなるという悲劇に見舞われました。
アーセナルでのデビューは2001年、レスター・シティとの0-0の引き分けの試合でした。彼はフレディ・ユングベリに代わってハーフタイムから出場しましたが、わずか15分後に負傷し、デニス・ベルカンプとの交代を余儀なくされました。この不幸なスタートの後、彼はそのシーズン中にクラブでさらに4試合しか出場できず、その中にはミドルズブラとのホームゲームでの0-3の敗戦でオウンゴールを献上した試合も含まれていました。クラブでの初ゴールは、2001年11月27日のリーグカップ、グリムズビー戦で生まれました。
2002年のFAカップ決勝では途中出場し、チームは優勝。さらに、2001-02シーズンのプレミアリーグでは14試合に出場し、アストン・ヴィラ戦で1得点を記録し、チームのリーグ優勝に貢献しました。これにより、エドゥはプレミアリーグで優勝した初めてのブラジル人選手となりました。
2002-03シーズンには、プレミアリーグで18試合に出場し、アーセナルが3年連続でFAカップ決勝に進出する上で重要な役割を果たしました。エドゥはFAカップ5回戦のオールド・トラッフォードで行われたマンチェスター・ユナイテッド戦で得点を挙げましたが、シーズン終盤の負傷により決勝のメンバーからは外れました。
2003-04シーズンは、エドゥにとってサッカーキャリアの中で最高のシーズンと見なされています。彼はこのシーズンに、プレミアリーグ全試合を無敗で終え、全公式戦を通じて49試合無敗という偉業を達成した「無敵のチーム」の一員でした。リーグ戦では30試合に出場し2得点を挙げ、両得点ともチェルシー戦で記録されました。また、2003年11月のUEFAチャンピオンズリーグ、インテル・ミラノ戦では、5-1の歴史的な勝利に貢献するチームの4点目を挙げました。このシーズン、彼は全ての大会を合わせてキャリアハイとなる48試合に出場し7得点を記録しました。エドゥは2004年4月25日にホワイト・ハート・レーンでプレミアリーグ優勝を決めた試合でもピッチに立っていました。このシーズン中に、彼はアーセナルでの通算100試合出場を達成しました。
2004-05シーズンは、エドゥにとって良い面と悪い面が混在するシーズンとなりました。彼はコパ・アメリカにブラジル代表として参加したため、シーズンの開幕を逃しました。その後、アーセナルとの契約が最終年であったため、彼の将来についての憶測が広まりました。2005年1月には、バレンシアとの移籍交渉が行われましたが、バレンシアがアーセナルの要求する移籍金を支払うことができなかったため、交渉は決裂しました。
エドゥは2004-05シーズンにアーセナルでわずか2得点しか記録していませんが、これらは両方とも5月に生まれました。1点はウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンとのアウェイ戦で2-0の勝利を決定づける見事なチップショット、もう1点はエヴァートン戦での7-0の大勝におけるペナルティーキックでした。彼はまた、2005年のFAカップ決勝で延長戦の途中出場を果たし、チームの優勝に貢献しました。
3.1.3. バレンシアCF
2005年5月、エドゥはボスマン判決に基づき移籍金なしでアーセナルを夏に退団することが確認されました。ユヴェントス、インテル・ミラノ、バルセロナといったビッグクラブがエドゥの獲得に強い関心を示していましたが、5月30日にバレンシアが彼と5年契約を結んだことを発表しました。
しかし、バレンシア加入直後、エドゥはプレシーズンで左膝の前十字靭帯損傷という大怪我を負い、2006年4月4日までファーストチームでの出場が不可能となりました。彼はカディス戦でようやくバレンシアデビューを果たし、チームは5-3で勝利しました。2006年11月には、再び右膝の前十字靭帯を損傷し、またも約8ヶ月の長期離脱を強いられる重傷を負いました。治療がうまくいかず、2007年11月には再手術に踏み切りました。2009年7月3日、度重なる負傷の影響もあり、彼は双方合意の上でバレンシアとの契約を解除し、クラブを離れました。
3.1.4. SCコリンチャンス・パウリスタ (復帰と引退)
スペインのバレンシアを退団した後、エドゥは2009年8月6日に古巣のコリンチャンスと契約を結び、2011年12月31日までの契約期間が定められました。しかし、2010年シーズン中にわずか4試合の出場に留まり、双方合意の上で契約が解除され、エドゥはプロサッカー選手としての引退を発表しました。
3.2. 国家代表経歴
エドゥはブラジル国家代表の一員として国際大会に出場し、チームのタイトル獲得に貢献しました。
3.2.1. ブラジル代表チーム
エドゥは当初、イギリスのパスポートを取得していたため、ブラジル代表チームに招集される可能性は低いと考えて、イングランド代表でのプレーを検討したこともありました。しかし、2004年にブラジル代表からの招集を受け、同年4月28日のハンガリーとの親善試合で代表デビューを果たしました。彼は2004年のコパ・アメリカと2005年のFIFAコンフェデレーションズカップでブラジル代表としてプレーし、両大会で優勝を経験しました。特に、2004年のコパ・アメリカ決勝では、アルゼンチンをPK戦の末に破った際に、PKキッカーの一人として得点を記録しました。彼は2004年から2005年にかけて、ブラジル代表として計15試合に出場しました。
4. 引退後の経歴
選手引退後、エドゥはサッカー行政の分野で重要な役割を担い、その手腕を発揮してきました。
4.1. クラブ行政職
エドゥは引退後、古巣であるクラブの行政職に就き、クラブ運営の要として活躍しました。
4.1.1. SCコリンチャンス・パウリスタ フットボールディレクター
2011年3月17日、コリンチャンスはエドゥがウィリアム・マシャドの後任として、クラブのフットボールディレクターに就任することを発表しました。彼はこの役職でクラブの組織運営に深く関与しました。
4.1.2. アーセナルFC テクニカルディレクター・スポーツディレクター
2019年7月9日、エドゥがアーセナル史上初のテクニカルディレクターに就任することが発表されました。クラブのフットボールディレクターであったラウール・サンレヒは、エドゥの就任について「エドゥがチームに加わることに非常に興奮している。彼は素晴らしい経験と専門的なサッカーの知識を持ち、そして何よりも真のアーセナルマンである。彼はクラブと、我々が世界中の何百万ものファンにとって何を意味するのかを理解している」と述べ、彼の就任を歓迎しました。
2022年11月18日、エドゥはアーセナル史上初のスポーツディレクターに任命されました。これにより、彼はこれまで担当していたトップチームの男女チームに加えて、アカデミーの責任者も兼任することになり、クラブ全体のサッカー運営を統括する立場となりました。彼のこの職務での貢献は高く評価され、2023年11月17日にはイタリア紙『トゥットスポルト』が主催するゴールデンボーイ2023において、2023年欧州最優秀ディレクター賞を受賞しました。
しかし、2024年11月4日には、彼がアーセナルのスポーツディレクターの職を辞任することが報じられました。彼はギリシャの実業家エヴァンゲロス・マリナキスが率いる、ノッティンガム・フォレスト、オリンピアコス、リオ・アヴェFCといったクラブのネットワークで上級職に就く予定であるとされています。
4.2. 国家代表行政職
エドゥはクラブだけでなく、国家代表チームにおいても行政的な役割を担いました。
4.2.1. イラン代表チーム コーチ陣補佐
エドゥは2014 FIFAワールドカップ期間中、カルロス・ケイロス監督率いるイラン代表チームのコーチ陣を補佐する役割を務めました。
4.2.2. ブラジル代表チーム 総括コーディネーター
エドゥは2016年から2019年まで、ブラジル代表チームの総括コーディネーターを務めました。この期間中、彼は代表チームの組織運営や強化戦略に深く関与しました。
5. 私生活とエピソード
エドゥがアーセナルに加入した初期、彼の姉妹が交通事故で亡くなるという悲劇に見舞われました。これは彼のキャリア初期の波乱に満ちた時期と重なります。
また、2006年10月には、バレンシア在籍中に自宅が空き巣被害に遭いました。この時、彼はチームメイトであったクーロ・トーレスの家に泊めてもらったとされています。
6. タイトルと栄誉
エドゥは選手として、また行政家として数々のタイトルと栄誉を獲得しています。
6.1. クラブタイトル
- コリンチャンス
- カンピオナート・ブラジレイロ・セリエA: 1998、1999
- FIFAクラブ世界選手権: 2000
- アーセナル
- プレミアリーグ: 2001-02、2003-04
- FAカップ: 2001-02、2002-03、2004-05
- FAコミュニティ・シールド: 2002
- バレンシア
- コパ・デル・レイ: 2007-08
6.2. 国家代表タイトル
- ブラジル
- コパ・アメリカ: 2004
- FIFAコンフェデレーションズカップ: 2005
6.3. 個人栄誉
- プレミアリーグ月間最優秀選手: 2004年2月
- ゴールデンボーイ賞 欧州最優秀ディレクター賞: 2023年
7. キャリア統計
7.1. クラブ
クラブ | シーズン | リーグ | 国内カップ | 大陸大会 | 合計 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ディビジョン | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
コリンチャンス | 1999 | セリエA | - | - | 1 | 0 | 1 | 0 | ||
2000 | - | - | 17 | 0 | 17 | 0 | ||||
合計 | - | - | - | - | 18 | 0 | 18 | 0 | ||
アーセナル | 2000-01 | プレミアリーグ | 5 | 0 | - | - | 5 | 0 | ||
2001-02 | 14 | 1 | 8 | 2 | 5 | 0 | 27 | 3 | ||
2002-03 | 18 | 2 | 7 | 1 | 4 | 0 | 29 | 3 | ||
2003-04 | 30 | 2 | 10 | 2 | 8 | 3 | 48 | 7 | ||
2004-05 | 12 | 2 | 2 | 0 | 4 | 0 | 18 | 2 | ||
合計 | 79 | 7 | 27 | 5 | 21 | 3 | 127 | 15 | ||
バレンシア | 2005-06 | ラ・リーガ | 6 | 0 | - | 4 | 0 | 10 | 0 | |
2006-07 | 10 | 0 | - | 5 | 0 | 15 | 0 | |||
2007-08 | 13 | 0 | 4 | 0 | 1 | 0 | 18 | 0 | ||
2008-09 | 21 | 1 | 5 | 0 | 3 | 0 | 29 | 1 | ||
合計 | 50 | 1 | 9 | 0 | 13 | 0 | 72 | 1 | ||
コリンチャンス | 2009 | セリエA | 11 | 0 | - | - | 11 | 0 | ||
2010 | 4 | 0 | - | 1 | 0 | 5 | 0 | |||
合計 | 15 | 0 | - | - | 1 | 0 | 16 | 0 | ||
キャリア合計 | 144 | 8 | 36 | 5 | 53 | 3 | 233 | 16 |
8. メディア出演
エドゥは、Amazonプライム・ビデオのオリジナルスポーツドキュメンタリーシリーズである『オール・オア・ナッシング: アーセナル』に出演しました。このシリーズは、2021-22シーズンのアーセナルを舞台に、コーチングスタッフや選手たちの舞台裏の様子を追ったものです。また、彼は『オール・オア・ナッシング: ブラジル代表チーム』にも関わっています。