1. 概要
この記事では、元カメルーン代表サッカー選手であるエリック・ジェンバ=ジェンバのキャリアと人生を詳細に解説します。彼のクラブおよび代表での経歴、私生活、そしてキャリアに対する様々な評価を包括的に取り上げます。特に、彼の移籍がもたらした経済的・社会的な影響や、メディアや監督による評価の変遷にも焦点を当て、中道左派の視点からそのキャリアの光と影を考察します。
2. 幼少期と背景
エリック・ダニエル・ジェンバ=ジェンバは、1981年5月4日にカメルーンのドゥアラで生まれた。彼はカメルーンとフランスの二重国籍を持つ。2001年10月17日にフランス国籍を帰化により取得した。ユース時代は、ブラセリーズ・デュ・キャメルーン(1994年)、カジ・スポーツ・アカデミー(1994年-1998年)、フランスのオルヴォーRC(1998年-2000年)で過ごした。
3. クラブ経歴
ジェンバ=ジェンバのプロサッカーキャリアは、フランスのFCナントで始まり、その後、イングランド、カタール、デンマーク、イスラエル、セルビア、スコットランド、インド、インドネシア、そしてフランスの様々なクラブでプレーした。彼のキャリアは、大きな期待と挫折の両方を経験する波乱に満ちたものだった。
3.1. ナント
ジェンバ=ジェンバはフランスのFCナントでその名を上げ、チームメイトのマチュー・ベルソンと成功した連携を築いた。ナントでの彼は、闘志溢れる妥協しないタックルを見せる選手として評価された。この活躍により、2003年夏にアレックス・ファーガソン監督が指揮するマンチェスター・ユナイテッドFCへ、当時の31歳だった主将ロイ・キーンの将来的な後継者候補として、350.00 万 GBPの移籍金で獲得された。
3.2. マンチェスター・ユナイテッド
イングランドに到着したジェンバ=ジェンバは、FAコミュニティ・シールドでのアーセナルFCとのデビュー戦で、ソル・キャンベルへのタックルでその積極的なプレースタイルを印象づけた。これに対し、アーセナルのアーセン・ベンゲル監督は「みだらな」と評した。オールド・トラッフォードでの1年半の間に、ジェンバ=ジェンバは安定したパフォーマンスを維持するのに苦労し、最終的には年齢を重ねたキャプテン、ロイ・キーンの後継者として中盤の定位置を確立することはできなかった。
彼のマンチェスター・ユナイテッドでのキャリアにおけるハイライトの一つは、フットボールリーグカップのリーズ・ユナイテッドAFC戦で決めたループボレーのゴールである。試合が2-2で延長戦残り3分の状況で、クイントン・フォーチュンのコーナーキックをダイレクトで叩き、リーズのゴールキーパーポール・ロビンソンの頭上を越えてネットを揺らし、3-2の勝利と次ラウンド進出を確定させた。マンチェスター・ユナイテッドでのもう1つのゴールは、UEFAチャンピオンズリーグのギリシャのパナシナイコスFC戦で、5-0で勝利した試合だった。

3.3. アストン・ヴィラ
ジェンバ=ジェンバは2005年1月の移籍市場で、150.00 万 GBPの移籍金でアストン・ヴィラFCに売却された。しかし、この移籍も彼の評判を回復させるには至らず、ギャヴィン・マッキャンやスティーヴン・デイヴィスといった選手たちから中盤のポジションを奪うのに苦労した。2006年-2007年シーズン初日、新監督のマーティン・オニールの下では、エミレーツ・スタジアムで行われたアーセナル戦で途中出場したわずか1試合の出場に留まり、構想外となった。そのため、1月の移籍市場でフットボールリーグ・チャンピオンシップのバーンリーFCへシーズン終了までのローン移籍が決まった。
3.3.1. バーンリーへのローン移籍
ジェンバ=ジェンバは2007年1月13日にサウサンプトンFC戦でバーンリーでのデビューを果たし、フル出場した。ターフ・ムーアでの初期には、ダービー・カウンティFC戦で2枚目の警告を受け退場処分となった。しかし、そのローン期間中には熟練した効果的なプレーでチームに貢献した。リールからのオファーを断ってまでバーンリーを選んだとされている。2007年7月、ノースアメリカツアーの遠征メンバーに唯一含まれないなど、ヴィラ・パークを去る兆候が全て示され、同年8月2日にアストン・ヴィラとの契約が解除された。この移籍は、後にデイリー・メール紙によってプレミアリーグ史上最大の「移籍の失敗作」の一つとして挙げられることになる。
3.4. カタールSC
アストン・ヴィラFCを退団後、ジェンバ=ジェンバはカタールSCに自由契約で加入した。彼はカタールのクラブで1シーズンのみプレーしたが、この期間に彼のサッカーキャリアは再び軌道に乗ったと評価されている。
3.5. オーデンセBK
2008年7月16日、ジェンバ=ジェンバはデンマークのオーデンセBKと3年契約を結び、後に1年間延長された。これ以前に彼はクラブで入団テストを受けていた。オーデンセでのデビューは、UEFAインタートトカップでのかつての所属クラブであるアストン・ヴィラFC戦で、試合は1-1の引き分けに終わり、合計スコアで2-1で敗退した。
オーデンセでのキャリアを通じて、ジェンバ=ジェンバはその優れたボールスキルと素晴らしいパフォーマンスでクラブのファンを魅了した。オーデンセの選手としての最初のシーズンでは、彼は非常に良いプレーを見せ、多くの人にリーグ最高の選手として評価された。2009年には、エスビャウfBとのアウェイ戦で、右足のスパイクのソールが剥がれてしまい、片足のスパイクで試合を終えながらもアシストを記録するという珍しい出来事があった。同年後半、彼はSASリーグの年間最優秀選手候補として3人の選手の一人に選ばれた。
2010年夏には、イングランドのウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンFCやイタリアのU.S.レッチェへの移籍が取り沙汰された。しかし、イングランドでの交渉のために渡航したものの、移籍は破談となり、これによりクラブとジェンバ=ジェンバ自身がウェスト・ブロムウィッチに対して非難を浴びせる事態となった。
2011年-2012年シーズン終了時、契約満了に伴いオーデンセでのジェンバ=ジェンバの将来は不透明となった。契約交渉が期待されていたにもかかわらず、ジェンバ=ジェンバはクラブを退団した。その前年には、彼とピーター・ウタカはクラブ関係者から契約が更新されないことを伝えられていた。契約が更新されない結果、クラブは選手を早期に放出することを決定した。
3.6. ハポエル・テルアビブ
2012年8月14日、ジェンバ=ジェンバはイスラエルのハポエル・テルアビブFCと2年契約を結んだ。彼はテルアビブを拠点とするこのチームで、リーグ戦合計28試合に出場した。
3.7. パルチザン
2013年7月24日、ジェンバ=ジェンバはセルビアのパルチザンと2年契約を締結した。彼のデビューは2013年7月31日のルドゴレツ・ラズグラトとのUEFAチャンピオンズリーグ予選アウェイ戦で、64分に途中出場した。しかし、ジェンバ=ジェンバはシーズンの前半を通じてパルチザンでほとんどプレー機会を得られなかった。2013年12月20日にクラブがニコラ・ドリンチッチを獲得したことで、彼は余剰戦力となり、2013年12月23日に契約が解除された。パルチザンでは3ヶ月間給料が支払われない期間があったことも報じられている。
3.8. セント・ミレン
2014年2月5日、ジェンバ=ジェンバはスコットランド・プレミアシップのセント・ミレンFCと短期契約を結んだ。彼はこのセント・ミレンへの移籍が、2014 FIFAワールドカップのカメルーン代表メンバー入りに繋がることを期待していると述べた。加入に際し、当時のダニー・レノン監督はジェンバ=ジェンバをクラブ史上最大の獲得選手だと評した。
彼はスコットランド・カップ5回戦のダンディー・ユナイテッドFC戦でクラブデビューを果たしたが、チームは2-1で敗れた。全コンペティションでわずか3試合の出場に留まり、シーズン終了後にクラブから放出され、ワールドカップのカメルーン代表にも選ばれることはなかった。
3.9. チェンナイインFC
2014年10月、ジェンバ=ジェンバはインド・スーパーリーグのチェンナイインFCと短期契約を結んだ。
3.10. その後のキャリアと引退
2015年2月には、当時インドネシア・スーパーリーグのペルセバヤ・バヤンカラと契約した。しかし、政府の介入に対するFIFAの制裁によりリーグが中止されたため、デビューする前にプレー機会を失った。2015年から2016年にかけてはインドネシアのプルシパで34試合に出場し、25得点を挙げた。2016年にはフランスの5部リーグに相当するCFAのヴォルティジュール・シャトーブリアンに加入。その後、スイスの5部リーグにあたるFCヴァロルブ=バレーグで2021年までプレーした。そして2021年9月、プロサッカー選手としての引退を表明した。
4. 代表経歴
ジェンバ=ジェンバの国際舞台でのキャリアは、カメルーン代表としてアフリカネイションズカップ優勝やFIFAコンフェデレーションズカップ準優勝など、輝かしい功績を収めました。以下に、彼の主要な大会での活躍と国際Aマッチ出場記録を詳述します。
4.1. 主要大会での活躍
ジェンバ=ジェンバはカメルーン代表の一員として国際舞台で活躍した。2002年1月のチュニジア戦で代表デビューを果たし、同年開催されたアフリカネイションズカップ2002で優勝を経験した。また、2002 FIFAワールドカップにも出場している。翌2003年のFIFAコンフェデレーションズカップ2003ではフランス代表に次ぐ準優勝に終わった。この大会中、彼はチームメイトのマルク=ヴィヴィアン・フォエがピッチ上で倒れ、後に病院で亡くなる直前に最後に会話を交わした人物であったと語っている。
しかし、2010 FIFAワールドカップでは、監督との意見の相違が原因で代表チームに選出されなかった。2014 FIFAワールドカップの出場を目指し、セント・ミレンFCへの移籍を通じてアピールを試みたものの、フォルカー・フィンケ監督の下で発表された28名の仮招集メンバーには含まれず、最終的にワールドカップ出場を逃した。
4.2. 国際Aマッチ出場記録
エリック・ジェンバ=ジェンバの国際Aマッチ出場記録は以下の通りである。
年 | 出場 | 得点 |
---|---|---|
2002 | 8 | 0 |
2003 | 7 | 0 |
2004 | 8 | 0 |
2005 | 5 | 0 |
2006 | 0 | 0 |
2007 | 0 | 0 |
2008 | 2 | 0 |
2009 | 3 | 0 |
2010 | 0 | 0 |
2011 | 3 | 0 |
通算 | 36 | 0 |
5. 私生活
ジェンバ=ジェンバはカメルーンのドゥアラで生まれ、カメルーンとフランスの二重国籍を持つ。彼は結婚しており、4人の子供をもうけた後に離婚している。
マンチェスター・ユナイテッドFCからアストン・ヴィラFCへ移籍した後の2007年に、彼は破産を宣言した。その後の彼の発言によれば、彼はかつて数百万ポンドを失ったものの、現在は「電車に乗ったり、ケンタッキーフライドチキンを食べたり、時折シーバスを楽しんだりするシンプルな男」になったと語っている。また、彼はキリスト教徒である。
6. タイトル
ジェンバ=ジェンバがキャリアを通じて獲得した主なタイトルは以下の通りである。
6.1. クラブ
- FAカップ: 2003年-2004年
- FAコミュニティ・シールド: 2003年
6.2. 代表
- アフリカネイションズカップ: 2002年
7. 評価
エリック・ジェンバ=ジェンバのキャリアは、その才能と同時に、特にイングランドのトップリーグでの評価の難しさが際立つものだった。FCナントでの活躍からマンチェスター・ユナイテッドFCへ移籍した際には大きな期待が寄せられたものの、アレックス・ファーガソン監督自身が長年の監督生活で「最悪の契約の一つ」と公言するほど、期待に応えられなかった。また、デイリー・メール紙は彼のアストン・ヴィラFCへの移籍をプレミアリーグ史上最大の「移籍の失敗作」の一つに挙げている。
こうした批判的な見解は、彼がトップクラブでの成功を維持できなかったこと、そして高額な移籍金に見合うパフォーマンスを発揮できなかったことに起因する。特に、マンチェスター・ユナイテッドFCからアストン・ヴィラFCへの移籍後に破産を宣言した事実は、プロサッカー選手が直面する経済的リスクと、高額な報酬が必ずしも安定したキャリアや私生活を保証しないという社会的な側面を浮き彫りにした。彼のキャリアは、サッカー界における選手の評価が、単なるピッチ上のパフォーマンスだけでなく、移籍市場における経済的な価値や、その後の私生活に与える影響にも及ぶことを示唆している。デンマークのオーデンセBKでの活躍は、彼がイングランドを離れた後も、適切な環境下であればその能力を発揮できることを証明したが、ビッグクラブでの「失敗」というレッテルは、彼のキャリア全体に影を落とし続けた。