1. 生涯
エルンスト・ブロッホの生涯は、20世紀のドイツにおける激動の歴史と深く結びついており、彼の哲学はこれらの経験を反映して形成された。
1.1. 幼少期と教育
ブロッホは1885年7月8日、ルートヴィヒスハーフェン・アム・ラインで、同化ユダヤ人の鉄道職員の息子として生まれた。幼少期から卓越した知性を示し、ミュンヘン大学とヴュルツブルク大学で哲学、物理学、音楽を学んだ。大学入学後わずか6学期後の1908年には、「ハインリヒ・リッケルトと近代認識論の問題に対する批判的解明」と題する論文で博士号を取得し、彼の並外れた才能を証明した。
1.2. 初期知的活動とナチス時代の亡命
大学卒業後、ブロッホは初期の知的成長を遂げ、多くの影響力のある知識人たちと交流を深めた。ゲオルク・ジンメルの紹介でゲオルク・ルカーチと親交を結び、この友情はブロッホが「共生」と呼ぶほど終生にわたる親密なものとなった。彼はまた、マックス・ヴェーバー(1915年ハイデルベルクで知り合う)、ヴァルター・ベンヤミン、テオドール・アドルノ、ジークフリート・クラカウアー、ベルトルト・ブレヒト、クルト・ヴァイルといった同時代の重要な思想家や芸術家と交流した。
第一次世界大戦の激化を受けて、ブロッホは1917年にスイスへ亡命した。翌1918年には最初の著書『ユートピアの精神』を発表。この作品は難解な内容であったため一般には広く受け入れられなかったものの、アドルノやベンヤミンなど、共通の問題意識を持つ少数の優れた読者からは高く評価された。1920年代にはジャーナリストとして活動し、芸術界との関わりを深めた。
1933年にナチスが政権を掌握すると、ユダヤ人であったブロッホは直ちに国外への脱出を余儀なくされた。彼はまずスイスに逃れ、その後オーストリア、フランス、チェコスロバキアを転々とした後、1938年にアメリカ合衆国へ亡命した。この亡命生活は約10年間続き、その間、彼はニューハンプシャー州に一時滞在した後、マサチューセッツ州ケンブリッジに定住した。ハーバード大学のワイデナー図書館の閲覧室で、彼は後の主著となる『希望の原理』の大部分を執筆した。当初、彼はこの作品を『より良い人生の夢(Dreams of a Better Life)』というタイトルで出版することを計画していた。この逃避行の最中、彼は第二の主著『この時代の遺産』を刊行した。
1.3. 東ドイツでの学術活動
第二次世界大戦が終結した後、ブロッホは1949年に東ドイツへ帰国し、ライプツィヒ大学の哲学教授に就任した。彼は東ドイツの政治哲学者としての地位を確立し、1955年にはドイツ民主共和国国家賞を受賞したほか、ベルリン・ドイツ科学アカデミーの会員にもなった。この時期の彼の多くの教え子の中には、1957年に彼のもとで博士号を取得し、後にグライフスヴァルト大学の教授、そしてベルリンの科学アカデミー中央哲学研究所の所長を務め、最終的にブロッホを批判することになるマンフレート・ブールもいた。
しかし、1956年のハンガリー動乱は、社会主義統一党(SED)政権に対するブロッホの見解を再考させるきっかけとなった。彼は人間主義的な自由の思想を擁護し続けたため、1957年には72歳という高齢ではなく、政治的な理由により強制的に引退させられることとなった。これに対し、著名な教授や同僚であるエミール・フックスとその教え子たち、さらにはフックスの孫であるクラウス・フックス=キトフスキーなど、多くの科学者や学生がこの強制引退に公に反対の声を上げた。
1.4. 西ドイツ定住と晩年
1961年にベルリンの壁が建設されると、ブロッホは東ドイツに戻らず、西ドイツのテュービンゲンに移住した。そこで彼はテュービンゲン大学の哲学名誉教授の職を得た。彼はミラン・マホヴェツらが1960年代のチェコスロバキアで組織したキリスト教-マルクス主義者の知識人対話グループにも積極的に参加した。
晩年まで精力的に執筆活動を続け、1967年にはドイツ書籍協会平和賞を、1975年にはジークムント・フロイト賞を受賞した。彼はまた、政治活動にも積極的に参加した。ブロッホは1977年8月4日、テュービンゲンでその生涯を閉じた。
2. 思想と哲学
エルンスト・ブロッホの哲学は、その独自性と深遠さにおいて特筆される。彼は伝統的なマルクス主義を越え、人間の歴史に内在する希望と未来への可能性を追求した。
2.1. 主要思想と概念
ブロッホの哲学の中核には、一貫して楽観的な歴史の目的論が存在する。彼の思想は、宇宙がその根源(Urgrundウルグルントドイツ語)から究極目的(Endzielエントツィールドイツ語)へと移行する過程にあるという信念に基づいている。この移行は主体-客体弁証法を通じて実現されると考えられ、彼はこの過程が人類の歴史と文化のあらゆる側面に見られると主張した。
彼の哲学の最も重要な概念は「希望の原理」である。これは、単なる夢や空想ではなく、具体的な実現可能性を秘めた未来への指向性を意味する。ブロッホにとって、希望は人類の進歩を促す根源的な力であり、未来を創造する意志である。「具体的ユートピア」という概念は、この希望が具体的な形を取り、実現可能な社会変革の青写真となることを示唆している。これは、現実の可能性に根ざした、抑圧と搾取のない人間主義的な社会を志向するものである。
ブロッホの著作、特に彼の主著である『希望の原理』は、詩的で警句的な文体で書かれており、人類と自然が社会的に、そして技術的に改善された未来へと向かう方向性を百科事典的に記述しようと試みている。彼のこの独特な思考様式は、現実の中にまだ顕在化していない可能性を見出す彼の試みと深く結びついている。
2.2. 思想的背景と発展
ブロッホの思想は、多様な知的背景から影響を受けて形成され、時間とともに発展した。彼はゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルやカール・マルクスの弁証法的・唯物論的思考を深く継承しながらも、終末論的・宗教的思想家からの影響も強く受けた。
特に、ドイツ農民戦争の指導者であったトーマス・ミュンツァー、錬金術師パラケルスス、そして神秘主義者ヤーコプ・ベーメといった人物から、彼は歴史における変革の衝動や、既存の秩序を超えた新たな世界を希求する精神を見出した。彼らはブロッホの「希望」や「ユートピア」の概念に、単なる社会変革の理論を超えた、精神的・終末論的な次元を与えた。
また、ブロッホの哲学は表現主義との関係性においても特徴づけられる。彼は表現主義論争においてゲオルク・ルカーチと対峙し、前衛芸術が未来を展望し実現する可能性を信じる立場から反論を加えた。ルカーチが表現主義をナチズムに先鞭をつけたものとして非難したのに対し、ブロッホは芸術が既存の現実を異化し、未来への希望を喚起する力を擁していると主張した。この論争は、芸術と政治、美学と社会変革の間の関係性についての彼の見解を明確に示した。彼の哲学は、これらの多様な源泉を統合し、未来志向で人間主義的なマルクス主義の独自の形態へと発展していった。
3. 主要著作
エルンスト・ブロッホは、その広範な著作活動を通じて、哲学、政治経済学、神学、文学、社会学、歴史学、政治学、法哲学、芸術など、百科事典的ともいえる幅広い分野にわたる数多くの重要な作品を残した。
- 『ユートピアの精神』(Geist der Utopieドイツ語、1918年)
- この最初の著書は、難解な内容であったため世間一般の評判は芳しくなかったが、テオドール・アドルノやヴァルター・ベンヤミンなど、共通の問題意識を持つ少数の優れた読者からは高く評価された。
- 『トーマス・ミュンツァー 革命の神学者』(Thomas Müntzer als Theologe der Revolutionドイツ語、1921年)
- 『砂漠を越えて』(1923年)
- 『未知への痕跡』(Spurenドイツ語、1930年)
- 『この時代の遺産』(Erbschaft dieser Zeitドイツ語、1935年)
- この作品は、日常的な現実の中に潜む「もはや意識されないもの」と「まだ意識されないもの」という二つの概念を軸に、モンタージュの手法を用いて思考を構成する。この手法により、「なぜワイマール共和国はナチスを生み出し、アドルフ・ヒトラーを政権に就かせなければならなかったのか」を究明したこの作品は、マルクス主義者ではない作家・批評家(ヘルマン・ヘッセ、クラウス・マンなど)からも高く評価された。
- 『自由と秩序』(Freiheit und Ordnungドイツ語、1946年)
- 『主体:客体 ヘーゲル読解』(Subjekt-Objekt, Erläuterungen zu Hegelドイツ語、1949年)
- 『アヴィケンナとアリストテレス左派』(Avicenna und die aristotelische Linkeドイツ語、1949年)
- 『クリスティアン・トマジウス』(Christian Thomasiusドイツ語、1949年)
- 『希望の原理』(Das Prinzip Hoffnungドイツ語、3巻、1938年-1947年執筆、1954年-1959年出版)
- 人類と自然が社会的に、そして技術的に改善された未来へと向かう方向性を百科事典的に記述しようと試みた、ブロッホの主著。
- 『自然法と人間の尊厳』(Naturrecht und menschliche Wür厳ドイツ語、1961年)
- 『哲学の根本問題』(Philosophische Grundfragen Iドイツ語、1961年)
- 『異化』(Verfremdungenドイツ語、1962年)
- 『チュービンゲン哲学入門』(Tübinger Einleitung in die Philosophieドイツ語、1963年)
- 『キリスト教の中の無神論 脱出と御国との宗教のために』(Atheismus im Christentumドイツ語、1968年)
- 『ナチズム 地獄と神々の黄昏』(Politische Messungen, Pestzeit, Vormärzドイツ語、1970年)
- 『マルクスと革命』(Marx und die Revolutionドイツ語、1970年)
- 『唯物論の問題:その歴史と全体』(Das Materialismusproblem, seine Geschichte und Substanzドイツ語、1972年)
- 『世界という実験 問い,取り出しの諸カテゴリー,実践』(Experimentum Mundi. Frage, Kategorien des Herausbringens, Praxisドイツ語、1975年)
- 「因果性と最終性を行動的、客体化カテゴリーとして: 伝達のカテゴリー」(Causality and Finality as Active, Objectifying Categories: Categories of Transmission英語、1974年)
4. 評価と遺産
エルンスト・ブロッホの思想は、20世紀後半の思想界に多大な影響を与え、その遺産は今日でも様々な分野で議論されている。
4.1. 影響
ブロッホの著作は、1968年前後の学生運動において大きな影響力を持った。彼のユートピア思想と希望の哲学は、既存の社会システムに対する批判と変革を求める学生たちの精神に深く響き渡り、彼らの行動の理論的基盤の一つとなった。
また、ブロッホの思想はキリスト教神学、特に解放の神学にも決定的な影響を与えた。ユルゲン・モルトマンは彼の主著である『希望の神学』(1967年)においてブロッホの思想を主要な影響源として引用しているほか、ドロテー・ゾレやエルネスト・バルドゥッチといった神学者もブロッホから影響を受けている。精神分析医のジョエル・コーヴェルはブロッホを「現代のユートピア思想家の中で最も偉大な人物」と評した。
ブロッホの思想は、マルクス主義の枠を超えても影響を及ぼしている。例えば、ロバート・S・コリントンはブロッホの思想を自由主義政治に応用しようと試みた。さらに、『希望の原理』に記されたブロッホの具体的ユートピアという概念は、パフォーマンス研究の分野においてホセ・エステバン・ムニョスによって応用され、ユートピア的遂行性(utopian performativity)という新たな概念を生み出した。これは、ペギー・フェランのようなパフォーマンスを再生産不能なライフイベントとみなす支配的な理論に対し、パフォーマンスの存在論と上演が永続的な不確定性を持つものとして概念化されるという、分野全体を転換させる新たなパフォーマンス理論の波を引き起こした。
4.2. 批判と論争
ブロッホの知的活動は、いくつかの重要な批判と論争に直面した。最も有名なものの一つは、ゲオルク・ルカーチとの「表現主義論争」である。ルカーチは表現主義をナチズムに先鞭をつけたものとして強く非難したが、ブロッホはこれに対し、前衛芸術が既存の現実を異化し、未来を展望し、実現する可能性を信じる立場から反論を加えた。この論争は、芸術の政治的役割と、ファシズム時代における芸術のあり方を巡る重要な対立として記憶されている。
また、東ドイツにおける彼の学術活動も論争の的となった。彼の哲学は極めて独特であり、当時の社会主義統一党(SED)政権の正統なマルクス主義解釈から逸脱していると見なされたため、「修正主義」という非難を受けることになった。特に、1956年のハンガリー動乱以降、ブロッホがマルクス主義的立場を維持しつつも人間主義的な自由の思想を擁護し続けたことが、官僚主義的統制を強化しようとする当局との軋轢を生んだ。これにより、彼は政治的な理由で1957年にライプツィヒ大学教授の職を強制的に引退させられる事態に至った。これは、学問の自由と政治的イデオロギーの衝突という、より広範な問題の一例として捉えられている。
5. 関連項目
- 亡命文学
- ゲオルク・ルカーチ
- ヴァルター・ベンヤミン
- テオドール・アドルノ
- ベルトルト・ブレヒト
- トーマス・ミュンツァー
- ユルゲン・モルトマン