1. 概要
エルンスト・ボリス・チェーン(Sir Ernst Boris Chainサー・エルンスト・ボリス・チェーン英語、1906年6月19日 - 1979年8月12日)は、ドイツ生まれのイギリスの生化学者である。彼はアレクサンダー・フレミングが発見したペニシリンを再評価し、ハワード・フローリーと共にその治療効果と化学組成を解明した。この画期的な研究は抗生物質の開発に多大な貢献をし、多くの人命を救う道を開いた。この功績により、1945年にはフレミング、フローリーと共にノーベル生理学・医学賞を共同受賞した。

ユダヤ系の家庭に生まれたチェーンは、ナチスの台頭によってドイツを追われイギリスへ移住した経緯を持つ。その生涯を通じて、ユダヤ人としてのアイデンティティを強く意識し、シオニズム活動にも熱心に取り組んだ。彼の研究は医学の発展に計り知れない影響を与えたが、同時にアメリカへの入国拒否など、当時の国際政治情勢が彼に与えた影響も特筆される。
2. 生い立ちと教育
エルンスト・チェーンの生い立ちと教育は、彼の学術的キャリアの基礎を築いただけでなく、当時の社会情勢、特にユダヤ系の人々を取り巻く厳しい環境を反映している。
2.1. 幼少期と家族背景
チェーンは1906年6月19日にドイツのベルリンで生まれた。父はロシア帝国からドイツに化学を学ぶために移住してきた化学者で実業家のミヒャエル・チェーン、母はベルリン出身のマルガレーテ(旧姓: アイスナー)である。彼の家族は、セファルディム系ユダヤ人とアシュケナジム系ユダヤ人の双方の血統を引いていた。父はカタロニア系ユダヤ人の著名な人物であるゼラヒア・ベン・シェアルティエル・ヘンの子孫であり、その祖先はバビロニア・ユダヤ人の中心的な人物であった。
父が1920年に死去した際、チェーンはわずか14歳であった。父が築いた化学製品製造会社は成功していたものの、1923年から1924年にかけてドイツで発生した深刻なハイパーインフレーションにより、一家の財産は失われた。この困難な時期にもかかわらず、家族はチェーンを大学に進学させることができた。
2.2. 教育と初期の学問
チェーンはフリードリヒ・ヴィルヘルム大学ベルリン(現在のフンボルト大学ベルリン)で化学を学び、1930年に学位を取得した。この時期、彼はコンサートピアニストとしての道を真剣に検討しており、しばしば公開演奏を行っていた。
大学卒業後、彼は酵素の生化学研究を始めた。これは後の抗生物質研究に繋がる重要な基礎となった。この頃、彼は後に王立協会フェローとなるアルバート・ノイバーガー教授と出会い、生涯にわたる友人となった。
3. イギリスへの移住と初期の研究
1933年にナチスが政権を握ると、ユダヤ系であったチェーンはドイツに留まることが危険であると悟った。彼は1933年4月2日、わずか10 GBPを携えてドイツを離れ、イギリスへ移住した。この際、彼は母と姉妹を国外に連れ出すことができず、後に母はナチスの強制収容所で命を落とし、姉妹も行方不明となった。この家族の悲劇は、彼の人生とユダヤ人としてのアイデンティティに深い影響を与えた。

イギリス移住後、遺伝学者・生理学者のJ・B・S・ホールデンの助けを得て、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン病院で職を得た。数ヶ月後、彼はケンブリッジ大学のフィッツウィリアム・カレッジでフレデリック・ホプキンズ卿の指導のもと、リン脂質の研究に取り組む博士課程の学生として迎えられた。
1935年にはオックスフォード大学の病理学講師として職を得た。この期間、彼はヘビ毒、腫瘍の代謝、リゾチーム、そして様々な生化学的技術といった多岐にわたる研究テーマに取り組んだ。1939年4月には、イギリスの市民権を取得し、イギリス国民として帰化した。
4. ペニシリン研究
チェーンの最も重要な業績は、ペニシリンに関する研究である。彼は既存の発見を再評価し、ハワード・フローリーとの協力を通じて、その治療作用と化学組成を詳細に解明した。
4.1. ペニシリンの再発見と治療効果の解明
1939年、チェーンはハワード・フローリーと共同で、微生物が産生する天然の抗菌物質の研究を開始した。この研究過程で、彼らはアレクサンダー・フレミングが9年前に記述したペニシリンに関する初期の研究に再着目した。フレミングは、偶然にもアオカビが細菌を死滅させる効果があることを発見していたが、その後の研究は停滞していた。
チェーンとフローリーは、フレミングの発見に基づき、ペニシリンの抗菌効果を本格的に検証し、その医学的応用可能性を実証した。彼らは、ペニシリンが酵素ではないことを突き止め、その殺菌成分を分離・濃縮する方法を確立した。これにより、不安定であったペニシリンを安定した形で抽出することに成功し、人体の治療に適用できる道を切り開いた。彼らの研究は、ペニシリンが単なる実験室での好奇の対象ではなく、強力な治療薬としての可能性を秘めていることを世界に示した。
4.2. β-ラクタム構造理論の確立
ペニシリンの治療効果の解明と並行して、チェーンはペニシリンの化学構造の特定にも大きく貢献した。彼はエドワード・エイブラハムと共に、ペニシリンがβ-ラクタム構造を持つという理論を1942年に提唱した。これは当時の有機化学の知識からすると極めて大胆な予測であった。
この理論は、その後1945年にドロシー・ホジキンによるX線結晶構造解析によって確認された。ホジキンは高度な技術を駆使して、ペニシリンの正確な三次元構造を明らかにし、チェーンの予測が正しかったことを裏付けた。この構造解明は、ペニシリンの合成や、より効果的な抗生物質の開発に向けた道筋を示す上で不可欠なものであった。
4.3. ノーベル生理学・医学賞受賞
ペニシリンの治療効果の解明と化学構造の確立という画期的な功績により、エルンスト・チェーンは1945年に、アレクサンダー・フレミング、ハワード・フローリーと共にノーベル生理学・医学賞を共同受賞した。受賞理由は「ペニシリンの発見、および種々の伝染病に対するその治療効果の発見」であった。
この受賞は、ペニシリンが第二次世界大戦における負傷兵の救命に多大な貢献をし、世界中の医療に革命をもたらしたことを国際的に認めるものであった。チェーンの受賞は、彼の綿密な生化学的研究が、具体的な医療応用へと繋がる実用的な成果を生み出したことの証しである。この賞は、20世紀の医学における最も重要な進歩の一つとして、彼の名前を歴史に刻んだ。
5. ノーベル賞受賞後の活動
ノーベル賞受賞後も、チェーンは精力的に研究活動を続け、学術界と産業界において重要な役割を果たした。彼のキャリアは国際的な広がりを見せ、生化学の発展に貢献し続けた。
5.1. イタリアでの活動
第二次世界大戦終結が近づくにつれて、チェーンは自身の母と姉妹がナチスによって殺害されたことを知るという個人的な悲劇に直面した。
戦後、チェーンはイギリスにおける自らの分野の発展に不満を抱いていたこともあり、イタリアのローマに移住した。彼はローマにある高等衛生研究所(Istituto Superiore di Sanitàイスティトゥート・スペリオーレ・ディ・サニタイタリア語)で、抗生物質研究のための最初の国際センターである国際化学微生物学研究センターを設立し、その所長を務めた。この期間、彼は抗生物質のさらなる研究と応用、そして微生物学の国際的な連携に尽力した。
5.2. イギリスへの帰国とその後の研究
1961年にイタリアからイギリスへ戻ったチェーンは、1964年にインペリアル・カレッジ・ロンドンで生化学科を設立し、その初代学科長に就任した。彼は退職するまでこの職務を務め、特に工業発酵技術の専門化に注力した。
この時期の研究は、微生物学と化学の応用による産業プロセスに焦点を当てたものであり、彼の幅広い学術的関心と実用的な研究への献身を示していた。彼はこの分野での教育と研究を推進し、新たな世代の研究者の育成にも貢献した。
6. 私生活とユダヤ人としてのアイデンティティ
チェーンの私生活は、彼の学術的偉業だけでなく、ユダヤ人としての深いアイデンティティと、それに基づく活動によって特徴づけられる。
1948年、彼は生化学者であるアン・ベロフ=チェーンと結婚した。アンは、マックス・ベロフ、ジョン・ベロフ、ノラ・ベロフ、レネー・ベロフの姉妹である。夫妻には2人の息子と1人の娘が生まれた。チェーンは子供たちを厳格にユダヤ教の信仰の中で育て、多くの課外授業を受けさせた。
彼の人生の後半において、ユダヤ人としてのアイデンティティはますます重要な意味を持つようになった。彼は熱心なシオニストであり、1954年にはイスラエルのワイツマン科学研究所の理事会のメンバーとなり、その後は執行評議会のメンバーも務めた。彼の思想は、1965年に世界ユダヤ人会議(World Jewish Congressワールド・ジューイッシュ・コングレス英語)の知識人会議で行われた「なぜ私はユダヤ人なのか」(Why I am a Jewホワイ・アイ・アム・ア・ジュー英語)と題された講演で最も明確に表現された。この講演は、彼の信仰、文化、そして迫害を受けた歴史に対する深いコミットメントを示している。
7. 栄誉と遺産
エルンスト・チェーンは、その類稀な科学的貢献に対し、数々の栄誉と賞を授与された。彼の研究は現代医学に計り知れない遺産を残し、その功績は死後も称えられ続けている。
7.1. 受賞と叙勲
チェーンは、その輝かしい学術的キャリアを通じて、数多くの賞と栄誉を授与された。
- 1948年3月17日には、イギリスで最も権威ある学術団体の一つである王立協会フェロー(FRS)に選出された。
- 1954年には、ドイツで医学研究に顕著な貢献をした科学者に贈られるパウル・エールリヒ&ルートヴィヒ・ダルムシュテッター賞を受賞した。
- 1969年の誕生日叙勲において、ナイト・バチェラーに叙せられ、「サー」(Sir)の称号を与えられた。これにより、彼はイギリスにおける最高の栄誉の一つを得た。
これらの栄誉は、彼のペニシリン研究が医学に与えた革命的な影響と、その後の生化学分野における継続的な貢献が国際的に高く評価された証である。
7.2. 死去と追悼
エルンスト・チェーンは1979年8月12日、アイルランド共和国メイヨー県のカスルバーにあるメイヨー総合病院で73歳で死去した。彼は退職後、アイルランド西部に移住し、カスルバーで余生を過ごしていた。伝えられるところによると、彼はカスルバーで出会った主治医アショーカ・ジャーナヴィ=プラサド(Ashoka Jahnavi-Prasadアショーカ・ジャーナヴィ=プラサド英語)の献身的な態度と、「未来の医療がきっとあなたを治してくれる」という言葉に深い感銘を受けていたという。この医師は後に、双極性障害の治療に用いられるリチウム塩の代わりに、より安全なバルプロ酸ナトリウムの使用を初めて提案した人物となった。
チェーンの功績を称え、彼の名前を冠した施設や道路がいくつか存在する。
- インペリアル・カレッジ・ロンドンの生化学棟は、彼の名誉をたたえて「エルンスト・チェーン棟」と名付けられている。
- 彼が晩年を過ごしたアイルランドのカスルバーには、彼の名前を冠した道路が存在する。
ベルリンのモアビットにあるエルンスト・ボリス・チェーンの記念プレート
また、彼の出生地であるベルリンのモアビットには、彼を記念するプレートが設置されている。
これらの追悼活動は、エルンスト・チェーンが科学と人類の健康に与えた計り知れない影響を後世に伝えるものである。
8. 評価と論争
エルンスト・チェーンの業績は広く称賛されている一方で、彼の活動や人生の側面には批判的な見方や論争も存在した。
8.1. 肯定的評価
チェーンの最大の業績は、ペニシリンの治療効果と化学組成の解明における先駆的な役割である。この研究は、感染症治療に革命をもたらし、第二次世界大戦中の負傷兵の命を救い、その後も世界中の何百万人もの人々の命を救ってきた。彼の緻密な生化学的アプローチと、ペニシリンの純粋分離と濃縮技術の確立は、抗生物質の大量生産を可能にし、近代医学の基礎を築いたと高く評価されている。ノーベル賞の受賞は、彼の科学者としての成功と国際的な認知度を不動のものとした。
また、イタリアでの抗生物質研究センターの設立や、インペリアル・カレッジ・ロンドンでの生化学科創設とその発展への貢献も、学術界における彼のリーダーシップとビジョンを示すものとして肯定的に評価されている。
8.2. 批判と論争
チェーンは、気まぐれで反抗的とされることもあったと伝えられている。彼のキャリアにおいて特に注目すべき論争は、彼のアメリカ合衆国への入国拒否事件である。1950年に制定されたマッカラン国内保安法に基づき、彼は1951年に2度、アメリカへのビザ申請を却下された。この法律は共産主義者やその同調者と見なされた個人の入国を制限するものであった。ノーベル賞受賞者であるにもかかわらず、彼が入国を拒否されたことは、冷戦期のアメリカにおける赤狩りの過剰な影響を示す一例として、当時の国際社会で議論を呼んだ。この事件は、科学者の移動の自由が政治的な理由によって制限される可能性を浮き彫りにし、彼の私生活にも影響を与えた。