1. Overview
エンリケ・ペレス・ディアス(Enrique Pérez Díazスペイン語、1938年12月28日 - 2021年2月10日)は、通称パチン(Pachínスペイン語)として知られるスペインの元サッカー選手、元サッカー監督である。現役時代のポジションはディフェンダー(DF)およびミッドフィールダー(MF)。
パチンは、1959年から1968年にかけてレアル・マドリードでプレーした「イェーイェー・マドリード」の一員として特に知られており、この期間にラ・リーガを7回、チャンピオンズ・カップを2回、コパ・デル・ヘネラリシモ(現コパ・デル・レイ)を1回、インターコンチネンタルカップを1回獲得するなど、数々の栄光を手にした。レアル・マドリードでは公式戦218試合に出場し、その多才な守備能力でチームを支えた。
また、スペイン代表としても8キャップを記録し、1962 FIFAワールドカップにも出場した。選手引退後は約16年間にわたりサッカー監督として活動し、主にセグンダ・ディビシオン(2部リーグ)のクラブを率い、エルクレスCFを1部リーグへ昇格させるという功績を残した。
2. 生い立ちと初期キャリア
2.1. 出生と幼少期
パチンことエンリケ・ペレス・ディアスは、1938年12月28日にスペイン・カンタブリア州のトレラベーガで生まれた。彼の幼少期の環境に関する詳しい情報は少ないが、この地でサッカーへの関心を育んだとされる。
2.2. ユースおよびプロ初期のクラブ
選手としてのキャリアは、1956年に当時テルセーラ・ディビシオン(3部リーグ)に所属していた地元のクラブ、ジムナスティカ・デ・トレラベーガで始まった。その後、1957年から1958年にはブルゴスCFに在籍した。
1958年にはセグンダ・ディビシオン(2部リーグ)のCAオサスナに移籍し、プロとしてのキャリアを本格化させた。オサスナでは、ラ・リーガへの初出場も記録し、リーグ戦で23試合に出場し1得点を挙げた。この活躍が認められ、1959年にレアル・マドリードへの移籍を果たした。
3. 選手としてのキャリア
3.1. クラブキャリア
3.1.1. レアル・マドリード
パチンは1959年にレアル・マドリードに加入した。加入当初の1959-60シーズンにはチャンピオンズ・カップを制したが、このシーズンでのパチンの出場機会はなかった。しかし、翌シーズンから徐々にプレータイムを増やし、1960年9月11日のアトレティコ・マドリード戦でラ・リーガデビューを飾った(アウェーで0-1の敗戦)。彼はこの1960-61シーズン以降4シーズンにわたってレアル・マドリードの主力選手として活躍した。
当時のレアル・マドリードは「イェーイェー・マドリード」と呼ばれ、強力な攻撃陣を擁するチームだった。パチンは、ライトバック、センターバック、ディフェンシブミッドフィールダーなど、守備的ポジションならどこでもこなせる器用さ(「伝説のなんでも屋」と評されることもあった)を買われ、チームの守備の要として貢献した。
1968年5月にクラブを退団するまでの8年間で、公式戦合計218試合に出場し2得点を記録した。この期間に、彼はクラブ史上でも類を見ないほどの輝かしい成績を収めた。特に、1960年と1966年のチャンピオンズ・カップ優勝に貢献し、後者の大会では8試合に出場した。キャリアを通じてヨーロッパのカップ戦には合計32試合に出場している。
3.1.2. その他のクラブ
レアル・マドリードを約30歳で退団した後、パチンは1968-69シーズンにセグンダ・ディビシオン(2部リーグ)のレアル・ベティスでプレーした。ベティスではリーグ戦24試合に出場した。プロ選手としてのキャリアは、1970年から1971年にかけてアマチュアクラブのCDトルーカでプレーした後に終えた。

3.2. 代表キャリア
パチンはスペイン代表として8キャップを獲得し、3年間にわたり代表でプレーした。彼の代表デビューは、1960年5月15日にイングランド代表との親善試合で行われ、スペインは3-0で勝利した。
1962年にはチリで開催された1962 FIFAワールドカップのスペイン代表メンバーに選出された。この大会では、メキシコ代表とブラジル代表との試合に出場したが、スペイン代表はグループリーグで敗退した。
4. 指導者としてのキャリア
選手引退後、パチンは指導者の道に進み、約16年間にわたりサッカー監督として活動した。
監督キャリアは1973年からレアル・マドリードのカンテラ(下部組織)で、後進の育成に携わることから始まった。1年後の1974年からはプロクラブの監督として指揮を執るようになったが、主にセグンダ・ディビシオン(2部リーグ)以下のクラブを率いたため、1部リーグのクラブを指揮することは一度もなかった。
彼が率いた主なクラブには、ガラクティコ・ペガソ(1974-1975年、1989年)、ヘタフェ・デポルティーボ(1975-1976年)、オサスナ(1976-1977年)、セウタ(1977-1978年)、バリャドリード(1978-1979年)、レバンテ(1979-1981年、1984-1985年、1987-1988年)、コルドバ(1981年)、アルメリア(1982年)、エルクレス(1982-1983年)、アルバセテ(1985-1986年)、グラナダ(1988-1989年)などがある。
監督として最大の功績は、1983-84シーズンにエルクレスCFを1部リーグへ昇格させたことである。この昇格は、彼がエルクレスの監督をわずか6試合しか務めていない中で達成されたものであった。
5. 獲得タイトル
パチンが選手キャリアにおいて獲得した主要なタイトルは以下の通りである。
- レアル・マドリード
- ラ・リーガ:7回(1960-61、1961-62、1962-63、1963-64、1964-65、1966-67、1967-68)
- コパ・デル・ヘネラリシモ(現コパ・デル・レイ):1回(1961-62)
- チャンピオンズ・カップ:2回(1959-60、1965-66)
- インターコンチネンタルカップ:1回(1960)
6. 死去
パチンは2021年2月10日、スペインのマドリードで82歳で死去した。彼の死去は、彼が長年貢献したレアル・マドリードを含むスペインサッカー界に大きな悲しみをもたらした。
7. 遺産と評価
パチンは、レアル・マドリードの輝かしい歴史の中で、「イェーイェー・マドリード」の一員として数々のタイトル獲得に貢献した伝説的な選手として記憶されている。彼の多才な守備能力と、チームプレーへの献身は高く評価されており、後世の選手たちにも影響を与えた。
彼は、アルフレッド・ディ・ステファノ、フランシスコ・ヘント、フェレンツ・プスカシュといったスター選手が揃う中で、目立つことよりもチームの勝利に貢献することを優先する選手として、その役割の重要性が認識されている。監督としてのキャリアでは、トップリーグでの実績はなかったものの、エルクレスCFを昇格させた功績は、彼の指導者としての能力を示すものとして言及される。
パチンの名前は、スペインサッカー史において、特にレアル・マドリードの黄金期を支えた重要なDFとして語り継がれるだろう。