1. 概要
コルビーの聖アダルハルト(Adalhardus Corbeiensisラテン語、751年頃、フイス生まれ - 827年1月2日没)は、フランク王国の貴族であり、カロリング朝の出身である。カール・マルテルの息子ベルンハルトの子であり、シャルルマーニュの従兄弟にあたる。コルビー修道院の修道院長を務め、後にローマ・カトリック教会と東方正教会において聖人として崇敬されている。
彼はシャルルマーニュの息子であるピピン・カルロマンの家庭教師兼総理としてイタリアに派遣され、その行政を補佐した。ピピン・カルロマンの死後は、その息子ベルンハルト1世の後見人および助言者となった。敬虔王ルートヴィヒ1世の治世下で一時流刑されるも、後に復帰し、皇帝の主要な助言者の一人となった。また、異母兄弟のヴァラと共にコルヴァイ修道院を設立するなど、修道院活動にも尽力した。827年に73歳で死去し、1024年に教皇ヨハネス14世によって聖人に列せられた。
2. 家系および背景
アダルハルトは、カロリング朝の重要な人物たちと血縁関係を持つ貴族として生まれた。
2.1. 出生および家系
アダルハルトは750年、751年、または752年頃にフイス(Huise)で生まれた。彼の父はカール・マルテルの息子または庶子であるベルンハルトで、シャルルマーニュの治世下で軍務大臣を務めた。アダルハルトの母はベルンハルト伯爵の最初の妻でフランク族の女性であったが、その名前は伝わっていない。異母兄弟にはヴァラがおり、ヴァラはベルンハルトとザクセン族の女性との間に生まれた子であるが、その生母の名前も不明である。
アダルハルトはシャルルマーニュやカルロマンの従兄弟にあたる。彼の姪はシャルルマーニュの息子ピピン・カルロマンと結婚しており、ピピン・カルロマンの死後、アダルハルトは彼の息子ベルンハルト1世の保護者および助言者の一人となった。
2.2. 祖先
アダルハルトの祖先には、フランク王国の宮宰として大きな影響力を持ったカール・マルテル(父方の祖父)や、その父であるピピン2世(曾祖父)がいる。
世代 | 人物 |
---|---|
1 | コルビーの聖アダルハルト |
2 | ベルンハルト |
3 | グンデリンディス |
4 | カール・マルテル |
5 | ルオトハイト |
8 | ピピン2世 |
9 | アルパイダ |
3. 教育および初期経歴
アダルハルトはカロリング朝の宮廷で優れた教育を受け、若くして行政の要職に就いた。
3.1. 宮廷学校教育
アダルハルトはアーヘンのシャルルマーニュ宮廷に設けられた宮廷学校で優れた教育を受けた。彼の教育と初期の活動は、この時代の学問、文学、芸術の復興であるカロリング・ルネサンスの一部をなすものであった。まだ非常に若いうちに宮廷伯に任命され、宮廷で活動した。
3.2. 修道院入門および司祭叙品
20歳の時、彼はピカルディ地方のコルビー修道院に入り、修道士となった。この修道院は662年にクロヴィス2世の王妃である聖バティルドによって設立されたものである。より隠遁した生活を求めてモンテ・カッシーノへ赴いたが、シャルルマーニュの命によりコルビーに戻ることを命じられ、そこで修道院長に選出された。
772年頃、南イタリアのベネヴェントで聖品叙階を受け、ローマ・カトリック教会の司祭となった。彼はゲルマン語、ラテン語、ロマンス語に堪能であった。
3.3. 初期行政および奉仕
アダルハルトはサン=カンタン伯爵でもあった。彼は父ベルンハルトから相続したブラバントとリエージュの広大な土地を後にコルビー修道院に寄進した。また、シャルルマーニュによるザクセン族遠征やサラセン人遠征にも一部参加している。高位の宮廷行政官として、彼は軍事計画に関する会議にも出席した。
4. カロリング王朝内役割
アダルハルトはフランク王国およびカロリング帝国において、皇帝の親族として重要な職務を歴任した。
4.1. シャルルマーニュ治下の活動
シャルルマーニュは、アダルハルトを自身の息子であるピピン・カルロマン(イタリア王)の総理に任命した。また、ピピン・カルロマンの家庭教師も務めた。781年には、幼いピピン・カルロマンの助言者として、シャルルマーニュによってイタリアの摂政職に任命された。彼は781年から814年までイタリアに滞在し、805年まではコルビーとパヴィアを行き来しながら活動した。796年にピピン・カルロマンが親政を宣言すると、アダルハルトは彼の助言者となった。彼は高位の法官および行政助言者として、ピピン・カルロマンの様々な軍事計画に関する会議に頻繁に出席した。
4.2. イタリア王国の総理および助言
アダルハルトはロンバルディア王国の王であったピピン・カルロマンの助言者および総理として活動した。彼の著述『De ordine palatii』(宮廷秩序について)には、ピピンの治世末期における軍事戦略と高度に発達した情報システムが詳細に記されている。
4.3. ベルンハルト1世の後見人
810年にピピン・カルロマンがミラノで死去する際、彼はアダルハルトに当時12歳の幼い息子ベルンハルトの将来を託した。812年後半には、シャルルマーニュによってベルンハルト1世の家庭教師に任命された。
4.4. ルートヴィヒ1世治下の活動、追放および復帰
814年に即位した敬虔王ルートヴィヒ1世は、父シャルルマーニュの助言者たちを全員解任し、この時アダルハルトもノワールムーティエ島の修道院へ追放された。817年、ベルンハルトが帝冠を望んだ際、敬虔王ルートヴィヒ1世はアダルハルトがベルンハルトに同情的であると疑い、彼をエルムーティエ(現代のノワールムーティエ島)へ追放した。アダルハルトの異母兄弟ヴァラもコルビーで修道士となることを余儀なくされた。
818年、イタリア王ベルンハルト1世が皇帝敬虔王ルートヴィヒ1世の帝国継承令に反発して反乱を起こし、失敗して捕らえられ、盲目にされる刑罰を受けて死去した。この時、敬虔王ルートヴィヒ1世はベルンハルトの助言者であり、彼に同情していたアダルハルトも疑った。ベルンハルト1世の反乱失敗後、アダルハルトは敬虔王ルートヴィヒ1世によって遠く離れた島への流刑を宣告された。
しかし、821年10月中旬にティオンヴィルの帝国議会でベルンハルト1世の追随者たちが赦免された際、彼もヴァラ司教と共に赦免され、追放令が解除された。しかし、その年にアナイネのベネディクトゥスが死去したため、彼はアーヘンには戻らなかった。7年後、敬虔王ルートヴィヒ1世は自身の誤りを認め、824年にアダルハルトを自身の主要な助言者の一人として宮廷に復帰させた。
5. 修道院活動および設立
アダルハルトは修道院長として、また新たな修道院の設立者として、カロリング朝の修道院改革に貢献した。
5.1. コルビー修道院長
アダルハルトはコルビー修道院の修道院長に選出された。821年にはコルビーの大修道院長となった。
5.2. コルヴァイ修道院設立
アダルハルトはいくつかの病院を設立した。822年、アダルハルトは異母兄弟のヴァラと共にヴェストファーレンにコルヴァイ修道院(「新コルビー」)を設立した。コルヴァイは帝国修道院であり、その領土はパーダーボルン司教区からブラウンシュヴァイク公国にまで及んだ。その修道院長は、レーゲンスブルクの帝国議会で21人の司教と共に着座する11人の修道院長の一人であった。ザクセンに設立されたコルビー修道院の修道院長には、異母兄弟のヴァラが任命された。アダルハルトが署名した文書の中には、ビール醸造におけるホップの計算に言及した最古のものも含まれている。
6. 思想および著述
アダルハルトの思想や著述活動は、当時のカロリング朝の行政や軍事戦略に関する貴重な情報源となっている。
6.1. De ordine palatii
アダルハルトの著述『De ordine palatii』(宮廷秩序について)は、ピピン・カルロマンの治世末期における軍事戦略や、高度に発達した情報システムについて詳細に論じている。
6.2. その他著述関連説
アダルハルトは『Vita sancti Adalhardi』の著者であるという説も存在する。しかし、この『Vitae Adalhardi』は、アダルハルトの死後まもなく、彼を深く尊敬していたパスカシウス・ラドベルトゥスによって書かれたものであることが知られている。
7. 聖人推戴および遺産
アダルハルトは死後、その功績と信仰心によって聖人に列せられ、後世に影響を与えた。
7.1. 聖人叙聖
アダルハルトはローマ・カトリック教会および東方正教会において聖人として認められている。彼は1024年に教皇ヨハネス14世によって聖人に列せられた。
7.2. 守護聖人としての崇敬
彼はフランスおよびライン川下流地域の多くの教会や町の守護聖人として崇敬されている。
7.3. 遺骨および記念
彼の遺骨はサン=ピエール・ド・コルビー大聖堂に保存されている。2019年9月からは、コルビー市で彼の遺骨が一般公開されている。

8. 死亡
アダルハルトはコルヴァイから元のコルビーへ戻る途中、クリスマスから3日前に病に倒れた。彼は827年1月1日の午後3時頃、73歳で死去した。彼のコルビー大修道院長職は、異母兄弟のヴァラが継承した。