1. 生い立ちと背景
サミュエル・ワンジルは、貧しい幼少期を過ごし、学業を中退しながらも、その才能を陸上競技に見出し、キャリアの第一歩を踏み出した。
1.1. 出生、家族と貧困
ワンジルは1986年11月10日にケニアライキピア郡ニャフルル市のオルカラウ町で、リフトバレー地方のキクユ族の子として生まれた。ニャフルルは首都ナイロビの北西約150 kmに位置する。幼い頃に両親が離別したため、母のハンナ・ワンジルと弟のシモン・ジョロゲとの3人暮らしであった。ワンジルはシングルマザーであった母の氏名を姓として用いた。
一家の生活は大変困窮しており、狭いトウモロコシ畑に頼るだけの日々であった。ワンジルは自宅から30 km離れたギドゥングリ小学校に昼食を持たずに裸足で通学し、教科書を買うお金もなく、わずかな授業料を払うこともままならなかった。
1.2. 学業中退とケニアでの初期陸上活動
貧困により、ワンジルは小学7年生(ケニアの学制は8・4・4)の時に小学校を中退せざるを得なかった。彼は8歳頃から走ることを始め、小学校の運動会では抜きんでた成績を収めていたが、本格的に陸上を始めたのは小学校を中退した頃であった。
当初は自宅で練習していたが、ワンジルの実力はMFAE陸上クラブ(Mutual Fair Exchanges athletics club)のフランシス・カマウコーチの目に留まり、同クラブで練習するために単身郊外に引っ越した。MFAE陸上クラブはニャフルル市郊外のトムソン滝付近にあり、標高約3000 mの高標高域に練習拠点を置く、長距離選手に特化した陸上クラブであった。カマウコーチの下でトレーニングを積んだ結果、2000年にケニア西部の町キスムで開催された全国小学生陸上選手権の10000mにおいて3位に入り、ワンジルの才能は広く知られるところとなった。しかし、クラブの会費を払えなかったワンジルは、やがてクラブを辞めることを余儀なくされた。キスムでワンジルの才能を認めた他のクラブの数人のコーチがワンジルに興味を示したが、いずれのコーチもワンジルを養うことは不可能であったため、ワンジルは実家に戻ることとなる。
母と弟との赤貧の生活に戻ったワンジルであったが、キスムで出会った他の選手が練習拠点にしているという、オルカラウ町から100 km程離れた町ニエリにあるケニア山高所練習キャンプの話を思い出し、同キャンプを主催するステファン・ドゥングにキャンプへの入隊許可を請うこととした。キクユ族の慣習では、母子家庭の母が単独で子の人生を左右する決定をすることは許されていないため、ワンジルの母方のおじであるジョン・ムヒアが後見人となり、ムヒアがワンジルを連れてニエリのドゥングの下を訪ね、ワンジルはそのままキャンプへの入隊を許された。この際にムヒアは当面の練習費として砂糖と米1 kgずつを工面し、ドゥングに納めた。ニエリのキャンプでの練習により、ワンジルは地区の大会で次々と優勝を重ね、ニエリのヒーローとなっていく。またドゥングはワンジルの才能を海外へ羽ばたかせるべくスポンサー探しを始めることとなる。
2. 日本での選手キャリア
ワンジルは日本の高校へ留学し、その後実業団チームに所属して、日本の陸上競技界でその才能を大きく開花させた。
2.1. 日本への留学と高校時代
2002年初め、ドゥングはケニアを拠点に陸上選手のプロモーター活動を行っていた小林俊一にワンジルを紹介した。スポーツジャーナリストであった小林俊一は、長年のケニアでの活動でケニア陸連と太いパイプを持ち、ニャフルルに拠点を置く陸上チームの運営にあたり、日本に50人近くの選手を送り込んだ実績のある人物であった。前後してワンジル自身も、すでに仙台育英学園高等学校に駅伝要員として留学し、日本での練習で成績を伸ばしていたサムエル・カビルと話をし、日本留学を希望するようになる。そして、日本への留学生の選考会を兼ねたクロスカントリー大会で優勝し、ガル高校(Ngaru Secondary School)を経由して、仙台育英高校への留学をつかみ取った。当時のワンジルの実力は、5000mを14分06秒で走るという、15歳としては驚異的なものであった。
2002年4月、仙台育英高校に入学する。在学当初は初めて体験する仙台の冬の寒さや、言葉の壁に悩み、ホームシックにもなったが、アニメ番組を見て日本語を勉強するなどし、1年後には日本語の日常会話を流暢にこなすようになった。ケニアでは一日30分しか練習していなかったワンジルにとって、最初の一年間は仙台育英高校での練習が非常にきつく感じたと後に語っている。高校生当時は渡辺高夫監督指導の下、駅伝やクロスカントリーに力を入れ、千葉国際クロスカントリー大会を2度、福岡国際クロスカントリー大会を3度制し、全国高等学校駅伝競走大会では3年連続区間賞の快走を見せ、同じケニアからの留学生、メクボ・ジョブ・モグスらに勝つなど、仙台育英高校の黄金時代に貢献した。しかし、1 km2分45秒のペースで2 kmを走るロード用のペース走練習にこだわったあまり、スピード練習が不足していたワンジルは高校総体5000mでは1年次3位、2年次2位、3年次3位に終わり栄冠には届かなかった。3年次には同競技で日本人選手の佐藤悠基にも先着を許している。そのため自分にはスピードの才能がないと誤解したワンジルは早期のマラソン転向を志すようになる(とはいえワンジルの高校3年生当時の自己ベスト記録5000m:13分38秒98、10000m:28分00秒14はいずれも日本高校記録を上回っている)。
2.2. トヨタ自動車九州時代
高校卒業後は複数の実業団から誘いを受け、バルセロナ五輪男子マラソン銀メダリスト森下広一が監督を務めるトヨタ自動車九州にマラソンランナーを目指して入社した。同社では人事総務部総務室に所属しトレーニングを積んだ。入社直後2005年4月の兵庫リレーカーニバル10000mで27分32秒43、翌週の織田幹雄記念国際陸上競技大会5000mで13分12秒40と、自己ベストを立て続けに記録した。これにより早期のマラソン転向は棚上げし、より短い距離での練習を積むことになった。結果はすぐに表れ、同年7月の仙台国際ハーフマラソンで59分43秒(当時世界歴代2位)で優勝した。
続く2005年8月、ベルギーのブリュッセルグランプリリーグ10000mで26分41秒75のジュニア世界新記録を樹立した。この記録は2024年まで19年間保持された。これは当時のジュニア世界記録を約23秒更新するもので、ケネニサ・ベケレ(世界記録26分17秒53)とボニファス・キプロプ(26分39秒77)に次ぐ3位であった。さらに同年9月、オランダのロッテルダムハーフマラソンでも59分16秒の世界新記録を樹立し、ポール・テルガトの59分17秒を公式に上回った。
2006年1月、ハイレ・ゲブレセラシエによってハーフマラソン世界記録が58分55秒に更新されるが、ワンジルは2007年2月にアラブ首長国連邦のラスアルハイマハーフマラソンで58分53秒のタイムを出し、ゲブレセラシエの記録を上回った(しかしこのレースではEPOテストが実施されなかったため記録は公認されなかった)。2007年3月、オランダのハーグで行われたハーフマラソンで、58分33秒の世界新記録を樹立し世界記録保持者に返り咲いた。この際、非公式ながら20kmで55分31秒を記録し、ゲブレセラシエの持つ世界記録を上回ったが、計時方法の問題で公認はされなかった。このハーフマラソンの世界記録は、2010年にゼルセナイ・タデッセにより更新されたため、現在は世界記録ではない。
満を持して2007年12月2日に行われた福岡国際マラソンに出場し、初マラソン初優勝かつ大会新記録の成績を残しハーフマラソン世界記録保持者としての実力を見せつけた。この時のタイムは2時間6分39秒で、当時の藤田敦史が持っていた大会記録を12秒上回ったが、翌年の大会でツェガエ・ケベデにより更新されたため、現在は大会記録ではない。2008年4月13日に行われたロンドンマラソンで優勝したマーティン・レルに次ぎ2位でゴールし、世界歴代5位(当時)の2時間5分24秒を記録した。
2008年7月、ケニアから日本の弁護士を通じてトヨタ自動車九州に退職届を提出し、退社した。退社につき「(同社に所属していれば)駅伝を走らなくてはいけない。今後は自分で(考えてマラソンを)やりたいと思います」と述べた。「日本人は練習しすぎて疲れちゃってる。自分は練習量を少なくしてもらってきた」とも述べ、日本のマラソン界は駅伝とオーバートレーニングにより逆に遅くなったり故障が増えていると指摘した。また、日本実業団陸上競技連合の登録規程により、外国人選手は180日以上日本に滞在する必要があり、この規定が海外の大会への参加に支障をきたすと指摘した。ワンジルは母国・ケニアに長期間帰国していることが多く、日本の実業団登録の滞在日数に関わるため、森下に日本に戻ってくるよう促されても戻ってこないことが多かった。次第に2005年同期加入した当時のトヨタ九州マネージャーと行動をともにするようになり、籍を置いたまま、ガブリエラ・ロザをコーチに、その息子フレデリコ・ロザを代理人とし、森下の方針に従わず、森下が考えていたスケジュールやトヨタ九州と合流する予定、福岡の放送局FBSのイベントなどもキャンセルするなどのトラブルを起こし、2008年7月にトヨタ自動車九州に一方的に退社届を送り、トヨタ九州側も受理した。
3. 主要な陸上キャリア
サミュエル・ワンジルは、ハーフマラソンでの世界記録樹立から、オリンピック金メダル獲得、そして世界主要マラソンでの連勝に至るまで、輝かしい陸上キャリアを築き上げた。
3.1. ハーフマラソン世界記録
ワンジルは18歳であった2005年9月11日、ロッテルダムハーフマラソンで59分16秒のハーフマラソン世界記録を樹立し、ポール・テルガトの59分17秒を公式に上回った。この記録は2006年初めにハイレ・ゲブレセラシエに破られたが、ワンジルは2007年2月9日のラスアルハイマハーフマラソンで58分53秒を記録し、世界記録を奪還した。さらに同年3月17日、デン・ハーグで開催されたシティ・ピア・シティ・ループで58分33秒を記録し、自身の世界記録を更新した。このレースでは非公式ながら20kmで55分31秒を記録し、ハイレ・ゲブレセラシエの持つ世界記録を上回ったが、計時方法の問題で公認はされなかった。
3.2. マラソンキャリア
ワンジルは2007年12月2日の福岡国際マラソンでマラソンデビューを果たし、大会記録となる2時間6分39秒で鮮烈な優勝を飾った。2008年4月のロンドンマラソンでは2時間5分24秒で2位に入り、初めて2時間6分の壁を破った。

2009年のロンドンマラソンでは、北京五輪のメダリスト3人が顔を揃える中、25kmまで世界記録を上回るハイペースで集団が進んだ。ワンジルは28km地点と32km地点でスパートをかけ、他の選手を振り切り、大会記録を5秒更新する2時間5分10秒で優勝した。この記録は当時の世界歴代7位であり、彼は近い将来ハイレ・ゲブレセラシエの世界記録を破りたいと語った。同年10月、気温-1度の悪条件の中、シカゴマラソンで2時間5分41秒の大会新記録で優勝し、米国で史上最速のマラソンタイムを記録した。
2010年のロンドンマラソンでは膝の故障により途中棄権し、6度のマラソンで初めて完走を逃した。しかし、同年10月のシカゴマラソンでは、レース前に胃腸炎を患い、当初は3位以内を目標としていたにもかかわらず、粘り強い走りでツェガエ・ケベデを最終400 mで振り切り、2時間6分24秒でタイトルを防衛した。彼のコーチであるフェデリコ・ロザは、このパフォーマンスを「人生で見た中で最大の驚き」と評した。
3.3. オリンピック金メダルと記録
2008年8月24日に行われた北京オリンピック男子マラソンでは、レースシューズをケニアに忘れてしまったため、急遽練習シューズを履いて臨んだにもかかわらず、2時間6分32秒という五輪新記録で優勝を果たした。これは1984年ロサンゼルスオリンピックでのカルロス・ロペスの2時間9分21秒という従来の記録を24年ぶりに更新するものであった。
ワンジルはケニア勢初のマラソン金メダリストとなり、また、21歳9ヶ月での金メダル獲得は男子マラソンでは1932年ロサンゼルスオリンピックでのファン=カルロス・サバラ(20歳10ヶ月)に次ぐ史上2番目の若さであった。閉会式で、IOCのジャック・ロゲ会長から金メダルを受け取った。閉会式実況の内山俊哉アナウンサーは「都大路が生み出したオリンピックの金メダリスト」と評した。レース終了後、日本のプレスインタビューに流暢な日本語で応じ、日本への感謝の気持ちを述べた。また、その際「日本で学んだことは?」という質問に「ガマン、ガマン」と答えている。オリンピック閉会後は一旦ケニアに戻り、ムワイ・キバキ大統領と会談した。
3.4. 世界マラソンメジャー大会
ロンドンとシカゴでの優勝により、ワンジルは2009年のワールドマラソンメジャーズランキングでトップに立ち、報奨金として50.00 万 USDを獲得した。2010年のシカゴマラソンでのタイトル防衛は、彼が2年連続でワールドマラソンメジャーズのタイトルを獲得するのに貢献した。
4. 私生活
サミュエル・ワンジルは、その輝かしい陸上キャリアの裏で、複雑な家族関係、飲酒問題、そして法的なトラブルに直面するなど、波乱に満ちた私生活を送っていた。
4.1. 結婚と子供
ワンジルは伝統的な儀式で美容師のトリザ・ニジェリと結婚し、娘のアン・ワンジルと息子のシモン・ジョロゲの2人の子供をもうけた。その後、2009年には同じく長距離走者のメアリー・ワセラと法的に結婚し、2010年には一人の子供(アン)が生まれた。さらに、ワンジルの死後には、3番目の妻であるジュディ・ワンブイ・ワイリムが妊娠しており、後に息子を出産したことがDNA鑑定によって確認されている。
ワンジルの従兄であるジョセフ・リリは世界クラスのマラソンランナーであり、ワンジルの弟シモン・ジョロゲもまた長距離走者であった。
4.2. 個人的困難、法的問題、趣味
ワンジルは日本に移住してから飲酒を始め、それが彼の生活の大きな部分を占めるようになった。それにもかかわらず、彼のマラソンキャリアは成功裏に続いたが、私生活はやや混沌としたものになった。
2010年12月、ワンジルはケニア警察によりニャフルルの自宅で逮捕され、妻を殺害すると脅迫した罪と、AK-47ライフルを不法に所持していた罪で起訴された。彼は両方の容疑を否認し、自分ははめられたと主張した。2011年1月には交通事故で軽傷を負うなど、いくつかのトラブルに見舞われた。また、2008年には北京五輪優勝の報奨金を狙った強盗に襲われたこともあった。
ワンジルはスポーツだけでなく、文化的な活動にも才能を発揮した。高校時代には書道の全国大会で金賞を獲得し、"書の甲子園"と呼ばれる国際高校生選抜書展でも大賞(上から2番目の賞)になった実績もある。好物として梅酒を挙げ、焼酎も嗜んでいた。また、松浦亜弥の大ファンでもあった。
5. 死
サミュエル・ワンジルの突然の死は、その経緯を巡って多くの論争と疑惑を呼び、未だにその真相は明らかになっていない。
5.1. 死の経緯
2011年5月15日、ワンジルはケニアのニャフルルにある自宅バルコニーから転落し、死去したことが報じられた。転落後、彼は内臓を損傷したとみられ、近くの病院で蘇生が試みられたが失敗し、死亡が確認された。
警察の発表によると、ワンジルの妻トリザ・ニジェリが帰宅した際、彼が別の女性とベッドにいるのを発見したという。妻は2人を寝室に閉じ込め、外に走り出した。その後、ワンジルはバルコニーから転落した。警察は、ワンジルが自殺を意図したのか、激怒して飛び降りたのか、あるいは偶発的な事故だったのかについては確信を持てず、トリザ・ニジェリと彼の女性の連れが彼の死に至った状況について調査を行った。
5.2. 死に関連する論争と調査
ケニア警察の捜査結果では、ワンジルの死亡原因を偶発的な転落による事故死と断定している。しかし、検視を行った病理学者によると、後頭部に転落の傷ではない強力な殴打痕が見られたため、他殺も疑われた。2017年5月、ワンジルの死に関する審問で、彼の母親ハンナ・ワンジルはミリマニ裁判所で、息子は殺害されたと信じていると証言した。彼女は、息子が妻トリザ・ニジェリと共謀した6人の男たちによって寝室で殺害されたと主張した。また、元政府首席病理学者は、ワンジルがバルコニーから飛び降りたか、あるいは突き落とされて足から着地した後、鈍器で殴打されたと確信していると述べた。
ワンジルの葬儀は、数千人が参列する国葬級の規模で営まれ、実家近くの家族の農場に埋葬された。しかし、現在に至るまで、彼の死因は特定されていない。
6. 受賞歴と記録
サミュエル・ワンジルは、その短いキャリアの中で数々の栄誉に輝き、陸上競技界にその名を刻んだ。
6.1. 主要な受賞歴
- 2005年:ケニア年間最優秀若手スポーツ選手賞
- 2008年:AIMSワールド・アスリート・オブ・ザ・イヤー賞
- 2008年:ケニア年間最優秀スポーツ選手賞
6.2. 個人最高記録
ワンジルの個人最高記録は以下の通りである。
種目 | 記録 | 日付 | 場所 |
---|---|---|---|
1500m | 3分50秒28 | 2003年7月30日 | 長崎 |
5000m | 13分12秒40 | 2005年4月29日 | 広島 |
10000m | 26分41秒75† | 2005年8月26日 | ブリュッセル |
10km | 27分27秒 | 2007年3月17日 | ハーグ |
15km | 41分29秒‡ | 2007年2月9日 | ラスアルハイマ |
20km | 55分31秒‡ | 2007年3月17日 | ハーグ |
ハーフマラソン | 58分33秒‡ | 2007年3月17日 | ハーグ |
25km | 1時間13分41秒 | 2009年10月11日 | シカゴ |
30km | 1時間28分30秒 | 2008年4月13日 | ロンドン |
マラソン | 2時間05分10秒 | 2009年4月26日 | ロンドン |
† 当時のジュニア世界記録、‡ 当時の世界記録(非公式記録を含む)
年 | 5000m | 10000m | ハーフマラソン | マラソン | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|
2002年 | 13分44秒80 | 28分36秒08 | |||||
2003年 | 13分38秒98 | 28分20秒06 | |||||
2004年 | 13分47秒22 | 28分00秒06 | |||||
2005年 | 13分12秒40 | 26分41秒75 | 59分16秒 | ||||
2006年 | |||||||
2007年 | 13分18秒25 | 27分20秒99 | 58分33秒 | 2時間06分39秒 | |||
2008年 | 27分56秒79 | 59分26秒 | 2時間05分24秒 | ||||
2009年 | 1時間01分08秒 | 2時間05分10秒 | |||||
2010年 | 1時間01分33秒 | 2時間06分24秒 |
太字は自己ベスト
7. 影響と評価
サミュエル・ワンジルは、その短い生涯とキャリアを通じて、陸上競技界に多大な影響を与え、特にケニアと日本の関係性において特別な存在となった。
彼はケニア人として初めてオリンピックマラソンで金メダルを獲得し、その功績は母国の陸上競技界に新たな歴史を刻んだ。彼の若くしての成功と、ハーフマラソンでの複数回の世界記録樹立は、長距離走における新たな才能の台頭を印象付けた。
日本との関係はワンジルのキャリアにおいて極めて重要であった。彼は日本の高校で学び、日本語を習得し、日本の実業団チームでトレーニングを積んだ。この経験は、彼が「ガマン」という日本の精神を学んだと語るなど、彼の人間形成にも影響を与えた。また、彼は仙台育英高校の先輩であるサムエル・カビル(2004年7月に白血病で死去)の墓参りを欠かさなかったというエピソードは、日本との深い絆を示している。しかし、日本の駅伝や過度なトレーニングに対する彼の批判的な見解は、日本のマラソン界に一石を投じるものでもあった。
彼のマラソンスタイルは、序盤から積極的にレースを動かし、長いスパートで勝負を決めるというもので、従来の記録狙いやラストスパート重視のレースとは一線を画していた。この積極的な走りは、多くのファンを魅了し、マラソン競技の新たな可能性を示唆した。
私生活でのトラブルや、その死を巡る論争は、彼のキャリアの輝きとは対照的な側面であった。飲酒問題や家庭内の不和、そして不可解な死の状況は、彼の人間的な弱さや、成功の裏に潜む苦悩を浮き彫りにした。彼の死因は未だに特定されておらず、その悲劇的な結末は、スポーツ界全体に大きな衝撃と疑問を残している。
全体として、サミュエル・ワンジルは、その圧倒的な才能と記録、そして波乱に満ちた人生によって、陸上競技の歴史に深く刻まれる存在として評価されている。