1. 概要
セルジュ・ラング(Serge Langセルジュ・ラングフランス語、1927年5月19日 - 2005年9月12日)は、フランス生まれのフランス系アメリカ人数学者であり、社会運動家でもありました。彼はキャリアの大半をイェール大学で教鞭を執り、整数論における多大な業績と、影響力のある『代数学』をはじめとする数多くの数学教科書の執筆で知られています。また、著名な数学者集団であるニコラ・ブルバキの一員でもありました。
数学者としての活動に加え、ラングはベトナム戦争への反対運動や、学術・科学分野における疑似科学や誤情報の拡散に対する批判的活動に積極的に関与しました。特に、政治学者サミュエル・P・ハンティントンの米国科学アカデミーへの推薦に反対し、その阻止に成功したことで知られています。晩年には、HIVとエイズの関連性に関する科学的合意に異を唱えるHIV/エイズ否定論を主張し、議論を巻き起こしました。彼の生涯は、数学への深い献身と、社会問題に対する強い関与が特徴的でした。
2. 生涯
セルジュ・ラングの生涯は、フランスでの幼少期からアメリカでの学術的・社会活動に至るまで、多岐にわたる経験に彩られています。
2.1. 出生と幼少期
ラングは1927年、フランスのパリ近郊にあるサン=ジェルマン=アン=レーで生まれました。彼には、後にバスケットボールのコーチとなった双子の兄弟と、女優となった姉妹がいました。10代の頃に家族と共にアメリカのカリフォルニア州へ移住し、そこで幼少期を過ごしました。
2.2. 学歴
ラングは1943年にビバリーヒルズ高校を卒業しました。その後、1946年にカリフォルニア工科大学で学部課程を修了し、1951年にはプリンストン大学で数学の博士号(PhD)を取得しました。彼の博士論文のテーマは「準代数的閉包について(On quasi algebraic closure)」であり、エミール・アルティンの指導のもとで執筆されました。
3. 数学者としての経歴
ラングは、その長いキャリアを通じて、教育と研究の両面で数学界に多大な貢献をしました。
3.1. 教育歴
博士号取得後、ラングはシカゴ大学、コロンビア大学で教鞭を執りました。コロンビア大学には1955年から在籍しましたが、1971年に大学との紛争を理由に辞任しました。その後、キャリアの大半をイェール大学で過ごし、最終的には同大学の名誉教授となりました。
3.2. 主な研究分野
ラングの研究分野は多岐にわたり、特に以下の領域で顕著な業績を残しました。
- 整数論
- 代数幾何学
- ディオファントス幾何学
- ディオファントス近似
- 超越数論
- モジュラー形式
- モジュラー単位
- プロ有限群上の「分布」
- 値分布論
- 代数群
彼は類体論の幾何学的類似やディオファントス幾何学の研究から始まり、後にディオファントス近似や超越数論へと研究を広げました。
3.3. 主要な定理と予想
ラングは、数々の重要な数学的結果や予想を提唱しました。
- シュナイダー・ラングの定理**: 超越数論における重要な定理。
- モルデル・ラング予想**: ディオファントス幾何学における予想で、後にファルティングスの定理によって証明されたモルデル予想の一般化。
- ボンビエリ・ラング予想**: ディオファントス幾何学における予想。
- ラング・トロッター予想**: 楕円曲線のフロベニウス写像に関する予想。
- 解析的双曲多様体に関するラング予想**: 多様体の幾何学的性質とディオファントス方程式の解に関する予想。
- ラング写像**: 代数群の文脈で導入された写像。
- カッツ・ラング有限性定理**
- ラング・スタインバーグの定理**(ラングの定理も参照)
1960年代の学生運動に関与した期間は研究が中断し、その後研究の糸口を掴むのに苦労したと自身で語っています。
3.4. ブルバキ・グループへの参加
ラングは、フランスの著名な数学者集団であるニコラ・ブルバキのメンバーでした。ブルバキは、数学の基礎を再構築し、厳密な記述と統一された記法を導入することを目指したグループであり、ラングもその活動に貢献しました。彼はブルバキのために群コホモロジーに関する書籍も執筆しています。
4. 数学的著作と教育
ラングは非常に多作な数学書の著者であり、その著作は数学教育に広範な影響を与えました。
4.1. 影響力のある教科書
ラングは、夏休み中に数学書を書き上げることが多く、そのほとんどが大学院レベルの教材でした。彼の著書は、その広範な内容と明瞭な記述で高く評価されています。特に以下の著作が有名です。
- 『代数学』(Algebra): 大学院レベルの代数学の入門書であり、数多くの改訂版が出版されました。この本は「大学院での代数学の教え方を変えた」と評価され、その後のすべての大学院レベルの代数学の教科書に影響を与えたとされています。彼の師であるエミール・アルティンの思想も多く含まれており、『代数的整数論』(Algebraic Number Theory)の興味深い記述にもアルティンの影響が見られます。
- 『解析学』(Analysis)
- 『微積分学』(Calculus)
- 『線形代数学』(Linear Algebra)
- 『複素解析』(Complex Analysis)
- 『実解析』(Real and Functional Analysis)
- 『幾何学』(Geometry: a high school course)
- 『基礎数学』(Basic Mathematics)
日本でも彼の著作の多くが翻訳され、日本の数学教育にも影響を与えています。日本語訳された主な著作には、『解析入門』、『続 解析入門』、『さあ 数学しよう!-ハイスクールでの対話』、『数学の美しさを体験しようー三つの公開対話』、『ラング数学を語る』、『ラング線形代数学』、『ラング現代の解析学』、『ラング代数系の構造』、『ラング現代微積分学』などがあります。
4.2. 教育スタイルと学生との交流
ラングは学生との交流を熱心に求めることで知られていました。彼は情熱的な教師であり、時には集中していないと判断した学生にチョークを投げつけることもあったと伝えられています。ある同僚は、「彼は学生の前で怒鳴り散らしていた。『我々の二つの目的は真実と明瞭さであり、これらを達成するために私は授業で叫ぶだろう』と彼は言っていた」と回想しています。彼の教育に対する姿勢は、厳格さの中に真理と明瞭さを追求する強い意志が込められていました。
5. 社会活動と批判的活動
ラングは数学者としての活動と並行して、政治的・社会的な活動にも多くの時間を費やしました。彼は社会主義者であり、特に学術界における疑似科学や誤情報の拡散に対して批判的な姿勢を取りました。
5.1. ベトナム戦争への反対
ラングはベトナム戦争へのアメリカの介入に強く反対する社会運動家でした。彼は1966年の反戦キャンペーンでロバート・シアのためにボランティア活動を行い、その経験は著書『シア・キャンペーン』(The Scheer Campaign)の主題となりました。1971年には、コロンビア大学の反戦活動家に対する大学の対応に抗議して、同大学の職を辞任しました。
5.2. 学術・科学分野への批判
ラングは、自身の信じる真実性や科学的方法論に反すると見なした者に対して、積極的に異議を唱えました。
- 1977年アメリカ教授職調査への批判**: 彼はシーモア・マーティン・リプセットとE・C・ラッドが数千人のアメリカの大学教授に送付した意見調査「1977年アメリカ教授職調査」を厳しく批判しました。ラングはこの調査に多数の偏った誘導的な質問が含まれていると主張し、この批判は著書『ファイル:訂正の事例研究(1977-1979年)』(The File : Case Study in Correction (1977-1979))に詳細に記された、公的かつ非常に激しい論争へと発展しました。
- サミュエル・P・ハンティントンの米国科学アカデミー推薦阻止**: 1986年、ラングは政治学者サミュエル・P・ハンティントンの米国科学アカデミーへの推薦に対し、「一人での挑戦」とニューヨーク・タイムズに評されるほどの反対運動を展開しました。ラングは、ハンティントンの研究、特に南アフリカ共和国が「満足した社会」であると数学的方程式を用いて「証明」した部分を「疑似科学」であると非難し、「実質を伴わない科学の幻想」を与えていると主張しました。アカデミーの社会・行動科学者からのハンティントンへの支持にもかかわらず、ラングの異議申し立ては成功し、ハンティントンはアカデミー会員資格を二度拒否されました。ハンティントンの支持者たちは、ラングの反対は科学的というよりも政治的な性質のものであったと主張しました。この出来事の詳細は、ラングの1998年の著書『挑戦』(Challenges)の最初の222ページに「学術界、ジャーナリズム、政治:事例研究:ハンティントン事件(Academia, Journalism, and Politics: A Case Study: The Huntington Case)」として記述されています。
- デイヴィッド・ボルティモア批判**: ラングは、ノーベル賞受賞者であるデイヴィッド・ボルティモアを批判する広範な「ファイル」を作成し、それは1993年1月に学術誌『倫理と行動』(Ethics and Behaviour)に掲載され、彼の著書『挑戦』にも収められました。
- ダニエル・ケブレスの採用への反対**: ラングは、イェール大学が科学史家のダニエル・ケブレスを採用する決定に反対しました。これは、ラングがケブレスの著書『ボルティモア事件』(The Baltimore Case)における分析に同意できなかったためです。
ラングは、自身の政治的書簡や関連文書を広範な「ファイル」として保管していました。彼は手紙を送ったり記事を出版したりし、返答を待ち、さらに筆者とやり取りを重ね、これらの文書をすべて収集して、自身が矛盾と見なす点を指摘しました。彼はしばしばこれらのファイルを世界中の数学者や関係者に郵送しました。これらのファイルの一部は、彼の著書『挑戦』や『ファイル:訂正の事例研究(1977-1979年)』に掲載されています。
5.3. HIV/エイズ否定論
晩年の12年間、ラングはHIVとエイズの関連性に関する科学的合意に異議を唱えました。彼は、既存のデータがHIVがエイズを引き起こすという結論を支持していないと主張しました。彼はイェール大学のHIV/エイズ研究に抗議し、自身の著書『挑戦』の一部もこの問題に割かれています。この主張は、当時の科学界の主流な見解とは大きく異なるものでした。
6. 受賞と評価
ラングは、その数学的業績に対していくつかの重要な賞を受賞しています。
6.1. コール賞およびスティール賞
- フランク・ネルソン・コール賞**: 1960年、論文「多変数関数体上の不分岐類体論」(Annals of Mathematics, Series 2, volume 64 (1956), pp. 285-325)により、第6回フランク・ネルソン・コール賞(代数学部門)を受賞しました。
- ルロイ・P・スティール賞**: 1999年、アメリカ数学会から数学解説部門のルロイ・P・スティール賞を受賞しました。彼の著書『代数学』は、その受賞理由の中で「大学院での代数学の教え方を変え、その後のすべての大学院レベルの代数学の教科書に影響を与えた」と高く評価されました。
7. 死去と遺産
セルジュ・ラングは2005年9月12日に78歳で死去しました。彼は数学界に、特に整数論と代数学の分野において、数多くの重要な研究成果と影響力のある教科書を残しました。彼の情熱的な教育スタイルと、学術的厳密さへの揺るぎない献身は、多くの学生や同僚に影響を与えました。また、ベトナム戦争反対や学術的誠実さへの追求といった社会活動は、彼の強い信念と行動力を示すものでした。一方で、HIV/エイズ否定論のような晩年の主張は、彼の批判的思考の一面を示すとともに、物議を醸す側面も持ち合わせていました。ラングの遺産は、彼の多岐にわたる数学的貢献と、社会に対する独特な関与の両面から評価されています。
8. 関連概念と人物
- エミール・アルティン
- ニコラ・ブルバキ
- 整数論
- 代数幾何学
- ディオファントス幾何学
- 超越数論
- モジュラー形式
- シュナイダー・ラングの定理
- モルデル・ラング予想
- ボンビエリ・ラング予想
- ベトナム戦争
- サミュエル・P・ハンティントン
- HIV
- エイズ
- HIV/エイズ否定論
- フランク・ネルソン・コール賞
- ルロイ・P・スティール賞