1. Overview
ブラジルの伝説的なサッカー選手ジジーニョは、その卓越したドリブル、パス、両足でのシュート能力、そして広い視野を持つ「完璧な選手」として知られている。彼はCRフラメンゴやサンパウロFCなどで活躍し、特に1950 FIFAワールドカップではブラジル代表の中心選手として準優勝に貢献した。サッカーの王様ペレが自身のアイドルと公言するなど、後世の多くの選手に多大な影響を与え、20世紀のブラジルサッカー史において最も偉大な選手の一人として評価されている。
2. Early Life and Background
ジジーニョことトマス・ソアレス・ダ・シウヴァ(Thomaz Soares da Silvaトマス・ソアレス・ダ・シウヴァポルトガル語)は、1921年9月14日にブラジルのリオデジャネイロ州ニテロイで生まれた。彼は幼少期からサッカーに情熱を傾け、地元のクラブであるアメリカFCの入団テストを受けたが、残念ながら不合格となった。その後、彼はCRフラメンゴの入団テストを受け、合格してプロのキャリアをスタートさせることとなる。
3. Player Career
ジジーニョの選手としてのキャリアは、ブラジル国内の主要クラブで輝かしい成績を収め、国際舞台でもブラジル代表の中心選手として活躍した。
3.1. Club Career
ジジーニョは1939年にCRフラメンゴに入団し、翌年からレギュラーに定着した。フラメンゴでは、リオデジャネイロ州選手権で1942年、1943年、1944年の3連覇を含む計4回の優勝に貢献した。彼はクラブの最初のアイドルと見なされており、フラメンゴを離れる1950年までに318試合に出場し、146得点を記録した。

1950年のFIFAワールドカップ直前にバングーACへ移籍。バングーでは1950年から1957年までプレーした。1957年にはサンパウロFCに移籍し、同年にはサンパウロ州選手権で優勝を果たし、ここでもアイドル的存在となった。その後、彼はサンパウロFCで1959年までプレーし、サン・ベント・デ・マリーリア(1959年)、ウベラバSC(1960年)といったクラブでもプレーした。1960年に一度引退し、バングーで監督を務めた後、1961年にチリのアウダックス・イタリアーノで現役復帰し、1962年に完全に現役を引退した。
3.2. National Team Career
ジジーニョは1942年1月18日のアルゼンチン戦でブラジル代表デビューを果たした。彼はブラジル代表として通算54試合に出場し、30得点を記録している。
彼のキャリアで最も注目すべきは、ブラジルでの地元開催となった1950 FIFAワールドカップでの活躍である。この大会で彼は、得点王に輝いたアデミール、インサイドレフトのジャイールと共に攻撃陣を形成し、現在のゲームメーカーのような役割を担った。ブラジルは決勝リーグまで進出し、事実上の決勝戦となったウルグアイとの最終戦に臨んだが、2対1でウルグアイに逆転負けを喫した(いわゆるマラカナッソ)。この結果、ブラジルは準優勝に甘んじることとなったが、ジジーニョは大会最優秀選手に選ばれるなど、その卓越したプレーは高く評価された。
彼は国民からの強い期待にもかかわらず、1954 FIFAワールドカップと1958 FIFAワールドカップのブラジル代表メンバーからは漏れた。これは、直前で他の選手を外して自分が選出されるのは不公平だと彼自身が判断し、招待を辞退したためである。
ジジーニョのブラジル代表における年度別出場記録と得点数は以下の通りである。
年度 | 出場 | 得点 |
---|---|---|
1942 | 5 | 2 |
1943 | 0 | 0 |
1944 | 0 | 0 |
1945 | 9 | 4 |
1946 | 7 | 6 |
1947 | 0 | 0 |
1948 | 0 | 0 |
1949 | 7 | 5 |
1950 | 7 | 3 |
1951 | 0 | 0 |
1952 | 0 | 0 |
1953 | 5 | 1 |
1954 | 0 | 0 |
1955 | 1 | 2 |
1956 | 7 | 5 |
1957 | 6 | 2 |
合計 | 54 | 30 |
ジジーニョのブラジル代表における国際試合の得点詳細は以下の通りである。
日付 | 会場 | スコア | 対戦相手 | 得点 | 大会 | |
---|---|---|---|---|---|---|
1. | 1942年1月14日 | エスタディオ・センテナリオ, モンテビデオ | 6-1 | 0 | 1942 南米選手権 | |
2. | 1942年1月17日 | エスタディオ・センテナリオ, モンテビデオ | 1-2 | 0 | ||
3. | 1942年1月21日 | エスタディオ・センテナリオ, モンテビデオ | 2-1 | 0 | ||
4. | 1942年1月31日 | エスタディオ・センテナリオ, モンテビデオ | 5-1 | 1 | ||
5. | 1942年2月5日 | エスタディオ・センテナリオ, モンテビデオ | 1-1 | 1 | ||
6. | 1945年1月21日 | エスタディオ・ナシオナル・フリオ・マルティネス・プラダノス, サンティアゴ | 3-0 | 0 | 1945 南米選手権 | |
7. | 1945年1月28日 | エスタディオ・ナシオナル・フリオ・マルティネス・プラダノス, サンティアゴ | 2-0 | 0 | ||
8. | 1945年2月7日 | エスタディオ・ナシオナル・フリオ・マルティネス・プラダノス, サンティアゴ | 3-0 | 0 | ||
9. | 1945年2月14日 | エスタディオ・ナシオナル・フリオ・マルティネス・プラダノス, サンティアゴ | 1-3 | 0 | ||
10. | 1945年2月21日 | エスタディオ・ナシオナル・フリオ・マルティネス・プラダノス, サンティアゴ | 9-2 | 2 | ||
11. | 1945年2月28日 | エスタディオ・ナシオナル・フリオ・マルティネス・プラダノス, サンティアゴ | 1-0 | 0 | ||
12. | 1945年12月16日 | パカエンブー・スタジアム, サンパウロ | 3-4 | 1 | 1945 ロカ・カップ | |
13. | 1945年12月20日 | エスタジオ・サン・ジャヌアリオ, リオデジャネイロ | 6-2 | 1 | ||
14. | 1945年12月23日 | エスタジオ・サン・ジャヌアリオ, リオデジャネイロ | 3-1 | 0 | ||
15. | 1946年1月5日 | エスタディオ・センテナリオ, モンテビデオ | 3-4 | 1 | 1946 コパ・リオ・ブランコ | |
16. | 1946年1月9日 | エスタディオ・センテナリオ, モンテビデオ | 1-1 | 0 | ||
17. | 1946年1月16日 | エスタディオ・ガソメトロ, ブエノスアイレス | 3-0 | 1 | 1946 南米選手権 | |
18. | 1946年1月23日 | エスタディオ・ガソメトロ, ブエノスアイレス | 4-3 | 0 | ||
19. | 1946年1月29日 | エスタディオ・リベルタドーレス・デ・アメリカ, アベジャネーダ | 1-1 | 0 | ||
20. | 1946年2月3日 | エスタディオ・ガソメトロ, ブエノスアイレス | 5-1 | 4 | ||
21. | 1946年2月10日 | エスタディオ・モヌメンタル (ブエノスアイレス), ブエノスアイレス | 0-2 | 0 | ||
22. | 1949年4月3日 | エスタジオ・サン・ジャヌアリオ, リオデジャネイロ | 9-1 | 1 | 1949 南米選手権 | |
23. | 1949年4月10日 | パカエンブー・スタジアム, サンパウロ | 10-1 | 2 | ||
24. | 1949年4月13日 | パカエンブー・スタジアム, サンパウロ | 2-1 | 1 | ||
25. | 1949年4月24日 | エスタジオ・サン・ジャヌアリオ, リオデジャネイロ | 7-1 | 0 | ||
26. | 1949年4月30日 | エスタジオ・サン・ジャヌアリオ, リオデジャネイロ | 5-1 | 1 | ||
27. | 1949年5月8日 | エスタジオ・サン・ジャヌアリオ, リオデジャネイロ | 1-2 | 0 | ||
28. | 1949年5月11日 | エスタジオ・サン・ジャヌアリオ, リオデジャネイロ | 7-0 | 0 | ||
29. | 1950年5月6日 | パカエンブー・スタジアム, サンパウロ | 3-4 | 1 | 1950 ロカ・カップ | |
30. | 1950年5月14日 | エスタジオ・サン・ジャヌアリオ, リオデジャネイロ | 3-2 | 0 | ||
31. | 1950年5月17日 | エスタジオ・サン・ジャヌアリオ, リオデジャネイロ | 1-0 | 0 | ||
32. | 1950年7月1日 | マラカナン, リオデジャネイロ | 2-0 | 1 | 1950 FIFAワールドカップ | |
33. | 1950年7月9日 | マラカナン, リオデジャネイロ | 7-1 | 0 | ||
34. | 1950年7月13日 | マラカナン, リオデジャネイロ | 6-1 | 1 | ||
35. | 1950年7月16日 | マラカナン, リオデジャネイロ | 1-2 | 0 | ||
36. | 1953年3月1日 | ペルー国立競技場, リマ | 8-1 | 0 | 1953 南米選手権 | |
37. | 1953年3月15日 | ペルー国立競技場, リマ | 1-0 | 0 | ||
38. | 1953年3月19日 | ペルー国立競技場, リマ | 0-1 | 0 | ||
39. | 1953年3月23日 | ペルー国立競技場, リマ | 3-2 | 1 | ||
40. | 1953年3月27日 | ペルー国立競技場, リマ | 1-2 | 0 | ||
41. | 1955年11月13日 | マラカナン, リオデジャネイロ | 3-0 | 2 | 1955 タッサ・オズワルド・クルス | |
42. | 1956年6月12日 | エスタディオ・ド・クルブ・リベルタッド, アスンシオン | 2-0 | 0 | 1956 タッサ・オズワルド・クルス | |
43. | 1956年6月17日 | エスタディオ・ド・クルブ・リベルタッド, アスンシオン | 5-2 | 2 | ||
44. | 1956年6月24日 | マラカナン, リオデジャネイロ | 2-0 | 1 | 1956 タッサ・ド・アトランティコ | |
45. | 1956年7月1日 | マラカナン, リオデジャネイロ | 2-0 | 0 | 親善試合 | |
46. | 1956年7月8日 | エル・シリンデロ, アベジャネーダ | 0-0 | 0 | 1956 タッサ・ド・アトランティコ | |
47. | 1956年8月5日 | マラカナン, リオデジャネイロ | 0-1 | 0 | 親善試合 | |
48. | 1956年8月8日 | パカエンブー・スタジアム, サンパウロ | 4-1 | 2 | 親善試合 | |
49. | 1957年3月13日 | ペルー国立競技場, リマ | 4-2 | 0 | 1957 南米選手権 | |
50. | 1957年3月21日 | ペルー国立競技場, リマ | 7-1 | 1 | ||
51. | 1957年3月24日 | ペルー国立競技場, リマ | 9-0 | 1 | ||
52. | 1957年3月28日 | ペルー国立競技場, リマ | 2-3 | 0 | ||
53. | 1957年3月31日 | ペルー国立競技場, リマ | 1-0 | 0 | ||
54. | 1957年4月3日 | ペルー国立競技場, リマ | 0-3 | 0 |
4. Playing Style and Abilities
ジジーニョは「完璧な選手」と評されるほど、多岐にわたる技術と戦術眼を兼ね備えていた。彼のプレイスタイルの特徴は以下の通りである。
- ドリブル:巧みなボールコントロールと加速で相手選手を抜き去る、優れたドリブル能力を持っていた。
- パス:正確で創造性豊かなパスで、攻撃の起点となり、チームメイトの得点機会を演出した。
- 両足でのシュート:左右どちらの足からでも強力かつ正確なシュートを放つことができ、ゴール前での脅威となった。
- フリーキック:フリーキックやペナルティーキックなどのデッドボール状況からの精度も非常に高く、直接ゴールを狙うだけでなく、チャンスメイクにも貢献した。
- 広い視野:ピッチ全体を俯瞰する広い視野を持ち、試合の流れを読み、適切な判断を下すことができた。これにより、彼は攻撃的ミッドフィールダーとしてだけでなく、ゲームメーカーとしても機能した。
- 守備とヘディング:ペレが「彼はミッドフィールドでも攻撃でもプレーし、ゴールを決め、マークもでき、ヘディングもクロスもできた」と語るように、攻撃面だけでなく守備にも貢献し、ヘディングやクロスボールの能力も高かった。
これらの能力の組み合わせにより、ジジーニョは攻守にわたってチームに貢献できる、まさに「完全な選手」として同時代および後世の選手たちから絶賛された。
5. Managerial Career
現役引退後、ジジーニョは監督としても活動した。彼は古巣であるバングーACで1960年、1965年から1966年、1980年に監督を務めた。また、CRヴァスコ・ダ・ガマでも1967年と1972年に指揮を執った。特に注目すべきは、ブラジルオリンピック代表チームの監督を務め、1975年パンアメリカン競技大会でチームを優勝に導いたことである。
6. Honors and Awards
ジジーニョは選手として数々の栄誉と記録を打ち立てた。
6.1. Club Honors
- リオデジャネイロ州選手権:1942年、1943年、1944年(CRフラメンゴ)
- サンパウロ州選手権:1957年(サンパウロFC)
6.2. International Honors
- FIFAワールドカップ準優勝:1950 FIFAワールドカップ
- 南米選手権優勝:1949 南米選手権
- タッサ・ド・アトランティコ:1956年
- ロカ・カップ:1945年
- コパ・リオ・ブランコ:1950年
- タッサ・オズワルド・クルス:1955年、1956年
6.3. Individual Honors and Recognition
- FIFAワールドカップゴールデンボール(最優秀選手):1950年
- FIFAワールドカップオールスターチーム:1950年
- カンピオナート・カリオカ得点王:1952年
- IFFHS 20世紀のブラジル人選手:4位
- IFFHS 20世紀の南米人選手:10位
- ブラジルサッカー博物館殿堂入り
- ワールドサッカー (雑誌) 20世紀世界最優秀選手:47位(1999年)
6.4. Records
- 南米選手権歴代最多得点記録:17ゴール(ノルベルト・メンデスとタイ記録)
7. Legacy and Evaluation
ジジーニョは、サッカーの歴史において最も偉大な選手の一人として広く評価されている。特に「サッカーの王様」と称されるペレが、彼を自身のアイドルであり、「完璧な選手」と公言したことは、その影響力の大きさを物語っている。ペレは「彼はミッドフィールドでも攻撃でもプレーし、ゴールを決め、マークもでき、ヘディングもクロスもできた」と述べ、ジジーニョのオールラウンドな能力を高く評価した。
彼はペレが登場する以前のブラジルサッカー界において、最も優れた選手の一人と見なされており、その革新的なプレイスタイルは後世の多くの選手に影響を与えた。現役引退後は、リオデジャネイロ州で地方公務員として定年まで働き、サッカー界の外でも堅実な人生を送った。
8. Death
ジジーニョは2002年2月8日、出身地であるリオデジャネイロ州ニテロイにて心筋梗塞により80歳で死去した。
9. External links
- [https://www.world-football-legends.co.uk/index.php/bra/68-zizinho World Football Legends - Zizinho (1921-2002)]
- [https://www.theguardian.com/news/2005/aug/16/guardianobituaries.football Obituary: Jair da Rosa Pinto]
- [https://www.theguardian.com/Archive/Article/0,4273,4354263,00.html Obituary: Zizinho (The Guardian)]
- [https://www.imortaisdofutebol.com/2013/04/10/craque-imortal-zizinho/ Craque Imortal]
- [https://www.fifa.com/confederationscup/news/y=2011/m=6/news=the-copa-america-numbers-1465204.html The Copa America in numbers (FIFA.com)]
- [http://sports.nifty.com/zico/memoria/memoria015.htm ジーコ公式サイト - 名選手列伝 - Zizinho ズィズィーニョ]
- [http://www.gazetaesportiva.net/idolos/futebol/ziza/abertura.htm A trajetória de Mestre]