1. 概要
初代カムデン侯爵ジョン・ジェフリーズ・プラットは、1759年から1840年まで生きたイギリスの貴族、政治家である。彼はトーリー党に属し、アイルランド総督、陸軍・植民地大臣、枢密院議長といった主要な閣僚職を歴任した。特に1795年から1798年までのアイルランド総督在任期間は、アイルランド反乱の勃発と重なる激動の時代であり、この時期の彼の統治は「暴動に始まり、反乱に終わる」と評されるなど、その手腕には批判が集中した。彼は議会改革やカトリック解放に反対する保守的な立場をとり、アイルランド統治においては融和策と強硬策の間で揺れ動き、最終的には危機管理能力の不足を指摘され「ほぼ無力な代理人」とまで評された。しかし、一方で長期にわたる公職を務め、特に財務省出納官としての高額な年俸の受け取りを辞退したことや、ニューサウスウェールズ植民地の羊毛産業発展に貢献したことなど、肯定的な側面も存在する。
2. 生い立ちと教育
ジョン・ジェフリーズ・プラットは、1759年2月11日にロンドンのリンカーンズ・イン・フィールズ34号で生まれた。彼はチャールズ・プラット(後の初代カムデン伯爵)とエリザベス(ニコラス・ジェフリーズの娘)の一人息子であった。洗礼はハレー彗星が出現した日に行われた。1765年、父チャールズ・プラットがカムデン男爵に叙されると、彼はジョン・プラット閣下の儀礼称号を用いるようになった。
幼少期はバッキンガムシャーのフォーリーで教区牧師トマス・ポウィスによる教育を受けた。1776年11月11日にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学し、1779年にM.A.の学位を取得した。ケンブリッジ大学在学中、彼は後に首相となるウィリアム・ピット(小ピット)と親しい友人となった。1779年3月には歩兵少尉としてウェスト・ケント民兵隊に入隊し、同年5月に中尉に昇進したが、1782年6月に民兵隊を辞任した。
3. 初期政治経歴
プラットは1780年にバース選出の下院議員として政界入りし、同年に財務省出納官の職を得た。その後、様々な政権下で政府の要職を歴任した。
3.1. バース選出下院議員
1780年イギリス総選挙において、父がバースの記録官を務めていた縁で、プラットはバースから出馬し、無投票で当選した。
議会入り当初、プラットは政治への関心をほとんど示さなかった。父の記録によれば、彼は「朝3時ごろに寝て、11時に起き、朝食をとり、乗馬して公園で過ごす。次は夕食で、夜は当然享楽に費やした。(中略)クラブでは政治について若干話すものの、(中略)この国の実態について知ってもいなければ、興味もない」という状態であった。しかし、議員としての責務は果たしており、ノース内閣期には常に野党に同調して投票した。1781年6月12日にはアメリカ独立戦争における13植民地の反乱鎮圧が不可能であるとの初演説を行ったが、終始緊張しており、演説の声もほとんど聞こえなかったと評された。この後、1790年までの演説記録は1782年5月6日の1回のみであった。
シェルバーン伯爵内閣では1782年7月13日から1783年4月8日まで下級海軍卿を務め、1783年2月にはアメリカ独立戦争の予備講和条約に賛成票を投じた。フォックス=ノース連立内閣期には役職に就かず、1783年5月には選挙法改正に賛成し、同年11月にはチャールズ・ジェームズ・フォックスのイギリス東インド会社規制法案に反対票を投じた。第一次小ピット内閣が成立すると、1783年12月30日に下級海軍卿に復帰し、1789年まで務めた。
1784年イギリス総選挙では再選を目指したが、もう一人の現職議員アベル・モイジーが連立内閣を支持したため、小ピット内閣は別の与党候補を探し、最終的に首相小ピット自身が出馬した。しかし、投票日までに小ピットがケンブリッジ大学選挙区で当選し、バースの議席を必要としなくなったため、小ピットは積極的に選挙活動を行わず、モイジーが小ピットに競り勝った。プラット自身は27票を獲得し、トップで当選した。1790年イギリス総選挙では小ピットがバースの議席に興味を示さなくなり、プラットは27票で難なく再選した。
1789年4月8日には下級大蔵卿に任命され、1793年6月21日には枢密顧問官に任命された。1794年4月18日に父が死去すると、彼はカムデン伯爵位を継承し、同年5月13日に貴族院議員に就任した。同月、下級大蔵卿を退任した。バース選挙区での議席については、1793年より手を打っており、第2代カムデン伯爵となったプラットがバースの記録官に任命された(1835年まで在任)ほか、1794年5月の補欠選挙で同じく小ピットの友人であるリチャード・ペパー・アーデンが当選した。
3.2. 財務省出納官
プラットは1766年8月、わずか7歳で財務省出納官への復帰権を得た。その後、1780年5月21日に財務省出納官に就任し、この高収入の役職を死去するまで保持した。
この役職の年俸は、1782年時点の2500 GBPから1808年時点には2.30 万 GBPへと上昇の一途をたどった。そのため、1812年5月7日には年俸を減らす動議が提出されたが、これは否決された。動議否決後、プラットは自ら年俸の上昇分の受け取りを辞退した。彼が受け取らなかった財務省出納官の年俸は合計で25.00 万 GBP以上に上った。この巨額な辞退があったため、1834年に財務省出納官が廃止された際、カムデン侯爵には死去するまで2500 GBPの年俸を受け取る権利が与えられた。
3.3. 初期政府要職
プラットはシェルバーン伯爵内閣において1782年から1783年まで下級海軍卿を務め、その後小ピットの下でも1783年から1789年まで同職を務めた。また、1789年から1792年までは下級大蔵卿として奉仕した。1786年には父がカムデン伯爵に叙されたことで、彼は父の従属的な称号の一つであるベイハム子爵として知られるようになった。1793年には枢密顧問官に就任した。
4. アイルランド総督(1795年-1798年)
カムデン伯爵のアイルランド総督としての在任期間は、アイルランドの政治的混乱が頂点に達した時期であり、彼の統治は多くの物議を醸した。
4.1. 政治的立場と政策
まだ下院議員であった1793年6月、プラットは小ピットが自身をアイルランド総督に適任と考えていることをヘンリー・アディントンから知らされた。小ピットがその考えを確認すると、両者は総督としての政策を検討し、カムデン伯爵の総督任命を1年延期することで合意した。当時のアイルランド総督は貴族が就任することが慣例となっており、プラットは父の存命中に貴族になる理由が総督就任のためだけでは批判を呼ぶと考えたが、1794年4月の父の死去によりこの問題は解消された。しかし、ポートランド公爵派の入閣によりカムデン伯爵の総督就任はさらに遅れた。
1795年、前任の総督フィッツウィリアム伯爵が性急な改革を進めて反発を招き召還されると、小ピットは完全な信任を寄せられる人物を後任に求めたため、カムデン伯爵はやむなく了承し、1795年3月13日にアイルランド総督に任命された。小ピットは、この任命がジョージ3世とポートランド公爵の賛成を得ており、就任が「私たちの友情の最も強い証明」であるとカムデン伯爵への書簡で述べた。
カムデン伯爵は3月31日にダブリンに到着したが、彼を乗せた馬車がダブリン城に到着した際、そこで彼を迎えたのは暴動であった。陸軍が出動して暴動を鎮圧したが、2人が死亡する結果となった。同日、彼はアイルランド枢密院の枢密顧問官に就任した。
カムデン伯爵の在任中、アイルランド当局は当初融和的な政策をとったが、すぐに強圧的な政策へと転換した。融和的な政策の一例としてメイヌース・カレッジを設立する1795年メイヌース・カレッジ法があるが、これはカトリック聖職者の影響力を低下させ、国王に従わせることが目的であったともされる。一方で、同年5月にはヘンリー・グラタンが提出した、カトリック教徒にアイルランド庶民院議員や高位な官職に就任する権利を与える法案(カトリック解放の一環)を否決させた。彼は議会改革とカトリック解放に反対する姿勢を貫いた。
4.2. 1798年アイルランド反乱と対応
カムデン伯爵の就任から数週間後、革命家ウルフ・トーンがアメリカ合衆国に亡命し、彼が設立したユナイテッド・アイリッシュメン協会も再編され、革命を目指す団体となった。国教会側も民間団体を結成し、民間団体間の抗争によりアーマー県などで騒乱が勃発した。特にアーマー県では1795年9月にディフェンダーズ運動とピープ・オ・デイ・ボーイズの間でザ・ダイヤモンドの戦いが勃発し、その結果として国教会側でオレンジ騎士団が設立された。
こうした事態に対し、1796年に開会したアイルランド議会は騒乱鎮圧を目指す法案を可決した。同年8月にはカムデン伯爵が人身保護法停止を主張し、それまで反対していたヨーマンリー連隊の設立に賛成するようになった。一度閉会したアイルランド議会が同年10月に再度開会すると、フランス革命戦争でフランス総裁政府がアイルランドに侵攻する噂が広まり、議会は137票対7票で人身保護法停止を可決した。
フランスによる侵攻はルイ=ラザール・オッシュ将軍率いる遠征という形で実現し、失敗に終わったものの、アイルランドの社会不安は収まらず、1797年1月から2月にかけてアルスターの数県で、3月にはアルスター全体で戒厳が布告された。内務大臣のポートランド公爵は選挙法改正やカトリック解放で譲歩を提案したが、カムデン伯爵はそれならば辞任するとし、「アイルランドがイングランドにとって有用である限り、イングランドの政党によって統治されるべきであるというのが私の意見です。自由主義的でない意見と思われるかもしれませんが、現状より大衆的な手段でアイルランドで統治することは極めて危険です」と述べた。この意見に対し、当時の評論家はカムデン伯爵が小ピットのグレートブリテン王国とアイルランド王国の合同構想についてまったく知らないと評している。
1797年5月、カムデン伯爵は状況の悪化により軍事力をもってでしか改善を求められないとして、辞任を申し出て、後任に軍人の初代コーンウォリス侯爵チャールズ・コーンウォリスを推薦した。しかしコーンウォリスはアイルランド政策に反対しており、外国による侵攻寸前でなければ就任しないと述べて拒否した。その後、同年夏の1797年アイルランド総選挙は特に問題なく行われた。同年11月にラルフ・アバークロンビーがアイルランド駐留軍総指揮官に就任すると、カムデン伯爵は有能なアバークロンビーの就任を喜んだが、アバークロンビーが陸軍立て直しを強行した結果、クレア伯爵やフォスターの不興を買い、両者に迫られたアバークロンビーは辞任した。
カムデン伯爵は1798年3月にも小ピットに駐留軍総指揮官と総督を兼任できる人物(すなわち、軍人)の任命を求めた。このときには大規模な反乱寸前の情勢になっており、彼は危機管理能力がまったく不足していると評された。そして、1798年5月23日に1798年アイルランド反乱が勃発すると、小ピットはかねてよりの合同構想の推進を決定し、6月15日にコーンウォリスを総督に任命した。一方のカムデン伯爵は恐慌状態に陥り、配下の軍勢8万では反乱者に対抗できないと考えてポートランド公爵への手紙で増援を求めた上、家族を大急ぎでイングランドに送り返した。小ピットの決定を知ると、合同を見届けられないまま退任せざるを得ないことを悔いた。しかし、彼のカトリック解放反対が留任できない要因であり、彼は自身の言葉を借りて「偏見の強いイングランド人」であると評された。
コーンウォリスは6月20日にダブリンに到着したが、このときには反乱が終結に近く、同時期のパンフレットで「反乱者を制圧する必要もなく反乱を終わらせた」と揶揄された。カムデン伯爵は1797年にユナイテッド・アイリッシュメン協会のウィリアム・オアの恩赦を拒否したことで、世論の大きな憤慨を買った。オアは疑わしい証言を元に反逆罪で有罪となり、彼の妹フランセス・レディ・ロンドンデリーも恩赦を求めていた。ユナイテッド・アイリッシュメンの陰謀を打ち砕くため、彼は人身保護法を停止し、共和派組織を武装解除し解体するための冷酷な戒厳キャンペーンを解き放った。
5. 後期の閣僚経歴
アイルランド総督退任後、カムデン伯爵は無任所大臣として内閣に留まり、その後も主要な内閣の役職を歴任し、政府における影響力を維持した。
5.1. 戦争・植民地担当国務大臣
1797年4月27日、いとこ(伯父の息子)にあたるジョン・プラットの死去に伴い、サセックス州ベイハム・アビーの地所とケント州シールのザ・ウィルダーネス地所を相続した。
ロンドンに戻ったカムデン伯爵は、反乱勃発の責任をとったスケープゴートにみなされないよう、無任所大臣として内閣にとどまった。1799年8月14日にはガーター勲章を授与された。彼は小ピットの合同構想に賛成し、クレア伯爵などはコーンウォリスよりもカムデンのほうが合同を見届ける総督に適任であると考えた。またカトリック解放に関しても合同と同時であれば譲歩してもよいと考えたが、1801年にカトリック解放問題で小ピットが辞任すると、カムデン伯爵も無任所大臣を辞任した。
1802年2月11日、ロンドン考古協会フェローに選出された。
1804年5月26日、陸軍・植民地大臣に就任し、1805年7月まで務めた。この役職では「骨の折れる仕事をする官僚」という扱いであり、より重要な事柄は首相小ピットが自ら担当したため、「取るに足らない」と評された。
5.2. 枢密院議長
1805年7月10日から1806年2月5日まで枢密院議長を務めた。この役職では調整役としての役割を期待されたが、挙国人材内閣の成立に伴い退任した。しかし、小ピット派に属しつつも公然と野党活動をすることは少なかった。
第二次ポートランド公爵内閣が成立すると、1807年3月26日に枢密院議長に復帰し、続くパーシヴァル内閣にも留任して1812年6月11日まで務めた。しかし、この頃にはカムデンが内閣にとって負担であると見なされており、1812年にはジョージ・カニングがカムデンを「内閣における役に立たないガラクタ」と形容し、カムデンもカニングの入閣に反対した。退任後も1812年末まで無任所大臣として閣僚にとどまった。
1809年9月、彼の義理の甥にあたるカースルレー子爵が内閣を強制的に辞任させられたことは、彼らの家族間で激しい確執を引き起こした。カムデンがカースルレー解任の計画を数ヶ月前から知っていたにもかかわらず、彼に警告を与えなかったことが明らかになったためである。カースルレー自身はカムデンを敵ではなく「弱い友人」と見なしており、最終的には和解したが、ステュアート家の他のメンバーはカムデンが示した不誠実を許すことはなかった。
6. その他の公職と貢献
カムデン侯爵は閣僚としての職務以外にも、様々な公職を務め、特にニューサウスウェールズ植民地の発展に貢献した。
6.1. ケント州統監
1808年6月、彼はケント州統監に任命され、1840年に死去するまでこの役割を務めた。また、1809年にはクランブルックおよびウッズゲート民兵連隊の隊長に任命された。1809年12月7日から1816年6月10日までトリニティ・ハウスのマスターを務め、1811年4月29日にはチャーターハウス・スクールの理事に任命された。
6.2. ケンブリッジ大学総長
1832年、ケンブリッジ大学よりLL.D.の名誉学位を授与された。1834年12月12日にはケンブリッジ大学総長に選出され、1840年に死去するまでその職を務めた。
6.3. ニューサウスウェールズ植民地への貢献
カムデンはニューサウスウェールズ植民地の発展に大きな貢献をした。彼は羊毛産業の先駆者であるジョン・マッカーサーが王室所有のメリノ種ヒツジを植民地に持ち帰る許可を取得するのを支援した。さらに、彼はニューサウスウェールズ総督フィリップ・ギドリー・キングに命じて、マッカーサーに広大な放牧地を与えさせた。また、キングの後任としてウィリアム・ブライを総督に任命したのもカムデンであった。これらのオーストラリアの羊毛産業に対する功績により、現在のニューサウスウェールズ州にあるカムデンの町は彼にちなんで命名された。
7. 位階と貴族院での活動
カムデンは父の死によりカムデン伯爵位を継承し、後にカムデン侯爵に叙された。貴族院では、彼の政治的信念に基づき、様々な重要な問題について活動した。

7.1. 位階
1794年、父の死によりカムデン伯爵位を継承した。1812年9月7日には、連合王国貴族であるブレックノック州伯爵とカムデン侯爵に叙された。この叙爵は、スペンサー・パーシヴァル首相が1812年2月に同意したものであり、後任のリヴァプール伯爵の在任中に実現した。
彼は1799年8月14日にガーター勲章を授与され、1802年2月11日にはロンドン考古協会フェローに選出された。
7.2. 貴族院での活動
侯爵となったカムデンは貴族院で活動を続けた。彼は1812年7月にはカトリック解放に対する立場を、それまでの反対から賛成へと転じた。1817年には人身保護法停止に賛成し、1829年ローマ・カトリック信徒救済法にも賛成票を投じた。しかし、第1回選挙法改正に対しては、1831年から1832年にかけて反対票を投じている。
8. 個人生活と家族
カムデン侯爵は1785年12月31日にフランシス・モールズワース(1766年2月27日以前生まれ、1829年7月7日死去、ウィリアム・モールズワースの娘)と結婚し、1男3女をもうけた。
- フランシス・アン(1787年11月21日 - 1822年7月9日)
- ジョージアナ・エリザベス(1791年7月4日 - 1855年8月8日)
- キャロライン(1794年7月21日 - 1827年10月7日) - 1825年7月28日、アレグザンダー・ロバート・ステュアート(1850年3月24日没)と結婚。
- ジョージ・チャールズ(1799年5月2日 - 1866年8月6日) - 第2代カムデン侯爵。
家族はロンドン中心部のシティ・オブ・ウェストミンスター、セント・ジェームズ地区のアーリントン・ストリート22号にあるウィンボーン・ハウスを所有しており、この邸宅はリッツ・ホテルに隣接していた。彼は死去した年の1840年にこの邸宅を第7代ボーフォート公爵ヘンリー・サマセットに売却した。
9. イデオロギーと社会観
カムデン侯爵の政治的信念は、特に議会改革とカトリック解放に対する彼の見解に明確に表れており、これらは当時の社会に大きな影響を与えた。
9.1. 議会改革反対
彼は選挙制度改革の要求に対して一貫して反対の立場をとった。その姿勢は、第1回選挙法改正に対する彼の反対票にも表れている。彼の保守的な見解は、当時の政治的安定を重視するトーリー党の主流派と一致していた。
9.2. カトリック解放反対
カムデン侯爵は当初、カトリック教徒への市民権付与に強く反対していた。この立場は、彼がアイルランド総督を務めていた時期の政策にも影響を与え、ヘンリー・グラタンが提出したカトリック教徒の権利拡大法案を否決させた。彼のこの見解は、当時のアイルランドにおける宗派間の緊張を高め、アイルランド反乱の一因ともなった。彼はこの問題に関して「偏見の強いイングランド人」と評されたこともある。しかし、後年の1812年にはカトリック解放への賛成に転じ、1829年ローマ・カトリック信徒救済法にも賛成票を投じるなど、彼の見解は変化した。
10. 評価と遺産
ジョン・ジェフリーズ・プラットの経歴は、その公的な貢献と、特にアイルランド統治における論争的な行動によって、歴史的に様々な評価を受けている。
10.1. 肯定的な評価
彼は長期にわたる公的生活の中で、いくつかの認められた業績を残した。特に、財務省出納官としての高額な年俸が上昇の一途をたどる中で、1812年以降にその上昇分の受け取りを自ら辞退したことは、彼の財政的な誠実さを示すものとして評価される。彼が受け取らなかった年俸は合計で25.00 万 GBP以上に上った。
また、ニューサウスウェールズ植民地の羊毛産業発展に貢献したことは特筆すべきである。彼はジョン・マッカーサーによるメリノ種ヒツジの導入を支援し、広大な放牧地の確保を命じるなど、オーストラリアの経済基盤の確立に重要な役割を果たした。この功績により、現在のニューサウスウェールズ州にあるカムデンの町は彼にちなんで命名されている。
10.2. 批判と論争
下院議員としてのプラットは、1795年にアイルランド総督に任命されるまで、大きな影響力を持っていなかったと評される。
彼の最も批判的な評価は、アイルランド総督としての在任期間に集中している。彼の総督としての任期は「暴動に始まり、反乱に終わる」と評され、21世紀初頭の歴史家からはアイルランド情勢を変えるには「無力な人物」であったとされている。彼は当初融和的な政策を採用しようとしたものの、ジョン・フォスターやジョン・フィッツギボンといった強硬派の影響を強く受けた。彼の性格はアイルランドの有力者には好まれたものの、動乱の時期にあって総督を務めるには政界での経験が少なく、力不足であったと指摘される。本国政府も多くの問題に忙殺され、カムデン伯爵を十分に補助できなかった。彼は「ほぼ無力な代理人」と評され、その影響力は1798年の反乱を引き起こしたわけでも、鎮圧に役立ったわけでもなかったとされている。同時代のジョナー・バリントンは総督としてのカムデン伯爵に同情的であったが、アイルランド南部の有力者第2代シャノン伯爵リチャード・ボイルは、反乱に際してカムデン伯爵が決断力に欠けると批判した。
陸軍・植民地大臣としてのカムデン伯爵は「取るに足らない」と評され、より重要な議題は首相小ピットが直接扱ったという。また、枢密院議長を務めていた時期には、ジョージ・カニングから「内閣における役に立たないガラクタ」と形容されるなど、その政治的手腕には疑問符がつけられることもあった。
11. 死
ジョン・ジェフリーズ・プラットは、1840年10月8日にケント州シールのザ・ウィルダーネス地所で81歳で死去した。彼の爵位は唯一の息子であるジョージ・チャールズが継承した。