1. 初期生い立ちと背景
セベ・バレステロスのゴルフキャリアの基盤は、彼の幼少期と家族環境によって築かれた。
1.1. 幼少期とゴルフの形成
セベリアーノ・バレステロス・ソタは、1957年4月9日にスペインのカンタブリア州ペドレーニャで、農場労働者であったバルドメロ・バレステロス・プレスマンとカルメン・ソタ・オセホの5人兄弟の末っ子として生まれた。幼少期に兄の一人が亡くなり、残りの兄弟は皆プロゴルファーになった。彼は学校に行くべき時間にもかかわらず、自宅近くのビーチでゴルフを学び、主に8歳で兄のマヌエルから与えられた3番アイアンを使って小石を打つなどして、独学で技術を磨いた。この練習を通じて、彼は12歳になる頃にはスクラッチプレーヤーの腕前に達していた。バレステロス自身は、生まれつき左腕に比べて右腕が長いため、右肩を下げずにグリップできることがゴルフをする上で有利に働いたと語っている。
1.2. 家族との関わり
バレステロスの家族はゴルフに深く関わっていた。彼の母方の叔父であるラモン・ソタは、スペインのプロチャンピオンに4度輝き、1965年のマスターズ・トーナメントでは6位に入賞している。バレステロスの兄マヌエルは、1972年から1983年まで毎年ヨーロピアンツアーの賞金ランキングでトップ100に入り、後にセベのマネージャーを務めた。また、彼の兄弟であるビセンテとバルドメロ、そして甥のラウルとイバンもプロゴルファーとして活躍している。
2. プロフェッショナル・キャリア
セベ・バレステロスは、数多くの勝利と重要な業績を通じて、ゴルフ界の著名人としての地位を確立した。
2.1. プロ転向と初期の成功
バレステロスは1974年3月、わずか16歳でプロに転向した。彼の国際的な舞台での最初の注目すべき登場は、1976年ロイヤルバークデール・ゴルフクラブで開催された全英オープンでの2位タイであった。彼は3日目を終えて2打差の首位に立っていたが、最終ラウンドを74で回り、優勝したジョニー・ミラーに6打差の2位タイでジャック・ニクラスと並んだ。この年、19歳の若さでヨーロピアンツアーの賞金王(オーダー・オブ・メリット)に輝き、その後2年間も連続でタイトルを獲得し、合計6回の賞金王は当時の記録となった(後にコリン・モンゴメリーによって更新された)。また、日本ツアーでは1977年の日本オープンでツアー史上最年少優勝を飾り、これは2007年に石川遼が更新するまで最年少記録として残った。
2.2. メジャー選手権での勝利
バレステロスはキャリアを通じて5つのメジャー選手権で優勝した。マスターズ・トーナメントでは1980年と1983年に、全英オープンでは1979年、1984年、1988年にそれぞれ勝利を収めた。
1980年のマスターズ優勝は、ヨーロッパ人選手として初の快挙であり、当時の大会最年少優勝記録(23歳)を更新した(この記録は1997年にタイガー・ウッズが21歳で優勝した際に破られた)。1979年の全英オープンでの勝利も同様に、20世紀における大会最年少優勝者となり、またフランスのアルノー・マシーが1907年に全英オープンを制して以来、大陸ヨーロッパ出身のゴルファーとして初めてメジャータイトルを獲得した。
1983年のマスターズは雨天により延期され、月曜日に最終ラウンドが行われた。バレステロスは5打差で優勝し、月曜日にマスターズを制した最後のゴルファーとなっている。セントアンドリュースでの1984年全英オープンで18番グリーンで沈めたパットは、彼にとって「私のスポーツ人生で最も幸せな瞬間」と語られた。1988年には、ロイヤルリザム・アンド・セントアンズで開催された全英オープンで、自身5度目にして最後のメジャータイトルを獲得した。この大会の最終ラウンドは土曜日の豪雨により中断され、月曜日に実施された。彼はニック・プライスに2打差をつけて勝利した最終ラウンドの65を「おそらく私のキャリア全体で最高のラウンド」と評した。
2.3. 欧州ツアーでの支配
バレステロスはヨーロピアンツアーで記録的な成功を収め、歴代最多となる50のタイトルを獲得した。彼は1976年から1992年までの17年間、毎年少なくとも1つのヨーロピアンツアータイトルを獲得するという偉業を達成した。彼のヨーロピアンツアーでの最後の勝利は1995年のプジョー・スペインオープンであった。
2.4. PGAツアーおよび国際大会での勝利
バレステロスはPGAツアーで9勝を挙げたほか、日本ゴルフツアー、オーストラリアツアー、ニュージーランドゴルフサーキット、サファリサーキットなど、世界各地のツアーで数多くの勝利を記録した。全世界での優勝回数は91回に上る。
| No. | 日付 | 大会名 | 優勝スコア | 優勝差 | 2位 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1978年4月2日 | グレーター・グリーンズボロ・オープン | -6 (72-75-69-66=282) | 1打差 | ジャック・レナー、 ファジー・ゾエラー |
| 2 | 1979年7月21日 | 全英オープン | -1 (73-65-75-70=283) | 3打差 | ベン・クレンショー、 ジャック・ニクラス |
| 3 | 1980年4月13日 | マスターズ・トーナメント | -13 (66-69-68-72=275) | 4打差 | ギビー・ギルバート、 ジャック・ニュートン |
| 4 | 1983年4月11日 | マスターズ・トーナメント (2) | -8 (68-70-73-69=280) | 4打差 | ベン・クレンショー、 トム・カイト |
| 5 | 1983年6月12日 | マニュファクチャラーズ・ハノーバー・ウェストチェスター・クラシック | -8 (69-67-70-70=276) | 2打差 | アンディ・ビーン、 クレイグ・スタドラー |
| 6 | 1984年7月22日 | 全英オープン (2) | -12 (69-68-70-69=276) | 2打差 | ベルンハルト・ランガー、 トム・ワトソン |
| 7 | 1985年3月17日 | USF&Gクラシック | -11 (68-69-68=205) | 2打差 | ピーター・ヤコブセン、 ジョン・マハフィー |
| 8 | 1988年6月12日 | マニュファクチャラーズ・ハノーバー・ウェストチェスター・クラシック (2) | -8 (72-68-69-67=276) | プレーオフ | デビッド・フロスト、 ケン・グリーン、 グレッグ・ノーマン |
| 9 | 1988年7月17日 | 全英オープン (3) | -11 (67-71-70-65=273) | 2打差 | ニック・プライス |
注: 1985年USF&Gクラシックは悪天候のため54ホールに短縮された。
PGAツアー プレーオフ記録 (1勝2敗)
| No. | 年 | 大会名 | 対戦相手 | 結果 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 1987年 | マスターズ・トーナメント | ラリー・マイズ、 グレッグ・ノーマン | マイズが2ホール目でバーディーを奪い優勝 バレステロスは1ホール目でパーを奪われ脱落 |
| 2 | 1987年 | マニュファクチャラーズ・ハノーバー・ウェストチェスター・クラシック | J・C・スニード | 1ホール目でパーを奪われ敗退 |
| 3 | 1988年 | マニュファクチャラーズ・ハノーバー・ウェストチェスター・クラシック | デビッド・フロスト、 ケン・グリーン、 グレッグ・ノーマン | 1ホール目でバーディーを奪い優勝 |
ヨーロピアンツアー優勝 (50)
| No. | 日付 | 大会名 | 優勝スコア | 優勝差 | 2位 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1976年8月8日 | ダッチオープン | -13 (65-73-68-69=275) | 8打差 | ハワード・クラーク |
| 2 | 1977年5月8日 | フランスオープン | -6 (69-70-71-72=282) | 3打差 | ジョン・ブランド、 アントニオ・ガリード、 マヌエル・ピニェロ、 イアン・スタンレー |
| 3 | 1977年6月25日 | ユニロイヤル・インターナショナル選手権 | -12 (70-70-67-69=276) | プレーオフ | ニック・ファルド |
| 4 | 1977年7月17日 | スイスオープン | -7 (68-66-70-69=273) | 3打差 | ジョン・シュローダー |
| 5 | 1978年5月21日 | マルティーニ・インターナショナル | -14 (67-67-67-69=270) | 5打差 | ニック・ファルド |
| 6 | 1978年7月30日 | ブラウン・ジャーマンオープン | -20 (64-67-70-67=268) | 2打差 | ニール・コールズ |
| 7 | 1978年8月6日 | スカンジナビアン・エンタープライズ・オープン | -9 (73-69-68-69=279) | 1打差 | デール・ヘイズ |
| 8 | 1978年9月3日 | スイスオープン (2) | -8 (68-68-68-68=272) | 3打差 | マヌエル・ピニェロ |
| 9 | 1979年7月1日 | ラダ・イングリッシュ・ゴルフクラシック | -2 (73-71-71-71=286) | 6打差 | ニール・コールズ、 サイモン・ホブデイ |
| 10 | 1979年7月21日 | 全英オープン | -1 (73-65-75-70=283) | 3打差 | ベン・クレンショー、 ジャック・ニクラス |
| 11 | 1980年4月13日 | マスターズ・トーナメント | -13 (66-69-68-72=275) | 4打差 | ギビー・ギルバート、 ジャック・ニュートン |
| 12 | 1980年4月27日 | マドリードオープン | -18 (68-63-70-69=270) | 3打差 | マヌエル・ピニェロ |
| 13 | 1980年5月18日 | マルティーニ・インターナショナル (2) | -2 (74-75-67-70=286) | 1打差 | ブライアン・バーンズ |
| 14 | 1980年7月27日 | ダッチオープン (2) | -8 (69-75-65-71=280) | 3打差 | サンディ・ライル |
| 15 | 1981年7月5日 | スカンジナビアン・エンタープライズ・オープン (2) | -11 (69-70-68-66=273) | 5打差 | アントニオ・ガリード |
| 16 | 1981年10月4日 | ベンソン&ヘッジス・スペインオープン | -15 (71-67-70-65=273) | 1打差 | スティーブ・マーティン |
| 17 | 1982年4月25日 | セプサ・マドリードオープン (2) | -15 (70-69-66-68=273) | 1打差 | ホセ・マリア・カニサレス |
| 18 | 1982年5月9日 | パコ・ラバンヌ・オープン・ド・フランス (2) | -10 (71-70-72-65=278) | 4打差 | サンディ・ライル |
| 19 | 1983年4月11日 | マスターズ・トーナメント (2) | -8 (68-70-73-69=280) | 4打差 | ベン・クレンショー、 トム・カイト |
| 20 | 1983年5月30日 | サン・アライアンスPGA選手権 | -2 (69-71-67-71=278) | 2打差 | ケン・ブラウン |
| 21 | 1983年8月14日 | キャロルズ・アイルランドオープン | -17 (67-67-70-67=271) | 2打差 | ブライアン・バーンズ |
| 22 | 1983年10月2日 | トロフィー・ランコム | -19 (71-65-64-69=269) | 4打差 | コーリー・ペイビン |
| 23 | 1984年7月22日 | 全英オープン (2) | -12 (69-68-70-69=276) | 2打差 | ベルンハルト・ランガー、 トム・ワトソン |
| 24 | 1985年6月23日 | キャロルズ・アイルランドオープン (2) | -10 (70-69-73-66=278) | プレーオフ | ベルンハルト・ランガー |
| 25 | 1985年7月7日 | プジョー・オープン・ド・フランス (3) | -21 (62-68-64-69=263) | 2打差 | サンディ・ライル |
| 26 | 1985年9月22日 | サンヨーオープン | -16 (66-70-65-71=272) | 3打差 | ジェフ・ホークス |
| 27 | 1985年10月27日 | ベンソン&ヘッジス・スペインオープン (2) | -14 (67-68-65-66=266) | 4打差 | ゴードン・ブランド・ジュニア |
| 28 | 1986年6月8日 | ダンヒル・ブリティッシュマスターズ | -13 (67-68-70-70=275) | 2打差 | ゴードン・ブランド・ジュニア |
| 29 | 1986年6月22日 | キャロルズ・アイルランドオープン (3) | -3 (68-75-68-74=285) | 2打差 | ロジャー・デイビス、 マーク・マクナルティ |
| 30 | 1986年6月28日 | ジョニー・ウォーカー・モンテカルロオープン | -11 (66-71-64-64=265) | 2打差 | マーク・マクナルティ |
| 31 | 1986年7月7日 | プジョー・オープン・ド・フランス (4) | -19 (65-66-69-69=269) | 2打差 | ビセンテ・フェルナンデス |
| 32 | 1986年7月27日 | KLMダッチオープン (3) | -17 (69-63-71-68=271) | 8打差 | ホセ・リベロ |
| 33 | 1986年10月19日 | トロフィー・ランコム (2) | -14 (67-69-68-70=274) | 共同優勝 | ベルンハルト・ランガー |
| 34 | 1987年4月19日 | スーズオープン | -13 (69-70-68-68=275) | プレーオフ | イアン・ウーズナム |
| 35 | 1988年3月13日 | マヨルカ・オープン・デ・バレアレス | -16 (70-68-67-67=272) | 6打差 | ホセ・マリア・オラサバル |
| 36 | 1988年7月17日 | 全英オープン (3) | -11 (67-71-70-65=273) | 2打差 | ニック・プライス |
| 37 | 1988年7月31日 | スカンジナビアン・エンタープライズ・オープン (3) | -18 (67-70-66-67=270) | 5打差 | ジェリー・テイラー |
| 38 | 1988年8月28日 | ジャーマンオープン (2) | -21 (68-68-65-62=263) | 5打差 | ゴードン・ブランド・ジュニア |
| 39 | 1988年9月18日 | トロフィー・ランコム (3) | -15 (64-66-68-71=269) | 4打差 | ホセ・マリア・オラサバル |
| 40 | 1989年4月23日 | セプサ・マドリードオープン (3) | -16 (67-67-69-69=272) | 1打差 | ハワード・クラーク |
| 41 | 1989年5月7日 | エプソン・グランプリ・オブ・ヨーロッパ・マッチプレイ選手権 | 4 and 3 | デニス・ダーニアン | |
| 42 | 1989年9月3日 | エベル・ヨーロピアンマスターズ・スイスオープン (3) | -14 (65-68-66-67=266) | 2打差 | クレイグ・パリー |
| 43 | 1990年3月11日 | オープン・ルノー・デ・バレアレス (2) | -19 (66-65-70-68=269) | プレーオフ | マグナス・パーソン |
| 44 | 1991年5月27日 | ボルボPGA選手権 (2) | -17 (67-69-65-70=271) | プレーオフ | コリン・モンゴメリー |
| 45 | 1991年6月2日 | ダンヒル・ブリティッシュマスターズ (2) | -13 (66-66-68-75=275) | 3打差 | イーモン・ダーシー、 デビッド・ギルフォード、 トニー・ジョンストン、 サム・トーランス、 キース・ウォーターズ |
| 46 | 1992年2月9日 | ドバイ・デザートクラシック | -16 (66-67-69-70=272) | プレーオフ | ローナン・ラファティ |
| 47 | 1992年3月8日 | トゥレスパーニャ・オープン・デ・バレアレス (3) | -11 (70-70-69-68=277) | プレーオフ | イェスパー・パーネビック |
| 48 | 1994年5月8日 | ベンソン&ヘッジス・インターナショナルオープン | -7 (69-70-72-70=281) | 3打差 | ニック・ファルド |
| 49 | 1994年10月3日 | メルセデス・ジャーマンマスターズ | -18 (68-70-65-67=270) | プレーオフ | アーニー・エルス、 ホセ・マリア・オラサバル |
| 50 | 1995年5月21日 | プジョー・スペインオープン (3) | -14 (70-67-66-71=274) | 2打差 | イグナシオ・ガリード、 ホセ・リベロ |
注: 1986年トロフィー・ランコムは、プレーオフ4ホール目で日没のため中止となり、バレステロスとランガーが共同優勝となった。
ヨーロピアンツアー プレーオフ記録 (8勝4敗1分け)
| No. | 年 | 大会名 | 対戦相手 | 結果 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 1977年 | ユニロイヤル・インターナショナル選手権 | ニック・ファルド | 1ホール目でバーディーを奪い優勝 |
| 2 | 1983年 | イタリアオープン | ケン・ブラウン、 ベルンハルト・ランガー | ランガーが2ホール目でバーディーを奪い優勝 バレステロスは1ホール目でパーを奪われ脱落 |
| 3 | 1984年 | トロフィー・ランコム | サンディ・ライル | 1ホール目でバーディーを奪われ敗退 |
| 4 | 1985年 | キャロルズ・アイルランドオープン | ベルンハルト・ランガー | 2ホール目でバーディーを奪い優勝 |
| 5 | 1986年 | トロフィー・ランコム | ベルンハルト・ランガー | 4ホール目で日没のためプレーオフ中止。共同優勝 |
| 6 | 1987年 | マスターズ・トーナメント | ラリー・マイズ、 グレッグ・ノーマン | マイズが2ホール目でバーディーを奪い優勝 バレステロスは1ホール目でパーを奪われ脱落 |
| 7 | 1987年 | スーズオープン | イアン・ウーズナム | 1ホール目でパーを奪い優勝 |
| 8 | 1990年 | オープン・ルノー・デ・バレアレス | マグナス・パーソン | 1ホール目でパーを奪い優勝 |
| 9 | 1991年 | プジョー・スペインオープン | エドゥアルド・ロメロ | 7ホール目でバーディーを奪われ敗退 |
| 10 | 1991年 | ボルボPGA選手権 | コリン・モンゴメリー | 1ホール目でバーディーを奪い優勝 |
| 11 | 1992年 | ドバイ・デザートクラシック | ローナン・ラファティ | 2ホール目でバーディーを奪い優勝 |
| 12 | 1992年 | トゥレスパーニャ・オープン・デ・バレアレス | イェスパー・パーネビック | 6ホール目でバーディーを奪い優勝 |
| 13 | 1994年 | メルセデス・ジャーマンマスターズ | アーニー・エルス、 ホセ・マリア・オラサバル | 1ホール目でバーディーを奪い優勝 |
日本ゴルフツアー優勝 (6)
| No. | 日付 | 大会名 | 優勝スコア | 優勝差 | 2位 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1977年11月20日 | 日本オープン | E (69-72-72-71=284) | 1打差 | 村上隆 |
| 2 | 1977年11月27日 | ダンロップフェニックストーナメント | -6 (68-70-73-71=282) | 1打差 | 荒井菊雄 |
| 3 | 1978年11月5日 | 日本オープン (2) | -7 (68-67-71-75=281) | プレーオフ | グラハム・マーシュ |
| 4 | 1981年11月22日 | ダンロップフェニックストーナメント (2) | -9 (72-66-69-72=279) | 3打差 | 中嶋常幸 |
| 5 | 1988年11月13日 | VISA太平洋クラブマスターズ | -7 (71-71-68-71=281) | 3打差 | 船渡川育宏 |
| 6 | 1991年5月5日 | 国際招待ゴルフ・中日クラウンズ | -5 (67-75-64-69=275) | 1打差 | ロジャー・マッケイ |
日本ゴルフツアー プレーオフ記録 (1勝1敗)
| No. | 年 | 大会名 | 対戦相手 | 結果 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 1978年 | 日本オープン | グラハム・マーシュ | 1ホール目でバーディーを奪い優勝 |
| 2 | 1991年 | ダンロップフェニックストーナメント | 青木功、 ジェイ・ドン・ブレイク、 ラリー・ネルソン | ネルソンが4ホール目でパーを奪い優勝 バレステロスは3ホール目でバーディーを奪われ脱落 ブレイクは1ホール目でパーを奪われ脱落 |
PGAツアー・オブ・オーストラレイジア優勝 (1)
| No. | 日付 | 大会名 | 優勝スコア | 優勝差 | 2位 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1981年11月8日 | メイン・ニックレス・オーストラリアPGA選手権 | -6 (73-74-66-69=282) | 3打差 | ビル・ダンク |
ニュージーランドゴルフサーキット優勝 (1)
| No. | 日付 | 大会名 | 優勝スコア | 優勝差 | 2位 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1977年12月4日 | オタゴ・チャリティクラシック | -17 (69-67-66-67=271) | 3打差 | ボブ・バイマン |
サファリサーキット優勝 (1)
| No. | 日付 | 大会名 | 優勝スコア | 優勝差 | 2位 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 1978年3月12日 | ケニアオープン | -10 (73-66-69-66=274) | 1打差 | バーナード・ギャラチャー |
その他の優勝 (27)
- 1974年: スペインナショナル選手権(25歳以下)、オープン・デ・ビスカヤ
- 1975年: スペインナショナル選手権(25歳以下)
- 1976年: メモリアル・ドナルド・スワエレンス、カタルーニャ選手権、テネリフェ選手権、ランコムトロフィー、ワールドカップ・オブ・ゴルフ(マヌエル・ピニェロと)
- 1977年: ブラウン・インターナショナル・ゴルフ(ドイツ)、ワールドカップ・オブ・ゴルフ(アントニオ・ガリードと)
- 1978年: スペインナショナル選手権(25歳以下)
- 1979年: オープン・エル・プラット
- 1981年: サントリーワールドマッチプレー選手権
- 1982年: マスターズ・デ・サンレモ(イタリア)、サントリーワールドマッチプレー選手権
- 1983年: ミリオンダラーチャレンジ(南アフリカ)
- 1984年: サントリーワールドマッチプレー選手権、ミリオンダラーチャレンジ(南アフリカ)
- 1985年: スペインプロフェッショナルクローズド選手権、サントリーワールドマッチプレー選手権、カンペオナート・デ・エスパーニャ-コドルニウ
- 1987年: スペインプロフェッショナルクローズド選手権
- 1988年: APGラリオス
- 1991年: トヨタワールドマッチプレー選手権
- 1992年: コパ・キント・センテナリオ・ポル・エキポス
- 1995年: トゥールノワ・ペリエ・デ・パリ(ホセ・マリア・オラサバルと)
2.5. ライダーカップでの活躍
バレステロスは1980年代から1990年代にかけて、ヨーロッパライダーカップチームの主力選手として活躍した。彼は米国チームとの37試合で22.5ポイントを獲得した。特に、同胞のホセ・マリア・オラサバルとのパートナーシップは、15回のペアマッチで11勝2引き分けという、大会史上最も成功した組み合わせとして知られている。バレステロスは1985年、1987年(カップ保持)、1989年(引き分け、カップ保持)、1995年のライダーカップでヨーロッパチームの一員として勝利に貢献した。彼のライダーカップキャリアの頂点は、1997年にソトグランデのバルデラマ・ゴルフクラブで開催された大会で、彼がキャプテンを務めたヨーロッパチームが勝利を収めたことである。これは大陸ヨーロッパで初めて開催されたライダーカップであった。
| 1979 | 1981 | 1983 | 1985 | 1987 | 1989 | 1991 | 1993 | 1995 | 合計 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | - | 3 | 3.5 | 4 | 3.5 | 4.5 | 2 | 1 | 22.5 |
2.6. 世界ランキングと受賞歴
バレステロスはオフィシャル・ワールドゴルフランキングが導入された1986年4月から1989年9月までの期間、合計61週にわたって世界ランキング1位を保持し、1988年末には世界ナンバーワンの座を維持した。彼はまた、公式ランキングの基礎となったマコーマックの「ワールド・オブ・プロフェッショナル・ゴルフ」年鑑に掲載されたマコーマックの世界ゴルフランキングでも、1983年、1984年、1985年に首位に立っていた。彼は1977年から1991年までの15年間、年末の世界トップ10に常に名を連ねていた。
1999年には世界ゴルフ殿堂入りを果たした。2000年には「ゴルフダイジェスト」誌によって史上16番目に偉大なゴルファーと評価され、大陸ヨーロッパ出身のゴルファーとしては最高位であった。2009年にはBBCスポーツ・パーソナリティ賞で2度目の生涯功労賞を受賞し、スペインの自宅で同胞であり元ライダーカップチームメイトのホセ・マリア・オラサバルから授与された。彼はまた、ローレウス世界スポーツアカデミーのメンバーでもあった。
3. プレースタイルと哲学
バレステロスのゴルフスタイルは、そのユニークで攻撃的、かつ創造的なアプローチで知られていた。彼は困難な状況下でも型破りなショットを繰り出す能力を持ち、「七色のアイアンショット」と評されるほどの多彩な技術を持っていた。彼のプレーは情熱的であり、コース上では圧倒的な存在感を放ち、ライバルたちを恐れさせた。
彼のゴルフを語る上で最も有名なエピソードの一つに、1979年の全英オープン最終日の「駐車場ショット」がある。16番ホールでティーショットを大きく右に曲げ、臨時駐車場の車の下にボールを打ち込んでしまったバレステロスは、ルール上の救済を受けて車を移動させ打球可能な状態になった。しかし、芝生の生えていない土の上から、グリーンも見えない状況で、ホールカップからわずか4 mあまりのところにボールを乗せ、まさかのバーディーを奪った。このプレーは彼のメジャータイトル獲得を決定づけるものとなり、全英オープンの語り草となっている。アプローチやバンカーショットなどのショートゲームも巧みで、特にパッティングはゴルフ史上に残る名手の一人と評される。
彼のゴルフに対する評価は高く、多くの著名なゴルファーから賛辞が送られた。
- リー・トレビノは「ニクラスにはパット。俺には飛距離。ゴルフの神様は誰しもに必ずひとつ欠点を与える。ただしセベ以外には」と語った。
- トム・ワトソンは「トム・ワトソンはスイングを完璧にしようと考えている。セベは勝つことだけを考えている」と評した。
- ベン・クレンショーは「セベはほとんど完璧なゴルファー。トラブルに見えても彼にとってはそれは難問じゃないんだ」と述べた。
- 日本の丸山茂樹は「とにかく上手かった。憧れてよくマネをした」と語り、横田真一は「まるでフェラーリのような躍動感で、他のプレーヤーとは全然違った」と表現した。
- 丸山大輔は「このひとには不可能はないのかと思っていた」と驚きを表明し、倉本昌弘は「多様にボールを操る技術はタイガーよりずっと上だろう」と評価した。
4. 後期のキャリアと引退
バレステロスはキャリア後半に怪我や不調に直面し、競技ゴルフからの引退に至った。
4.1. 苦難と怪我
1991年に6度目のヨーロピアンツアー賞金王を獲得して以降、バレステロスは次第にスランプに陥った。特にメタルウッドやチタンウッドが登場した頃からスイング改造の失敗によりさらに調子を崩し、世界ランキングは急降下した。彼は腰痛や膝痛にも悩まされ、1990年代後半からはほとんどプレーしなくなった。彼のヨーロピアンツアーでの最後の優勝は1995年であった。
4.2. 引退
度重なる腰の痛みの再発により、バレステロスは2007年7月16日に競技ゴルフからの引退を正式に表明し、輝かしいキャリアに幕を下ろした。引退会見では、一部のヨーロッパメディアで報じられた自殺未遂の報道について「現実とはかけ離れている」と否定した。彼は心臓の状態を心配して一時入院したが、同日中に健康状態に問題がないことが確認され退院している。引退後も彼はゴルフ界に関わり続け、ゴルフコース設計事業を成功させ、1997年のライダーカップ前にはバルデラマ・ゴルフクラブの17番ホールを改修するなどした。また、2006年の創設以来、ロイヤル・トロフィーのヨーロッパチームのキャプテンを務めていた。

5. 私生活
バレステロスはエミリオ・ボティンの娘であるカルメン・ボティン・オシーと1988年に結婚し、カンタブリア州マリーナ・デ・クデイオで生活したが、2004年に離婚した。夫婦にはハビエル、ミゲル、カルメンの3人の子供がいた。彼のキャリアの衰退を受け入れられなかったことが、結婚生活の破綻の一因になったと言われている。
6. 使用用具
バレステロスはキャリアを通じて一貫してピンのパターを使用しており、ピンのゴールドパター保管庫には、他のどの選手よりも多くの優勝記念のゴールデンクラブが収められている。
7. 病気と死
バレステロスは晩年、脳腫瘍との闘病生活を送り、その死はゴルフ界に大きな悲しみをもたらした。
7.1. 診断と治療
2008年10月6日、バレステロスはマドリード=バラハス空港で意識を失い、病院に搬送された。その6日後、彼は悪性の脳腫瘍と診断されたことを公表した。10月15日には、腫瘍を摘出するための12時間にわたる手術を受けた。これは彼が受けることになる4度の手術の最初のものであった。病院の広報担当者は、外科医が腫瘍の大部分を切除したと発表した。10月23日には、腫瘍が乏突起星細胞腫という癌性のものであることが公に確認され、健康状態が急速に悪化したため、10月24日に彼を安定させ、残りの腫瘍を切除するための追加手術が行われた。この6時間半にわたる手術で腫瘍は除去されたことが確認された。
11月3日には、集中治療室でリハビリを開始し、呼吸も安定していると病院から発表された。11月18日には、マドリードのラ・パス病院の集中治療室から一般病棟に移され、リハビリを続けた。
バレステロスは2008年12月9日に退院し、スペイン北部の自宅に戻り、通院で化学療法を受けた。2009年1月には、彼のウェブサイトで化学療法の一連の治療によく反応しているとのメッセージが発表された。
私は非常に意欲的で懸命に努力していますが、回復には時間がかかることを認識しており、そのため忍耐力と強い決意が必要です。
これらの理由から、私は医師からの指示をすべて厳守しています。
さらに、理学療法士の方々も素晴らしい仕事をしてくれており、日々体調が良くなっていると感じています。
バレステロスは2009年2月にマドリードのラ・パス病院で2回目の化学療法を完了した。ウェブサイトを通じて彼は「検査の結果は本当に良好で、初回よりもさらに良いものでした」と語った。彼は2009年3月に3回目の治療を終え、その1ヶ月後には4回目にして最後の化学療法を完了した。
2009年6月、バレステロスは脳腫瘍の治療後初めて公の場に姿を現した。彼は生きていることが「奇跡」だと述べ、自身のケアと福祉に関わったすべての人々に感謝の意を表した。この最初の公の場で、彼は「セベ・バレステロス財団」の設立を発表した。この財団は、癌患者が病気と闘うのを助けることを目的とし、特に脳腫瘍の研究を支援するほか、経済的に困難な若手ゴルファーが彼のように成功できるよう財政的に支援することを目指している。
7.2. 死
2011年5月6日、バレステロスの家族は、彼の神経学的状態が「著しく悪化した」との声明を発表した。その発表から数時間後の2011年5月7日未明、彼は54歳で死去した。彼の兄バルドメロは、正確な死亡時刻が中央ヨーロッパ夏時間午前2時10分であったことを確認した。彼は故郷のペドレーニャの自宅で家族に見守られながら安らかに息を引き取った。
8. 遺産と影響力
バレステロスの死はゴルフ界に大きな影響を与え、彼の遺産は様々な形で記憶され続けている。
8.1. 追悼と記念
バレステロスが死去した当時、オープン・デ・エスパーニャが開催中であった。ヨーロピアンツアーは、バルセロナのレアル・クラブ・デ・ゴルフ・エル・プラットで行われた第3ラウンド中に黙祷を捧げ、彼の死を悼んだ。
タイガー・ウッズはバレステロスを「これまでプレーしたゴルファーの中で最も才能があり、エキサイティングな選手の一人」と評した。リー・ウェストウッドは「セベが今日のヨーロッパゴルフを築き上げた」と語った。フィル・ミケルソンは、病気のため出席できなかったバレステロスを偲び、2011年のマスターズチャンピオンズディナーでスペインをテーマにしたメニューを選んだ。メイン料理にはシーフードパエリアとマンチェゴチーズを乗せたフィレミニョンが含まれ、サイドにはサラダ、アスパラガス、トルティーヤ、デザートにはアイスクリームを添えたアップルエンパナーダが用意された。
マドリードオープンのテニストーナメントでは、ラファエル・ナダルとロジャー・フェデラーの準決勝の前に黙祷が捧げられた。バレステロスの親友であったナダルは、ビデオ画面を見ながら涙を拭う姿が目撃された。5月8日には、米国の主要3男子ツアーがプレーを中断し、黙祷を捧げた。5月10日、アイリッシュ・インディペンデント紙は彼について「彼は他にも多くの言語を話した。それは名誉、尊厳、スポーツマンシップ、品位、フェアプレー、忠誠心、誠実さ、そして最後には不屈の、忘れがたい、驚くべき勇気の言葉であった。単刀直入に言えば、彼のスポーツにとっても彼の国にとっても、これほど素晴らしい大使はかつていなかった」と報じた。
バレステロスの葬儀は、彼の故郷であるペドレーニャのサン・ペドロ教区教会で行われた。参列者の多さから、収容人数400人の教会外には複数の大型スクリーンが設置された。彼の遺灰はその後、自宅の敷地内に散骨された。
バレステロスの死去当日、フロリダ州の世界ゴルフ殿堂ではスペイン国旗が掲揚され、米国国旗は半旗にされた。チケット売り場にはバレステロスの写真が飾られ、彼のロッカーの外側には黒いリボンが掛けられた。翌週末、近くのTPCソーグラスで開催された2011年ザ・プレーヤーズ・チャンピオンシップでは、ディフェンディングチャンピオンのティム・クラークの要望により、彼の母国南アフリカ共和国の国旗の代わりにスペイン国旗が半旗で掲げられた。クラークは「セベは私が育つ中で私のヒーローでした...先週彼を失い、ゴルフ界全体が悲しんでいると思います。彼の旗をここに掲げることは、彼へのささやかな追悼です。もちろん、彼はもっと多くのものに値します」と述べた。
2012年ライダーカップは、バレステロスの死後初めて開催された大会であった。ヨーロッパチームは最終日に、セベが大会最終日に伝統的に着用していたネイビーブルーと白のウェアを着用し、彼を追悼した。さらに、チームのキットには、1984年の全英オープン優勝後のバレステロスの象徴的な「敬礼」のシルエットが描かれていた。アイルランドのゴルファーであるパドレイグ・ハリントンやニック・ファルドを含むヨーロッパの選手たちは、ヨーロピアンツアーの公式ロゴに描かれているハリー・バードンの画像をバレステロスのシルエットに置き換えることを提案した。
バレステロスの故郷であるカンタブリア州の空港は、スペイン政府が2015年4月16日に名称変更を承認して以来、彼の名が冠されている。サンタンデール空港から「セベ・バレステロス・サンタンデール空港」に改称されたこの変更は、2014年5月に地方議会が満場一致で請願を承認した後に実現した。この国民的イニシアチブの動機は、バレステロスがカンタブリア州出身者として最も世界的に知られた人物の一人であり、スポーツと人生における模範であることに敬意を表するためであった。
2017年には、ヨーロピアンツアーの年間最優秀選手賞が彼の栄誉を称えて改名され、「セベ・バレステロス賞」となった。この賞の最初の受賞者はヘンリク・ステンソンであった。
8.2. セベ・バレステロス財団
バレステロスは、脳腫瘍の治療後初めて公の場に姿を現した2009年6月に、「セベ・バレステロス財団」の設立を発表した。この財団は、がん患者が病気と闘うのを支援することを目的としており、特に脳腫瘍の研究に重点を置いている。また、経済的に困難な状況にある若手ゴルファーが、彼のように成功を収めることができるよう財政的な支援も行っている。
8.3. ゴルフへの貢献
バレステロスは、2000年に始まったセベ・トロフィーの創設に尽力した。この大会はライダーカップに似たチーム対抗戦で、英国・アイルランドチームと大陸ヨーロッパチームが対戦するものである。彼は2000年には「ゴルフダイジェスト」誌によって史上16番目に偉大なゴルファーと評価され、大陸ヨーロッパ出身のゴルファーとしては最高位であった。
彼は晩年、ヨーロッパのゴルフコース設計にも携わり、特に1997年のライダーカップ前にバルデラマ・ゴルフクラブの17番ホールを改修したことは有名である。バレステロスは日本でも人気が高く、サッポロ「黒ラベル」のCMに出演したこともある。2011年3月11日の東日本大震災の5日後、3月16日には自身のウェブサイトに「日本、私はあなたとある」と記し、日本の人々への連帯を示した。
彼がコース監修に携わった日本のゴルフクラブは以下の3箇所がある。
- セベバレステロスゴルフクラブ泉コース(福島県いわき市)
- セベバレステロスゴルフクラブ(茨城県稲敷市、デビット・トーマスと共同監修)
- パシフィックブルーゴルフ&リゾート国東(大分県国東市、旧BFRゴルフクラブ) - 1986年7月に運営会社が設立され、1991年4月にオープンしたものの資金調達先のトラブルやバブル崩壊、立地面による利用者の伸び悩みにより巨額の債務超過におちいり、2007年整理回収機構より会社更生法の適用の申し立てがなされた。その後会員権の分割がなされ、ソウルから大分空港への定期便、別府温泉の存在などにより、韓国人会員が急増、103.00 億 JPYで韓国のErum Holdings Co.Ltdに売却された。
9. 関連項目
- セベ・トロフィー
- ゴルファー一覧
- ゴルフ四大メジャー大会優勝者一覧
- ヨーロピアンツアー勝利数ランキング
- 男子ゴルフの世界ランキング記録
- ゴルフコース設計者一覧