1. 生い立ち
ダロン・トーマス・ダニエル・ギブソンは1987年10月25日に北アイルランドのデリーで生まれた。愛称は「ギボ」(Gibbo英語)である。身長は183 cm、体重は80 kgで、利き足は右足である。彼はセント・コロンブス校の元生徒であり、地元のデリー・アンド・ディストリクト・リーグでジュニアサッカーをプレーした後、インスティチュートFCに所属し、2004年にマンチェスター・ユナイテッドに加入した。
2. クラブ経歴
ダロン・ギブソンは、マンチェスター・ユナイテッドのユースアカデミーで才能を育み、プロキャリアをスタートさせた後、複数のクラブを渡り歩き、その才能を発揮した。特にマンチェスター・ユナイテッドでは重要なタイトル獲得に貢献し、エヴァートンではチームの要として活躍した。しかし、サンダーランド以降は度重なる負傷や法的な問題により、選手生活が困難なものとなった。
2.1. ユース経歴
ギブソンは故郷のクラブであるインスティチュートFCでキャリアを始め、2004年にマンチェスター・ユナイテッドのユースアカデミーに加入した。2005-06シーズンには、マンチェスター・ユナイテッドリザーブチームのレギュラーとして19試合に出場し2得点を挙げ、3冠達成に貢献した。この活躍が評価され、2006年5月にはクラブの最優秀若手選手に贈られるジミー・マーフィー賞を受賞した。また、2006-07シーズンのプレシーズンマッチでは、董方卓、ジョニー・エヴァンズ、フレイザー・キャンベル、ダニー・シンプソンといった選手たちと共にトップチームに帯同した。
2.2. マンチェスター・ユナイテッド
ギブソンは2005年10月26日、リーグカップのバーネットFC戦でリー・マーティンとの交代でプロデビューを果たした。この2005-06シーズンはトップチームでの出場はこの1試合のみだった。
2006-07シーズンは、チームメイト数人と共にベルギー・セカンドディビジョン(現ベルギー・プロリーグ2部)のロイヤル・アントワープに期限付き移籍し、多くの時間を過ごした。2007年10月には再び期限付き移籍し、今度はチャンピオンシップのウルヴァーハンプトン・ワンダラーズで2007-08シーズンの大部分を過ごした。ウルヴァーハンプトンでは2007年12月8日のバーンリーFC戦で1得点を挙げている。
期限付き移籍から復帰後、2008年11月15日のストーク・シティFC戦で後半からの途中出場でプレミアリーグデビューを果たした。その10日後の2008年11月25日にはUEFAチャンピオンズリーグデビューも果たし、ビジャレアルCF戦でダレン・フレッチャーと交代で出場した。2008年12月には、2008 FIFAクラブワールドカップのマンチェスター・ユナイテッドのメンバーとして日本に遠征し、試合出場はなかったものの、優勝メダルを獲得した。2009年1月4日、FAカップ3回戦のサウサンプトンFC戦(3-0で勝利)で、チームの3点目となる自身のクラブ初ゴールを記録した。2009年3月1日、ウェンブリー・スタジアムで行われた2009年リーグカップ決勝のトッテナム・ホットスパー戦でポール・スコールズと共に中盤で先発出場し、延長戦開始時にライアン・ギグスと交代するまでの90分間プレーした。マンチェスター・ユナイテッドはPK戦の末に4-1で勝利し、ギブソンは2つ目のタイトルを獲得した。同年5月24日、2008-09 プレミアリーグの最終節ハル・シティAFC戦でマンチェスター・ユナイテッドでのリーグ戦初ゴールを挙げた。2009年7月15日、ギブソンはマンチェスター・ユナイテッドとの契約を3年間延長し、少なくとも2012年までクラブに留まることになった。
2009年11月25日のUEFAチャンピオンズリーグのベシクタシュ戦で、マンチェスター・ユナイテッドはオールド・トラッフォードでの欧州カップ戦における4年間の無敗記録を1-0で失い、ギブソンを含む若手選手が批判の対象となった。しかし、その6日後の2009年12月1日に行われたリーグカップのトッテナム戦では、ギブソンが2得点を挙げてチームを2-0の勝利に導き、批判に応えた。また、チャンピオンズリーグ準々決勝第2戦のバイエルン・ミュンヘン戦では先発出場し、わずか3分後に自身初のUEFA主催大会でのゴールとなるロングシュートを決めた。この試合は3-2で勝利したが、2試合合計4-4となり、アウェーゴールの差で惜しくも敗退した。
2010-11シーズンの初ゴールは、2010年9月22日のリーグカップ、スカンソープ・ユナイテッド戦でチームの5-2のアウェー勝利における先制点として記録された。2011年2月、ギブソンのアイルランド代表監督であるジョバンニ・トラパットーニは、キャリアをさらに発展させるためにはマンチェスター・ユナイテッドを去るべきだと彼に伝えた。2011年5月4日、チャンピオンズリーグ準決勝第2戦のシャルケ戦でギブソンはゴールを決め、チームは4-1(合計6-1)で勝利したが、バルセロナに1-3で敗れたチャンピオンズリーグ決勝では、ラファエル、ジョニー・エヴァンズ、ジョン・オシェイ、ディミタール・ベルバトフらと共にベンチ入りできなかった。2011年夏にはサンダーランドへの移籍金が合意されたが、ギブソンは個人条件で合意に至らなかった。このため、2011-12シーズンは、中盤の負傷者が多かったにもかかわらず、わずか2試合の出場に留まり、2012年1月にクラブを去った。
2.3. エヴァートン
2012年1月13日、ギブソンはエヴァートンと契約金およそ100.00 万 GBPで契約した。彼はデイヴィッド・モイーズ監督のもと、フィル・ネヴィル、ティム・ハワード、ルイ・サハに次ぐ、4人目の元マンチェスター・ユナイテッドの選手としてエヴァートンに加入した。その翌日、アストン・ヴィラとの1-1の引き分け試合でデビューを果たした。同月下旬、ギブソンは本拠地でのマンチェスター・シティ戦でクラブ初ゴールを記録し、このゴールが決勝点となり1-0で勝利した。エヴァートンでの最初のシーズンでリーグ戦11試合に出場し、一度も敗戦を経験しなかった。マンチェスター・ユナイテッド時代を含めると、リーグ戦での無敗記録は28試合連続に及んだ。
この記録は2012-13シーズンのリーグ戦3試合目、ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオンに0-2で敗れた試合で途切れた。この試合ではギブソンは前半に負傷のため交代した。2012年12月22日、アウェーでのウェストハム・ユナイテッド戦(2-1で勝利)でキャリア初のレッドカードによる退場処分を受けたが、5日後にはイングランドサッカー協会によってその退場とそれに続く出場停止処分は取り消された。2013年4月13日、本拠地でのクイーンズ・パーク・レンジャーズ戦(2-0で勝利)でシーズン初ゴールを記録した。エヴァートンでの最初の2シーズンにおける彼のチームへの影響は大きく、彼が出場した試合の勝率が52%だったのに対し、欠場した試合では25%に過ぎなかった。彼はトッテナム、マンチェスター・シティ、そして古巣のマンチェスター・ユナイテッドとの試合で特に目を引くパフォーマンスを見せ、攻撃と守備を結ぶ重要な役割を担ったと評された。
しかし、2013-14シーズンは、10月に代表戦で深刻な膝の十字靭帯損傷を負ったため、リーグ戦出場はわずか1試合に留まった。2016年11月8日、ギブソンはエヴァートンのU-23チームでキャプテンを務め、EFLトロフィーのブラックプール戦に出場した。
2.4. サンダーランド
2017年1月、ギブソンは元エヴァートンでのチームメイトであるブライアン・オビエドと共にサンダーランドと1年半の契約を結び、非公開の移籍金で移籍した。同年2月4日、クリスタル・パレス戦でジャック・ロッドウェルに代わって52分から途中出場しデビューを果たした。この試合は4-0で勝利した。彼は合計12試合に出場したが、チームはチャンピオンシップへの降格を喫した。
2018年3月、ギブソンはアルコール過剰運転の容疑で逮捕され、クラブから出場停止処分を受けた。その2週間も経たないうちに双方合意の上でクラブを退団した。
2.5. その後の経歴
2018年8月3日、ギブソンはウィガン・アスレティックにフリー移籍で加入した。その翌日、シェフィールド・ウェンズデイとの試合(3-2で勝利)でデビューを果たした。同年10月6日、プレストン・ノースエンドとの試合でベン・ピアソンへのファウルにより退場処分を受けた。2018-19シーズン終了後、ウィガンとの契約は満了となった。
2020年2月6日、ギブソンはサルフォード・シティと6ヶ月契約を結んだ。同年2月19日、EFLトロフィー準決勝のニューポート・カウンティ戦でデビューし、フル出場を果たし、PK戦では1本を成功させた。しかし、コロナウイルスの影響でリーグ2のシーズンが終了したことを受け、2020年5月17日にサルフォードを退団した。その後、2020-21シーズンに向けてクラブに再加入し、監督のグラハム・アレクサンダーは彼の復帰を喜んだ。同年10月17日、ポート・ヴェイルとの試合中に骨折を負った。2020-21シーズン終了後、クラブを退団することが発表された。
3. 代表経歴
ダロン・ギブソンは北アイルランドで生まれたにもかかわらず、アイルランド代表としてプレーすることを選択したことで、国際的な代表資格を巡る複雑な論争の中心となった。この論争は、彼のユース代表時代からA代表入りに至るまで、彼自身のキャリアとアイルランドサッカー界全体に大きな影響を与えた。
3.1. 代表資格に関する論争
ギブソンはアイルランドサッカー協会(FAI)と北アイルランドサッカー協会(IFA)の間で、北アイルランド出身選手のアイルランド共和国代表資格に関する論争の中心となった。FIFAの「競技規約の適用を定める規定」第5条は、「特定の国での居住に依存しない永続的な国籍を持つ者は、その国の協会代表チームでプレーする資格がある」と定めている。ベルファスト合意後の北アイルランドの憲法上の立場により、アイルランド島のいずれかの場所で生まれたすべての人は、希望すれば疑う余地なくアイルランド共和国の市民権を持つ出生権を有する。これは、少なくとも片方の親がアイルランドまたはイギリス市民であるか、そうでなければ永住者である場合に限られる。その結果、ギブソンは北アイルランドとアイルランド共和国の両方から代表としてのプレーを打診された。
この問題はFIFAに付託され、北アイルランド議会でも議論された。2010年には、北アイルランド生まれの人がアイルランド共和国または北アイルランドのどちらでプレーする資格があることが宣言され、この問題は解決した。この論争をきっかけに、A代表の出場歴がない選手は代表チームを変更できるというFIFAの規定を利用し、トニー・ケイン、マイケル・オコナー、マーク・ウィルソンの3名が、当初選択した代表ではなく別の代表(北アイルランド代表からアイルランド代表、アイルランド代表から北アイルランド代表)でプレーすることを希望した。
3.2. ユース代表チーム
ギブソンは当初、U-16北アイルランド代表としてヴィクトリー・シールドのメンバーに選出された。しかし、マンチェスター・ユナイテッドでのトライアルに参加した後、チームから外され、その後アイルランド共和国への所属変更を選択した。ギブソンがアイルランド共和国のA代表としてデビューする前に、北アイルランドの監督であるナイジェル・ワージントンは、彼を再び北アイルランドに戻すよう説得を試みたが、成功しなかった。
ギブソンが初めてアイルランド共和国を代表したのはU-17レベルであった。その後、2005-06シーズンにはアイルランド共和国U-19およびU-21代表の両チームでキャプテンを務めた。2006年11月14日には、スコットランドB代表との0-0の引き分け試合でアイルランド共和国Bチームとしてもプレーした。
3.3. A代表

2007年1月30日、ギブソンはUEFA EURO 2008予選のアイルランドA代表メンバーに初めて招集された。同年8月22日、デンマークとの親善試合(4-0で勝利)でアンディ・リードに代わってハーフタイムから途中出場し、A代表デビューを果たした。54分にはペナルティーエリア外からシュートを放ち、デンマークのGKイェスパー・クリスティアンセンが弾いたボールをシェーン・ロングが詰めてゴールし、アイルランドの3点目に関与した。2007年9月8日、アウェーでのスロバキア戦(UEFA EURO 2008予選、2-2の引き分け)で2度目の代表キャップを獲得し、この試合でもエイダン・マクギーディに代わって61分から途中出場した。
ギブソンは2008年10月15日、本拠地でのキプロス戦(1-0で勝利)でアイルランド共和国代表としての初先発出場を果たした。スティーヴン・リードが負傷でアイルランド代表を離脱した後、中盤の身体能力を高めるためにギブソンが招集された。ジョバンニ・トラパットーニ監督は、リアム・ミラーやアンディ・リードよりも、ギブソンのピッチでの自信が彼を選んだ理由だと述べた。2011年2月8日、2011 ネーションズカップの初戦であるウェールズ戦で、ロングレンジからのシュートで自身の代表初ゴールを記録し、チームは3-0で勝利した。
ギブソンはUEFA EURO 2012のアイルランド代表メンバーに選出されたが、チームはグループステージで3連敗し敗退する中、すべての試合でベンチ入りするも出場機会はなかった。この結果に失望した彼は、大会後の2012年9月1日、2014 FIFAワールドカップ予選のカザフスタン戦に向けた代表招集を辞退した。2013年3月8日には、スウェーデンとオーストリアとのワールドカップ予選への招集も再び辞退した。
2013年9月30日、暫定監督のノエル・キングによって、ギブソンはドイツとカザフスタンとのワールドカップ予選に向けてアイルランド共和国代表に再招集された。しかし、ドイツ戦に3-0で敗れた後、カザフスタン戦で膝を負傷し、担架で運び出された。この負傷により、彼はシーズン残りを棒に振ることになった。2014年9月3日、長期の膝の負傷から回復したギブソンは、オマーンに2-0で勝利した試合でアイルランド共和国代表に復帰した。同年10月11日には、UEFA EURO 2016予選のジブラルタル戦で、1年以上ぶりに代表の公式戦に出場し、7-0で勝利した試合でフル出場を果たした。
4. 私生活と論争
ダロン・ギブソンは、公私にわたりいくつかの論争に巻き込まれた。特に、飲酒運転による法的問題は、彼のキャリアに大きな影を落とすこととなった。彼のこれらの行動は、プロサッカー選手としての責任と、個人的な困難の間の葛藤を示している。
4.1. 法的問題と行動
2011年4月、ギブソンはTwitterアカウントを開設したが、チームメイトのリオ・ファーディナンドのツイートで紹介された際、試合でのパフォーマンスに対するマンチェスター・ユナイテッドファンの批判が殺到し、開設からわずか97分で閉鎖に追い込まれた。
2015年8月、ギブソンはグレーター・マンチェスターのアルトリンチャムで、不注意運転、飲酒運転、およびひき逃げの容疑で起訴された。同年9月、彼は飲酒運転、不注意運転、および事故現場からの逃走を認め、12ヶ月の地域社会奉仕命令と20ヶ月間の運転禁止の判決を受けた。
2018年3月、ギブソンは再び飲酒運転の疑いで逮捕され、サンダーランドから出場停止処分を受けた。2ヶ月後、彼は法廷で罪を認め、負傷による絶え間ない痛みに対処するため、また家族と離れて生活するストレスからアルコールに頼っていたことを認めた。その結果、2年間の地域社会奉仕命令と40ヶ月間の運転禁止の判決が下されたが、後の控訴審で運転禁止期間は27ヶ月に短縮された。
5. キャリア統計
5.1. クラブ統計
クラブ | シーズン | リーグ | 国内カップ | リーグカップ | 欧州 | その他 | 通算 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ディビジョン | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
マンチェスター・ユナイテッド | 2005-06 | プレミアリーグ | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | - | 1 | 0 | |
2006-07 | プレミアリーグ | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | - | 0 | 0 | ||||
2007-08 | プレミアリーグ | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||
2008-09 | プレミアリーグ | 3 | 1 | 3 | 2 | 6 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 14 | 3 | |
2009-10 | プレミアリーグ | 15 | 2 | 1 | 0 | 3 | 2 | 4 | 1 | 0 | 0 | 23 | 5 | |
2010-11 | プレミアリーグ | 12 | 0 | 3 | 0 | 2 | 1 | 3 | 1 | 0 | 0 | 20 | 2 | |
2011-12 | プレミアリーグ | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | |
通算 | 31 | 3 | 7 | 2 | 13 | 3 | 9 | 2 | 0 | 0 | 60 | 10 | ||
ロイヤル・アントワープ (期限付き移籍) | 2006-07 | ベルギー・セカンドディビジョン | 25 | 1 | 2 | 0 | - | - | 6 | 0 | 33 | 1 | ||
ウルヴァーハンプトン・ワンダラーズ (期限付き移籍) | 2007-08 | チャンピオンシップ | 21 | 1 | 3 | 0 | - | - | - | 24 | 1 | |||
エヴァートン | 2011-12 | プレミアリーグ | 11 | 1 | 4 | 0 | - | - | - | 15 | 1 | |||
2012-13 | プレミアリーグ | 23 | 1 | 3 | 0 | 0 | 0 | - | - | 26 | 1 | |||
2013-14 | プレミアリーグ | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | - | - | 2 | 0 | |||
2014-15 | プレミアリーグ | 9 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 4 | 0 | - | 14 | 0 | ||
2015-16 | プレミアリーグ | 7 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | - | - | 11 | 0 | |||
2016-17 | プレミアリーグ | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | - | - | 1 | 0 | |||
通算 | 51 | 2 | 10 | 0 | 4 | 0 | 4 | 0 | - | 69 | 2 | |||
エヴァートン U23 | 2016-17 | - | - | - | - | 1 | 0 | 1 | 0 | |||||
サンダーランド | 2016-17 | プレミアリーグ | 12 | 0 | 0 | 0 | - | - | - | 12 | 0 | |||
2017-18 | チャンピオンシップ | 15 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | - | - | 18 | 0 | |||
通算 | 27 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | - | - | 30 | 0 | ||||
ウィガン・アスレティック | 2018-19 | チャンピオンシップ | 18 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | 0 | 0 | 18 | 0 | |
サルフォード・シティ | 2019-20 | リーグ2 | 3 | 0 | - | - | - | 1 | 0 | 4 | 0 | |||
2020-21 | リーグ2 | 4 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | - | 0 | 0 | 6 | 0 | ||
通算 | 7 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 10 | 0 | ||
キャリア通算 | 180 | 7 | 22 | 2 | 22 | 3 | 13 | 2 | 8 | 0 | 245 | 14 |
5.2. 代表チーム統計
代表チーム | 年 | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
アイルランド共和国 | 2007 | 2 | 0 |
2008 | 2 | 0 | |
2009 | 4 | 0 | |
2010 | 5 | 0 | |
2011 | 4 | 1 | |
2012 | 2 | 0 | |
2013 | 2 | 0 | |
2014 | 4 | 0 | |
2016 | 2 | 0 | |
通算 | 27 | 1 |
5.3. 代表チーム得点
:2016年5月31日現在。アイルランド共和国のスコアが最初に記載され、スコア欄はギブソンの各得点後のスコアを示す。
No. | 日付 | 会場 | キャップ | 対戦相手 | スコア | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2011年2月8日 | アビバ・スタジアム、ダブリン、アイルランド | 14 | ウェールズ | 1-0 | 3-0 | ネーションズカップ2011 |
6. 獲得タイトル
ダロン・ギブソンは、そのキャリアを通じてクラブおよび代表チームで複数のタイトルを獲得した。特に、マンチェスター・ユナイテッド在籍時には、主要な国内リーグやカップ戦、そして国際大会で優勝を経験している。
マンチェスター・ユナイテッド
- プレミアリーグ:2010-11
- フットボールリーグカップ:2008-09、2009-10
- FIFAクラブワールドカップ:2008
アイルランド共和国
- ネーションズカップ:2011
個人
- ジミー・マーフィー年間最優秀若手選手:2005-06
- FAIインターナショナル・フットボール・アワーズ年間最優秀若手国際選手:2009
- FAIインターナショナル・フットボール・アワーズ年間最優秀国際試合得点:2011(対ウェールズ戦)
7. 評価と影響
ダロン・ギブソンの選手キャリアは、そのポジティブな貢献と、ピッチ内外で生じた批判や論争の両面から評価される。彼の長所である強力なシュート能力やチームへの献身は高く評価された一方で、私生活における問題行動は彼の公衆イメージに大きな影響を与えた。
7.1. ポジティブな評価
ギブソンは、強力な中距離シュートを最大の武器とし、マンチェスター・ユナイテッドやエヴァートンにおいて、しばしば重要な局面で得点を記録し、チームを危機から救った。エヴァートンでは、彼が出場した試合のチーム勝率が52%と、欠場時の25%を大きく上回り、攻撃と守備をつなぐ「重要なリンク役」として機能したと評価された。彼のピッチ上での自信に満ちたプレーは、監督の信頼を獲得する要因ともなり、特にトッテナム、マンチェスター・シティ、そして古巣のマンチェスター・ユナイテッドとの試合で見せた「目を引くパフォーマンス」は高く評価されている。マンチェスター・ユナイテッドのリザーブチームでは3冠達成に貢献し、個人としても若手最優秀選手賞を受賞するなど、若くからその才能を認められていた。
7.2. 批判と論争
一方で、ギブソンは選手キャリアを通じていくつかの批判と論争に直面した。技術面では、一部で中盤の選手に求められるパス能力や視野が不足しているとの指摘があった。また、マンチェスター・ユナイテッド時代には、UEFAチャンピオンズリーグでベシクタシュに敗れた試合の後、若手選手の一人として批判に晒されたことがある。
ピッチ外での行動は、彼のキャリアに大きな影響を与えた。2011年のTwitterアカウント閉鎖事件では、ファンからの激しい批判に直面し、ソーシャルメディア上でのプロ選手の行動規範について議論を呼んだ。さらに深刻なのは、2015年と2018年に発覚した飲酒運転によるひき逃げ事故である。これらの法的な問題は、彼のプロキャリアを断ち切る要因となり、特に2度目の飲酒運転による逮捕時には、負傷による身体的な痛みや家族と離れて暮らす精神的なストレスからアルコールに依存していたことを認めている。これらの出来事は、プロアスリートが直面するプレッシャーと、その結果として生じる社会的な問題について、より広範な議論を提起するものとなった。