1. 概要
ダニエル・アーウィン・"ダン"・ジャンセン(Daniel Erwin "Dan" Jansenダニエル・アーウィン・"ダン"・ジャンセン英語、1965年6月17日 - )は、アメリカ合衆国の元スピードスケート選手である。スプリント種目で複数回世界チャンピオンに輝き、長年にわたり冬季オリンピックの金メダル最有力候補と目されながらも、度重なる不運に見舞われ、なかなかメダルに手が届かない「悲運の選手」として知られていた。しかし、1994年のリレハンメルオリンピックの1000メートル走で、選手としての最後のレースにおいてついに悲願の金メダルを獲得し、長年のジンクスを打ち破った。この勝利は、彼が個人的な悲劇と競技上の挫折という困難を乗り越え、人間的な成長を遂げた象徴として、世界中の人々に深い感動を与え、スピードスケート界の英雄として記憶されている。現役引退後は、スピードスケートの解説者やアイスホッケーのコーチとして活動している。
2. 幼少期と背景
ダニエル・ジャンセンは、1965年6月17日にアメリカ合衆国ウィスコンシン州ウェストアリスで、9人兄弟の末っ子として生まれた。身長は1.88 m、体重は83 kgであった。彼の両親は、母のジェラルディン・グレイエク・ジャンセン(1928年 - 2017年)が看護師、父のハリー・ジャンセン(1928年 - 2015年)が警察官で、警部補として警察署を退職した。ジャンセン家はローマ・カトリックの信者であり、ダニエルには看護師の姉が3人いる。また、4人の兄のうち2人は警察官、1人は消防士という公務員の家庭であった。
彼はウェストアリス・セントラル高校を卒業した。特に姉のジェーン(1960年 - 1988年)に影響を受け、幼少期からスピードスケートを始めた。16歳の時には、500メートル走でジュニア世界記録を樹立するなど、若い頃からその才能の片鱗を見せていた。この初期の成功が、彼の競技キャリアへの道を切り開くことになった。
3. 競技キャリア
ダニエル・ジャンセンのスピードスケート選手としてのキャリアは、数々の挑戦と苦難、そして最終的な栄光に彩られている。彼は世界スプリント選手権で複数回優勝し、冬季オリンピックでは常にメダル候補とされながらも、幾度となくその夢が遠のく経験を重ねてきた。しかし、その不屈の精神は最終的に悲願の金メダルへと結実する。
3.1. 初期のオリンピック出場
ジャンセンのオリンピックデビューは、1984年サラエボオリンピックであった。この大会では、500メートル走で4位に入賞し、惜しくもメダルには届かなかったが、その高い実力を示した。1000メートル走では16位に終わったものの、この大会での経験が彼のその後の競技人生の基礎を築くこととなった。
3.2. カルガリーオリンピックと個人的な悲劇
1988年カルガリーオリンピックに臨むにあたり、ジャンセンは500メートル走と1000メートル走の両種目で金メダルの最有力候補として注目を集めていた。この大会に先立つ1988年には、世界スプリント選手権で優勝を果たしている。しかし、500メートル走の競技日である2月14日の未明、彼は27歳の姉であるジェーン・マリー・ベレスが白血病で危篤状態にあることを知らされる。ジャンセンは電話で姉に話しかけたが、返答を得ることはできなかった。そして数時間後、彼は姉の死の知らせを受けた。
この悲劇的な出来事が彼の精神に大きな動揺をもたらした。同日午後の500メートル走に出場したものの、スタート直後の第1コーナーで転倒し途中棄権。さらに4日後の1000メートル走では、序盤から世界記録を上回るペースで飛ばし、600メートル地点をトップタイムで通過したが、残り200メートル付近のバックストレートで再びまさかの転倒を喫し、またしても途中棄権に終わった。カルガリーオリンピックではメダルを獲得できなかったものの、彼の勇敢な努力に対しU.S.オリンピック精神賞が贈られた。彼のこの悲劇的な出来事は、世界中の人々の記憶に深く刻まれることとなった。
3.3. アルベールビルオリンピックと続く苦難
カルガリーオリンピックでの苦い経験から4年後、ジャンセンは1992年アルベールビルオリンピックに雪辱を期して出場した。この間の4年間で、彼は数々の国際大会で優勝を重ね、当時の世界新記録を2度更新するなど好調を維持していた。特に、2度目の500メートル世界新記録はアルベールビル大会の3週間前に樹立されたものであり、彼は最高の状態でフランスに乗り込んだ。しかし、またしてもカルガリーでの悪夢が繰り返された。得意の500メートル走では、レース中にバランスを崩し4位入賞に留まり、1000メートル走では26位と、その実力を出し切ることができなかった。ジャンセンは、この大会でもメダルを獲得することなく終わり、4年前の屈辱を晴らすことはできなかった。
3.4. リレハンメルオリンピック:悲願の金メダル獲得
オリンピックの開催制度が変更され、前倒しで開催されることになった1994年リレハンメルオリンピックは、当時28歳になっていたジャンセンにとって、まさにラストチャンスと考えられていた。この大会に臨む9ヶ月前には長女ジェーン(亡くなった姉と同じ名前)が生まれ、父親となった彼は、新たな決意を胸に競技に臨んだ。1994年には2度目の世界スプリント選手権タイトルを獲得しており、このオリンピックシーズン、彼はISUワールドカップで5度の優勝を飾り、500メートル走では35秒台を3度記録するなど、絶好調のままオリンピック本番を迎えた。
得意の500メートル走では、レース途中まで快調な滑りを見せていたにもかかわらず、最後の第2コーナーでバランスを崩し、思わず手をついてしまうミスを犯した。これによりスピードに乗れず、8位入賞に終わり、またしてもメダルには届かなかった。残されたレースは、そのシーズンやや精彩を欠いていた1000メートル走のみとなり、メダル獲得は極めて厳しい状況に追い込まれた。
しかし、この最後のチャンスで、ジャンセンは奇跡を起こす。彼の前の組で滑った1000メートルを得意とするベラルーシのイーゴリ・ゼレゾフスキーがいきなりオリンピックレコードを樹立し、後続のどの選手もこの記録を上回れない中、ジャンセンの組が巡ってきた。誰もが彼の金メダル獲得は絶望的だと感じていた。
だが、レースが始まると、ジャンセンは今シーズンの1000メートルでの不調が嘘のように、序盤から快調に飛ばした。600メートルを通過した時点で、ゼレゾフスキーのラップタイムを上回っていた。ジャンセンの悲運を知る観客席からは、割れんばかりの歓声が沸き起こり、彼を後押しした。しかし直後のカーブで、またしてもバランスを崩し手をついてしまうミスを犯した。歓声は悲鳴に変わり、誰もがジャンセンの優勝はなくなったと感じた。
しかし、この大会で何度も同じミスを犯しながらも、彼は最後まで諦めずに完走した。そして、そこまでの貯金が功を奏し、この土壇場で1分12秒43という驚異的な世界新記録を樹立する素晴らしいパフォーマンスを発揮し、ついに悲願のオリンピック金メダルを獲得した。これは彼のキャリアで最初で唯一のオリンピックメダルとなった。彼は1976年インスブルックオリンピックの同種目金メダリストであるピーター・ミューラーから指導を受けてこの成功を収めた。
表彰式では「オリンピックチャンピオン、ダン・ジャンセン」とコールされると、彼は両こぶしを大きく突き上げながら表彰台に上がり、アメリカ国歌が流れる中、星条旗が掲揚されるのを涙を流しながら見つめた。その姿は、アメリカ国民だけでなく、世界中の人々に深い感動を呼んだ。この年、彼はジェームズ・E・サリバン賞を受賞し、1994年冬季オリンピックの閉会式では、他のオリンピック選手たちによってアメリカ代表の旗手に選ばれた。1995年にはウィスコンシン州体育殿堂入りを果たした。
4. 功績と記録
ダニエル・ジャンセンは、その競技キャリアを通じて数々の偉業を達成し、スピードスケート界にその名を刻んだ。特に、世界スプリント選手権での複数回の優勝や、複数の世界記録樹立は彼の優れた能力を物語っている。
4.1. 世界記録
ジャンセンはキャリアの中で、合計8回の世界記録を樹立した。
種目 | タイム | 日付 | 会場 |
---|---|---|---|
500 m | 36.41 | 1992年1月25日 | ダボス |
500 m | 36.41 | 1993年3月19日 | カルガリー |
500 m | 36.02 | 1993年3月20日 | カルガリー |
スプリント複合 | 145.580 | 1993年3月20日 | カルガリー |
500 m | 35.92 | 1993年12月4日 | ハーマル |
500 m | 35.76 | 1994年1月30日 | カルガリー |
スプリント複合 | 144.815 | 1994年1月30日 | カルガリー |
1000 m | 1:12.43 | 1994年2月18日 | ハーマル |
4.2. 自己ベスト
ダニエル・ジャンセンのスピードスケート種目ごとの自己最高記録は以下の通りである。
距離 | 記録 | 日付 | 場所 |
---|---|---|---|
500 m | 35.76 | 1994年1月30日 | カルガリー |
1000 m | 1:12.43 | 1994年2月18日 | ハーマル |
1500 m | 1:55.62 | 1993年3月14日 | ヘーレンフェーン |
3000 m | 4:25.63 | 1983年3月5日 | サラエボ |
5000 m | 7:50.22 | 1982年2月7日 | インツェル |
5. 引退後と私生活
スピードスケート選手として引退した後も、ダニエル・ジャンセンは多岐にわたる活動を行い、私生活でも変化を経験している。
5.1. 家族と人間関係
ジャンセンには、最初の妻であるロビン・ウィッカーとの間に、2人の娘、ジェーン(亡くなった姉にちなんで名付けられた)とオリヴィアがいる。ロビンとの結婚生活は、彼が金メダルを獲得し、実業家としても成功する中で多忙となり、すれ違いが多くなったため、2006年に離婚している。その後、彼はクリスティン・ローザと関係を持った。現在の妻であるカレン・パラシオスは、トップレベルのゴルフ指導者である。
5.2. 専門的活動
引退後、ジャンセンはNBCのスピードスケート解説者として活躍している。また、2005年から2007年には、ナショナルホッケーリーグ(NHL)のシカゴ・ブラックホークスでスケーティングコーチを務めた経験もある。
5.3. 慈善活動と社会貢献
ジャンセンは、亡くなった姉ジェーンを偲び、白血病と闘うことを目的とした「ダン・ジャンセン財団」を設立し、その運営に携わっている。また、多発性骨髄腫研究財団の名誉理事を務めるなど、病気との闘いを支援する慈善活動にも積極的に貢献している。
6. レガシーと評価
ダニエル・ジャンセンは、単なる偉大なスピードスケート選手としてだけでなく、逆境を乗り越えた人間勝利の象徴として、スポーツ界と大衆に深く記憶されている。
6.1. 大衆からの評価と逆境の克服
長年にわたりオリンピックでのメダル獲得に苦悩し、特に姉の死という個人的な悲劇に見舞われながらも、最終的に悲願の金メダルを手にしたジャンセンの物語は、多くの人々に感動を与えた。彼は、挫折を乗り越え、目標を達成する不屈の精神の持ち主として、大衆から高く評価されている。その姿は、決して諦めないことの重要性を示す普遍的な象徴として、記憶され続けている。
6.2. 受賞と栄誉
ジャンセンは、その輝かしい功績とスポーツ精神を称えられ、数々の賞と栄誉を受けている。
- 1994年:ジェームズ・E・サリバン賞
- 1995年:ウィスコンシン州体育殿堂入り
- 2004年:アメリカ合衆国オリンピック殿堂入り