1. 概要

チャールズ・オーガスタス・ブリッグス(Charles Augustus Briggsチャールズ・オーガスタス・ブリッグス英語、1841年1月15日 - 1913年6月8日)は、アメリカ合衆国の著名な神学者であり、聖書学者である。ニューヨーク市でアラソン・ブリッグスとサラ・ミード・ベリアンの息子として生まれた。当初は長老教会に所属していたが、その自由主義神学的見解、特に聖書批評学に関する革新的な主張により、異端の嫌疑をかけられ、教団から追放された。その後、米国聖公会に移籍し、聖職者として再任された。ブリッグスは、聖書の権威の源泉やその無誤性に対する伝統的な見解に異を唱え、理性や教会もまた神の権威の源であると主張したことで、当時の神学界に大きな論争を巻き起こした。彼の学術的貢献には、ヴィルヘルム・ゲゼニウスの辞典を基にした『ヘブライ語・英語辞典』の編纂や、『国際批評註解シリーズ』の編集などが挙げられる。
2. 幼少期と教育
チャールズ・オーガスタス・ブリッグスは、1841年1月15日にニューヨーク市で生まれた。彼は幼い頃から学問に強い関心を示し、教育に熱心に取り組んだ。
ブリッグスは、バージニア大学で1857年から1860年まで学び、その後、ユニオン神学校に進学し、1863年に卒業した。南北戦争中にはニューヨーク州兵第7連隊で兵役に服した経験を持つ。戦争終結後の1866年から1869年にかけて、ドイツのベルリン大学でさらに学問を深めた。これらの教育機関での経験が、彼の後の神学的および学術的キャリアの基礎を築いた。
3. 学者および聖職者としての経歴
ベルリン大学での研究を終えた後、チャールズ・オーガスタス・ブリッグスは、1870年にニュージャージー州ロゼルの第一長老教会の牧師に任命され、1874年までその職を務めた。
1874年、彼はユニオン神学校のヘブライ語および関連言語の教授職に就任し、1891年まで教鞭を執った。同年からは聖書神学の教授となり、1904年までその職を務めた。その後、神学百科事典および象徴学の教授に就任した。ユニオン神学校では、バーク図書館の館長も兼任した。
また、1880年から1890年まで、『プレスビテリアン・レビュー』誌の編集者としても活動し、その学術的知見を広範囲に発信した。これらの職務を通じて、ブリッグスはアメリカの神学界において中心的な存在となっていった。
4. 異端審問と教団からの追放
チャールズ・オーガスタス・ブリッグスの神学的見解は、当時の長老教会の主流派としばしば衝突し、結果として異端審問にかけられることになった。
4.1. 審問の背景と嫌疑
ブリッグスに対する異端審問は、1891年の彼のユニオン神学校での就任演説がもとで始まった。この演説で彼が提示した自由主義的な神学的立場は、伝統的な長老教会の教義と大きくかけ離れていると見なされた。彼に対して提起された具体的な嫌疑は以下の通りである。
- 理性と教会が、聖書以外にも人々を救済的に啓蒙する神の権威の源泉であると教えたこと。これは、聖書のみを唯一の神の権威の源泉とする伝統的なプロテスタント神学の立場に反するとされた。
- 聖書の原典に誤りが存在し得ると主張したこと。これは聖書の無誤性を否定する見解として批判された。
- 旧約聖書のメシア預言が歴史によって反転し、その大部分が成就されていない、あるいは成就し得ないと主張したこと。
- モーセがモーセ五書の著者ではない、またイザヤがイザヤ書の後半の著者ではないと主張したこと。これは、聖書の伝統的な著者帰属に対する高等批評的アプローチに基づくものであった。
- 贖罪の過程が来世にも及ぶと主張したこと。彼は、プロテスタント神学が贖罪をこの世に限定し、死による聖化が完全ではないと見なす点を批判した。
4.2. 審問過程と判決
1892年、ニューヨーク長老会はブリッグスを異端の廉で審問したが、この審問では無罪とされた。しかし、この判決は長老教会総会に上訴された。
1893年、ワシントンD.C.で開かれた長老教会総会において、総会はブリッグスを免職し、長老教会から破門することを決定した。総会の判決は、ブリッグスの好戦的な態度や挑発的な表現、そして彼の就任演説が彼の同僚たちから「教条的でいらいらさせる性質」と評されたことも影響したと指摘されている。
4.3. 審問後と教団変更
長老教会からの追放後、ブリッグスは聖公会に転向した。そして1899年、彼は米国聖公会の司祭に叙任された。この教団変更は、彼が自身の学術的・神学的活動を継続するための重要な転機となった。
5. 主要な著作と学術的貢献
チャールズ・オーガスタス・ブリッグスは、その生涯において数多くの重要な学術的著作を著し、聖書学および神学の発展に多大な貢献をした。
彼の主要な著作には以下のものがある。
- 『聖書研究:その原理、方法、歴史』 (Biblical Study: Its Principles, Methods and History英語、1883年)
- 『創造のヘブライ詩』 (Hebrew Poems of the Creation英語、1884年)
- 『アメリカ長老主義:その起源と初期の歴史』 (American Presbyterianism: Its Origin and Early History英語、1885年)
- 『メシア預言』 (Messianic Prophecy英語、1886年)
- 『聖書史』 (Biblical history英語、1889年)
- 『どこへ?現代のための神学的質問』 (Whither? A Theological Question for the Times英語、1889年)
- 『聖書の権威』 (The Authority of the Holy Scripture英語、1891年)
- 『聖書、教会、そして理性』 (The Bible, the Church and the Reason英語、1892年)
- 『六書に関する高等批評』 (The Higher Criticism of the Hexateuch英語、1893年)
- 『福音書のメシア』 (The Messiah of the Gospels英語、1894年)
- 『使徒たちのメシア』 (The Messiah of the Apostles英語、1894年)
- 『聖書研究への一般入門』 (General introduction to the study of Holy Scripture英語、1899年)
- 『イエスの生涯に関する新発見』 (New Light on the Life of Jesus英語、1904年)
- 『イエスの倫理的教え』 (The Ethical Teaching of Jesus英語、1904年)
- 『詩篇の批評的および釈義的註解』 (2巻、1906-1907年) - この著作では彼の娘が協力した。
- 『主の処女降誕』 (The Virgin Birth of Our Lord英語、1909年)
- 『神学的象徴学』 (Theological Symbolics英語、1914年、没後出版)
学術的貢献としては、フランシス・ブラウンとサミュエル・ロールズ・ドライバーと共に、ヴィルヘルム・ゲゼニウスの辞典を基盤とした改訂版『ヘブライ語・英語辞典』(1891年-1905年)を編纂したことが特筆される。この辞典は一般に『ブラウン・ドライバー・ブリッグス辞典』(BDB)として知られ、ヘブライ語研究の分野で重要な資料となっている。また、ドライバーと共に『国際批評註解シリーズ』の編集も手掛け、聖書学における批評的アプローチの普及に貢献した。
6. 神学と聖書批評学
チャールズ・オーガスタス・ブリッグスの神学は、19世紀後半のアメリカにおける自由主義神学運動の重要な一翼を担っていた。彼の思想は、伝統的な保守的な神学、特にプリンストン神学と強く対立した。
ブリッグスは、聖書批評学、特に高等批評のアプローチを聖書研究に積極的に導入した。彼は、聖書が絶対的な権威を持つ神の言葉であると同時に、歴史的・文学的な文脈の中で人間によって書かれた文書であると認識していた。このため、聖書の原典には写本上の誤りが存在し得ると主張し、また、聖書の特定の書物の著者帰属(例:モーセ五書のモーセ、イザヤ書のイザヤ)に疑問を投げかけた。彼は、聖書の預言の解釈においても、その歴史的成就の限定性を指摘し、すべてのメシア預言が文字通り成就するわけではないと主張した。
彼の神学の核心は、神の啓示の源泉が聖書だけでなく、理性や教会、さらには人間の良心にも存在するという考え方であった。彼は、伝統的なプロテスタント神学が救済の過程をこの世の生涯に限定しすぎているとし、来世においても贖罪の過程が継続するという見解を示した。
これらの見解は、聖書の無誤性や権威、伝統的な教義に固執する保守派の神学者たちとの間で激しい衝突を引き起こした。ブリッグスの聖書批評学へのアプローチは、聖書をより現代的な学問的視点から理解しようとする試みであり、アメリカの神学界に大きな影響を与え、その後の聖書学の方向性を決定づける一因となった。
7. 名誉学位と学術的評価
チャールズ・オーガスタス・ブリッグスは、その学術的な功績を認められ、国内外の著名な大学から数々の名誉学位を授与された。
- エディンバラ大学より神学博士(D.D.)号(1884年)
- グラスゴー大学より神学博士(D.D.)号(1901年)
- オックスフォード大学より文学博士(D.Litt.)号(1901年)
これらの名誉学位は、彼の聖書学および神学研究における卓越した貢献と、国際的な学術界からの高い評価を裏付けるものであった。
8. 私生活
チャールズ・オーガスタス・ブリッグスの私生活に関する公に知られている情報は限られているが、彼の学術活動と家族との関わりが示唆されている。彼は結婚しており、娘は彼の著作である『詩篇の批評的および釈義的註解』(2巻、1906-1907年)の編纂において彼を支援した。このことは、彼の家族が彼の学術的な探求に一定の関与を持っていたことを示している。
9. 死去
チャールズ・オーガスタス・ブリッグスは1913年6月8日に死去した。
10. 遺産と評価
チャールズ・オーガスタス・ブリッグスは、その学術的および神学的遺産を通じて、後世に多大な影響を与えた。しかし、彼の見解は同時に多くの論争と批判の対象ともなった。
10.1. 学術的影響
ブリッグスの最も重要な学術的影響は、アメリカにおける聖書批評学の導入と普及にある。彼は、聖書を歴史的、文学的な文書として厳密に分析する手法を提唱し、伝統的な解釈に疑問を呈した。彼の著作、特に『ブラウン・ドライバー・ブリッグス辞典』や『国際批評註解シリーズ』の編集は、ヘブライ語研究および聖書註解学の分野に永続的な影響を与えた。彼の思想は、聖書研究の現代化を促し、後の世代の聖書学者や神学者たちが、より批判的かつ客観的な視点から聖書に向き合うための道を開いた。
10.2. 論争と批判
ブリッグスの神学的見解、特に聖書無誤性の否定や、理性と教会を神の啓示の源泉と見なす主張は、保守的な神学者たちから強い批判を受けた。彼の異端審問は、当時のアメリカ長老教会を二分するほどの大きな論争となり、自由主義神学と保守神学の間の緊張関係を浮き彫りにした。彼の好戦的で挑発的な態度も、論争が激化した一因とされている。ブリッグスに対する批判は、彼が伝統的な信仰の基盤を揺るがし、信仰の絶対性を相対化した点に集中していた。しかし、彼の存在は、アメリカのプロテスタント教会が現代世界において信仰と学問の調和をどのように図るべきかという、重要な問いを提起するきっかけともなった。
11. 関連項目
- 長老教会
- 米国聖公会
- 自由主義神学
- 聖書批評学
- 高等批評
- ユニオン神学校
- プリンストン神学校
- プリンストン神学
- チャールズ・ホッジ
12. 外部リンク
- [https://archive.org/details/CharlesAugustusBriggs インターネットアーカイブ: チャールズ・オーガスタス・ブリッグスの著作]