1. キャリア
トニ・ヒメネスは選手として数々のクラブで活躍した後、引退後もゴールキーパーコーチとしてサッカー界に貢献し続けている。
1.1. 選手キャリア
トニ・ヒメネスの選手としてのキャリアは、ユース時代からトップリーグでの活躍、そして国際舞台での栄光に至るまで多岐にわたる。
1.1.1. クラブキャリア
カタルーニャ州バルセロナ県のラ・ガリガに生まれたヒメネスは、FCバルセロナのCチームでシニアキャリアをスタートさせた。その後、セグンダ・ディビシオンのUEフィゲレスにレンタル移籍し、プロデビューを果たした。フィゲレスでは2シーズンにわたり、控えから正ゴールキーパーへと成長し、その能力を示した。
1992年、ヒメネスは以前のレアル・サラゴサとの契約を解除してラージョ・バジェカーノへと移籍した。当初はナイジェリア人ゴールキーパーのウィルフレッド・アグボナヴバレの控えであったが、アグボナヴバレの負傷によりラ・リーガデビューを果たす機会を得た。CDログロニェス戦でリーグ初出場を飾ったが、アグボナヴバレの復帰後は再びベンチに戻った。
1993年7月、ヒメネスはホセ・アントニオ・カマーチョ監督と共に、当時セグンダ・ディビシオンに降格していたRCDエスパニョールへと移籍した。エスパニョールでは6年間不動のレギュラーとして活躍し、移籍初年度の1993-94シーズンにはセグンダ・ディビシオンでリカルト・サモラ賞を受賞した。翌1994-95シーズンにはUEFAカップ出場権獲得に貢献するなど、クラブのUEFAカップ予選出場に貢献した。エスパニョールでの在籍期間中、彼は公式戦に300試合近く出場し、クラブの重要な選手として名を馳せた。
1999年の夏、ヒメネスはアトレティコ・マドリードと契約したが、ここでの3年間は彼にとって不本意なものとなった。最初のシーズン(1999-2000シーズン)はホセ・フランシスコ・モリーナにポジションを奪われ、その上、チームはセグンダ・ディビシオンへと降格するという屈辱を味わった。さらに、コパ・デル・レイの決勝では、かつての所属クラブであるエスパニョールと対戦したが、1-2で敗れタイトル獲得はならなかった。この試合では、かつてのチームメイトであるラウル・タムードに空中でボールを奪われ、決勝点を許す場面もあった。セグンダ降格後もクラブに残留し、降格初年度は正守護神を務めたものの、翌シーズンには再び控えに回ることになった。
2002年、32歳になったヒメネスは、当時セグンダ・ディビシオンに所属していたエルチェCFへと移籍した。エルチェでは再び正ゴールキーパーの座を奪還し、リーグ戦全38試合にフル出場し、失点を39に抑える活躍を見せた。この活躍が認められ、2003年1月にはハビエル・クレメンテ新監督の強い要望により、ラ・リーガに所属していた古巣のエスパニョールに復帰した。エスパニョールで2シーズンを過ごした後、2003-04シーズン終了をもって34歳を目前に現役を引退した。引退後もエスパニョールに残り、ディレクター職を務めていたが、2006年3月にスポーツディレクターのクリストバル・パラーロが辞任した際に彼もクラブを離れた。
1.1.2. 代表キャリア
ヒメネスは、まだラ・リーガでのプレー経験がなかった1992年に、バルセロナで開催された1992年バルセロナオリンピックのスペイン代表にビセンテ・ミエラ監督によって選出された。当時正ゴールキーパーだったサンティアゴ・カニサレスとの激しい競争を制し、ヒメネスは大会の全試合にフル出場を果たし、スペイン代表の金メダル獲得に大きく貢献した。
また、ヒメネスは1年間でスペインA代表として3試合に出場している。A代表での初出場は、1998年11月18日にサレルノで行われたイタリア代表との親善試合(2-2の引き分け)で、この試合はホセ・アントニオ・カマーチョ監督の下でのデビュー戦だった。UEFA EURO 2000では第3ゴールキーパーとしての招集が有力視されていたが、最終的には当時まだ19歳の若手であったイケル・カシージャスが代わりに選出された。
1.2. コーチキャリア
選手引退後、トニ・ヒメネスはジローナFCでアシスタントコーチとして初の指導者キャリアをスタートさせた。2009年5月には、ゴールキーパーコーチとして再びRCDエスパニョールに戻った。
2011年、ヒメネスはエスパニョール時代を長らく共に過ごしたマウリシオ・ポチェッティーノ監督のアシスタントコーチとして、彼と再び協力関係を築き始めた。この協力関係はその後も続き、2013年1月にはポチェッティーノがサウサンプトンFCの監督に就任した際に彼もそれに帯同した。
2014年5月には、ポチェッティーノとヒメネスは共にプレミアリーグのトッテナム・ホットスパーFCへ移籍し、指導陣の一員となった。その後、リーグ・アンのパリ・サンジェルマンFCで2年間を過ごし、2021年1月にはここでもポチェッティーノのスタッフとしてチームに加わった。2023年5月には、再びポチェッティーノと共にチェルシーFCに移籍し、イングランドのトップリーグへと戻った。チェルシーでは2024年5月まで務めた。
2. タイトル・栄誉
トニ・ヒメネスは選手として、そして指導者としても、そのキャリアを通じて数々のタイトルと栄誉を獲得している。
2.1. クラブタイトル
- セグンダ・ディビシオン: 1993-94 (RCDエスパニョール)
- コパ・デル・レイ準優勝: 1999-2000 (アトレティコ・マドリード)
2.2. 代表タイトル
- サマーオリンピック金メダル: 1992 (スペイン U-23)
2.3. 個人タイトル
- リカルト・サモラ賞: 1993-94 (セグンダ・ディビシオン)、1997-98 (ラ・リーガ)
3. 評価と影響
トニ・ヒメネスのキャリアは、そのプレースタイルと指導哲学を通じて、サッカー界に大きな影響を与えてきた。
3.1. 影響と功績
選手としてのヒメネスは、RCDエスパニョールでの長年にわたる活躍と、リカルト・サモラ賞の獲得、そして1992年バルセロナオリンピックでの金メダル獲得に不可欠な存在であった。彼は安定したパフォーマンスとリーダーシップを発揮し、チームの成功に大きく貢献した。その冷静かつ堅実なプレースタイルは、多くの若手ゴールキーパーの模範となった。
コーチとしての彼は、マウリシオ・ポチェッティーノ監督との長期にわたる協力関係を通じて、数々のトップクラブでその手腕を発揮した。彼のゴールキーパーコーチングは、世界トップクラスのゴールキーパーたちの技術向上に貢献し、現代サッカーにおけるゴールキーパーの役割の重要性を再認識させた。彼は、選手一人ひとりの特性を見極め、それぞれの能力を最大限に引き出すコーチング哲学を持つことで知られている。
3.2. 世論とメディアの評価
ヒメネスのキャリアは、一貫性と高いプロ意識によってメディアや世論から評価されてきた。特に、1992年バルセロナオリンピックでサンティアゴ・カニサレスとの競争を制し、正ゴールキーパーの座を勝ち取ったことは、彼の精神的な強さと実力を示すエピソードとして語り継がれている。
一方で、アトレティコ・マドリード時代のコパ・デル・レイ決勝での失点については、キャリアにおける痛恨のミスとして言及されることもある。しかし、その後のエルチェCFでの活躍や、再びエスパニョールでプレーする機会を得たこと、そして引退後もマウリシオ・ポチェッティーノという著名な監督の右腕として指導者としてのキャリアを確立したことは、彼のサッカーに対する情熱と適応能力の高さを示すものとして広く認識されている。UEFA EURO 2000でイケル・カシージャスに代表の座を譲ったことは、新たな世代の台頭を象徴する出来事であったが、これもヒメネスのキャリアの深みを増す一側面と捉えられている。