1. Overview

トミ・アンテロ・マキネン(Tommi Antero Mäkinenˈtomːi ˈmækinenフィンランド語、1964年6月26日 - )は、フィンランドの元ラリードライバーであり、レーシングチームの代表を務めた人物である。彼は史上最も成功したWRCドライバーの一人であり、歴代5位のラリー優勝数(24勝)と歴代3位タイのチャンピオンシップ獲得数(4回)を誇る。特に三菱ランサーエボリューションを駆り、1996年から1999年にかけてWRCドライバーズチャンピオンを4年連続で獲得したことは特筆される。
引退後は、自身の会社であるトミ・マキネン・レーシング(TMR)を設立し、ラリーカーの準備やドライバーのサポートを行った。2016年にはトヨタガズーレーシングWRTのチーム代表に就任し、2018年にはマニュファクチャラーズタイトルを、2019年と2020年にはドライバーズ/コドライバーズタイトルを獲得した。これにより、彼はドライバーとしてもチーム代表としてもWRCチャンピオンを獲得した史上初の人物となった。彼の功績は高く評価され、2019年にはFIA殿堂入りを果たしている。その強力なリーダーシップと勝利へのストイックな姿勢はチームに大きな成功をもたらしたが、一方で一部のスタッフやドライバーとの意見の相違や離脱といった議論も生んだ。
2. 生涯と初期のキャリア
トミ・マキネンのモータースポーツキャリアは、著名なマニュファクチャラーチームに加入する以前の困難な下積み時代から始まった。
2.1. 初期キャリアとWRC初優勝
マキネンは元々メカニックであり、WRCドライバーのヤリ=マティ・ラトバラの父のチームで働いていた経験もある。彼は1985年に地元の実業家ティモ・ヨウキや同郷の先輩であるユハ・カンクネンらの援助を受け、フォード・エスコートRS2000でラリー活動を開始した。
1987年にWRCデビューを果たしたものの、同時期に活躍していたコリン・マクレーやカルロス・サインツらが強力なチームのバックアップを得ていたのとは対照的に、マキネンは恵まれない状況にあった。1991年にはマツダ、1992年には日産のワークスチームに加入するも、チームやマシンに恵まれず、フィンランドラリー選手権やイタリアラリー選手権、あるいはWRCへのスポット参戦を続ける不遇の時期を過ごした。
転機が訪れたのは1994年の1000湖ラリー(現:ラリー・フィンランド)であった。当時、エースドライバーのフランソワ・デルクールの事故により低迷していたフォードは、カンフル剤としてマキネンを起用した。この年、ディディエ・オリオールとカルロス・サインツがタイトル争いを繰り広げる中、マキネンはフォード・エスコートRSコスワースを見事に乗りこなし、終始両者を圧倒してWRC初優勝を飾った。この活躍により、彼は三菱自動車のワークスチームであるラリーアートとの契約を果たすことになった。
3. 世界ラリー選手権キャリア (ドライバー)
マキネンのWRCドライバーとしてのキャリアは、三菱時代にその絶頂を迎え、その後スバルへと移籍し、引退を迎えた。
3.1. 三菱時代 (1995-2001)

三菱での最初のラリーは1994年のサンレモ・ラリーへのスポット参戦であった。このラリーではリタイヤに終わったものの、後にマキネンの走りを支えることになる三菱のアクティブ・デフが初めて投入された、非常に意義深い参戦となった。
三菱でのフル参戦初年度である1995年は、前年に投入された電気式アクティブデフの威力とマシンの改良が功を奏し、マキネンも持ち前の速さを発揮した。第2戦のスウェーデン・ラリーでは、その成果が表れ、チームメイトのケネス・エリクソンにチームオーダーで勝利を譲ったものの、マキネンの速さが際立った。しかし、その後も速さを見せるものの、結果に結びつかないラリーが多く、この年は散発的な結果に終わった。
翌1996年、三菱本社の予算縮小の影響を受け、チームは1台体制がメインとなったが、マキネンのタイトル獲得に戦力を集中させた。マキネンも前年の不安定さを克服し、シーズンを通して安定した速さを見せた。最終的に全9戦中5勝を挙げ、第7戦オーストラリア・ラリーで初のWRCドライバーズタイトルを獲得した。この年を境に、マキネンとランサーエボリューションは目覚ましい活躍を見せることとなる。
1997年に新しくWRカー規定が導入され、ライバルのスバル、フォード、トヨタがWRカーを投入したが、三菱はグループA規定を貫き、ランサーエボリューションIVを投入した。マキネンは最終戦までスバルのコリン・マクレーと熾烈なタイトル争いを繰り広げ、わずか1ポイント差でマクレーを破り、タイトルを連覇した。1998年には最終戦ラリーGBで初日にリタイヤしタイトルが絶望視されたが、トヨタのサインツが最終SSの残り300 mでリタイヤするという劇的な展開となり、3連覇を達成した。1999年もタイトルを防衛し、チャンピオン獲得4回というユハ・カンクネンの記録に並んだ(4連覇は史上初である)。1998年には三菱初のマニュファクチャラーズタイトル獲得にも貢献し、まさにマキネンとランサーエボリューションの絶頂期であった。

WRカー勢に対抗するため、三菱はランサーエボリューションV、VIを投入し、ワイドトレッド化、エアロダイナミクスの改善、アクティブ・デフの進化といった改良を続けた。しかし、改造範囲の広いWRカーがより戦闘力を高めるにつれ、マキネンとランサーエボリューションの走りにも陰りが見え始めた。また、グループAのランサーがWRカーの規定に合わせる形で修正(フロント、リアスポイラーの小型化)を余儀なくされるという不合理な事態も発生した。2000年にはフル参戦を開始したプジョーのマーカス・グロンホルムにチャンピオンを奪われ、マキネンはシーズン5位に終わった。
このような時代の変化に伴い、ついにチームは2001年に長年にわたりこだわってきたグループAからWRカーへの転換を発表した。特例としてフライホイールの軽量化やリアサスペンションストロークの増大が施されたランサーエボリューション トミ・マキネンエディション(通称:エボ6.5)は、開幕戦から3勝をマークした。しかし、その後、第11戦サンレモからWRカーであるランサーエボリューションWRCを投入するも、最終戦までの4戦中3戦でリタイヤし、わずか1ポイントを獲得するにとどまった。この結果、最終戦までもつれたチャンピオン争いに敗れ、シーズン3位で終えた。この2001年のツール・ド・コルスでは、新型マシンの熟成が進まず、岩に激突して転倒し、崖に転落する寸前で止まる大事故となった。この事故で長年コ・ドライバーを務めたリスト・マニセンマキが背中を負傷し、長期休養を余儀なくされ、カイ・リンドストロームに交代することになった。
3.2. スバル時代と引退 (2002-2003)

2002年、マキネンは7年間を過ごした三菱を離れ、「他のワークスチームも知りたい」という理由から、これまで鎬を削ってきたスバルへと移籍した。移籍初戦のモンテカルロでいきなり優勝を飾ったが、これはオンロードで優勝したセバスチャン・ローブが技術規定違反により失格となったことによるものであった。新型インプレッサWRC 2002投入後は、3位に2回入るにとどまり、最終的にランキング8位と低迷した。このシーズン、マキネンはスバルインプレッサWRCへの適応に苦労したとされている。
2003年はスウェーデン・ラリーで2位を獲得したものの、チームメイトのペター・ソルベルグが急成長したことで、ソルベルグのチャンピオン争いをサポートする立場に回った。ソルベルグやセバスチャン・ローブ、マルコ・マルティンといった若手ドライバーの台頭もあり、マキネンは地元フィンランドのラリー終了後に、この年限りでの引退を表明した。引退イベントとなった最終戦ラリーGBでは、金色のシューズを履いてドライブし、3位表彰台で現役ドライバーとしてのキャリアに花道を飾った。このラリーでは、3位を争っていたコリン・マクレーもレギュラー参戦最終年となり、一方でソルベルグが優勝してチャンピオンに輝くなど、WRCの世代交代を強く印象づける一戦となった。
マキネンのWRC4連覇の記録は、2008年にローブが5連覇を達成して更新され、ローブはさらに9連覇まで記録を伸ばした。
4. 引退後のキャリア
ドライバー引退後も、マキネンはモータースポーツ分野で多岐にわたる活動を続けた。
4.1. トミ・マキネン・レーシング (TMR)
2004年、マキネンは故郷のユヴァスキュラ近郊に自身の会社であるトミ・マキネン・レーシング(TMR)を設立した。この会社は、スバルWRX STIのグループNやグループR4マシンの輸入、製作、販売、開発を行うことを目的としている。また、フィンランドラリー選手権にラリーチームとして参戦し、2009年にはWRCラリー・フィンランドでキミ・ライコネンをドライブさせたこともある。2010年までは毎年WRX STiの市販車開発テストにドライバーとして参加した。
日本人ドライバーの新井敏弘は、2012年のIRCにトミ・マキネン・レーシングからインプレッサのR4仕様をドライブして参戦した。
4.2. トヨタガズーレーシングWRTチーム代表

現役時代、日本のWRC参戦メーカーの中でトヨタとは関わりがなかったマキネンだが、2014年1月、豊田章男社長が北海道で直接ドライビングレッスンを受けたことがきっかけで、二人は意気投合した。同年ラリー・フィンランドでは、豊田社長を乗せてTMR製作のトヨタGT86ラリーカーでパフォーマンスランを行った。
2015年1月、トヨタのWRC復帰が発表され、同年夏にはマキネンが「TOYOTA GAZOO Racing WRT」のチーム代表に就任することが発表された。かつてWRCで3連覇を果たしたトヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)を前身とするドイツのトヨタ・モータースポーツ有限会社(TMG)ではなく、マキネンに任せることには国内外から反対意見が相次いだ。しかし、マキネンの人柄を知る豊田社長が、自身の確信と熱意でこの決定を押し切った。車体開発拠点はマキネンの所有するフィンランドのTMR施設を拡張し、エンジンはTMGで開発するという体制が敷かれた。
2017年にはヤリスWRCでWRCに復帰した。マキネンの勝利に対するストイックな姿勢と強力なチーム作りの手腕に対する評価は極めて高く、フォルクスワーゲンの電撃撤退によるヤリ=マティ・ラトバラ獲得という幸運にも恵まれ、トヨタはわずか1年半という開発期間で、復帰2戦目にして優勝を獲得するに至った。翌2018年にはオィット・タナック/マルティン・ヤルヴェオヤの活躍で3連勝を含む5勝をマークし、復帰2年目にしてマニュファクチャラーズタイトルを、翌2019年・2020年にはドライバーズ/コドライバーズタイトルを獲得した。監督としてもラリー界の頂点に立ち、豊田社長のマキネンへの期待が間違っていなかったことを証明してみせた。
ドライバーとしてのみならずチーム監督としても世界チャンピオンに輝いた功績を認められ、2019年1月にFIA殿堂入りを果たした。
TMRとしても引き続き活動を継続しており、TOYOTA GAZOO Racingの育成選手である勝田貴元、新井大輝、足立さやからをフィンランドラリー選手権やWRC2でドライブさせた。
一方で、彼の強烈なリーダーシップは強権的な面も持ち合わせており、激務や彼との意見の相違を理由に離脱したと思われるスタッフやドライバーもいた。2019年にWRCチャンピオンを獲得したタナックとマルティン・ヤルヴェオヤの離脱は、その代表例である。また、スバル時代からの仲であった技術者のマイケル・ゾトスを含む3人のスタッフがチームを離れたこともあった。
2021年にはトヨタのモータースポーツアドバイザーに就任し、チーム代表の座をラトバラへと譲った。この時、マシン開発もトヨタ・ガズー・レーシング・ヨーロッパ(TGR-E、旧TMG)へと移管され、事実上一線を退いた形となった。
5. ドライビングスタイルと特徴
マキネンのレース運びの特徴は、得意なステージでライバルに差をつけ、終盤はライバルのペースを見ながらリードを保ち勝利を得るというものだった。特にモンテカルロや地元のフィンランドでは、このスタイルがより鮮明に表れていた。
フィンランド人ドライバーではあるが、ターマック(舗装路)ラリーも得意としており、1997年のカタルーニャ・ラリーではスバルのピエロ・リアッティを7秒差で下して勝利を飾った。この勝利を境に、モンテカルロでは1999年から2002年まで史上初の4年連続優勝を達成し、サンレモでは1998年と1999年に2年連続で優勝を飾っている。ターマックでのモンテカルロ4連覇、グラベル(未舗装路)でのフィンランド5連覇という1イベントにおける連覇記録を持っていたが、これらはいずれも後にセバスチャン・ローブによって更新されている(ターマックではドイツとカタルーニャの8連覇、グラベルではメキシコの6連覇)。
モンテカルロラリーは、ターマックをベースに雪や氷により目まぐるしく変化する路面状況が特徴であり、シリーズの中でも最難関とされ伝統の一戦でもあるが、マキネンはこのラリーを大得意としていた。1997年には総合3位、1999年から2002年までは前述の史上初の4連覇を達成した。後にモンテカルロでの連覇記録は2018年にセバスチャン・オジェによって更新された。また、モンテカルロでの通算勝利記録は4勝でワルター・ロールと並び最多タイ記録だったが、2008年にローブにより更新された(ローブは後に7勝まで記録を伸ばしている)。
一方で、ツイスティで独特なコースが特徴であるツール・ド・コルスを苦手としており、相性は悪かった。2回目の出場となった1997年、時速200 km/hで走行中に突如コース上に現れた牛と激突し、50 mの崖下に転落してリタイヤする事故に見舞われた。崖からの転落にもかかわらず、マシンは前後が大きく潰れただけで済み、奇跡的にも無傷であった。翌1998年はECUのトラブルでリタイヤ。三菱での最後の出場となった2001年も、ニューマシンの熟成が進まず、岩に激突し転倒、崖に転落する寸前で止まる大事故となった。
マキネンは硬い足回りを好んでおり、その硬さには百戦錬磨のプロドライブのエンジニアが目を丸くするほどであったという。
6. 私生活
マキネンはフィンランドのユヴァスキュラ近郊にあるプッポラで生まれた。1999年以降は、ユヴァスキュラとモンテカルロを行き来する生活を送っている。彼は既婚者であり、2人の子供がいる。
7. 功績と評価
トミ・マキネンはドライバーとして、またチーム代表として、モータースポーツの歴史に名を刻む数々の偉業を達成したが、彼のキャリアやリーダーシップには様々な側面からの評価が存在する。
7.1. 功績と栄誉
マキネンはWRCにおいて、1996年から1999年にかけて4年連続でドライバーズチャンピオンに輝いた。これはWRC史上初の4連覇であり、通算24勝は歴代5位の記録である。また、1998年には三菱初のマニュファクチャラーズタイトル獲得にも貢献した。
ドライバー引退後も、彼はモータースポーツ界で成功を収めた。特にトヨタガズーレーシングWRTのチーム代表としては、2018年にマニュファクチャラーズタイトルを、2019年と2020年にはドライバーズ/コドライバーズタイトルを獲得し、自身がドライバーとしてだけでなく、チーム代表としてもWRCチャンピオンを獲得した史上初の人物となった。
これらの輝かしい功績を認められ、マキネンは2019年1月にFIA殿堂入りを果たした。また、2000年にはレース・オブ・チャンピオンズで「チャンピオン・オブ・チャンピオンズ」のタイトルを獲得している。
7.2. 批判と論争
マキネンの強力なリーダーシップは、トヨタWRCチームの成功に不可欠であったが、その強権的な側面は一部で批判や論争の対象となった。激務や彼との意見の相違を理由に、チームを離脱したスタッフやドライバーも存在した。
2019年にWRCチャンピオンを獲得したタナックとマルティン・ヤルヴェオヤの離脱は、その代表例である。また、スバル時代からの仲であった技術者のマイケル・ゾトスを含む3人のスタッフがチームを離れたこともあった。これらの事例は、マキネンの勝利への執着と、それがもたらすチーム内の緊張関係を示唆している。
8. エピソード
- 4年連続ドライバーズタイトル獲得を記念して、ランサーエボリューションVI トミ・マキネンエディションが2000年1月8日に販売された。WRCドライバーの名前が冠された市販車は非常に稀で、他にカルロス・サインツ(トヨタ・セリカGT-Four RC)、コリン・マクレー(スバル・インプレッサWRX "Series McRae")、セバスチャン・ローブ(シトロエン・C4 "C4 by LOEB")などが挙げられるのみである。
- 1995年を除き、チャンピオン争いをしていた三菱時代は絶対的なエースとしてチームに君臨していた。そのため、一緒に組んだチームメイトが他のチームに移籍したり、成績が下降していった例も存在する。1999年から2001年まで三菱のセカンドドライバーとして在籍していたフレディ・ロイクスは、将来のチャンピオン候補と謳われながらも、マキネン中心のチーム運営に馴染めず、表彰台争いをしていたトヨタ時代よりも明らかに成績が低迷した。一方で、1996年から1998年までチームメイトであったリチャード・バーンズは在籍中の1998年に初勝利を含む2勝を挙げ、その後スバルに移籍してチャンピオン争いの常連となった。
- 先輩のカンクネンが社交的で口数が多かったのとは対照的に、マキネンは寡黙な性格で知られていた。しかし、引退後に出演した日本の車関連のビデオでは陽気な一面も垣間見せている。
- マキネンの先代チャンピオンであるコリン・マクレーが2007年に事故死した際には大変ショックを受けていた。最後のラリーとなった2003年最終戦グレートブリテンでは、サービスパークの車中で2人で話し合うなど、長年しのぎを削り合ってきた友人であった。
- スバルに在籍していた際、ある雑誌のインタビューで三菱が2003年にWRC活動を休止したことについて、「立場もあるからコメントしにくいね。ただ、かつて在籍していたチームが参戦しないのは非常に残念なことだ」と答え、かつて王座に君臨していた古巣の突然の活動休止を惜しんだ。
- 2003年のツール・ド・コルス、木曜のシェイクダウン中にチャンピオン争いをしていたペター・ソルベルグが大クラッシュし、マシンが大きく損傷した。この時、マキネンはレギュレーションが許せば自分のマシンをソルベルグに譲るとチームに申し出た。レギュレーション上、すでに登録していたマシンの交換は不可能だったが、この申し出に触発され、プロドライブのメカニックの尽力により一晩でマシンを走行可能な状態に修復した。ソルベルグはその後、天候の急激な変化にも助けられ、ツール・ド・コルスで自身初のターマックイベント優勝を飾った。マキネンの引退レースとなった最終戦ラリーGBでは、チャンピオンを目指すソルベルグのためにタイヤテストをしながら走行し、彼のタイトル獲得をサポートした。
- WRCチーム代表としてのトミ・マキネンは、速さよりもドライバーにとっての運転しやすさに強烈なこだわりを持っていた。トヨタヤリスWRCの開発の際には、自ら開発ドライバーとして参加した上、TMGに要請してエンジンを1年半の間に4度も設計からやり直させた。マキネンの車作りの思想は、「もっといいクルマづくり」を掲げる豊田章男が深く共感し、それが二人の意気投合とWRC参戦のきっかけの一つともなっている。
- ジャッキー・チェンの映画『デッドヒート』で、三菱契約ドライバー役のジャッキーのスタントマンを務めたことがある。
- 好きな日本食は『じゃがりこ』で、食べ比べ企画ではゆず胡椒味を一番としていた。日本のテレビ番組『地球の走り方 世界ラリー応援宣言』内では、レイザーラモンRGの息子がマキネンにじゃがりこをプレゼントする一幕もあった。
- 1950年代から1970年代に1000湖ラリーとRACラリーを3連覇し、ラリー界最初の「フライング・フィン」と呼ばれたティモ・マキネンとは血縁関係はない。
9. キャリア統計
マキネンはWRCキャリアで合計24勝を挙げ、4度のドライバーズチャンピオンを獲得した。
勝利数 | イベント | シーズン | コ・ドライバー | 車 |
---|---|---|---|---|
1 | 第44回 1000湖ラリー | 1994 | セッポ・ハルヤンヌ | フォード・エスコートRSコスワース |
2 | 第45回 スウェーデン・ラリー | 1996 | セッポ・ハルヤンヌ | 三菱ランサーエボリューションIII |
3 | 第44回 サファリラリー・ケニア | 1996 | セッポ・ハルヤンヌ | 三菱ランサーエボリューションIII |
4 | 第16回 ラリー・アルゼンチン | 1996 | セッポ・ハルヤンヌ | 三菱ランサーエボリューションIII |
5 | 第46回 ネステ1000湖ラリー | 1996 | セッポ・ハルヤンヌ | 三菱ランサーエボリューションIII |
6 | 第9回 APIラリー・オーストラリア | 1996 | セッポ・ハルヤンヌ | 三菱ランサーエボリューションIII |
7 | 第30回 TAPラリー・ポルトガル | 1997 | セッポ・ハルヤンヌ | 三菱ランサーエボリューションIV |
8 | 第33回 カタルーニャ・コスタブラバ・ラリー(ラリー・デ・エスパーニャ) | 1997 | セッポ・ハルヤンヌ | 三菱ランサーエボリューションIV |
9 | 第17回 ラリー・アルゼンチン | 1997 | セッポ・ハルヤンヌ | 三菱ランサーエボリューションIV |
10 | 第47回 ネステ・ラリー・フィンランド | 1997 | セッポ・ハルヤンヌ | 三菱ランサーエボリューションIV |
11 | 第47回 スウェーデン・ラリー | 1998 | リスト・マニセンマキ | 三菱ランサーエボリューションIV |
12 | 第18回 ラリー・アルゼンチン | 1998 | リスト・マニセンマキ | 三菱ランサーエボリューションV |
13 | 第48回 ネステ・ラリー・フィンランド | 1998 | リスト・マニセンマキ | 三菱ランサーエボリューションV |
14 | 第40回 サンレモ・ラリー(ラリー・ディタリア) | 1998 | リスト・マニセンマキ | 三菱ランサーエボリューションV |
15 | 第11回 APIラリー・オーストラリア | 1998 | リスト・マニセンマキ | 三菱ランサーエボリューションV |
16 | 第67回 モンテカルロ・ラリー | 1999 | リスト・マニセンマキ | 三菱ランサーエボリューションVI |
17 | 第48回 スウェーデン・ラリー | 1999 | リスト・マニセンマキ | 三菱ランサーエボリューションVI |
18 | 第29回 ラリー・ニュージーランド | 1999 | リスト・マニセンマキ | 三菱ランサーエボリューションVI |
19 | 第41回 サンレモ・ラリー(ラリー・ディタリア) | 1999 | リスト・マニセンマキ | 三菱ランサーエボリューションVI |
20 | 第68回 モンテカルロ・ラリー | 2000 | リスト・マニセンマキ | 三菱ランサーエボリューションVI |
21 | 第69回 モンテカルロ・ラリー | 2001 | リスト・マニセンマキ | 三菱ランサーエボリューション6.5 |
22 | 第35回 TAPラリー・ポルトガル | 2001 | リスト・マニセンマキ | 三菱ランサーエボリューション6.5 |
23 | 第49回 サファリラリー・ケニア | 2001 | リスト・マニセンマキ | 三菱ランサーエボリューション6.5 |
24 | 第70回 モンテカルロ・ラリー | 2002 | カイ・リンドストローム | スバル・インプレッサWRC2001 |
年 | 所属チーム | 車 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1987 | トミ・マキネン | ランチア・デルタ HF 4WD | モンテカルロ・ラリー | ラリー・スウェーデン | ラリー・ポルトガル | サファリラリー | ツール・ド・コルス | アクロポリス・ラリー | オリンパス・ラリー | ラリー・ニュージーランド | ラリー・アルゼンチン | リタイヤ (FIN) | コートジボワール・ラリー | ラリー・サンレモ | ウェールズ・ラリーGB | - | 0 | |
1988 | トミ・マキネン | ランチア・デルタ HF 4WD | モンテカルロ・ラリー | ラリー・スウェーデン | ラリー・ポルトガル | サファリラリー | ツール・ド・コルス | アクロポリス・ラリー | オリンパス・ラリー | ラリー・ニュージーランド | ラリー・アルゼンチン | リタイヤ (FIN) | コートジボワール・ラリー | ラリー・サンレモ | - | 0 | ||
Mu-Uutiset 4 Rombi Corse | ランチア・デルタ インテグラーレ | リタイヤ (GBR) | ||||||||||||||||
1989 | トミ・マキネン | ランチア・デルタ インテグラーレ | リタイヤ (SWE) | モンテカルロ・ラリー | ラリー・ポルトガル | サファリラリー | ツール・ド・コルス | アクロポリス・ラリー | ラリー・ニュージーランド | ラリー・アルゼンチン | リタイヤ (FIN) | ラリー・オーストラリア | ラリー・サンレモ | コートジボワール・ラリー | ウェールズ・ラリーGB | - | 0 | |
1990 | Pro Sport Rally Team | 三菱ギャランVR-4 | モンテカルロ・ラリー | ラリー・ポルトガル | サファリラリー | ツール・ド・コルス | アクロポリス・ラリー | 6位 (NZL) | ラリー・アルゼンチン | 11位 (FIN) | 7位 (AUS) | 13位 (ITA) | コートジボワール・ラリー | リタイヤ (GBR) | 24位 | 10 | ||
1991 | Promoracing Finland | フォード・シエラRSコスワース4x4 | モンテカルロ・ラリー | 13位 (SWE) | 31位 | 8 | ||||||||||||
トミ・マキネン | リタイヤ (POR) | サファリラリー | ツール・ド・コルス | アクロポリス・ラリー | ||||||||||||||
Promoracing Finland | 三菱ギャランVR-4 | リタイヤ (NZL) | ラリー・アルゼンチン | |||||||||||||||
マツダ・ラリー・チーム・ヨーロッパ | マツダ323 GTX | 5位 (FIN) | ラリー・オーストラリア | ラリー・サンレモ | コートジボワール・ラリー | ラリー・カタルーニャ | リタイヤ (GBR) | |||||||||||
1992 | 日産モータースポーツ・ヨーロッパ | 日産サニーGTI-R | 9位 (MON) | ラリー・スウェーデン | リタイヤ (POR) | サファリラリー | ツール・ド・コルス | アクロポリス・ラリー | ラリー・ニュージーランド | ラリー・アルゼンチン | リタイヤ (FIN) | ラリー・オーストラリア | ラリー・サンレモ | コートジボワール・ラリー | ラリー・カタルーニャ | 8位 (GBR) | 40位 | 5 |
1993 | Astra | ランチア・デルタ HFインテグラーレ | モンテカルロ・ラリー | 4位 (SWE) | ラリー・ポルトガル | サファリラリー | ツール・ド・コルス | 6位 (GRE) | ラリー・アルゼンチン | ラリー・ニュージーランド | 4位 (FIN) | ラリー・オーストラリア | ラリー・サンレモ | ラリー・カタルーニャ | ウェールズ・ラリーGB | 10位 | 26 | |
1994 | Nissan F2 | 日産サニーGTI | モンテカルロ・ラリー | リタイヤ (POR) | サファリラリー | ツール・ド・コルス | アクロポリス・ラリー | ラリー・アルゼンチン | ラリー・ニュージーランド | 9位 (GBR) | 10位 | 22 | ||||||
Ford Motor Co | フォード・エスコートRSコスワース | 1位 (FIN) | ||||||||||||||||
三菱ラリーアート | 三菱ランサーエボリューションII | リタイヤ (ITA) | ||||||||||||||||
1995 | 三菱ラリーアート | 三菱ランサーエボリューションII | 4位 (MON) | 2位 (SWE) | 5位 | 38 | ||||||||||||
三菱ランサーエボリューションIII | ラリー・ポルトガル | 8位 (FRA) | リタイヤ (NZL) | 4位 (AUS) | リタイヤ (ESP) | リタイヤ (GBR) | ||||||||||||
1996 | 三菱ラリーアート | 三菱ランサーエボリューションIII | 1位 (SWE) | 1位 (KEN) | リタイヤ (IDN) | 2位 (GRE) | 1位 (ARG) | 1位 (FIN) | 1位 (AUS) | リタイヤ (ITA) | 5位 (ESP) | 1位 | 123 | |||||
1997 | 三菱ラリーアート | 三菱ランサーエボリューションIV | 3位 (MON) | 3位 (SWE) | リタイヤ (KEN) | 1位 (POR) | 1位 (ESP) | リタイヤ (FRA) | 1位 (ARG) | 3位 (GRE) | リタイヤ (NZL) | 1位 (FIN) | リタイヤ (IDN) | 3位 (ITA) | 2位 (AUS) | 6位 (GBR) | 1位 | 63 |
1998 | 三菱ラリーアート | 三菱ランサーエボリューションIV | リタイヤ (MON) | 1位 (SWE) | リタイヤ (KEN) | リタイヤ (POR) | 1位 | 58 | ||||||||||
三菱ランサーエボリューションV | 3位 (ESP) | リタイヤ (FRA) | 1位 (ARG) | リタイヤ (GRE) | 3位 (NZL) | 1位 (FIN) | 1位 (ITA) | 1位 (AUS) | リタイヤ (GBR) | |||||||||
1999 | マールボロ三菱ラリーアート | 三菱ランサーエボリューションVI | 1位 (MON) | 1位 (SWE) | 失格 (KEN) | 5位 (POR) | 3位 (ESP) | 6位 (FRA) | 4位 (ARG) | 3位 (GRE) | 1位 (NZL) | リタイヤ (FIN) | リタイヤ (CHN) | 1位 (ITA) | 3位 (AUS) | リタイヤ (GBR) | 1位 | 62 |
2000 | マールボロ三菱ラリーアート | 三菱ランサーエボリューションVI | 1位 (MON) | 2位 (SWE) | リタイヤ (KEN) | リタイヤ (POR) | 4位 (ESP) | 3位 (ARG) | リタイヤ (GRE) | リタイヤ (NZL) | 4位 (FIN) | 5位 (CYP) | リタイヤ (FRA) | 3位 (ITA) | 失格 (AUS) | 3位 (GBR) | 5位 | 36 |
2001 | マールボロ三菱ラリーアート | 三菱ランサーエボリューション6.5 | 1位 (MON) | リタイヤ (SWE) | 1位 (POR) | 3位 (ESP) | 4位 (ARG) | リタイヤ (CYP) | 4位 (GRE) | 1位 (KEN) | リタイヤ (FIN) | 8位 (NZL) | 3位 | 41 | ||||
三菱ランサーエボリューションWRC | リタイヤ (ITA) | リタイヤ (FRA) | 6位 (AUS) | リタイヤ (GBR) | ||||||||||||||
2002 | 555 スバル・ワールドラリーチーム | スバル・インプレッサWRC2001 | 1位 (MON) | リタイヤ (SWE) | 8位 | 22 | ||||||||||||
スバル・インプレッサWRC2002 | リタイヤ (FRA) | リタイヤ (ESP) | 3位 (CYP) | リタイヤ (ARG) | リタイヤ (GRE) | リタイヤ (KEN) | 6位 (FIN) | 7位 (GER) | リタイヤ (ITA) | 3位 (NZL) | 失格 (AUS) | 4位 (GBR) | ||||||
2003 | 555 スバル・ワールドラリーチーム | スバル・インプレッサWRC2003 | リタイヤ (MON) | 2位 (SWE) | 8位 (TUR) | 7位 (NZL) | リタイヤ (ARG) | 5位 (GRE) | リタイヤ (CYP) | リタイヤ (GER) | 6位 (FIN) | 6位 (AUS) | 10位 (ITA) | 7位 (FRA) | 8位 (ESP) | 3位 (GBR) | 8位 | 30 |
シーズン | チーム | 出走回数 | 優勝回数 | 表彰台回数 | ステージ勝利数 | リタイヤ | ポイント | 最終順位 |
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1987 | プライベート | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | ランク外 |
1988 | プライベート | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | ランク外 |
Mu-Uutiset 4 Rombi Corse | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | ||
1989 | プライベート | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | ランク外 |
1990 | Pro Sport Rally Team | 5 | 0 | 0 | 0 | 1 | 10 | 24位 |
1991 | Promoracing Finland | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 31位 |
マツダ・ラリー・チーム・ヨーロッパ | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 8 | ||
プライベート | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | ||
1992 | 日産モータースポーツ・ヨーロッパ | 4 | 0 | 0 | 1 | 2 | 5 | 40位 |
1993 | Astra | 3 | 0 | 0 | 3 | 0 | 26 | 10位 |
1994 | Nissan F2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 10位 |
Ford Motor Co | 1 | 1 | 1 | 14 | 0 | 20 | ||
三菱ラリーアート | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | ||
1995 | 三菱ラリーアート | 7 | 0 | 1 | 24 | 3 | 38 | 5位 |
1996 | 三菱ラリーアート | 9 | 5 | 6 | 70 | 2 | 123 | 1位 |
1997 | 三菱ラリーアート | 14 | 4 | 9 | 78 | 4 | 63 | 1位 |
1998 | 三菱ラリーアート | 13 | 5 | 7 | 41 | 6 | 58 | 1位 |
1999 | マールボロ三菱ラリーアート | 14 | 4 | 7 | 56 | 3 | 62 | 1位 |
2000 | マールボロ三菱ラリーアート | 14 | 1 | 5 | 27 | 5 | 36 | 5位 |
2001 | マールボロ三菱ラリーアート | 14 | 3 | 4 | 21 | 6 | 41 | 3位 |
2002 | 555 スバル・ワールドラリーチーム | 14 | 1 | 3 | 16 | 7 | 22 | 8位 |
2003 | 555 スバル・ワールドラリーチーム | 14 | 0 | 2 | 10 | 4 | 30 | 8位 |
合計 | 139 | 24 | 45 | 361 | 53 | 544 |