1. 生涯
ハンス・スワロフスキーの初期の生涯と学問的背景は、彼が後に指揮者、そして教育者として確立する基盤を築いた。
1.1. 幼少期と学歴
スワロフスキーは1899年9月16日、ハンガリーのブダペストで生まれた。彼の幼少期における特筆すべき経験として、1910年にはグスタフ・マーラーの交響曲第8番の初演に、合唱団員として参加している。この初期の経験が、彼の後の音楽キャリアに影響を与えた可能性は大きい。
1.2. 正規教育と音楽訓練
彼はウィーン大学で心理学と歴史学を学び、幅広い教養を身につけた。音楽の分野では、1920年よりアルノルト・シェーンベルクとアントン・ヴェーベルンから音楽理論を深く学び、その後の彼の音楽解釈に大きな影響を与えた。指揮法については、当時を代表する指揮者であるフェリックス・ワインガルトナーとリヒャルト・シュトラウスに師事し、実践的な指導を受けた。これらの厳格かつ多角的な教育は、スワロフスキーが持つ百科事典的な知識と、作品の本質を追求する指揮哲学の基礎となった。
2. 指揮者としての活動
スワロフスキーは、初期の活動から主要な歌劇場やオーケストラでの首席指揮、そして国際的な客演指揮に至るまで、多岐にわたる指揮活動を展開した。
2.1. 初期活動と助手時代
指揮者としてのキャリアは、ドイツのシュトゥットガルトやハンブルクでの活動から始まった。1933年には、ベルリン国立歌劇場において著名な指揮者エーリヒ・クライバーの助手を務め、実践的な経験を積んだ。この助手時代は、彼のキャリアにおける重要な転換点となり、後の指揮活動に大きな影響を与えた。
2.2. 主要なオーケストラおよび歌劇場での活動
1937年から1940年にかけては、スイスのチューリッヒ歌劇場の首席指揮者を務めた。この時期には、リヒャルト・シュトラウスとクレメンス・クラウスの要請を受け、シュトラウスの最後の歌劇『カプリッチョ』の台本制作に協力するなど、作曲家との密接な関わりも持った。
その後、オーストリアに戻り、第二次世界大戦終結後の1946年から1947年にはウィーン交響楽団の首席指揮者を務めた。また、1947年から1950年にかけてはグラーツ歌劇場で指揮活動を行った。ヘルベルト・フォン・カラヤンからはウィーン国立歌劇場の常任指揮者のポストを打診されたという逸話も残されており、当時の音楽界における彼の評価の高さが窺える。1957年から1959年にはスコットランド国立管弦楽団(現在のロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団)の首席指揮者を務めた。
2.3. フェスティバルおよび客演指揮
フェスティバルにおいても積極的に活動し、1940年から1944年までザルツブルク音楽祭のアドバイザーを務めた。また、NHK交響楽団にも客演指揮者として招かれ、フランツ・シューベルトの交響曲『グレイト』などでその独特な解釈とバトンテクニックを披露し、日本の聴衆にも深い印象を与えた。彼のレパートリーは非常に広範であり、卓越したバトンテクニックを持っていたと評されている。
3. 教育者としての功績と哲学
ハンス・スワロフスキーは、指揮者としての実績と並行して、その教育者としての功績と独自の指揮哲学によって、クラシック音楽界に多大な影響を与えた。

3.1. 教授職と著名な弟子たち
彼はウィーン国立音楽大学の指揮科で教授を務め、数多くの著名な指揮者を育成した。その門下生は世界の主要なオーケストラや歌劇場の指揮台で活躍し、彼が「名教師」として知られる所以となった。スワロフスキーの指導のもとで学んだ指揮者には、以下のような人々が含まれる。
- クラウディオ・アバド
- ズービン・メータ
- マリス・ヤンソンス
- ジュゼッペ・シノーポリ
- アダム・フィッシャー
- イヴァン・フィッシャー
- ヘスス・ロペス=コボス
- ブルーノ・ヴァイル
- トーマス・ウンガー
- ハインリヒ・シフ
- グスタフ・レオンハルト
- リオール・シャンバダール
- ドミトリー・キタエンコ
- フリーデマン・レイヤー
- ジャック・デラコート
- アレクサンダー・アレクセーエフ
- ジャンルイージ・ジェルメッティ
- ブライアン・ジャクソン
- アルフレート・プリンツ
- ブライアン・フェアファックス
- ジェームス・アレン・ガレス
- アルバート・ローゼン
- ヴォルフガング・ハラー
- アヴィ・オストロフスキー
- グスタフ・マイヤー
- エヴァ・ミフニク
- ミルティアデス・カリディス
- ポール・アンゲラー
- レオニード・ニコラエフ
また、日本人指揮者では、尾高忠明、湯浅卓雄、矢崎彦太郎、大町陽一郎、久保田孝、本多敏良、伴有雄らが彼の薫陶を受けた。ウィーン国立音楽大学での彼の後任はオトマール・スウィトナーであった。
3.2. 著述活動と指揮哲学
スワロフスキーは、指揮活動と教育に加え、その理論的な思索を著書にまとめた。彼の講演とエッセイを収録した著書『Wahrung der Gestalt: Schriften über Werk u. Wiedergabe, Stil une Interpretation in der Musik』(形態の保持: 作品と再現、様式と解釈に関する著作、Universal Edition、1979年)は、音楽の指揮および演出分野において「バイブル」または「百科事典」として、今日でもその価値が認められている。この本は、演奏や指揮に関する様々な疑問に答えを導く指針となり、彼の深い音楽的洞察と哲学を後世に伝えている。
4. 主要な録音
ハンス・スワロフスキーは、その指揮者としてのキャリアにおいて、数々の重要な録音を残している。
4.1. 代表的な録音作品
彼の代表的な録音作品の中には、特に評価の高いものも少なくない。チェコ・フィルハーモニー管弦楽団およびプラハ国立歌劇場のメンバーとのリヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニーベルングの指環』全曲や『ローエングリン』は、そのスラヴ風の響きが特徴的でありながらも、今なお多くの愛好家から最高峰の演奏として評価されている。
また、ウィーン交響楽団とのグスタフ・マーラーの交響曲第5番の録音は、往時のウィーンの演奏スタイルを偲ばせる貴重な記録として知られている。その他、以下の録音も著名である。
- カミーユ・サン=サーンス: ピアノ協奏曲第2番およびピアノ協奏曲第5番 (オラツィオ・フルゴーニ(ピアノ)、プロ・ムジカ管弦楽団 ウィーン、LP Vox PL-8410、1954年録音)
- フェリックス・メンデルスゾーン: ヴァイオリン協奏曲 (イヴリー・ギトリス(ヴァイオリン)、プロ・ムジカ管弦楽団 ウィーン、LP Vox PL-8840、1954年録音)
これらの録音は、彼の広範なレパートリーと、作品の深層に迫る解釈、そして卓越したバトンテクニックを今日に伝える貴重な遺産となっている。
5. 私生活と最期
ハンス・スワロフスキーの私生活については多くが公開されていないが、その逝去に関する情報は残されている。
5.1. 死去
ハンス・スワロフスキーは、1975年9月10日、76歳の誕生日を迎える一週間と少し前に、オーストリアのザルツブルクで逝去した。彼の遺体は、ウィーン中央墓地の32C区(40番)に埋葬された。
6. 評価と影響
ハンス・スワロフスキーは、その指揮者としての活躍以上に、教育者としての比類なき功績によって、クラシック音楽界と後世に永続的な影響を与えた。
6.1. 教育者としての継続的な影響
彼の指揮教育法は、単なる技術指導に留まらず、音楽の本質的な理解と深い解釈を追求するものであった。数多くの彼の弟子たちが、世界中の主要な音楽シーンで活躍していること自体が、彼の教育者としての卓越性を証明している。彼の指導を受けた指揮者たちは、それぞれの個性と共に、スワロフスキーから学んだ音楽への真摯な姿勢と探求心を受け継ぎ、次世代の指揮者たちに大きな影響を与え続けている。
6.2. 芸術的・理論的貢献
スワロフスキーの指揮における原則や、著書『Wahrung der Gestalt』に込められた理論的洞察は、音楽の演奏および解釈の分野において、継続的な価値と貢献を示している。この著作は、音楽家にとっての「バイブル」として、作品の構造や様式、そして演奏における細部への配慮の重要性を説き、今日に至るまで多くの音楽家たちに示唆を与え続けている。彼の思想は、単に楽譜を再現するだけでなく、作品の本質を追求し、その「形態」を忠実に保持することの重要性を強調しており、これは芸術性の高い音楽演奏を志す者にとって普遍的な指針となっている。
7. 記念と追悼

ハンス・スワロフスキーの功績を称え、その業績を後世に伝えるための活動が行われている。
7.1. 追悼活動と記念碑
彼の功績を記念する形で、彼の名前が言及される機会は多い。彼の墓碑はウィーン中央墓地に位置しており、彼が長きにわたり活動したウィーンにおいて、彼を追悼する場所の一つとなっている。彼の教え子や音楽愛好家たちは、その墓を訪れ、彼の遺産を偲ぶことがある。彼の著作もまた、彼の名を冠する重要な記念碑として、指揮芸術の歴史にその名を刻んでいる。