1. 概要
パトリック・アンデション(Patrik Jonas Anderssonパトリック・ヨーナス・アンデションスウェーデン語、1971年8月18日 - )は、スウェーデン・ボリエビー出身の元サッカー選手である。現役時代のポジションはDF。
スウェーデンサッカー界の年間最優秀選手に贈られるグルドボレンに1995年と2001年の2度輝き、FCバイエルン・ミュンヘンではブンデスリーガ連覇やUEFAチャンピオンズリーグ優勝を経験した。また、サッカースウェーデン代表として96試合に出場し、1994 FIFAワールドカップで3位入賞に貢献するなど、国際舞台でも活躍した。彼の家族もサッカーに深く関わっており、父ロイ・アンデションと弟ダニエル・アンデションも元プロサッカー選手である。

2. 生い立ちと背景
パトリック・アンデションは1971年8月18日にスウェーデンのボリエビーで生まれた。彼は自身の愛称となる「ビャアレッド」(Bjärredビャアレッドスウェーデン語)の地元クラブ、ビャアレッズIF(Bjärreds IFビャアレッズ・イーフスウェーデン語)でサッカーキャリアをスタートさせた。
彼の家族はサッカー一家であり、父のロイ・アンデションはマルメFFで300試合以上に出場し、スウェーデン代表としても20試合に出場、1978 FIFAワールドカップにも参加した元サッカー選手である。また、2人の弟、フレドリック(Fredrikフレドリックスウェーデン語)とダニエルも元プロサッカー選手であり、父と末弟のダニエルはスウェーデン代表としてFIFAワールドカップ出場経験がある。
1990年代のアルスヴェンスカンにはアンデションと同姓同名の選手がいたため、区別するためにそれぞれの故郷の名を冠し、パトリック・"ビャアレッド"(Patrik "Bjärred"パトリック・"ビャアレッド"スウェーデン語)とパトリック・"トレッレボリ"・アンデション(Patrick "Trelleborg" Anderssonパトリック・"トレッレボリ"・アンデションスウェーデン語)と呼ばれた。
3. クラブキャリア
パトリック・アンデションはスウェー国内でのキャリアを皮切りに、イングランド、ドイツ、スペインといった欧州主要リーグのクラブを渡り歩き、数々のタイトルを獲得した。
3.1. マルメFF(初期キャリア)
1988年、17歳の時に地元のビャアレッズIFからアルスヴェンスカンに所属するマルメFFの下部組織に引き抜かれた。その1年後、トップチームに昇格し、ロイ・ホジソン監督の下でプロデビューを果たした。1年目はユースチームと並行して出場し、同年秋にはユースとトップチームがそれぞれリーグ戦のプレーオフ決勝に進出したが、ユースはIFブロンマポイカルナに、トップチームはIFKノルシェーピンに敗れ、2度優勝を逃した。
1990年シーズンにボブ・ホートン監督が新たに就任すると、アンデションはセンターバック(CB)や守備的MFとして定期的に起用されるようになり、チームの中心選手として活躍した。
3.2. ブラックバーン・ローヴァーズ
1992年12月、アンデションはプロ選手としてイングランドのプレミアリーグに所属するブラックバーン・ローヴァーズFCへ移籍金約80.00 万 GBPで加入した。ケニー・ダルグリッシュ監督の下で主に中盤で起用されたが、出場機会は限られ、わずか1シーズン足らずで退団した。ブラックバーンでの出場はプレミアリーグで12試合に留まった。
しかし、彼はブラックバーン・ローヴァーズが契約した最初の外国人選手の一人であり、新設されたプレミアリーグの最初のシーズンにプレーした数少ない外国人選手の一人として知られている。ブラックバーンでは、1992-93 フットボールリーグカップ準決勝のシェフィールド・ウェンズデイとの第2戦(2-1で敗北)で1得点を記録した。
3.3. ボルシア・メンヒェングラートバッハ
1993年10月、アンデションはドイツのブンデスリーガに所属するボルシア・メンヒェングラートバッハへ移籍した。同年11月19日のヴェルダー・ブレーメン戦で移籍後初出場を果たして以降、ベルント・クラウス監督の下で定期的に起用された。
1994-95シーズンには、チームがリーグ戦を5位で終える躍進を遂げ、アンデション自身もリーグ戦全34試合に出場した。また、2部のVfLヴォルフスブルクとのDFBポカール決勝戦では、マルティン・ダーリン、シュテファン・エッフェンベルク、ハイコ・ヘルリッヒの得点により3-0で勝利し、自身初のタイトルを獲得した。この年、彼はスウェーデンサッカー界の年間最優秀選手に贈られるグルドボレンを受賞した。
1995-96シーズンは、UEFAカップウィナーズカップ 1995-96でフェイエノールトに2試合合計2-3で敗れたものの準々決勝に進出した。リーグ戦では33試合4得点と変わらず中心選手として4位に貢献し、再び欧州カップ戦出場権を獲得した。しかし、翌シーズンは、UEFAカップ1996-97の1回戦でアーセナルFC相手にホーム&アウェイ共に勝利するも、2回戦のASモナコに敗れ早期敗退し、リーグ戦では11位に終わった。
1998-99シーズンからは、バイエルン・ミュンヘンへ移籍したエッフェンベルグの後を引き継ぎ主将に就任したが、チームは最下位で2部に降格した。しかし、これまでのクラブへの貢献が評価され、2000年8月にはクラブ創設100周年を記念した「チーム・オブ・ザ・センチュリー」(Borussen Elf des Jahrhundertsボルッセン・エルフ・デス・ヤールフンデルツドイツ語)にファンから選出された。
3.4. バイエルン・ミュンヘン
1999年6月、アンデションは同リーグの強豪FCバイエルン・ミュンヘンへ移籍金約600.00 万 DEM(約300.00 万 EUR)で引き抜かれた。1999年8月22日のバイエル・レバークーゼン戦でデビューを果たした。
1999-2000シーズンには、移籍1年目からリーグ戦優勝を経験し、さらにDFBポカールのヴェルダー・ブレーメンとの決勝戦(3-0でエウベル、パウロ・セルジオ、メーメット・ショルの得点により勝利)で優勝し、2冠を達成した。一方、UEFAチャンピオンズリーグ 1999-2000ではレアル・マドリードに敗れ準決勝で敗退した。
翌シーズンは、軽傷ながらも怪我が相次いだことにより出場機会は限られたものの、最終節のハンブルガーSV戦(1-1)でロスタイムに間接フリーキックから移籍後初にして唯一となる得点を挙げ、引き分けに持ち込んだ。この得点がシャルケ04と勝ち点1差をつけ、劇的な優勝をもたらす非常に重要なものとなった。その4日後、UEFAチャンピオンズリーグ 2000-01決勝のバレンシアCFとのPK戦では、アンデション自身は相手GKサンティアゴ・カニサレスに防がれたものの、オリヴァー・カーンが相手のPKを3度防ぐ活躍を見せ、バイエルン・ミュンヘンは優勝カップを掲げた。
3.5. バルセロナ
2001年7月、アンデションはスペイン1部のFCバルセロナへ移籍金約150.00 万 EURの4年契約で加入した。同年年末には2度目となるグルドボレンを受賞したが、バルセロナでの3シーズンは怪我との戦いにより満足に過ごすことはできなかった。この期間、彼はリーグ戦でわずか19試合の出場に留まった。
3.6. マルメFF(復帰)
2004年シーズン、アンデションは弟のダニエルと共に、12年ぶりに古巣のマルメFFに復帰した。この年、彼は主将としてアンドレアス・イングヴェソン、アフォンソ・アウヴェス、マティアス・アスペル、ダニエル・マイストロヴィッチらと共に、クラブにとって15年ぶりとなるリーグ優勝(アルスヴェンスカン)に貢献した。
しかし、2005年8月10日、UEFAチャンピオンズリーグ 2005-06予選3回戦のスイスのFCトゥーン戦で前十字靭帯と半月板に深刻な怪我を負った。この怪我により、同年8月12日にプロサッカー選手からの現役引退を表明した。
4. 代表経歴
パトリック・アンデションはスウェーデン代表として長きにわたり活躍し、主要な国際大会でチームの重要な一員として貢献した。
4.1. ユースおよびオリンピックでの経歴
アンデションはユース年代からスウェーデン代表に選出されており、U-17代表で23試合7得点(1987-1988年)、U-19代表で9試合6得点(1989-1991年)、U-21代表で16試合3得点(1990-1992年)の記録を残している。
また、1992年にはバルセロナオリンピックにもスウェーデン代表の一員として参加し、4試合に出場して1得点を挙げた。
4.2. トップチームでの代表活動
トミー・スヴェンソン監督の下、ホーカン・ミルド、ステファン・レーン、マグヌス・エリングマルクらと共に招集され、1992年1月29日のオーストラリア戦(0-1敗北)でスウェーデン代表としてデビューした。
同年開催されたUEFA EURO '92では、ヤン・エリクソンとセンターバックのコンビを組み、グループリーグ全3試合に先発出場し、チームの1位突破に貢献した。しかし、続く準決勝のドイツ戦では累積警告による出場停止のため出場できず、チームは2-3で敗退した。
1994 FIFAワールドカップでは全試合に出場し、守備の要として活躍を見せ、スウェーデン代表史上最高の3位入賞(銅メダル)を果たす原動力となった。この結果、チームはスヴェンスカ・ダーグブラーデット紙が選定するスヴェンスカ・ダーグブラーデット・ゴールドメダルを受賞した。
1997年からは、怪我による影響で代表引退を表明したヨナス・テルンの後を引き継ぎ、主将に就任した。主将として臨んだUEFA EURO 2000では、初戦のベルギー戦(1-2敗北)でバルト・ホールへの厳しいファウルにより退場処分を受けた。一縷の望みをかけて最終戦のトルコ戦(0-0)に出場したが引き分けに終わり、チームはグループ最下位で敗退するという苦い経験となった。
2002 FIFAワールドカップではメンバーに選出されたものの、大会直前、イングランドとの開幕戦前の最終トレーニングセッションで負傷し、本大会に出場することはできなかった。彼のポジションはアンドレアス・ヤコブソンに明け渡された。チームがベスト16で敗退したことに伴い、アンデションは代表引退を表明した。同大会前に行われた2002年5月の日本戦(1-1)が、彼のスウェーデン代表としての最後の試合となった。
アンデションはスウェーデン代表として合計96試合に出場し、3得点(または4得点)を記録した。国際試合での得点の内訳は以下の通りである。
No. | 日付 | 会場 | 対戦相手 | スコア | 結果 | 大会 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 1994年8月17日 | エイラヴァレン、エレブルー、スウェーデン | リトアニア代表 | 3-0 | 4-2 | 親善試合 |
2 | 1996年6月1日 | ローシュンダ・スタディオン、ソルナ、スウェーデン | ベラルーシ代表 | 4-1 | 5-1 | 1998 FIFAワールドカップ予選 |
3 | 2001年9月1日 | グラツキ・スタディオン、スコピエ、北マケドニア | 北マケドニア代表 | 2-0 | 2-1 | 2002 FIFAワールドカップ予選 |
5. 引退後のキャリア
プロ選手としての引退後、パトリック・アンデションはサッカー界に留まり、スカウトとして活動した。2010年8月にはマンチェスター・ユナイテッドFCのスカンディナヴィア地域担当スカウトに就任したが、1年後にその職を離れた。
6. 私生活
パトリック・アンデションは、サッカー一家に生まれた。彼の父ロイ・アンデションは、マルメFFで300試合以上に出場し、スウェーデン代表として20試合に出場、1978 FIFAワールドカップにも参加した元プロサッカー選手である。
また、パトリックには2人の弟がおり、フレドリックとダニエルも元プロサッカー選手である。特にダニエルは、兄パトリックと共にマルメFFでプレーし、スウェーデン代表としても活躍した。このように、アンデション家はスウェーデンのサッカー界に大きな足跡を残している。
7. 受賞歴
パトリック・アンデションは、そのキャリアを通じて数々のクラブタイトルと個人タイトルを獲得した。
7.1. クラブでの受賞歴
- ボルシア・メンヒェングラートバッハ
- DFBポカール: 1994-95
- FCバイエルン・ミュンヘン
- ブンデスリーガ: 1999-2000、2000-01
- DFBポカール: 1999-2000
- DFLリーガポカール: 1999、2000
- UEFAチャンピオンズリーグ: 2000-01
- インターコンチネンタルカップ: 2001
- マルメFF
- アルスヴェンスカン: 2004
- スウェーデン代表
- FIFAワールドカップ3位: 1994
7.2. 個人での受賞歴
- グルドボレン: 1995、2001
- UEFAチーム・オブ・ザ・イヤー: 2001
- スウェーデン年間最優秀DF賞: 2001
- キッカー・ブンデスリーガ年間ベストイレブン: 1994-95、1996-97