1. 概要
シュテファン・エッフェンベルクは、ドイツの元サッカー選手であり、後にスポーツディレクターも務めた人物です。1968年8月2日にハンブルクのニーンドルフで生まれました。現役時代のポジションは中央ミッドフィールダーで、そのリーダーシップ、広範なパスレンジ、シュート能力、そしてフィジカルの強さで知られました。しかし、同時にその短気で論争を巻き起こす性格も特徴的でした。その激しいプレースタイルから、「虎」(Der Tigerデア・ティーガードイツ語)という愛称で親しまれ、その愛称は彼のヘアスタイルに由来するとも言われています。
選手キャリアにおいては、ボルシア・メンヒェングラートバッハ、FCバイエルン・ミュンヘン、ACFフィオレンティーナ、VfLヴォルフスブルク、アル・アラビSCといったクラブに所属しました。特にバイエルン・ミュンヘンでは、キャプテンとして2001年のUEFAチャンピオンズリーグ優勝に貢献し、同大会の最優秀選手に選ばれるなど、キャリアで最も成功を収めました。ブンデスリーガでは通算109枚のイエローカードを収集し、引退時には最多記録でした。
ドイツ代表としては35試合に出場し、5得点を記録しました。しかし、1994年のFIFAワールドカップでの不適切な行為により代表チームを追放されるという大きな論争も経験しました。引退後はSCパーダーボルン07の監督やKFCユルディンゲン05のスポーツディレクターも務めましたが、ここでもその個性的な行動や指導者ライセンスの問題などで論争を招くことがありました。エッフェンベルクは、ピッチ上での傑出した才能と、ピッチ外での批判を招く行動や発言という二面性を持つ、ドイツサッカー界の記憶に残る人物です。
2. 幼少期とキャリアの始まり
シュテファン・エッフェンベルクは、1968年8月2日に旧西ドイツのハンブルク、ニーンドルフで生まれ育ちました。彼は幼少期からサッカーを始め、Bramfelder SVとVictoria Hamburgのユースチームでプレーしました。
1986年にボルシア・メンヒェングラートバッハのユースに移り、1987年に同クラブでプロキャリアをスタートさせました。20歳になるまでにはチームの不動のレギュラーとなり、その才能を高く評価されました。
3. クラブキャリア
シュテファン・エッフェンベルクのクラブキャリアは、ドイツとイタリアの主要リーグで、その才能と同時に物議を醸す言動が常に注目を集めました。
3.1. ボルシア・メンヒェングラートバッハ (第一次)
エッフェンベルクは1987年にボルシア・メンヒェングラートバッハでプロデビューを果たしました。彼はすぐに頭角を現し、20歳になる頃にはチームの主力選手として認められるようになりました。この最初の在籍期間中、彼はリーグ戦で73試合に出場し、10得点を記録しました。その活躍は、後にドイツのビッグクラブの関心を引くことになります。
3.2. バイエルン・ミュンヘン (第一次)
1990年、エッフェンベルクはドイツの強豪FCバイエルン・ミュンヘンに移籍しました。この時期のバイエルンでは、最初の2シーズンでリーグ戦19得点という高い得点能力を見せましたが、チームは彼が在籍する期間中には主要なタイトルを獲得できませんでした。この時期、監督や他の選手との関係は良好ではなかったとされています。
3.3. フィオレンティーナ
1992年、ローター・マテウスがバイエルン・ミュンヘンに復帰したことをきっかけに、エッフェンベルクはイタリアのセリエAに所属するACFフィオレンティーナへ移籍しました。フィオレンティーナはチーム改革を進めており、エッフェンベルクはドゥンガに代わる存在として期待されました。しかし、ブライアン・ラウドルップやガブリエル・バティストゥータといった才能ある選手が揃っていたにもかかわらず、エッフェンベルクの加入初年度である1992-93シーズンにチームはセリエBへ降格してしまいます。
エッフェンベルクは当初、セリエBでのプレーを拒否する姿勢を見せましたが、結局チームに残留することを決めました。彼は1993-94シーズンもフィオレンティーナでプレーし、チームのセリエA復帰に貢献しました。
3.4. ボルシア・メンヒェングラートバッハ (第二次)
1994年の夏、エッフェンベルクは古巣のボルシア・メンヒェングラートバッハに復帰しました。この2度目の在籍期間も重要な役割を担い、リーグ戦118試合に出場し23得点を挙げました。彼はこの期間中、チームの主要な選手として活躍し、1998年に再びバイエルン・ミュンヘンへ移籍するまでチームを支えました。
3.5. バイエルン・ミュンヘン (第二次)
1998年、エッフェンベルクは再びFCバイエルン・ミュンヘンに復帰しました。この2度目のバイエルン在籍期間は、彼のキャリアの中で最も輝かしい成功を収めた時期となりました。オットマー・ヒッツフェルト監督によってキャプテンに任命されたエッフェンベルクは、チームを牽引し、ブンデスリーガで3シーズン連続優勝を達成しました。
UEFAチャンピオンズリーグでは、1999年の決勝でマンチェスター・ユナイテッドFCに劇的な逆転負けを喫する「カンプ・ノウの奇跡」(日本では「カンプ・ノウの悲劇」)を経験し、準優勝に終わりました。しかし、2001年には再び決勝に進出し、バレンシアCFを相手に延長戦で同点となるペナルティーキックを決め、その後のPK戦を制して悲願のチャンピオンズリーグ優勝を果たしました。この大会での彼の活躍は高く評価され、2000-01シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ最優秀選手に選出されました。
バイエルンを去った後も、彼はクラブファンによって歴代の偉大な選手11人の中に選ばれるなど、その功績は長く記憶されています。
3.6. その後のキャリア
バイエルン・ミュンヘンを退団した後、エッフェンベルクは2002年にVfLヴォルフスブルクに移籍しましたが、ここでは目立った成功を収めることができませんでした。2003年4月にヴォルフスブルクを退団した後、カタールのクラブであるアル・アラビSCに移籍し、かつてのチームメイトであるガブリエル・バティストゥータと共にプレーしました。2004年に現役を引退し、2005年7月22日に行われた引退試合では、自身初のハットトリックを記録して有終の美を飾りました。現役引退後は、ドイツのテレビでサッカー解説者を務めることもありました。
4. 代表キャリア
シュテファン・エッフェンベルクのドイツ代表としてのキャリアは、輝かしいスタートを切ったものの、物議を醸す事件によって早期に終焉を迎えました。
4.1. 代表初期とUEFA EURO '92
エッフェンベルクは1988年から1990年にかけてドイツU-21代表で5試合に出場し1得点を挙げていましたが、当時の監督であるベルティ・フォクツからその態度を理由にチームから外された経験があります。
その後、1991年6月5日のUEFA EURO '92予選のウェールズ戦で、後半18分から出場しドイツ代表デビューを果たしました。この試合は0-1で敗れたものの、彼は予選を通じて重要な存在となりました。本大会では、グループリーグのスコットランド戦で得点を記録し、チームの2-0の勝利に貢献しました。ドイツは決勝まで進出しましたが、デンマークに敗れ準優勝に終わりました。
4.2. 1994 FIFAワールドカップでの論争
エッフェンベルクの代表キャリアは、1994年のアメリカW杯で決定的な転機を迎えます。グループリーグ第2戦の韓国戦(ダラスのコットンボウルで開催)で、彼は満足のいかないパフォーマンスを見せ、35 °Cを超える暑さの中でトーマス・ヘルマーと交代でピッチを去る際に、自分にブーイングを浴びせたドイツのサポーターに対し、中指を立てるという挑発的な行為に及びました。試合は、ドイツが3-0とリードしていたものの、後半に2失点を喫して1点差に迫られている緊迫した状況でした。
この事件に対し、当時のドイツ代表監督であるベルティ・フォクツは激怒し、エッフェンベルクを即座に代表チームから追放し、彼が代表選手としてのキャリアを終えたことを宣言しました。この行為はメディアや国民から大きな批判を浴び、エッフェンベルクは強制的にドイツに送還されました。
4.3. その後の代表出場
1994年のワールドカップでの事件後、エッフェンベルクは長らくドイツ代表から遠ざかりました。しかし、1998年9月にマルタで行われた数回の親善試合で、一時的に代表チームに復帰しました。これらの試合は、皮肉にも彼を代表から追放したベルティ・フォクツ監督にとって最後の指揮試合となりました。この復帰がエッフェンベルクの代表としての最後の出場となり、彼はその後、フランスW杯前に自ら代表辞退を表明し、二度とドイツ代表でプレーすることはありませんでした。
5. 指導者・役員キャリア
選手引退後、シュテファン・エッフェンベルクは指導者および役員としてサッカー界に携わりましたが、ここでも彼の個性的な性格は度々話題となりました。
2015年10月13日、彼はブンデスリーガ2部のSCパーダーボルン07の監督に就任しました。しかし、就任からわずか5ヶ月弱の2016年3月3日には解任されました。この間の戦績は15試合で2勝6分7敗と振るわず、結果が出せなかったことが主な理由でした。さらに、この解任時には、エッフェンベルクがドイツサッカー連盟(DFB)が義務付ける指導者講習会への参加を3年間にわたって怠り、指導者ライセンスが無効になっていたことが発覚し、さらなる論争を呼びました。
2019年10月10日には、KFCユルディンゲン05のスポーツディレクターに就任しました。しかし、ここでも混乱が生じました。例えば、シーズン途中のトレーニングキャンプでチームがイタリアのホテルに滞在した際、そのホテルにはサッカーの練習場がなかったことが報じられるなど、問題が頻発しました。結局、エッフェンベルクは2020年5月にこの役職を任期途中で辞任しました。
6. プレースタイルと特徴
シュテファン・エッフェンベルクは、ピッチ上では卓越した中央ミッドフィールダーとして知られていました。彼の最大の強みは、その生まれ持ったリーダーシップでした。キャプテンとしてチームを鼓舞し、特にバイエルン・ミュンヘンでの2度目の在籍時には、チームをUEFAチャンピオンズリーグ優勝へと導く重要な役割を担いました。
彼のプレースタイルは、広範囲をカバーするパスレンジと、ペナルティーエリア外からも強力なシュートを放つことができるシュート能力を特徴としていました。また、恵まれた体格とフィジカルの強さを生かしたボール奪取能力や、激しいタックルも彼の武器でした。中盤の深い位置からゲームを組み立てることを得意とし、攻守両面でチームの要となりました。
しかし、エッフェンベルクは同時に非常に気性が荒く、議論を巻き起こしやすい性格でもありました。その突発的な行動や言動は、しばしば監督、チームメイト、そしてファンとの間に摩擦を生み出しました。彼の「虎」という愛称は、その闘争心と獰猛なプレースタイルを表す一方で、彼の議論を呼ぶ言動にも関連付けられました。ピッチ内外での彼の行動は常に注目を集め、賛否両論を巻き起こす存在でした。
7. 論争と私生活
シュテファン・エッフェンベルクは、その選手キャリアを通じて、また引退後も、その行動や私生活が度々論争の的となり、多くの注目と批判を集めてきました。
7.1. 主な事件
- コーク・シティFC選手への発言**: 1991年のUEFAカップ、当時セミプロのコーク・シティFCとの試合を前に、エッフェンベルクは記者団に対し、コーク・シティのミッドフィールダー、デイブ・バリーを「まるで(自分の)祖父のようだ」と表現し、勝利を確信していると発言しました。しかし、バリーは試合で先制ゴールを決め、試合は1-1の引き分けに終わり、エッフェンベルクの発言に反撃しました。
- 自伝の出版と人物批判**: 彼は物議を醸す自伝を出版し、その中で元チームメイトでありドイツ代表の同僚でもあったローター・マテウスをはじめとする複数のサッカー関係者に対し、辛辣な批判を浴びせました。この自伝の内容は、公私にわたる様々な人間関係の確執を露呈し、大きな話題となりました。
- ナイトクラブでの暴行事件**: 2001年、エッフェンベルクはナイトクラブで女性を暴行した罪で有罪判決を受け、罰金が科されました。この事件は、彼の粗暴なイメージをさらに強めることとなりました。
- 失業者に対する発言**: 2002年、エッフェンベルクは雑誌『プレイボーイ』のインタビューで、ドイツの失業者は仕事を探すことに怠惰すぎると示唆し、彼らの社会保障給付を削減すべきだと主張しました。この発言は、社会保障を必要とする人々や、経済的困難に直面している人々に対する配慮を欠くものであり、多くの国民から厳しい批判と反発を招きました。この発言は、彼の社会的影響力と公の発言の責任に対する批判的な議論を引き起こしました。
7.2. 私的な人間関係と家族
エッフェンベルクの私生活は、特に結婚と家族関係において複雑な展開を見せました。彼は最初の妻であるマルティナと結婚していましたが、1990年代後半に元チームメイトであるトーマス・シュトロンツの妻であったクラウディア・シュトロンツとの関係が公になりました。この不倫関係はメディアで大々的に報じられ、強い反発と非難を浴びました。
その後、2004年にエッフェンベルクはクラウディア・シュトロンツと結婚しました。エッフェンベルクは最初の結婚で3人の子供をもうけており、クラウディアとトーマス・シュトロンツの間にも3人の子供がいました。結婚後、エッフェンベルク夫妻はアメリカのフロリダ州に移住しました。彼の私生活の変遷は、常に公衆の関心の的であり続けました。
8. キャリア統計
8.1. クラブ成績
クラブ | シーズン | リーグ | 国内カップ | リーグカップ | 大陸大会 | その他 | 合計 | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ディビジョン | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | 出場 | ゴール | ||
ボルシア・メンヒェングラートバッハ | 1987-88 | ブンデスリーガ | 15 | 1 | - | - | - | - | 15 | 1 | ||||
1988-89 | 29 | 3 | 2 | 0 | - | - | - | 31 | 3 | |||||
1989-90 | 29 | 6 | 3 | 0 | - | - | - | 32 | 6 | |||||
合計 | 73 | 10 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 78 | 10 | ||
バイエルン・ミュンヘン | 1990-91 | ブンデスリーガ | 32 | 9 | 1 | 0 | - | 8 | 1 | 1 | 0 | 42 | 10 | |
1991-92 | 33 | 10 | 1 | 0 | - | 4 | 1 | - | 38 | 11 | ||||
合計 | 65 | 19 | 2 | 0 | 0 | 0 | 12 | 2 | 1 | 0 | 80 | 21 | ||
フィオレンティーナ | 1992-93 | セリエA | 30 | 5 | 4 | 2 | - | - | - | 34 | 7 | |||
1993-94 | セリエB | 26 | 7 | 4 | 0 | - | - | - | 30 | 7 | ||||
合計 | 56 | 12 | 8 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 64 | 14 | ||
ボルシア・メンヒェングラートバッハ | 1994-95 | ブンデスリーガ | 30 | 7 | 5 | 2 | - | - | - | 35 | 9 | |||
1995-96 | 31 | 7 | 2 | 1 | - | 6 | 3 | 1 | 0 | 40 | 11 | |||
1996-97 | 29 | 1 | 2 | 0 | - | 3 | 2 | - | 34 | 3 | ||||
1997-98 | 28 | 8 | 1 | 0 | - | - | - | 29 | 8 | |||||
合計 | 118 | 23 | 10 | 3 | 0 | 0 | 9 | 5 | 1 | 0 | 138 | 31 | ||
バイエルン・ミュンヘン | 1998-99 | ブンデスリーガ | 31 | 8 | 6 | 3 | 2 | 0 | 12 | 5 | - | 51 | 16 | |
1999-2000 | 27 | 2 | 5 | 0 | 1 | 0 | 11 | 2 | - | 44 | 4 | |||
2000-01 | 20 | 4 | - | - | 10 | 1 | - | 30 | 5 | |||||
2001-02 | 17 | 2 | 4 | 0 | 1 | 0 | 7 | 1 | - | 29 | 3 | |||
合計 | 95 | 16 | 15 | 3 | 4 | 0 | 40 | 9 | 0 | 0 | 154 | 28 | ||
VfLヴォルフスブルク | 2002-03 | ブンデスリーガ | 19 | 3 | 2 | 0 | - | - | - | 21 | 3 | |||
アル・アラビSC | 2003-04 | カタール スターズリーグ | 15 | 4 | - | - | - | - | 15 | 4 | ||||
キャリア通算 | 441 | 87 | 42 | 8 | 4 | 0 | 61 | 16 | 2 | 0 | 550 | 111 |
8.2. 代表成績
代表チーム | 年度 | 出場 | ゴール |
---|---|---|---|
ドイツ | 1991 | 4 | 0 |
1992 | 12 | 2 | |
1993 | 11 | 3 | |
1994 | 6 | 0 | |
1995 | 0 | 0 | |
1996 | 0 | 0 | |
1997 | 0 | 0 | |
1998 | 2 | 0 | |
合計 | 35 | 5 |
ドイツのゴール数は常に左に表示。得点欄はエッフェンベルクのゴール後のスコアを示す。
8.3. 指導者成績
チーム | 国 | 就任 | 退任 | 記録 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 勝利 | 引き分け | 敗戦 | 勝率 | ||||
パーダーボルン07 | ドイツ | 2015年10月13日 | 2016年3月2日 | 15 | 2 | 6 | 7 | 13.3% |
合計 | 15 | 2 | 6 | 7 | 13.3% |
9. 功績と栄誉
9.1. クラブタイトル
- バイエルン・ミュンヘン**
- ブンデスリーガ: 1998-99、1999-2000、2000-01
- DFBポカール: 1999-2000
- UEFAチャンピオンズリーグ: 2000-01
- インターコンチネンタルカップ: 2001
- DFBスーパーカップ: 1990
- DFBリーガポカール: 1998、1999、2000
- フィオレンティーナ**
- セリエB: 1993-94
- ボルシア・メンヒェングラートバッハ**
- DFBポカール: 1994-95
9.2. 代表タイトル
- ドイツ**
- UEFA欧州選手権: 準優勝 1992
- U.S.カップ: 1993
9.3. 個人タイトル
- キッカー選定ブンデスリーガ年間ベストイレブン: 1990-91、1991-92、1994-95、1995-96、1996-97、1997-98、1999-2000
- UEFA欧州選手権1992ベストイレブン: 1992
- FIFA XI: 1997
- ESM年間ベストイレブン: 1998-99
- UEFA年間最優秀選手: 2001
- バイエルン・ミュンヘン歴代ベストイレブン: 2005
10. 評価と影響
シュテファン・エッフェンベルクは、その傑出したサッカーの才能と、同時に多くの論争を巻き起こした言動により、歴史的にも社会的に見ても多面的な評価を受けています。
10.1. 肯定的な評価
エッフェンベルクは、特にバイエルン・ミュンヘンでの2度目の在籍期間において、チームの成功に決定的な影響を与えました。彼のリーダーシップ、特にUEFAチャンピオンズリーグ優勝を果たした2000-01シーズンにおけるキャプテンとしての役割は高く評価されています。彼はピッチ上で常に熱意と勝利への強い意志を示し、その強力なシュートや正確なパスは多くの試合でチームを救いました。彼がバイエルン・ミュンヘンの歴代ベストイレブンに選出されたことは、その卓越した能力とチームへの貢献がクラブとファンに深く認められている証拠です。彼の才能は、チームを窮地から救い、タイトル獲得へと導く原動力となりました。
10.2. 批判と論争
一方で、エッフェンベルクのキャリアは、その気性の荒さや公私にわたる数々の論争によっても特徴づけられます。1994年のFIFAワールドカップでサポーターに中指を立てる行為に及んで代表チームから追放された事件は、彼のキャリアにおける最も悪名高い出来事の一つです。この行為は、スポーツマンシップに反するだけでなく、公人としての責任感を欠くものとして、国民から厳しい批判を浴びました。
また、自伝での他選手への辛辣な批判、ナイトクラブでの暴行事件、さらには失業者に対する「怠惰」発言など、彼の言動は社会的な議論を呼びました。特に失業者に対する発言は、社会的に弱い立場にある人々への配慮を欠き、社会保障制度に対する否定的な見解を示すものとして、多くの人々から反感を招きました。これらの行動は、彼の勝利への執着が時に周囲との協調性や公共の場での適切な振る舞いを軽視する傾向があったことを示しており、その人間性や思想について批判的な見方が存在する要因となっています。エッフェンベルクは、ピッチ上の「虎」としての魅力と、ピッチ外での論争の種となる「暴れん坊」としての顔を併せ持った、複雑な人物として記憶されています。