1. 概要

パブロ・ラリオス・イワサキ(Pablo Larios Iwasakiパブロ・ラリオス・イワサキスペイン語、1960年7月30日 - 2019年1月31日)は、メキシコの元サッカー選手であり、後にサッカー指導者としても活躍した人物である。ポジションはゴールキーパー。父方の祖先はスペイン系、母方の祖先は日系であり、その混血のルーツを持つ。メキシコサッカー界では「ジャングルの守護者」(El Arquero de la Selvaエル・アルケロ・デ・ラ・セルバスペイン語)の愛称で親しまれた。これは、彼が湿潤で温暖な気候で知られるモレロス州サカテペク出身であり、キャリアを故郷のクラブで始めたことに由来する。選手としては、CDサカテペク、クルス・アスル、プエブラFC、トロス・ネサなどのクラブで活躍し、特に1986年FIFAワールドカップではメキシコ代表の守護神としてチーム史上最高のベスト8進出に貢献した。引退後は指導者の道に進み、2006年FIFAワールドカップではメキシコ代表のゴールキーパーコーチを務めた。
2. 生い立ちと背景
パブロ・ラリオス・イワサキは1960年7月30日、メキシコのモレロス州サカテペクで生まれた。彼の家族は、父方がスペイン系、母方が日本系のルーツを持つ混血であった。この混血の背景は、彼のフルネーム「パブロ・ラリオス・イワサキ」にも表れている。彼は身長1.79 m、体重69 kgという恵まれた体格を持っていた。ラリオスは故郷のサカテペクでサッカーキャリアをスタートさせ、その出身地が湿潤で温暖な気候であることから、「ジャングルの守護者」(El Arquero de la Selvaエル・アルケロ・デ・ラ・セルバスペイン語)という愛称で親しまれた。
3. 選手としてのキャリア
パブロ・ラリオスは、その長身と身体能力を活かし、メキシコサッカー界で長きにわたりトップレベルのゴールキーパーとして活躍した。彼のキャリアは、国内の複数の主要クラブでのプレーと、メキシコ代表としての国際舞台での活躍に分けられる。
3.1. クラブでのキャリア
ラリオスは、1980年に故郷のクラブであるCDサカテペクでプロキャリアを開始した。その後、クルス・アスル、プエブラFC、トロス・ネサといったメキシコの強豪クラブを渡り歩き、その卓越したセービング能力でチームを支えた。特にプエブラFCでは、1989-90シーズンにメキシコ1部リーグとコパ・メヒコの2冠を達成し、さらにカンペオン・デ・カンペオネスも獲得した。また、1991年にはCONCACAFチャンピオンズカップでも優勝を果たしている。彼はキャリアを通じて合計539試合に出場し、その全てでゴールキーパーとして出場し、得点は記録しなかった。
クラブ | 在籍期間 | 出場試合数 |
---|---|---|
CDサカテペク | 1980年 - 1984年 | 76 |
クルス・アスル | 1984年 - 1989年 | 138 |
プエブラFC | 1989年 - 1994年 | 198 |
トロス・ネサ | 1994年 - 1997年 | 105 |
CDサカテペク | 1997年 | 0 |
トロス・ネサ | 1998年 - 1999年 | 22 |
3.2. 代表でのキャリア
パブロ・ラリオスは、1983年3月15日にA代表デビューを果たし、メキシコ代表のゴールキーパーとして国際舞台でも活躍した。彼は合計48試合の国際試合に出場し、主要な国際大会にも複数回参加した。
彼の代表キャリアのハイライトは、自国開催となった1986年FIFAワールドカップである。この大会で彼は守護神として全5試合に出場し、メキシコ代表史上最高のベスト8進出に大きく貢献した。また、1979年FIFAワールドユース選手権にも出場し、若くして国際経験を積んでいた。
さらに、1991年CONCACAFゴールドカップにも参加し、メキシコ代表は同大会で3位に入賞した。この大会では2試合に出場している。
4. 指導者としてのキャリア
選手としてのキャリアを終えた後、パブロ・ラリオスはサッカー指導者の道に進んだ。彼は特にゴールキーパーコーチとしてその経験を活かした。2006年FIFAワールドカップでは、リカルド・ラ・ボルペ監督率いるメキシコ代表チームにゴールキーパーコーチとして帯同し、チームを支えた。
5. 個人的な出来事
パブロ・ラリオスの人生には、悲劇的な個人的な出来事も含まれていた。2008年9月上旬、当時19歳だった彼の息子、パブロ・ラリオス・ガルサが行方不明になった。懸命な捜索の結果、息子はリオグランデ川から約183 m (600 ft)離れたテキサス州グラヘノ付近で、国境警備隊によって遺体で発見された。彼はビザを失効していたため、アメリカ合衆国に住むガールフレンドに会うために不法に国境を越えようとしていたとされている。この出来事は、ラリオスの人生に大きな影響を与えた。
6. 死去
パブロ・ラリオスは2019年1月31日、プエブラ市の病院で58歳で死去した。彼は腸閉塞と呼吸不全のために入院しており、手術を受けたものの、回復することなく息を引き取った。
7. 受賞歴・栄誉
パブロ・ラリオスは、選手としてのキャリアにおいて数々のタイトルと栄誉を獲得した。
クラブ | 大会 | 獲得年 |
---|---|---|
CDサカテペク | メキシコ・セグンダ・ディビシオン | 1983-84 |
プエブラFC | メキシコ・プリメーラ・ディビシオン | 1989-90 |
プエブラFC | コパ・メヒコ | 1989-90 |
プエブラFC | カンペオン・デ・カンペオネス | 1989-90 |
プエブラFC | CONCACAFチャンピオンズカップ | 1991 |
- メキシコ代表
- CONCACAFゴールドカップ: 3位 (1991年)
8. 功績と影響
パブロ・ラリオスは、メキシコサッカー界においてその卓越したゴールキーパーとしての能力と、代表チームでの貢献により、大きな功績を残した。特に、自国開催となった1986年FIFAワールドカップでの活躍は、彼のキャリアの象徴であり、メキシコ代表が史上最高のベスト8に進出する上で不可欠な存在であった。彼の「ジャングルの守護者」という愛称は、そのプレースタイルと出身地を象徴するものであり、多くのファンに記憶されている。
また、彼の母方の日系のルーツは、メキシコの多様な文化背景を持つ選手の一人として、彼のユニークなアイデンティティを形成していた。選手引退後もゴールキーパーコーチとして後進の指導にあたるなど、メキシコサッカーの発展に多大な影響を与え続けた。