1. 概要
フランク・オルデネビッツ(Frank Ordenewitzドイツ語、1965年3月25日生まれ)は、ドイツ出身の元プロサッカー選手で、主にフォワードとして活躍しました。彼はキャリアを通じて、潔いスポーツマンシップと論争を呼んだ出来事の両方で知られています。
オルデネビッツは、ヴェルダー・ブレーメン時代に1987-88シーズンのブンデスリーガ制覇に貢献しました。このシーズンには、1.FCケルン戦で自らハンドボールの反則を審判に申告し、そのスポーツマンシップが評価され、FIFAフェアプレー賞を受賞しました。しかし、その後1.FCケルンに移籍した際には、監督の指示により意図的に退場処分を受けるという出来事があり、これが「マッハ・エット、オッツェ!」(Mach et, Otze!ドイツ語、「オッツェ、やれ!」の意)という流行語を生み出し、ドイツサッカー連盟(DFB)のルール改正にも影響を与えました。
日本のJリーグではジェフユナイテッド市原に所属し、1994年にはJリーグ得点王に輝くなど、日本サッカー界にも大きな足跡を残しました。引退後は、東日本大震災復興支援チャリティーマッチに参加するなど、サッカー界との関わりを続けています。
2. クラブキャリア
フランク・オルデネビッツのプロサッカーにおけるクラブキャリアは、ドイツの主要クラブでの活躍と、日本での成功、そしてその後のアマチュアリーグでの活動を含みます。彼はブンデスリーガで合計272試合に出場し、68得点を記録しました。
2.1. ヴェルダー・ブレーメン
フランク・オルデネビッツは1983年にヴェルダー・ブレーメンに入団し、プロキャリアをスタートさせました。この時期、彼は日本人選手の奥寺康彦とチームメートでした。オルデネビッツはチームの主力フォワードとして活躍し、1987-88シーズンには、30試合で15得点を挙げるなど、チームのブンデスリーガ制覇に大きく貢献しました。
このシーズン中の1988年5月7日に行われた1.FCケルンとのリーグ戦では、彼のスポーツマンシップが世界的に注目される出来事がありました。試合中、彼はペナルティエリア内でハンドボールの反則を犯しましたが、審判はその反則に気づきませんでした。しかし、相手選手たちが抗議する中で審判に問われた際、オルデネビッツは自らの反則を潔く認めました。これにより、ケルンにPKが与えられ、ブレーメンは最終的に2得点対0得点で試合に敗れました。この模範的な行動に対し、彼はそのシーズンにFIFAフェアプレー賞を受賞し、その高いスポーツマンシップは広く称賛されました。
2.2. 1. FCケルン
1989年に1.FCケルンに移籍したフランク・オルデネビッツは、1993年までの4シーズンをこのクラブで過ごしました。この期間中に、彼のキャリアで最も論争を呼んだ出来事の一つが発生しました。
1991年5月6日に行われたDFBポカール準決勝のMSVデュースブルク戦でのことです。この試合でオルデネビッツはイエローカードを受け、その結果、もし決勝に進出した場合、次の決勝に出場するためには、その前にブンデスリーガの次の試合で出場停止処分を消化する必要がある状況でした。そこで、当時の監督であったエーリッヒ・ルーテメラーは、オルデネビッツに意図的に退場処分を受けるよう指示しました。これにより、彼は決勝ではなく次のリーグ戦で出場停止処分を消化できると考えたためです。監督の指示に従い、オルデネビッツは故意にボールを遠くに蹴り飛ばし、退場処分を受けました。
試合後のインタビューで、ルーテメラー監督はこの計画を認め、「オッツェが私のところに来たので、私は彼からこの機会を奪うべきではないと考え、『やれ!』と言った」と語りました。この指示は「マッハ・エット、オッツェ!」(Mach et, Otze!ドイツ語、「オッツェ、やれ!」の意)というフレーズとして広まり、ドイツサッカー界で語り継がれるエピソードとなりました。この出来事を受けて、ドイツサッカー連盟(DFB)は規約を変更し、オルデネビッツは結局決勝に出場できないことになりました。決勝で1.FCケルンはPK戦の末に敗れ、優勝を逃しました。
2.3. ジェフユナイテッド市原
1993年夏の移籍市場で、フランク・オルデネビッツは日本のJリーグに参入したばかりのジェフユナイテッド市原へ移籍しました。彼は1993年8月4日に行われた名古屋グランパスエイト戦でJリーグデビューを飾り、この試合で2ゴールを挙げる鮮烈な印象を残しました。
1994年シーズンには、登録名を7月までは愛称の「オッツェ」としていましたが、8月の2ndステージからは本名の「オルデネビッツ」に変更しました。登録名変更後最初の試合である8月10日のガンバ大阪戦ではハットトリックを達成するなど、その得点能力を遺憾なく発揮しました。このシーズン、彼はリーグ戦で40試合に出場し、キャリアハイとなる30得点を記録し、見事にJリーグ得点王のタイトルを獲得しました。しかし、家庭の事情により、このシーズン限りでチームを退団することになりました。ジェフユナイテッド市原での2シーズンで、彼は通算55試合に出場し、37得点を記録しました。
2.4. その他のクラブキャリア
ジェフユナイテッド市原を退団後、フランク・オルデネビッツは1994年から1995年にかけてハンブルガーSVに短期間所属し、21試合で1得点を記録しました。
1996年には、当時旧JFLに所属していたブランメル仙台の監督であったピエール・リトバルスキーの要請に応じ、同クラブに移籍しました。このシーズン、彼は28試合に出場して20得点を挙げる活躍を見せ、日本電装(現在のFC刈谷)戦ではハットトリックを達成しました。また、天皇杯1回戦の松山大学との対戦では4ゴールを挙げています。しかし、チームをJリーグ昇格に導くことはできず、1年で退団しました。
その後、1997年にはローテンブルガーSVに所属し、1997年から1999年まではVfBオルデンブルクでプレーし、28試合で3得点を挙げました。VfBオルデンブルクでのプレーを経て、彼は1999年から2001年までTSVオッタースベルク、そして2001年から2006年までVSK Osterholz-Scharmbeckでプレーを続け、主にドイツのアマチュアリーグで活動しました。彼は一度現役を引退しましたが、2005年9月に復帰し、選手としてのキャリアを継続しました。
3. 代表キャリア
フランク・オルデネビッツは西ドイツ代表として、1987年に国際Aマッチに2試合出場しました。これらの試合での得点はありませんでした。
4. キャリア統計
フランク・オルデネビッツのプロサッカーにおけるキャリア統計は以下の通りです。
4.1. クラブ統計
クラブ | シーズン | リーグ | カップ戦 | リーグカップ | 合計 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
ヴェルダー・ブレーメン | 1983-84 | 5 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 |
1984-85 | 9 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 10 | 1 | |
1985-86 | 24 | 7 | 1 | 0 | 0 | 0 | 25 | 7 | |
1986-87 | 30 | 8 | 3 | 2 | 0 | 0 | 33 | 10 | |
1987-88 | 30 | 15 | 1 | 6 | 3 | 0 | 34 | 21 | |
1988-89 | 27 | 6 | 6 | 0 | 0 | 0 | 33 | 6 | |
ヴェルダー・ブレーメン合計 | 125 | 37 | 13 | 8 | 3 | 0 | 141 | 45 | |
1.FCケルン | 1989-90 | 30 | 3 | 3 | 1 | 0 | 0 | 33 | 4 |
1990-91 | 31 | 7 | 6 | 3 | 0 | 0 | 37 | 10 | |
1991-92 | 35 | 11 | 2 | 0 | 0 | 0 | 37 | 11 | |
1992-93 | 30 | 9 | 2 | 2 | 0 | 0 | 32 | 11 | |
1.FCケルン合計 | 126 | 30 | 13 | 6 | 0 | 0 | 139 | 36 | |
ジェフユナイテッド市原 | 1993 | 15 | 7 | 3 | 0 | 6 | 3 | 24 | 10 |
1994 | 40 | 30 | 2 | 0 | 1 | 0 | 43 | 30 | |
ジェフユナイテッド市原合計 | 55 | 37 | 5 | 0 | 7 | 3 | 67 | 40 | |
ハンブルガーSV | 1994-95 | 15 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 15 | 0 |
1995-96 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 1 | |
ハンブルガーSV合計 | 21 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 21 | 1 | |
ブランメル仙台 | 1996 | 28 | 20 | 3 | 5 | 0 | 0 | 31 | 25 |
VfBオルデンブルク | 1997-98 | 28 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 28 | 3 |
キャリア総計 | 383 | 128 | 34 | 19 | 10 | 3 | 427 | 150 |
4.2. 代表統計
国際代表チーム | 年 | 出場 | 得点 |
---|---|---|---|
西ドイツ代表 | 1987 | 2 | 0 |
総計 | 2 | 0 |
5. タイトル・表彰
フランク・オルデネビッツが選手キャリアを通じて獲得した主要なチームタイトルおよび個人表彰は以下の通りです。
5.1. チームタイトル
- ブンデスリーガ:
- 1987-88(ヴェルダー・ブレーメン)
- DFLスーパーカップ:
- 1988(ヴェルダー・ブレーメン)
5.2. 個人表彰
- FIFAフェアプレー賞: 1988年
- Jリーグ得点王: 1994年(30ゴール)
6. 人物・評価
フランク・オルデネビッツは、そのキャリアにおいて数々の印象的なエピソードを残し、プロサッカー引退後も多方面で活動しています。
6.1. 歴史的評価
フランク・オルデネビッツは、1994年のJリーグでJリーグ得点王に輝いたにもかかわらず、その年のベストイレブンには選出されませんでした。これは、2016年シーズンにピーター・ウタカが得点王でありながらベストイレブンに選出されないまで、Jリーグ史上唯一の特異な出来事でした。
また、1.FCケルン時代に監督の指示で意図的に退場処分を受けた際に監督が発したとされる「マッハ・エット、オッツェ!」(Mach et, Otze!ドイツ語、「オッツェ、やれ!」の意)という言葉は、ドイツサッカー界における有名な流行語となり、彼の名前とともに語り継がれています。彼の愛称である「オッツェ」(Otzeドイツ語)は、彼の陽気な性格や親しみやすさを表すものとして親しまれていました。
6.2. 引退後の活動
プロサッカー選手としてのキャリアを終えた後も、フランク・オルデネビッツはサッカーとの関わりを続けています。彼は引退後もドイツのアマチュアリーグでプレーを続け、サッカーへの情熱を持ち続けました。
2011年5月17日には、東日本大震災復興支援のためにドルトムントで行われた慈善試合に、JリーグのOB選手として参加しました。この試合には、彼がかつてチームメートであった奥寺康彦も参加しており、日本のサッカーファンにとっても印象的な出来事となりました。