1. 生涯と教育
1.1. 出生地と幼少期
ブラッド・ウィルカーソンは1977年6月1日にケンタッキー州オーエンズボロで生まれた。彼は地元のアポロ高校に通い、野球をプレーした。
1.2. 高校時代
1995年にはアメリカ合衆国ナショナルジュニア野球チームでプレーした。同年の世界ジュニア野球選手権大会ではMVPに選出され、台湾との決勝戦では3安打完封を達成する投球を見せた。さらに、打者としても打率.360を記録し、大会で3本塁打、8打点をマークしてチームを牽引し、金メダル獲得に貢献した。
2. 大学時代
ウィルカーソンはフロリダ州ゲインズビルにあるフロリダ大学からスポーツ奨学金を受け、1996年から1998年までアンディ・ロペス監督率いるフロリダ・ゲイターズ野球チームでプレーした。
2.1. 大学野球キャリア
彼はラインドライブヒッターであり、守備でも多才な選手として知られた。3度にわたりオールアメリカンのファーストチームに選出され、打撃と投球の両面でチームを牽引し、1996年と1998年にはカレッジ・ワールドシリーズ出場に貢献した。1996年のカレッジ・ワールドシリーズでは、ライバルであるフロリダ州立大学セミノールズとの試合で劇的な満塁本塁打を放ち、勝利を収めた。
1998年にはジュニアとして、大学野球史上初めて、同一シーズンに20本塁打、20盗塁、投手として10勝を同時に達成した選手となった。同年、ゲイターズは再びカレッジ・ワールドシリーズに進出し、ウィルカーソンは大学野球界で最も優れた選手に贈られるロータリー・スミス賞を受賞した。
2.2. 受賞歴と栄誉
ウィルカーソンは、キャリア打率(.381)、キャリア長打率(.714)、キャリア出塁率(.531)など、複数のシーズンおよびキャリアの学校記録を保持している。
2010年にはフロリダ大学アスレティック殿堂に「ゲイター・グレート」として殿堂入りし、2012年には全米大学野球殿堂入りを果たした。また、2014年にはフロリダ大学でスポーツマネジメントの学士号を取得した。
3. プロ野球選手時代
ウィルカーソンはマイナーリーグでの経験を経て、2001年にメジャーリーグデビューを果たし、その後複数の球団でキャリアを築き、最終的に引退するまでの道のりを歩んだ。
3.1. マイナーリーグおよびオリンピックでの活動
1998年のMLBドラフトでモントリオール・エクスポズから1巡目(全体33位)で指名され、プロ入りした。当初はマイナーリーグで苦戦し、1999年にはAA級のハリスバーグ・セネターズで打率.235、8本塁打、49打点に終わった。しかし、2000年シーズンをイースタンリーグで迎えると、66試合で打率.336、6本塁打、44打点、36二塁打とリーグを席巻した。このペースであれば、イースタンリーグのシーズン二塁打記録を更新する勢いだったが、AAA級のオタワ・リンクス(インターナショナルリーグ)に昇格した。このシーズン、彼はハリスバーグとオタワで合計129試合に出場し、441打席で打率.295、18本塁打、79打点、47二塁打を記録した。
マイナーリーグでプレーする傍ら、ウィルカーソンは2000年シドニーオリンピックの野球アメリカ合衆国代表チームの一員として金メダルを獲得した。オリンピック野球のメダリストでもある。オリンピック史上最大の番狂わせの一つとされる決勝戦で、アメリカ代表はキューバを4対0で破り、金メダルを手にした。
3.2. メジャーリーグデビューと主要シーズン
ウィルカーソンは2001年7月12日にタンパベイ・デビルレイズ戦でモントリオール・エクスポズの一員としてメジャーデビューを果たした。この試合では3打数無安打1四球だった。同年7月17日にはボストン・レッドソックスのティム・ウェイクフィールドからメジャー初安打を記録し、7月26日にはアトランタ・ブレーブスのジェイソン・マーキーからメジャー初本塁打を放った。
2002年と2003年にはほぼ同じような成績を残し、2002年には打率.266、20本塁打、59打点、2003年には打率.268、19本塁打、77打点を記録した。2002年の20本塁打はエクスポズの新人記録を樹立し、彼はスポーティングニュースのルーキー・オブ・ザ・イヤーに選出された。
彼の最も生産的なシーズンは2004年で、本塁打(32)、安打(146)、二塁打(39)、得点(112)、四球(106)、長打率(.498)、OPS(.872)でキャリアハイを記録し、打率.255、67打点だった。
2003年6月24日にはピッツバーグ・パイレーツ戦でサイクルヒットを達成し、メジャーリーグでサイクルヒットを達成した選手の一人となった。エクスポズの選手としては5人目、1957年以降で初めて最低4打席でナチュラルサイクルを達成した選手となった。
2004年にはモントリオール・エクスポズの球団史上最後の本塁打を放った。同年レギュラーシーズン終了直後に行われた日米野球にもエクスポズのユニフォームを着て出場した。エクスポズは2005年シーズンからワシントンD.C.に移転しワシントン・ナショナルズとなったため、ウィルカーソンは「最後のエクスポ」と称されることもある。

2005年シーズン、エクスポズがナショナルズとしてワシントンD.C.に移転した後、ウィルカーソンは正中堅手および一番打者として開幕を迎えた。同年4月6日にはフィラデルフィア・フィリーズ戦で自身2度目となるサイクルヒットを達成した。これはナショナルズとしての球団移転後2試合目での出来事だった。また、ワシントン・ナショナルズの選手として初の満塁本塁打を放った。
3.3. 移籍とキャリア後期

2005年12月7日、ウィルカーソンはテルメル・スレッジ外野手、マイナーリーグのアーマンド・ガララーガ投手と共に、二塁手のアルフォンソ・ソリアーノとのトレードでテキサス・レンジャーズへ移籍した。レンジャーズでの2007年には、ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム戦で1試合3本塁打を記録した。これは2007年シーズンでアルフォンソ・ソリアーノ、カルロス・リーに次ぐ3人目の快挙だった。この年、マーク・テシェイラの怪我と後のトレードにより、ウィルカーソンは一塁手として多くの試合に出場した。
2008年1月31日、ウィルカーソンはシアトル・マリナーズと1年300.00 万 USDの契約を結んだ。しかし、4月30日にDFA(事実上の戦力外通告)となり、5月8日には無条件で放出された。その後、5月9日にトロント・ブルージェイズと契約した。8月22日には腰の痙攣のため15日間の故障者リスト入りした。2008年10月30日、ウィルカーソンはトロントからFAを申請した。
3.4. 引退
2009年2月16日、ウィルカーソンはボストン・レッドソックスとスプリングトレーニングへの招待付きマイナー契約を結んだ。彼は、モントリオール・エクスポズとトロント・ブルージェイズというMLBのカナダの2球団でプレーした数少ない選手の一人である。
2009年、レッドソックス傘下のAAA級で9打席で1安打に終わった後、ウィルカーソンは現役引退を決意した。彼は打率.247、出塁率.350、通算122本塁打の成績で現役生活を終えた。
カムバックを試み、2010年2月23日にはフィラデルフィア・フィリーズとマイナー契約を結んだが、3月29日に放出された。
4. 選手としての特徴
ウィルカーソンは、その独特の打撃スタイルと高い守備能力で知られ、キャリアを通じて様々な記録を残した。
4.1. 打撃スタイルと強み
ウィルカーソンはボールを見極める打撃スタイルで、四球と三振がどちらも多い傾向にあった。2002年から2005年にかけての4シーズン連続で80四球以上を選び、特に2004年にはナ・リーグ7位の106四球を記録した。一方で、この期間の三振数もすべてリーグワースト5位以内にランクインしている。パワーもあり、30本塁打以上を記録した経験から、打者に有利な球場では35本塁打以上も期待できるとされていた。
左右別では、左投手に対してやや得意としており、対右投手の打率が.243であるのに対し、対左投手の打率は.262だった。また、フライボール比率が高く、2005年には約4割がフライ性の打球であった。
4.2. 守備能力
守備面では、外野手の全ポジションと一塁手をこなせるユーティリティ性を持ち、攻守両面で重宝される選手であった。
4.3. 記録分析
エクスポズ(ナショナルズ)時代には、チームが彼をうまく起用すれば大成する可能性がある一方で、そうでない場合は結果を残せない可能性もあると評価されていた。結果として、2004年に30本塁打、100得点、100四球などを記録したキャリアのピーク以降、打率が.250、本塁打が25を超える事がなく、後者の結果となってしまった。
以下はMLBにおける年度別打撃成績である。
年 | 球団 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 塁打 | 打点 | 盗塁 | 盗塁死 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 敬遠 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 | OPS |
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2001 | MON | |||||||||||||||||||||||
2002 | MON | |||||||||||||||||||||||
2003 | MON | |||||||||||||||||||||||
2004 | MON | |||||||||||||||||||||||
2005 | MON | |||||||||||||||||||||||
2006 | TEX | 95 | 365 | 320 | 56 | 71 | 15 | 2 | 15 | 135 | 44 | 3 | 2 | 2 | 3 | 37 | 1 | 3 | 116 | 6 | .222 | .306 | .422 | .728 |
2007 | TEX | 119 | 389 | 338 | 54 | 79 | 17 | 1 | 20 | 158 | 62 | 4 | 1 | 3 | 4 | 43 | 0 | 1 | 107 | 2 | .234 | .319 | .467 | .786 |
2008 | SEA | 19 | 68 | 56 | 1 | 13 | 4 | 0 | 0 | 17 | 5 | 1 | 2 | 2 | 0 | 10 | 0 | 0 | 15 | 1 | .232 | .348 | .304 | .652 |
2008 | TOR | 85 | 241 | 208 | 20 | 45 | 8 | 2 | 4 | 69 | 23 | 2 | 3 | 2 | 5 | 25 | 4 | 1 | 53 | 3 | .216 | .297 | .332 | .629 |
2008計 | 104 | 309 | 264 | 21 | 58 | 12 | 2 | 4 | 86 | 28 | 3 | 5 | 4 | 5 | 35 | 4 | 1 | 68 | 4 | .220 | .308 | .326 | .634 | |
通算:8年 | 972 | 3753 | 3187 | 500 | 788 | 193 | 28 | 122 | 1403 | 399 | 53 | 43 | 24 | 25 | 492 | 30 | 25 | 947 | 36 | .247 | .350 | .440 | .790 |
- MON(モントリオール・エクスポズ)は、2005年にWSH(ワシントン・ナショナルズ)に球団名を変更。
5. 指導者としての経歴
選手引退後、ウィルカーソンはアマチュアからプロまで幅広いレベルで指導者としてのキャリアを積んでいる。
5.1. アマチュアおよびユース指導
2014年、ウィルカーソンはフロリダ州ウェストパームビーチにあるザ・キングス・アカデミーの中学校野球チームの監督に就任し、初年度でリーグ優勝に導いた。シーズン後には同校の高校野球の監督に就任した。
また、USAベースボールのコーチも務めており、2014年には同組織から「ボランティア・コーチ・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた。2020年7月17日にはジャクソンビル大学の野球チームであるジャクソンビル・ドルフィンズのアシスタントコーチに就任した。
5.2. プロ指導経歴
2023年1月30日、ニューヨーク・ヤンキースはウィルカーソンを打撃コーチ補佐として採用した。しかし、シーズン終了後、ヤンキースは彼をその職から解任し、パット・ロスラーを後任とした。
6. 私生活
ウィルカーソンは2006年にダナ・マリー・グリーソンと結婚し、エラ、エヴァ、マックスの3人の子供をもうけた。2006年にはアーニー・フレッチャー州知事からケンタッキー・カーネルの称号を授与された。これはケンタッキー州の最高栄誉である。
ウィルカーソンはメジャーリーグキャリアを通じて数多くの慈善活動に参加し、引退後も継続している。毎年チャリティゴルフ大会を開催し、様々な子供たちの慈善団体に寄付するための資金を集めている。
7. 背番号
- 48 (2001年)
- 6 (2002年 - 2004年、2006年 - 2008年途中)
- 7 (2005年)
- 35 (2008年途中 - 同年)