1. 概要
ヘクター・ゲレロ(Héctor Manuel Guerrero Llanes英語、1954年10月1日 - )は、メキシコシティ出身のメキシコ系アメリカ人の元プロレスラー、カラーコメンテーターである。彼はゴリー・ゲレロを父に持つ、プロレス界の伝説的なゲレロ・ファミリーの一員であり、その華麗な技術と多様なギミックで知られている。キャリアを通じてNWA、AWA、WWF、WCW、TNAといった北米の主要なプロレス団体で活動し、晩年にはTNAでスペイン語のカラーコメンテーターも務めた。特に、WWFで展開された「ゴブリディ・グッカー」のギミックは、その特異性とファンの不評からプロレス史上最も論争を巻き起こした事例の一つとして記憶されており、彼のキャリアの光と影を象徴する。本稿では、ヘクター・ゲレロがプロレスリング界に残した功績と、そのキャリアにおける様々な挑戦、そして時に批判の対象となった側面について詳細に記述する。
2. 初期生い立ちと背景
ヘクター・ゲレロは、その生涯をプロレスリングに捧げたゲレロ家の一員として、特別な環境で育った。彼の教育や家族との関係は、後のプロレスリングキャリアに大きな影響を与えている。
2.1. 出生と家族
ヘクター・ゲレロは1954年10月1日にメキシコシティで生まれた。彼の本名はヘクター・マヌエル・ゲレロ・リャネスである。幼少期に家族と共にアメリカ合衆国テキサス州エルパソへ移住し、以降はアメリカを拠点に活動した。
彼は、プロレスリング界で最も影響力のある家族の一つであるゲレロ家の一員である。彼の父は伝説的なルチャドールであるゴリー・ゲレロであり、兄弟にはチャボ・ゲレロ・シニア、マンド・ゲレロ、そして後にWWEで世界的な人気を博したエディ・ゲレロがいる。また、甥のチャボ・ゲレロ・ジュニアや姪のシャウル・ゲレロもプロレスラーとして活動しており、彼の叔父であるエンリケ・リャネスもプロレスラーであった。
2.2. 教育と初期活動
ヘクター・ゲレロは、テキサス大学エルパソ校に進学し、体育の学士号を取得して卒業した。この教育は、彼のプロレスラーとしての身体能力や指導者としての基盤を形成する上で重要な役割を果たした。
彼は父ゴリー・ゲレロの下でプロレスリングのトレーニングを受け、1973年にメキシコで「ヘクター・ゲレロ」というリングネームでプロレスラーとしてデビューした。キャリアの初期には、主にカリフォルニア州を中心に活動し、しばしば兄のチャボ・ゲレロ・シニアやマンド・ゲレロとタッグチームを組んで試合を行った。
3. プロレスリング経歴
ヘクター・ゲレロのプロレスリングキャリアは、その多岐にわたる活動と、主要なプロモーションでの印象的な役割によって特徴づけられる。
3.1. デビューと初期活動(1973年 - 1980年代)
1973年のデビュー以来、ヘクター・ゲレロは、兄のチャボ・ゲレロ・シニアも主戦場としていたカリフォルニア州ロサンゼルスのNWAハリウッド・レスリングで活躍した。彼はここでタッグチームとしての才能を開花させ、1978年1月13日にはチャボとのコンビでブラック・ゴールドマンとエル・ゴリアスからNWAアメリカス・タッグ王座を奪取した。また、同年2月10日にはロディ・パイパーが扮するマスクド・カナディアンを破り、NWAアメリカス・ヘビー級王座も獲得している。さらに、1978年1月13日に開催された同地区のニューイヤー恒例のバトルロイヤルでは、チャボ、カナディアン、アンドレ・ザ・ジャイアント、藤波辰爾、ロン・バス、ディーン・ホー、ビクター・リベラ、ムーンドッグ・メイン、ヒロ・オオタ、ブッチャー・ブラニガン、ドミニク・デヌーチといった錚々たる参加選手を抑えて優勝を飾った。
1979年1月には、新日本プロレスのシリーズに初来日。ボブ・ループ、ジョニー・パワーズ、クルト・フォン・ヘスといったベテラン勢に混じって、藤波辰爾を相手に名勝負を繰り広げ、日本のファンにもその名を知らしめた。その後、テネシー州、オクラホマ州、フロリダ州といったアメリカ南部を転戦しつつも、プロレス人気が下降傾向にあったロサンゼルスにも継続的に出場。1982年7月9日にはマンド・ゲレロと組んでミスター・トヨとミスター・ゴーの日本人タッグチームを破り、6度目となるアメリカス・タッグ王座を獲得した。
1983年4月には全日本プロレスに初参戦し、4月20日には東京体育館で大仁田厚が保持するNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦した。また、ハーリー・レイスのパートナーとしてジャンボ鶴田と天龍源一郎の鶴龍コンビや、ジャイアント馬場と阿修羅・原といった日本のトップ選手とも対戦している。

1984年7月13日にはロサンゼルスで空位となっていたNWA世界ジュニアヘビー級王座の新王者に認定され、翌日の14日にはフロリダでチャボとのコンビでバリー・ウインダムとマイク・ロトンドからUSタッグ王座を奪取した。同年8月にはチャボと共に全日本プロレスに再来日し、世界最強ジュニアタッグリーグ戦に出場。マイティ井上とグラン浜田、大仁田と渕正信、マジック・ドラゴンとウルトラセブン、フィッシュマンとベビー・フェイスと対戦し、井上と浜田との決勝戦に進出した。アメリカではその後もフロリダで活動を続け、1985年8月28日にはジェシー・バーを下してNWAフロリダ・ヘビー級王座を獲得した。
3.2. NWAおよびAWAでの活動(1980年代半ば)
1986年よりジム・クロケット・ジュニアが運営するジム・クロケット・プロモーションズ(NWAミッドアトランティック地区)に参戦し、同じメキシコ系のマニー・フェルナンデスとのタッグチーム「ザ・ラテン・コネクション」を結成した。しかし、フェルナンデスがリック・ルードとポール・ジョーンズに加担して裏切ったことで、ゲレロは彼と抗争することになった。
この時期、彼は覆面レスラーのレーザートロン(Laser-Tron英語)に変身。空中技を主体とした試合スタイルで、特に子供の観客からの支持を集めた。1987年3月7日にはNWA世界ジュニアヘビー級王座に再び戴冠し、ジミー・バリアントともタッグを組んで、ミッドカード戦線で活躍した。NWAを離脱後は素顔に戻り、1987年10月19日にテネシー州メンフィスで、ドクター・D(カール・コバック)をパートナーにジェリー・ローラーとビル・ダンディーからAWA世界タッグ王座を奪取している。

3.3. ワールド・レスリング・フェデレーション(1990年、2001年)
ヘクター・ゲレロのキャリアにおいて、特に大きな注目と同時に批判の対象となったのは、WWFでの「ゴブリディ・グッカー」というギミックである。
1990年、WWFは数ヶ月にわたり、巨大な卵がいつ「孵化」するのかをテレビで大々的に宣伝した。そして1990年11月22日、サバイバー・シリーズ1990にて、この卵からシチメンチョウの着ぐるみをまとったゴブリディ・グッカー(The Gobbledy Gooker英語)としてヘクター・ゲレロが登場した。彼はリング上でアナウンサーの「ミーン」ジーン・オーカーランドとダンスを披露したが、このギミックに対する観客の反応は極めて否定的で、会場には大きなブーイングが響き渡った。実況を務めたゴリラ・モンスーンと「ラウディ」ロディ・パイパーは懸命に熱狂的なコメントをしようと努めたものの、このキャラクターはすぐにテレビから姿を消した。その後、プロレスの歴史上「最も奇妙で失敗したギミック」の一つとして記憶され、ウェブサイト「WrestleCrap」では最悪のギミック、ストーリーライン、または出来事を表彰する「グッカー・アワード」の名称の由来となった。WWEの殿堂者パット・パターソンは後に、ゴブリディ・グッカーのアイデアはビンス・マクマホン自身が考案したものだと語っている。
WWFはこのキャラクターを10年以上もの間、公には触れることはなかったが、2000年代初頭になると過去の失敗を自虐的にネタにするようになった。そして2001年4月1日開催の『レッスルマニアX-Seven』において、ゴブリディ・グッカーは「ギミック・バトルロイヤル」で復活を遂げた。このバトルロイヤルは、引退したベテランレスラーや奇抜なギミックを持つ一発屋の選手たちで構成されており、ヘクター・ゲレロは再び着ぐるみを着用して出場したが、2番目に失格となった。この時のコスチュームはオリジナルとは異なり、画面上の表示ではキャラクター名が「ゴブリー・グッカー」と誤ってスペルされていた。2006年にジーン・オーカーランドがWWE殿堂入りした際、彼は自身の有名なインタビューについて振り返り、「ヘクター、私たちはたくさんの楽しい時間を過ごしたが、このことは全て忘れられた」と述べ、ヘクター・ゲレロが着ぐるみの中にいたことを認めた。
3.4. 各種プロモーションでの活動(1992年 - 1998年)
セミリタイア状態にあった1990年代、ヘクター・ゲレロはエルパソのハイスクールでアマチュアレスリングのコーチを務めながら、様々なプロモーションに単発的に出場していた。
1992年から1993年の短期間にはジム・コルネットが運営するスモーキー・マウンテン・レスリングに登場。1995年にはフィラデルフィアを拠点とするECWに参戦し、『テリー・ファンカーの帰還』というイベントで2・コールド・スコーピオが保持するECWテレビジョン王座に挑戦したが、獲得には至らなかった。彼はキャリア45年間でAWA、NWA、ミッドサウス、日本など数多くのプロモーションで試合を行っている。
1997年7月にはWCWに登場し、弟のエディ・ゲレロがリング上での振る舞いについて対決した。彼は『WCWサタデー・ナイト』でエディにシングルマッチで敗れた後、WCWを去った。エディ・ゲレロは自身の自叙伝の中で、ヘクターがWCWでの扱いについて不満を持っていたために退団したと述べている。1998年5月22日には、ノースカロライナ州のインディー団体PWFで、エディとのタッグでPWFタッグ王座を獲得している。
3.5. トータル・ノンストップ・アクション・レスリング(2007年 - 2015年)

2007年3月1日、TNAはヘクター・ゲレロをスペイン語のカラー・コメンテーターとして、またロード・エージェントとして雇用したことを発表した。同年3月8日には、TNAとヒスパニック遺産財団から「プロレスリングスポーツにおける功績」に対する賞が授与された。
2008年5月1日、ゲレロはラテン・アメリカン・エクスチェンジ(The Latin American Xchange英語、LAX)からのオファーを受け入れ、彼らの新たな(オン・スクリーン上の)アドバイザー兼メンターとなった。同年5月11日、ゲレロはLAXをマネージメントし、3つの勝利とTNA世界タッグチーム王座獲得に導いた。彼は2番目と3番目の試合で介入し、まずホミサイドがA.J.スタイルズをピンフォールするのを助け、次にジョニー・ディバインをチーム3Dのコーナーから排除するのを助けた。
2008年9月25日の『TNAインパクト』のエピソードでは、ゲレロ、ホミサイド、そしてショーン・ヘルナンデスがビアマネー・インク(ロバート・ルード、ジェームス・ストーム、ジャクリーン)と6人タッグの「敗者マネージャー追放マッチ」で対戦した。この試合はルードがヘルナンデスをピンフォールしたことで終了し、その結果、ゲレロはLAXのマネージャーを務めることができなくなった。LAXを離れた後、ゲレロはカラーコメンタリーの職務に戻った。
2009年9月10日の『TNAインパクト』のエピソードでは、エリック・ヤングがヘルナンデスを彼らのグループに引き入れようとインリンプロモーション中に、ゲレロはヤングとザ・ワールド・エリートの他のメンバーと対峙した。2015年4月28日、ゲレロはTwitterで8年間のTNA在籍を経て正式に退社したことを発表した。彼のプロフィールはTNAの卒業生名簿に移動された。その後、ゲレロは自身のプロレスコンサルティング会社を立ち上げた。
4. 個人生活
ヘクター・ゲレロは、リング外でも多岐にわたる活動を行い、プロレスラーとしてだけでなく、教育者としても社会に貢献した。
彼は伝説的なルチャドールであるゴリー・ゲレロの息子であり、プロレス界の最も有名な家族であるゲレロ家の一員である。彼の叔父であるエンリケ・リャネスもプロレスラーであり、彼の兄弟であるチャボ・ゲレロ・シニア、マンド・ゲレロ、そしてエディ・ゲレロも同様にプロレスラーとして活躍した。甥にはチャボ・ゲレロ・ジュニアが、姪にはシャウル・ゲレロがいる。ヘクターはキリスト教徒であり、長年の恋人であるペニーと結婚している。
プロレス活動と並行して、彼は2002年から2009年までフロリダ州ブランドンにあるミンツ小学校で体育教師としても勤務していた。この期間、彼は若い世代の育成にも尽力し、プロレスラーとしての経験を教育現場でも活かした。
5. 獲得タイトルと功績
ヘクター・ゲレロは、その長いキャリアを通じて、数々のタイトルを獲得し、プロレス界に多くの功績を残した。
団体名 | タイトル | 獲得回数 | パートナー | 獲得日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
アメリカン・レスリング・アソシエーション | AWA世界タッグチーム王座 | 1回 | ドクター・D | 1987年10月19日 | |
ナショナル・レスリング・アライアンス | NWA世界ジュニアヘビー級王座 | 2回 | - | 1984年7月13日、1987年3月7日 | |
NWAハリウッド・レスリング | NWAアメリカス・ヘビー級王座 | 2回 | - | 1978年2月10日 | |
NWAハリウッド・レスリング | NWAアメリカス・タッグ王座 | 6回 | チャボ・ゲレロ、ブラック・ゴールドマン、バリー・オートン、マンド・ゲレロ(3回) | 1978年1月13日 (最初の獲得) | |
NWAトライステート | NWAトライステート・タッグ王座 | 1回 | ロン・セクストン | 1980年11月5日 | |
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ | NWAフロリダ・ヘビー級王座 | 1回 | - | 1985年8月28日 | |
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ | NWAフロリダ・ジュニアヘビー級王座 | 1回 | - | ||
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ | NWA USタッグ王座(フロリダ版) | 1回 | チャボ・ゲレロ | 1984年7月14日 | |
コンチネンタル・レスリング・アソシエーション | AWA南部タッグ王座 | 1回 | スティーブ・リーガル | 1979年11月19日 | |
プロレスリング・フェデレーション | PWFタッグ王座 | 1回 | エディ・ゲレロ | 1998年5月22日 | |
カリフォルニア・プロレスリング | CPWカリフォルニア王座 | 1回 | - | ||
ウェスタン・ステイツ・アライアンス | WSAウェスタン・ステイツ・タッグ王座 | 1回 | マンド・ゲレロ | ||
ワールド・オーガニゼーション・オブ・レスリング | WOWヘビー級王座 | 1回 | - |
- プロレスリング・イラストレイテッド
- 2003年の「PWI Years」において、シングルレスラーの上位500人のうち423位にランクイン。
- レスリング・オブザーバー・ニュースレター・アワード
- ワースト・ギミック(1990年、ゴブリディ・グッカーとして)
6. 得意技
ヘクター・ゲレロは、そのゲレロ家の血統を受け継ぐ技術と身体能力を活かし、様々な得意技で観客を魅了した。
- バタフライ・スープレックス:相手の両腕を捕らえ、自らの太ももに乗せてから後方に反り投げる、美しいフォームの投げ技。
- ローリング・ゲレロ・クレイドル:相手を抱え込み、前方へと連続して回転しながらフォールを奪う技術で、ゲレロ家特有の技巧的な動きが特徴。
- トペ・スイシーダ:リング内からトップロープの間を潜り抜け、場外の相手に頭からぶつかっていく危険なルチャリブレの技。
- フライング・クロス・ボディ:トップロープから飛び、体全体で相手にぶつかる空中技。
- ドロップキック:両足で同時に相手を蹴り飛ばす、打点の高い美しい技。
- スリー・アミーゴス:連続して3回、相手を異なる方向へと投げ捨てるブレーンバスターの連携技。弟エディ・ゲレロの代表的な技としても知られている。
7. 評価と遺産
ヘクター・ゲレロのプロレスリングキャリアは、その多岐にわたる活動と、成功と論争の両面でプロレス史に刻まれている。彼はゲレロ家という偉大な血統の一員として、その名を業界に広めた。
7.1. 肯定的評価
ヘクター・ゲレロは、優れた技術と多様なキャラクターを演じ分ける能力で知られていた。彼は「レーザートロン」のような覆面レスラーとしての空中殺法から、「ゴブリディ・グッカー」という前代未聞のギミックまで、幅広い役柄をこなす柔軟性を持っていた。特に、日本のプロモーションへの参戦では、高い技術力を披露し、現地のファンやレスラーから高い評価を得た。家族とのタッグチームでの成功や、TNAでのコメンテーター兼マネージャーとしての役割は、彼の多才な才能と業界への貢献を示している。彼は、リング上でのパフォーマンスだけでなく、バックステージでの貢献や、若手選手の指導者としての役割も果たし、プロレス界の発展に寄与した。
7.2. 批判と論争
ヘクター・ゲレロのキャリアにおいて、最も大きな議論の対象となったのは、WWFでの「ゴブリディ・グッカー」ギミックである。このギミックは、その奇抜さとストーリーラインの空虚さから、当時の観客から激しいブーイングを受け、プロレス史上「最悪のギミック」の一つとして広く批判された。この失敗は、プロレスにおけるギミックの導入がいかにファンとの共感を得ることが重要であるかを示す典型的な例として挙げられる。このギミックの商業的な失敗は、興行主が安易な奇策に走ることのリスクを浮き彫りにし、ファンの期待を裏切ったという点で、批判的に評価されるべき点である。また、WCWを弟エディ・ゲレロとの対立アングル後に退団した背景には、団体内での待遇に対する不満があったとされており、プロレスラーが自身のキャリアをコントロールすることの難しさも示している。これらの側面は、彼のキャリアにおける挑戦と、プロレス業界のビジネス構造の問題点を反映していると言える。