1. 概要
渕正信(ふち まさのぶ、Masanobu Fuchi英語、1954年1月14日生まれ)は、日本の男性プロレスラーである。福岡県北九州市戸畑区出身で、血液型はB型。長年にわたり全日本プロレスに所属し、現在は同団体の取締役および共同ブッカーも務めている。彼は1974年のデビュー以来、一貫して全日本プロレスに籍を置き続け、同団体で最も長く在籍する選手として記録を保持している。特に世界ジュニアヘビー級王座では、歴代最長となる1,309日間の在位期間を誇るなど、ジュニアヘビー級のトップスターとしての地位を確立した。2000年の大量離脱騒動時にも全日本プロレスに残り続けた数少ない選手の一人であり、団体の屋台骨を支えるベテランとして、その忠誠心と貢献度は高く評価されている。本稿では、渕正信の生い立ちからプロレスラーとしてのキャリア、その得意技、獲得タイトル、そして彼のユニークな人物像とプロレス界に与えた影響を詳細に解説する。
2. 生い立ちと初期
渕正信は1954年1月14日に福岡県北九州市戸畑区で生まれた。幼少期から学生時代にかけては、八幡大学付属高校でアマチュアレスリングと陸上競技に打ち込み、肉体を鍛え上げた。高校卒業後、八幡大学に進学するも中退。彼はプロレスラーになることを志し、当初は日本プロレスへの入門を目指して上京した。しかし、道中の列車内で偶然手にした九州スポーツの記事で、日本プロレスの崩壊を知るという劇的な経験をする。これにより、一度は郷里の九州に戻ることを余儀なくされた。全日本プロレス入門前後には、神奈川県茅ヶ崎市に在住しており、そこから道場に通っていた。渕がアマレス出身であったこともあり、同じアマレス出身で渕より先に入門していたジャンボ鶴田とは、全日本プロレスの初期によくスパーリングしていたという。その後、渕はジャイアント馬場への強い憧れを抱き、1974年4月10日に全日本プロレスへの入門を果たす。この時期、ライバル団体である新日本プロレスもすでに旗揚げされていたが、渕は「馬場さんとアントニオ猪木さんでは、スターとしての格がまったく違う」と語るほど馬場に心酔しており、迷うことなく全日本プロレスを選んだ。
3. プロレスラーとしてのキャリア
渕正信は、1974年のデビュー以来、全日本プロレス一筋のキャリアを歩んできた稀有なプロレスラーである。初期の若手時代から海外遠征を経てジュニアヘビー級のトップに君臨し、団体の重要な局面ではベテランとしての忠誠心を示し続けた。
3.1. デビューとキャリア初期
全日本プロレスに入門してわずか12日後の1974年8月22日、徳島県三好市(旧:池田町)の四国電力横広場において、後にデスマッチの開拓者となる大仁田厚を相手にプロレスラーとしてのデビュー戦を行った。デビュー当時の渕は、大仁田や園田一治と共に「若手三羽烏」の一人として頭角を現し、将来を嘱望される存在であった。初期の数年間は、渕と大仁田はタッグを組んだり、互いにライバルとして前座戦線で激しい攻防を繰り広げ、若手ながらも観客を魅了した。
3.2. 海外遠征と北米での活動
渕正信は、キャリアを積むために1980年に海外武者修行へと旅立ち、プエルトリコで大仁田厚と合流した。1981年3月からは「マサ・フチ(Masa Fuchi英語)」のリングネームで、テネシー州メンフィスを拠点とするCWAに参戦。ここではトージョー・ヤマモトをマネージャーに迎え、大仁田とのタッグコンビで活躍した。彼らはジェリー・ローラー&ビル・ダンディー組やロックンロール・エクスプレス(リッキー・モートン&ロバート・ギブソン)といった強豪チームと激しいAWA南部タッグ王座争いを繰り広げ、同タイトルを通算3回獲得するという功績を残した。この時期、プロモーションの都合上、渕の出身地は長崎出身の大仁田に合わせて広島出身と公表されていた。
1981年10月からは、エディ・グラハムが主宰するNWAのフロリダ地区(CWF)にも活動の場を広げ、大仁田とのコンビでジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコ兄弟やブッチ・リード&スウィート・ブラウン・シュガーなどのチームと対戦した。フロリダ滞在中、渕はカール・ゴッチから直接指導を受けるという、全日本プロレスのレスラーとしては珍しい経験もしている。
大仁田が日本へ帰国した後、渕はプエルトリコを経由し、1982年11月からは単身でミッドアトランティック地区(ジム・クロケット・ジュニア主宰のMACW)に転戦した。ここでは、リッキー・スティムボート、ロディ・パイパー、ワフー・マクダニエル、ボブ・オートン・ジュニア、マイク・ロトンド、そしてリック・フレアーといった当時のトップスターたちのジョバーを務め、自身の技術と経験を磨いた。
1983年8月には、海外武者修行を終えて凱旋帰国。アメリカでのブッカーでもあったテリー・ファンクの引退試合が行われた8月31日の蔵前国技館大会において、チャボ・ゲレロが保持するNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦した。
3.3. ジュニアヘビー級スターへの台頭
海外からの凱旋帰国後、渕正信はマイティ井上や、第1次UWFから移籍してきたグラン浜田、マジック・ドラゴン(ハル薗田)、2代目タイガーマスクといった選手たちのサポート役を務めることが多かった。また、怪我から復帰した大仁田と前座で対戦を組まれるなど、地道な活動を続けていた。しかし、1986年に2代目タイガーマスクがヘビー級へと転向したことを受け、渕は再びジュニアヘビー級の表舞台に立つこととなる。
1987年、小林邦昭から世界ジュニアヘビー級王座を初奪取したことを皮切りに、渕は同王座を5度獲得し、ジュニアヘビー級のトップレスラーとしての確固たる地位を築き上げた。特に彼の第10代王座時の在位期間は、1989年から1993年までの約4年間(1,309日)に及び、これは歴代最長記録である。また、防衛回数も14回を数え、これは後にカズ・ハヤシが17回で更新するまで最多記録であった。この長期政権は、当時の全日本プロレスが外部からの挑戦を比較的受け入れにくい環境にあったことも大きく影響しているが、それ以上に渕自身の安定した実力と、王座の権威を高める貢献があったことを示している。
3.4. 全日本プロレスへの忠誠とベテランとしての役割
1996年に世界ジュニアヘビー級王座を最後に失った後、渕正信は主に大会序盤の「レジェンドマッチ」に出場するようになった。永源遙と共に悪役商会の一員として、全日本プロレスの創設者であるジャイアント馬場とラッシャー木村らのファミリー軍団と抗争を繰り広げ、名バイプレイヤーとして分裂前の全日本プロレスを支えた。特にラッシャー木村の試合後のマイクパフォーマンスでは、渕が長年独身であることをネタにされるのが定番となっていた。
2000年に三沢光晴をはじめとする多くの選手がプロレスリング・ノアを設立するために全日本プロレスを大量離脱するという、団体にとっての大きな危機が訪れた際、渕は小島聡と共に残留を決断した数少ない生え抜きの選手の一人であった。この出来事を受けて、当初は現役引退すら決意していた渕であったが、馬場元子(ジャイアント馬場の妻であり、当時の全日本プロレス社長)が「全日本プロレスとして馬場さん三回忌をやりたい」と語った言葉に心を動かされ、現役続行を決断。中堅レスラーであった渕は、この未曽有の事態の中で団体のトップを張ることを余儀なくされた。
同年8月には、ライバル団体である新日本プロレスの真夏の祭典「G1 CLIMAX」の会場である両国国技館に、スーツ姿で登場。歴史に残るマイクアピールを行い、会場の新日本プロレスファンから異例の大「フッチー」コールを巻き起こした。「30年の長い間、全日本プロレスと新日本プロレスとの間には、厚い壁がありました。今日、その壁をぶち破りに来ました。全日本プロレスは選手2人しかいませんが、看板の大きさとプライドは新日本に負けてはいません!」と力強く宣言し、新日本プロレス現場責任者(当時)の長州力と固い握手を交わした。この時、蝶野正洋がリングインし、渕に激しく詰め寄ったが、渕は余裕綽々の態度で蝶野の帽子を放り返し、その器の大きさを見せつけた。この一連の行動は、全日本プロレスの代表としての彼の存在感を強く印象付けた。後に全日本のリングで渕は蝶野と対戦し敗れはしたものの、そのファイトは全日本のプライドを体現するものであった。
大量離脱後の全日本プロレスが武藤敬司、小島聡らを迎え入れ、徐々に活気を取り戻していく中で、渕は再び中堅・ベテランレスラーとしてしっかりと脇を固め、リング外ではスポークスマンとしても活動した。2004年5月22日には、盟友である天龍源一郎とのコンビで第76代アジアタッグ王者を獲得し、その健在ぶりを示した。
また、2006年8月20日には、Voodoo Murdersの一員として「Akaoni」という赤いマスクを被った姿で登場したものの、その夜のうちにマスクを脱ぎ捨て、Voodoo Murdersを攻撃するなど、自身の所属団体への忠誠心を見せつけた。2007年には世界最強タッグ決定リーグ戦に西村修と組んで出場し、7ポイントを獲得した。
3.5. 後期のキャリアと経営陣としての役割
長年、和田京平レフェリーと共に全日本プロレス生え抜きの「看板」を守り通す重鎮であった渕正信だが、2009年からは全日本プロレスの所属レスラーとしての契約をしておらず、同社取締役も辞任し、フリーランスの立場で活動していた。しかし、彼は「全日本プロレスが消滅したら、引退する」と公言するほどの全日本プロレス愛を持っており、他団体からのオファーがあったにもかかわらず、ほとんど全日本プロレスの興行にのみ出場し続けた(数少ない例外として、2013年5月11日に開催された小橋建太の引退興行に、小橋本人からの直接オファーにより出場している)。
2013年7月14日、渕はフリーランスとしての活動を終え、全日本プロレスに正式に再契約し、選手としてだけでなく取締役相談役にも就任した。その後、秋山準と共に全日本プロレスの共同ブッカーも務めることになり、団体の運営面でも重要な役割を担うようになった。
2014年には、還暦記念特別試合や40周年特別記念試合を行うなど、その長きにわたるキャリアが祝福された。同年12月14日には、後楽園ホールで開催された「和田京平レフェリー40周年&還暦記念大会」で、青木篤志が持つ世界ジュニアヘビー級王座に5年ぶりに挑戦。20分以上にわたる激闘を繰り広げたものの、青木の肩固めによりギブアップ負けを喫した。
2016年11月27日、渕は両国国技館大会で同期である大仁田厚とタッグを組み、王者組の変態自衛隊(佐藤光留&青木篤志組)を破り、第100代アジアタッグ王座を獲得した。これは渕にとって12年ぶりのタイトル獲得であり、62歳10か月という年齢での戴冠はアジアタッグ王座の最年長記録となった。彼らは2017年6月20日に同タイトルを失った。
2023年1月2日の試合を最後に網膜剥離のため長期欠場していたが、同年9月8日に8か月ぶりにリング復帰を果たし、その衰えぬ闘志を見せつけた。2024年現在、70歳を迎え、デビューから50年が経った今もなお現役レスラーとして活動を続けている。
4. 得意技とファイトスタイル
渕正信のファイトスタイルは、アマチュアレスリングで培った確かな基礎技術に加え、相手の弱点を徹底的に攻めるラフファイト、そして試合を締めくくるための伝家の宝刀を兼ね備えている。特に、彼が開発した低空ドロップキックは、今日のプロレス界におけるジュニアヘビー級のファイトスタイルに極めて大きな影響を与えた。
4.1. フィニッシュ・ホールド
- バックドロップ
渕の代名詞ともいえる伝家の宝刀。海外遠征から帰国した当初は、長州力のような高角度の捻り式バックドロップをジャンピング式で放っていたことから「ジャンピング・バックドロップ」と呼ばれた。しかし、バックドロップの元祖であるルー・テーズから「大切なのは叩きつけるスピードであり、高さはあまり関係ない」というアドバイスを受け、現在の低空高速でブリッジを効かせた、相手のヘソで投げるようなタイプに変更した。一時期、全日本プロレスではジャンボ鶴田、スティーブ・ウイリアムス、小川良成と並び、「バックドロップの四大名手」の一人に数えられた。大一番では連続して相手に繰り出し、1ダース(12発)以上連発することもあり、特に第10代世界ジュニア王者時代の防衛戦で菊地毅に放った10連発は、今なお伝説として語り継がれている。
- 延髄斬り
一連のコンビネーションの中でタイミング良く決める技。渕の場合は、元祖・アントニオ猪木のようにタメを効かせ、大きく弧を描くように蹴り込むのが特徴である。隠れた名手としても知られ、一撃でダニー・クロファットを沈めたこともある。長期政権を築いた第10代世界ジュニア王者時代には、バックドロップに次ぐ渕のフィニッシュホールドとしても使用されていた。
- フィスト・ドロップ
トップロープからのダイビング式はここ一番で使用され、長期政権を築いた第10代世界ジュニア王者時代などには渕の隠しフィニッシュとしても使われた。ヒールユニットであるブードゥー・マーダーズと一時的に共闘し、「AKA-ONI」を名乗っていた時期には、メインフィニッシュホールドとして多用された。
- スモール・パッケージ・ホールド(首固め)
渕の場合は、4回、5回と連続で繰り出すことがあり、この連発技により諦めてフォールを奪われた選手は少なくない。
4.2. 打撃技
- 低空ドロップキック
渕が開発した、相手の膝関節や足元を狙うドロップキック。超世代軍との抗争の際に、膝に古傷を抱えていた三沢光晴へ放ったのが最初とされ、現在ではプロレスに欠かせない技術の一つとなっている。
- フロントハイキック
容赦なく相手の顔面をリングシューズの裏で蹴り付ける。相手との間合いの取り方が絶妙である。
- ナックル・パート
アントニオ猪木のナックル・アローのように大きく振りかぶり、タメを作って一気に頭部を拳で殴り付ける。本来は反則技である。
- ヘッドロック・パンチ
相手をヘッドロックに捕らえ、レフェリーに見えないように反則の顔面パンチを放つ。相手が渕の反則をレフェリーに訴えるも、渕は反則ではない掌底打ちをアピールするのがお約束となっている(その際、観客からはアピールに合わせて「パー」とコールが上がる)。
4.3. 投げ技
- ボディスラム
滞空時間が長いハイアングル式が特徴。技を放った後に観客に煽られると、腰の痛みに耐える仕草を交えつつも再び技をかけて応えることもある。超世代軍との抗争時には、コーナーへ顔面をぶつけるタイプ(スタンガン)や、トップロープや鉄柵へ喉元をぶつけるタイプ(ギロチン・ホイップ)も使用した。
- ダブルアーム・スープレックス・ホールド
1980年代後半から1990年代にかけて、渕のフィニッシュとして多用された。前述のバックドロップや延髄斬りと並ぶ決め技として、第10代世界ジュニア王者時代の防衛戦でも何度も使用された。しかし、1990年代半ばに使用頻度が減少し、次第に使用する機会もなくなった。
- カーフ・ブランディング(子牛の焼印押し)
1985年頃より使い出し、ダイナマイト・キッドらによく仕掛けていたが、「赤鬼」の異名が定着した頃より派手な技を避けるようになったため、封印状態となっている。
- ジャンピング式ドリル・ア・ホール・パイルドライバー
全盛期にここ一番で見せる技であり、長期政権を築いた第10代世界ジュニア王者時代にはフィニッシュとしたこともある。
- ジャーマン・スープレックス
渕が海外遠征より帰国した際に得意技としていた。カール・ゴッチ直伝をアピールするように「ドイツ式敬礼した状態のままブリッジした足の形」が特徴である。
4.4. 極め技・押さえ込み技
- フェイスロック
三沢光晴が得意とするステップ・オーバー式と呼ばれる、座っている相手の後ろから片足を相手の片腕の前に出して乗りかかるようにして極める顔面締め。実は、三沢との練習中に二人で考案した型式でもある。
- 顔面踏みつけ
仰向けに倒れた相手の顔面を片足で踏みにじる。挑発の意味合いも大きい技。
- ジャイアント・バックブリーカー
コブラクラッチとバックブリーカーを組み合わせたストレッチ技で、渕の師匠であるジャイアント馬場のオリジナル技であった。
- 各種拷問関節技
渕が若手時代に指導を受けたカール・ゴッチ直伝の技術で、その数は48手(実際のところは不明)に及ぶと言われる。代表的なものとしては、コーナー上に相手を仰向けに寝かせてその上に乗りかかり、片足で相手の顎を踏みつけ、もう片方の足で相手の片足を踏みつけて乗りかかるようにして、相手をコーナーポストを支点に弓反りにして痛めつけるものがある。
- 脇固め
- 股裂き(レッグ・スプレッド)
- チキンウィング・アームロック
グラウンドで、うつ伏せの相手にリバース状態で極めるものが得意。
- スタンディング・クラッチ(膝折り固め)
座っている相手の後方に立ち、相手の両肩をまたいで相手の首の後ろに座り込む。その状態から相手の片足を掴み、自分の方へ引き寄せながら締め上げる。膝や股間のほか、首にもダメージがある。1990年代前半に痛め技として多用し、世界ジュニア王者時代にはフィニッシュとなったこともある。当時の渕の拷問関節技の代表的な技であった。
- 各種押さえ込み技
前述のスモール・パッケージ・ホールド(首固め)のほか、渕はジャックナイフ式エビ固め、サムソン・クラッチ、逆さ押さえ込み、回転エビ固め、後方回転エビ固めなど、多種多様な固め技を得意とする。2000年代半ば以降は、スモール・パッケージ・ホールドを多用している。
5. 獲得タイトルと功績
渕正信がプロレスキャリアを通じて獲得したタイトルと、主な功績を以下に示す。
団体名 | タイトル名 | 獲得回数 | パートナー (タッグの場合) | 備考 |
---|---|---|---|---|
全日本プロレス | 世界ジュニアヘビー級王座 | 5回 | - | 第3代、第6代、第10代、第12代、第15代王者。第10代王座の在位期間1,309日は歴代最長。防衛数14回は、カズ・ハヤシが更新するまで最多記録。 |
全日本プロレス | アジアタッグ王座 | 2回 | 天龍源一郎 (76代)、大仁田厚 (100代) | 第76代王者(天龍源一郎と)。第100代王者(大仁田厚と)。62歳10か月での戴冠は最年長記録。 |
CWA | AWA南部タッグ王座 | 3回 | 大仁田厚 (Mr. Onita) | |
CWA | NWA南部タッグ王座 | (複数回) | 大仁田厚 | |
NWA | NWA世界ジュニアヘビー級王座 | 1回 | - | 団体非公認 |
プロレス大賞
- 努力賞 (1976年)
- 努力賞 (1983年)
レスリング・オブザーバー・ニュースレター
- 5つ星試合 (7回)
- 1989年1月28日: ジャンボ鶴田、谷津嘉章組 vs 天龍源一郎、川田利明、サムソン冬木組
- 1990年10月19日: ジャンボ鶴田、田上明組 vs 三沢光晴、川田利明、小橋建太組
- 1991年4月20日: ジャンボ鶴田、田上明組 vs 三沢光晴、川田利明、小橋建太組
- 1992年5月22日: ジャンボ鶴田、田上明組 vs 三沢光晴、川田利明、小橋建太組
- 1992年7月5日: 小川良成組 vs 小橋建太、菊地毅組
- 1994年2月13日: 川田利明、田上明組 vs 小橋建太、三沢光晴、ジャイアント馬場組
- 2000年12月14日: 川田利明組 vs 飯塚高史、永田裕志組
6. 人物とエピソード
渕正信は、そのプロレスラーとしての功績だけでなく、多岐にわたるパーソナルな側面やユニークなエピソードでも知られている。
- 独身主義
婚姻歴が全くなく、長年にわたり独身を貫いている。このことは『週刊ゴング』や『週刊プロレス』の読者コーナーに度々ネタとして投稿・掲載されたほか、盟友であるラッシャー木村からもマイクパフォーマンスで茶化されていた。永源遙からは「渕が結婚しないのは、マザコンだからだよ!」と冗談めかして言われることもあった。
- 「赤鬼」の異名とファイトスタイル
渕正信が開発した低空ドロップキックは、多くのプロレスラー、特にジュニアヘビー級のファイトスタイルに極めて大きな影響を与えた。この低空ドロップキックと、無数の関節・ストレッチ技、ナックルパートや顔面キック、アトミック・ドロップの体勢からの急所攻撃など、テクニックとラフを兼ね備えた観客を強く刺激するファイトスタイルを確立。ジュニアだけでなく、三沢光晴らヘビー級とも堂々と渡り合い、以後、渕は「赤鬼」の異名を取るようになった。このニックネームは、彼の胸の皮膚が弱く、小島聡やカズ・ハヤシの逆水平チョップで胸板が真っ赤になる姿が度々見られたことにも由来している。
- 低空ドロップキックの誕生秘話
低空ドロップキックが世にクローズアップされたのは超世代軍との闘いの中であったが、その原型は、左膝蓋骨粉砕骨折による欠場から復帰してきた大仁田厚に対し、連日タッグマッチで対戦を組まれていた頃に出来上がったとされる。この攻撃については当時、「かわいそう」「(せっかく復帰したのに)そこまでやらなくても...。」との批判も一部で存在したが、攻撃を仕掛ける渕も、受ける大仁田も「プロなら当然の事」とコメントし、プロとしての矜持を示した。
- カール・ゴッチとの指導
渕は全日本プロレス出身者としては数少ない、カール・ゴッチから直接指導を受けたレスラーの一人である。その指導内容は、ゴッチが「首を鍛えることが重要」という理由で、ひたすらブリッジをやらされたと渕は回想している。
- 大仁田厚と寿司屋の逸話
大仁田厚がジャイアント馬場の付き人だった頃、渕は馬場に連れられて大仁田と三人で寿司を食べに行った。大仁田は気を使って馬場よりもワンランク下のネタを頼んでいたが、渕は無礼講とはいえウニ・イクラ・大トロなど遠慮せずに次々と注文してしまった。呆れてしまった馬場は、食後に大仁田に対し「おう、大仁田ぁ、渕はもう二度と(お寿司屋さんには)連れてかないぞ」と告げている。
- G1 CLIMAXでのマイクアピール
一時期、全日本プロレス中継での解説を務めた経験もあるが(1991年 - 1992年ごろ)、基本的に公の場での発言はあまり多くなく、無口・口下手な印象を与えていた。しかし、2000年8月の新日本プロレスG1 CLIMAX・両国国技館大会での観客に対するマイクアピール、さらには蝶野正洋に対するパフォーマンスは、これまでの渕の印象をガラリと変えるものであり、会場の新日本ファンからも大喝采を浴びた。
- 志村けんとの親交
故・志村けんとは大親友であったことが知られている。
- 「全日本最後の良心」「色白ダンディズム」
2007年1月4日に行われた新日本ドーム大会で、実況アナから「全日本最後の良心」や「色白ダンディズム」という、それまで言われたことのないニックネームで呼ばれたことがある。
- 入場ガウンとコール
大のキティちゃん好きとしても知られ、一時は全日本のスポンサーでもあるあすなろ舎から作ってもらった、世界に一着しかないキティちゃんのガウンを着て入場していた。このガウンは、キティちゃんの顔に胴体部がヘビのようなものが背中に書かれたブルゾンであった。また、場内の「フッチー(チャチャチャ) フッチー(チャチャチャ)」のコールは、彼の試合における定番となっている。
- 諏訪魔からの評価
諏訪魔からは、一番苦手で強い相手と言われている。その理由は、渕が試合で見せ場をすべて持っていく実力があるためだという。
- 観光大使
2019年5月3日、埼玉県加須市の観光大使に就任した。
- テリー・ファンクへの追悼
テリー・ファンクの死去に際しては、「私の半世紀のレスラー人生で一番世話になった外国人レスラーはザ・デストロイヤーとテリー・ファンク」とコメントを寄せ、1981年3月にテキサス州アマリロで1カ月以上自宅に居候させてもらい、大仁田厚と共に世話になったことなど、彼との多くの思い出を語った。
7. レガシーと影響
渕正信がプロレス界に与えた影響は多岐にわたるが、中でも特に顕著なのはジュニアヘビー級のファイトスタイルへの貢献である。彼が開発した低空ドロップキックは、その後の多くのレスラー、特にジュニアヘビー級の選手たちによって模倣され、現代プロレスにおける基本的な技術の一つとして定着した。この技は、単なる攻撃手段としてだけでなく、試合の流れを変え、観客を興奮させる重要な要素となった。
また、渕はテクニックとラフを兼ね備えた独自のファイトスタイルを確立し、ジュニアヘビー級でありながら三沢光晴らヘビー級のトップレスラーとも堂々と渡り合った。彼の試合は、単なる体重差を乗り越えた技術と戦略の重要性を示し、多くの後続のレスラーに影響を与えた。長年にわたる全日本プロレスへの忠誠心と、団体の危機において自らの役割を全うした姿は、プロレスラーとしての模範であり、彼のレガシーは技術的な貢献だけでなく、その人間性やプロフェッショナリズムの面でも高く評価されている。
8. メディア出演と著書
渕正信のメディア出演と著書は以下の通り。
著書
- 『王道ブルース』(徳間書店、2022年3月29日)ISBN 978-4198653903
テレビ出演
- バイタルTV「渕正信の幸せ昭和食堂」(BS-TBS、2018年5月17日 - 10月11日)
- クイズ!脳ベルSHOW 第597回・第598回・第598回(BSフジ、2019年1月9日、1月10日、1月11日)
9. 入場曲
渕正信がキャリアを通じて使用した主な入場曲は以下の通りである。
- DANGER ZONE(映画『トップガン』テーマ曲)
10. 外部リンク
- [https://www.all-japan.co.jp/archives/player/渕正信/ 全日本プロレス公式サイト 選手名鑑]
- [http://www.fuchi-masanobu.com/ 酔々ブルース(2014年8月 - )]
- [http://www.puroresucentral.com/fuchi.html FuchiのPuroresu Centralプロフィール]